え? まさかの?
どうしましょう。
ここはスプーンか、ナイフか……!?
軟禁宣言もどきを受けたとはいえ、真結まゆの生活スタイルはあまり変わらない。
その日も眠りが浅く、サラが来るまでベッドの上で「美しい体型作り」と題してストレッチをしながら待っていたので、朝食の時間には良い感じにお腹が空いていたのだが、白くつるりとした物が真結の手を止めていた。
たかがゆで卵、されどゆで卵。
マナーが試される。
真結はなぜ今朝に限ってゆで卵にしたのか、悶々と悔やまれた。
「卵はどうなさいますか?」
目覚めの紅茶の後、サラはいつも決まってそう尋ねる。朝食の卵はどう調理しますか、ということだ。
真結はオムレツが好きなので、いつも卵は小さめのオムレツにしてもらうことが多い。中の具材も色々選べてソースもいくつか種類があるので、スクランブルエッグや目玉焼きが続くよりは飽きにくいのも良い。
だがその日、真結はそういえばゆで卵という選択肢もあったなぁとその存在を思い出して何気なく言ってしまったのだ。
「じゃあ今日はボイルドでお願いね」
そして今、銀トレーに乗って運ばれてきたゆで卵は銀細工の素敵なエッグスタンドに鎮座して真結に新たな試練を突きつけていたのだ。
お前は、私をどうやって食するつもりだ? と。
コウ兄も食事を作ってくれるようになってからは、エッグスタンドというお洒落な物を使って食べる機会が増えたので、真結も一応その食べ方は心得ている。
コウ兄は卵をエッグスタンドに乗せた状態で、横からナイフの背でコツコツと小さく叩いてひびを入れ、そこからナイフを差し込んで上部をスパンと切っていた。そしてスプーンでその切り口からすくって食べるか、細く切ったトーストで中身をディップしていたのだが、真結はなかなか上手にできないので、スプーンで軽く上部を叩くか、一度手にとってナイフで殻にひびを入れる方法を教えてもらい、たいてい面倒だったのでスプーン一つで済ませていた。
ブルテニアの作法はイギリス式のものとほぼ同じようだったが、ゆで卵の食べ方に関して真結は自分の知っている物がそれぞれ何式なのか把握していなかった。そもそも気にしたこともない。
こうなれば困った時のコウ兄頼みだ。彼の食べ方は容姿や雰囲気も相まってまさに煌びやかな貴族を思い起こさせるとても洗練された美しい所作だったので、彼を真似することにする。
ブルテニア式のマナーじゃなかったとしても、美しく見える食べ方であればマナー違反で不快感を与えないのではなかろうか?
エッグスタンドに卵を乗せたまま、ナイフの背でコツコツと叩く。
サラの反応が気になってさりげなく目だけ動かして彼女を窺えば、真結の手元に視線を落として僅かに目を見開いていた。
えぇ!? 違うの!?
でもどうしましょう。今更スプーンに持ち替えるのもおかしいわよね!?
良い感じにひびが入ったので、内心の動揺を悟らせないように思い切ってナイフでスパッと切ってみたら、どういうわけだかサラは憧憬の眼差しでほぅっと息をつき深く頷いている。
少々切り口の殻が歪になってしまったが許容範囲だろうか。
「恥ずかしいわ。久々にボイルドで頂くから、少し不格好になってしまったわね」
久々だからと言い訳して誤魔化してみる。
「とんでもありません。マーユ様のテーブルマナーはとてもお美しいですわ。お育ちの良さが伺えますもの」
すみません。一般人です。
「高貴なご令嬢方の中にも普段はスプーンで簡単に済ませてしまう方々もいっらしゃいますのに」
重ね重ねすみません。私も本当はスプーン派です。
ちょっとカッコつけてみたんです。
悩みに悩んだマナーだが、どちらでも良かったようで要らぬ懸念だった。
だがより品の良い作法で乗り切ることができ、真結は離れていながらも下手すると母よりも躾の厳しかったコウ兄の有り難みを再認識したのだった。
お昼過ぎにサラに付いてきてもらって調理場を訪れると、ちょうど料理長がレモンパイを作っているところだった。パイ生地の焼ける良い香りが漂っている。
「どうだい? いい香りだろう?」
「ええ、とっても。アフタヌーンティーが楽しみだわ」
午後のお茶の時間に供される予定なのだろう、料理長は小麦粉、バター、卵などを混ぜ合わせたアパレイユの準備をしていた。これを焼きあがったパイに注ぎ、更に短時間焼いてパイの中のしっとりふわふわした部分が出来上がるのだ。
真結は今日はお菓子作りはせずに材料の確認と料理人たちの様子を見たいなと思っていたので、邪魔にならないようにと少し離れた場所からコンロに向かう料理長の手元を覗きみた。
まずはレモンカードを作っているのだろう、鍋に卵とお砂糖と幾つかのレモンを絞り入れていた。鉄は酸と塩分に弱いので、恐らく金属の下地にガラス質の釉薬を塗って焼いたホーロー鍋のような物なのだろう。
真結はレモンパイを作るときはレモンカスタードを使用することが多いので、その違いに出来上がりが楽しみになる。早く食べたい。
料理長は作りたてのレモンカードをアパレイユに足して一緒に混ぜ合わせると焼きあがったパイ生地に注ぎ入れ、その上に卵白をふわっふわに泡立てたメレンゲをのせた。フォークでつんつんと角を立たせる。
牛乳ではなく水を使用していたので、どうやらレモンの酸味を引き立たせた香り豊かなパイのようだ。
頭に思い浮かべてみた真結は、涎が出そうで両頬を手で押さえる。
「きっと紅茶がよく合うでしょうね」
「おやおや、お嬢様。出来上がるまでもう少しお待ちくださいねぇ」
竈のオーブンの中に入れられたパイをじっとわくわくしながら見ていたので、心待ちにしているのが伝わったのだろう。料理長が朗らかに声を立てて笑った。
焼きあがるまでの間に在庫のある果物を見せてもらったが、瑞々しいレモンがたくさんあるようだ。
「お嬢様はレモンパイもお作りになられるんで?」
「そうね、料理長さんの作り方と似たレシピでも作るけれど、もう少しまろやかにする時もあるわ」
カスタードと牛乳を入れるので、クリーミーになるのだ。
「酸っぱくないんですかい?」
「甘酸っぱくって濃厚な感じかしら?」
「へぇ~、そりゃぜひともお嬢様のお国のレモンパイも教えて頂きたいものです」
料理人として彼女も知らないレシピに関心を引かれるのだろう。
「じゃあ、今度のお菓子作りはレモンパイにするわね」
次回の約束をすると彼女は陽気に胸の前で手を叩いて喜んだ。
焼きあがったレモンパイが取り出され、パイ生地のバターの香りとレモンの爽やかな香りが混じって気分が高揚する。お茶の時間までお預けされるのは悲しいなと真結の情けない顔が可笑しかったのか、料理長は大家族のお母さんのように大らかに笑い、さっそく切り分けてくれた。
「まぁ! 有難う!」
その場で食べだしそうな真結の勢いに、今まで控えていたサラがここで召し上がって頂くわけにはいかないとばかりにさっと皿をトレーに乗せる。真結の視線は釣られるようにそれを追う。
「ではマーユ様、どちらへ参りましょうか?」
そうね、お庭の東屋でも良いけれど……
「サンルームで頂かない?」
外でのお茶の準備はテーブルやイスの運搬など少々時間がかかるので、真結は優雅でかつ手近で準備も簡単な空間を提案した。サラも真結のその意向は承知しているようで、楚々とした笑みを浮かべてワゴンにお茶セットをテキパキと揃えてくれた。
そうして真結は、ティータイムには少し早めだが、至福の時を味わった。
料理長のレモンパイは、メレンゲにもレモン果実が入っていたようで、甘過ぎず口の中に爽やかな香りと酸味が広がり、ついつい食べ過ぎてしまいそうなほどさっぱりとして美味しかった。
その夜、真結はサラが退室してからしばらくベッドの上でぼうっとしていたが、やはり最近そうであるようになかなか寝付けなかったので、床へと足を下ろした。
窓際へ寄るとサラが閉めてくれた重たいカーテンを少し開ける。
夜空を見上げれば、二つの月が見えた。
どちらも満ち欠けするが、一つは元の世界と同じように色が日によって変わって見える月。そしてもう一つは、真結が見慣れている月よりも一回り大きく常に青銀色に輝く月。
この月を見ると、真結はここが異世界なのだと思い知らされる。
この世界に、自分一人だけよそ者なのだと。
「感傷的になるのはお終い! 眠れないならもっと勉強でもしてルーチェをあっといわせてやりましょう」
真結はわざと明るい声をだして、気合を入れてみた。
「えっと、ランプはどこだったかしら?」
勉強机の上に置かれているのを思い出し、それを手にとる。
今まで自分で使ったことはなかったが、サラがしていたようにスイッチと思われる赤い石を押すが何も反応しない。
「あら? おかしいわね」
何度押しても点灯しないし、カチッというスイッチ部分が押し込まれた手応えも無い。タッチ式で触れるだけで良いのかも知れないが、それにしても全く反応しない。
真結は他に主電源があっただろうかと両手で抱えるほどの大きさのランプを一通りぐるっと触ってみたが、他にスイッチらしきものは見当たらない。
そういえば、明るさの調整はどうしていたのだろう。
サラの様子を思い出してみれば、触れる際に毎回小さく呟いていたがそれと関係あるのだろうか。
貴族の屋敷には使用人の行動にも真結にはそんなこと一々しなくても良いのにと思えるようなものがあるので、サラが毎回「点灯」「消灯」など言っていたのもそんな決まりごとの一つかと思っていたのだが……
まさかの音声認識!?
時代を遡っているように見えて実はハイテク!?
真結はわくわくと声にしてみる。
『点灯』
暗い部屋の中。光は窓から差す月明かりのみ。……ランプはいっこうに灯る様子を見せない。
真結は一人恥ずかしく身悶えた。
もう!
なんか恥ずかしいじゃない!
八つ当たり気味に、ていていていていっ! とスイッチの赤い石を押し、もういっそ手元だけ照らすようなランプの明かりではなく、部屋全体を照らすような篝火のような火がつけばいいと無茶を思いながら指に力を込める。
その、瞬間。
ガラスが割れ、ランプ本体さえも飲み込む大きな火が現れた。




