ようやく慣れて、することは?
『それで、お前の国はどこか思い出せそうか?』
勉強の時間。机を挟んで向かい側からのその問いに、真結は首を振って答えた。
返される返事は予想していたのだろう、まったくお前はと呟くルーチェは特に残念がったり同情を見せたりする様子もなくいつものどおりの無愛想だ。
そんな主の様子を、傍に控えているユアンはもの言いたげに見ている。
最初こそまるで事情聴取の詰問だと感じられる威圧的で表情の動かないルーチェだが、次第に怒っているのか呆れているのか微妙な表情を露にするが色々教えてくれるあたり、彼は面倒見がよいのだろうなとうかがい知れる。
『マーユが着てた服は最近プロヴィンスから入ってきて流行している形だったな。ブルテニアの言葉も少しは知っているようだから近隣諸国だとは思うんだが……』
ルーチェは机の上で両手を組んで真結の頭からつま先まで落とした視線を顔に戻すと、眉間に皺を寄せる。
人の顔を見て、そんなしかめっ面しないでほしいわ。
真結の前ではたいてい無愛想か不機嫌そうな彼に、真結は笑え、笑え! と念じてみる。
せっかく端正な顔立ちをしているのだから、できればその微笑を見てみたいものだ。だがルーチェはそんな食い入るような真結の視線に訝しげに眉の端を上げただけで、そっけなく言葉を続けた。
『お前の言葉は、聞いたことがない。それがどうにも解せない』
そうね、異世界の小さな島国の言葉ですから。
心の中でそう答え、真結はにこりともしないルーチェの節だった指が机の上に広げられた地図の上を走るのを眺めた。
『遠く離れた東の島国ではお前が時々話すような母音の多い言葉が使われているというが、そこまでプロヴィンスの最新の流行が広まっているとは考えにくいな。……本当にお前の身元は謎だ』
ルーチェのその言葉と地図上で指し示された島に、もしや日本のような国があるのだろうかと真結は少々淡い期待を抱く。だが例え似ていたとしても残念なことに自分の帰りたい場所ではない。
『身に着けていたものだけでは、たいして分かることもなかったからな。……お前、自分のことについて少しも思い出せないのか?』
詰るように目を細めたルーチェに、真結はまた首を動かすだけで答える。
だが、彼は厳しい先生でもあった。顎を少ししゃくり見下ろすようにさらに目が細まったその仕草に、言葉は使ってこそ覚えるものだと言っていたのを思いだし、慌てて声を出して返事をする。
『ええ、前にお話しました。その事の他は、覚えていないようなのです』
サラがドレス選びの際に、流行はプロヴィンスのものだと言っていたが、プロヴィンスは美意識の高い国で洗練されており、近隣諸国の流行の発信源なのだそうだ。
たまたま友人の結婚式で着たブライダルメイドのドレスがそれと似ていたために、そのドレスが着れる程度の身分ではあるのだろうと判断されてコーディアスの屋敷で客人扱いを受けているのだと最近分かり、真結はその偶然に感謝した。
もし私服であったならば、この世界には見られない不可思議な装いにどう対応されていたか分からない。奇抜なものはまずたいてい不信に思われるものだ。事態はますます困難を示していただろう。
『そろそろ休憩されてはいかがですか?』
サラの少女らしい高く柔らかな声が真結の回想を中断する。
休憩か。ルーチェとの堅苦しい時間にそろそろ息が詰まってきた真結は、とてもよい提案のように感じられた。
サラの淹れてくれる紅茶はとても薫り高くって美味しいのよね。
疲れも癒されるわ。
『かしこまりました。お気遣いいただき大変感謝いたします』
だから自然とにっこりしてそう言うと、サラは大きな目をさらに見開き、ささっと居ずまいを正し深くお辞儀をする。
最近目にすることが多くなったその行動に、真結は自分の言葉使いがまた不適切だったことを知る。語彙力は増えたが、場に応じての使い方がまだ上手くできていないようだ。
『マーユ様。私めなどにそのようなお言葉、勿体のうございます。大変恐縮な事でございますわ』
頭を下げる彼女に、真結は申し訳なくなる。
『同意するだけなら『そうね、そうしましょう』だけで十分だ』
ルーチェが適切な応じ方を教えてくれたが、真結が言いたかったのはそれだけではない。ちらっと見やればそのことを分かっているのだろう、彼は小さく息をついて付け足した。
『使用人に普通は礼なんて言うものではないが、あえて述べたい場合なら『気を使ってくれて有難う』ぐらいで良いだろう』
ふむ。なるほど、なるほど。
つまり私は丁寧に言いすぎたってことね。
『他にも……』
いったん説明体勢に入ると長くなりがちな彼の雰囲気を察して、真結はぴっと手のひらを相手にむけて制する。早くお茶にしたい。
『わかった、もう十分だ。早く休憩にしろ』
普段ルーチェが話している口調を真似してみた。
面と向かって言われた彼は何故か無表情に顔が固まっている。
どうだ、私ってば理解力ある。と言われたことをさっそく実行して丁寧過ぎないように言った真結は、満足気に胸を張っていたのだがユアンがあたふたと声をかけてきたので姿勢を戻して、なぁに? と首を傾げる。
『そういう時は『ええ、分かりましたわ。早く休憩にして頂けないかしら?』ともう少し口調を柔らかくされたほうが宜しいかと』
『まぁ、そうなの?』
んー、つまり、今度は丁寧さが足りなかったということね。
でもルーチェにはタメ語でじゅうぶんだわ、と思いつつ口を尖らせてため息をつけば、上からため息が被さって「やれやれ」という声が落とされた。ルーチェだ。
見上げれば、お前は馬鹿か? と顔にありありと書かれている。
なんということだ。
無愛想だというのにこういうことに関して彼は表情豊かだ。
『あなたの教え方。それが良くないのです。あなたが言ったように私は変えました』
腰に手を当てて言いたいくらいの不貞腐れた気持ちだったが、それは止めておいた。
まったく腹の立つ奴だ。顔が整っているだけに嫌味度が増す。
男なのに一つに括り背にさらりと流した長いダークブロンドの髪、その艶めくキューティクル具合、化粧をしているわけでもないのに肌理の細かい綺麗な肌、すっと高く通った鼻梁。
あぁ、まったくもって羨ましい!
『お前の理解が足りないだけだろう』
意志の強そうな唇は真結の神経を逆撫でする言葉ばかりを紡ぐ。
『使用人に畏まった言葉を使って俺にぞんざいな口をきくなってことだ』
本当に腹の立つ奴だと改めて思いながらも、真結は嫌味を返したくなる衝動をぐっと堪える。
我慢が肝心だ。
あくまでこちらはお世話になっている身なのだから。
「そんな事も分からない、お前が馬鹿なんだ」
椅子に腰掛けていたルーチェは足を高く組みかえる。足が長いのでその動作がやけに目につき真結にはそれが偉そうに見えたが、それよりも何よりも、真結は自分の耳を疑った。
「……今、なんて?」
聞けるはずのない言葉が聞こえた気がした。
「お前は耳も悪いのか?」
「っ! 日本語!?」
どうして!? なんで!? どういうこと!?
真結は混乱と嬉しさと驚きが混ざって自分でも気がつかないうちに机に身を乗り出しルーチェの両手をぎゅっとつかんだ。
嫌そうに手をほどかれた。失礼な。
だが今は、なぜルーチェが日本語をしゃべれるのか、関心ごとはそれに尽きる。
「あなた、日本語話せたの!?」
『一度見聞きしたことは忘れない。お前が時々話すのを聞いて覚えただけだ』
「だけって……っ!」
コウ兄も半端なく記憶力が良かったが、目の前の人物の特技に真結はこめかみをおさえる。
やはり神様は不公平だ。
『おやおや、どうしたんだい? にぎやかだね』
ぶつぶつと呟く真結に、いつの間にかノックされていたのかサラが扉を開け、優雅に入ってきたコーディアスが声をかける。
その声に、条件反射のように真結は顔を上げて微笑んだ。
彼の甘い笑顔はまるで心が洗われるようだ。一服の清涼剤だ。だがしかし、彼にそんな表現は似つかわしくない。
『まぁ、コーディアス様。どのようなご用件でしょうか? わざわざいらして頂けて嬉しいですわ』
流暢にすらすらと言う。お迎えの言葉はサラに習って完璧だ。
まだこのフレーズとちょっとした応用しか言えないが、彼には恥ずかしくない言葉で接したい。
『おい、わざとか』
ルーチェが低く言うが、何のことか分からなかった真結は視線で尋ねるものの彼はそれ以上何も言わないので、すぐにコーディアスを迎えるために立ち上がる。
貴婦人の礼も欠かさない。
『ルーチェに任せっぱなしというわけにもいかないからね。少し勉強の様子を見ようと思ったんだけれど……マユはもう随分とブルテニア語が上手になったね』
『それほどでもございません』
にっこりと甘く微笑みかけられて、真結は幸せでさらに頬が緩むのを感じた。
ルーチェがこれ見よがしなため息をつくのが聞こえたが、いったい何だというのだ。
ため息ばかりついていると、幸せが逃げちゃうわよ。
真結は、サラが整えてくれたお茶の席へとコーディアスを促しながら、ルーチェも彼みたいに少しは笑えば良いのにと思った。笑顔はきっと幸運を引き寄せる。
だから真結は、いつもなるべく笑顔でいる。どんな時でも。嫌なときも。笑顔で、隠す。
そうこうする内に、真結がこちらで暮らすようになって一月以上の時が経ち、努力の甲斐あってブルテニア語は日常会話程度であれば流暢に話せるようになった。
コーディアスの事は今まで周りがそうしているように様づけで呼んでいたが、本人の希望で呼び方はさんづけに変わった。様づけの方が適している気はするが、親しみを持てて嬉しい。
ちなみにルーチェは呼び捨てだ。
可愛くルーちゃんとでも呼べば嫌がってくれるだろうかと目論むが、そんなことより驚愕したのは、彼はなんと真結より一つ年下だったという事だ。
悪く言えば傲岸不遜、よく言えば堂々とした彼は同い年か数歳年上だと思っていたのにその事実は結構なショックを真結に与えた。だからといって、やい年下! と彼に向かって威張ってみれば、冷たい視線で一瞥されそうなのでやめておく。
十代後半と思っていたサラもまだ16歳であったことに驚いたが、衝撃的だったのはユアンだ。まだ青年というには幼さを残した雰囲気だったので16歳くらいかと思っていたのに、真結の感覚では実年齢より上に見えるこちらの人々の中で、彼は逆だった。なんと18歳だったのだ。
こちらでは童顔の部類ではないだろうか。
ルーチェの従者かなと思っていたが、騎士見習いの従騎士としてルーチェに付いているようで、爽やかで素直なワンコ具合にまさか戦闘要員だとは思ってもみなかった。
「じゃあ、コーディアスさんはお幾つなんですか?」
もっとも謎なのが彼だ。
見た目のままであれば20代半ばから後半のように感じられるが、鷹揚な雰囲気や時折見せる物慣れた様子はもっと人生経験をつんでいる人であるかのようにも感じられる。
でもそれって貴族や王宮魔術師という立場がそうさせるのかしら?
「そうだねぇ、いくつに見える?」
まるで微妙なお年頃の女性のような返答に真結は言葉に詰まった。
それが分からないから聞いてるのに。
「うーん、難しいです」
口を尖らせつつ真結は彼をじーと瞬きもせず見つめる。
…………。
見れば見るほど女性たちを甘く虜にする容貌だと実感させられる。
見ても見ても難なんて見当たらない。
毛穴はどこだ?
ファンデーションなんて塗っていないのに、まるで赤ちゃん肌じゃないですか?!
そんな食い入るような視線を受けて、コーディアスはふふっと楽しそうに笑った。
そして、真結の唇に人差し指をかるく押し当てる。
「イイ男はね、年齢は秘密にするものなんだ」
「っ!」
自分でイイ男って言っちゃってるよという突っ込みより、唇に感じる感触の恥ずかしさのほうが勝る。
真結は、見なくても自分の頬が赤く染まっているのが分かった。
顔が熱い。
「コーディアスさん」
ぐっと落ち着きをもって、失礼にならない程度にゆっくりと彼の手をどけて少し眉を寄せて訴えるが、彼は気にした様子を見せない。
「ん? どうしたんだい?」
平然と問われればこっちが気にしすぎているようで「いえ、何でもないです」と返事をしてしまい何だか釈然としなかった。
「ふふっ。マユは可愛いね」
きっと彼はコウ兄と同じ人種だ。
過剰なスキンシップや甘い言葉も気にしすぎてはいけない。
「さて、今日は調理場を使いたいのだったね?」
上手く流された気もするが、今日はようやく念願が果たされる日なので、コーディアスの言葉にぶんと勢いよく肯首する。
「どうやら待ちきれないようだね」
「はい、とっても楽しみにしていましたから」
くすっと笑う彼に、当然とばかりに至極真面目に答える。
実は以前からコーディアスにお伺いを立てていたお菓子作りをして良い事になり、この後、サラと一緒に調理場の使用許可をもらっているのだ。
現代日本とこちらの調理、製菓器具の違いや材料の有無などもあるのでまだ何を作るかは決めていないが、待ちに待ったお楽しみの時間に喜びを隠せない。
「コーディアスさんは何かお好きなお菓子はありますか?」
ただ単に自分の楽しみとしてお菓子を作りたいのもあるが、お世話になっているお礼をしたいと考えた時、真結に出来る一番の事がお菓子作りなので、それをプレゼントしたいと考えていたのだ。だからこそ彼の好みの物を作りたい。
「そうだね……砂糖菓子みたいに甘過ぎるものじゃなければ、何でも好きだよ」
ストライクゾーンが広くて困った。
だが甘いものが好きならば、これからたくさん作ってあげられそうで真結は嬉しさに顔が綻ぶ。
だてにパティシエをしてきたわけじゃない。気に入ってもらえないかもと少しの不安はあるが、きっと真結のお菓子は彼らにとって目新しく喜んでもらえるんじゃないかと期待している。
というのも、こちらの料理は基本大味で大胆でもあり素朴な盛り付けと味付けだったからだ。
体調が戻ってからは、コーディアスとルーチェと晩餐を共にするようになったのだが、まず、初めての晩餐は緊張の連続だった。
テーブルマナーはある程度心得ているつもりだが、イギリス式かフランス式かあるいは全然知らないブルテニア式か。そんなことを危惧しながら真結は食事を進めた。
フォークやナイフは外側から。
フィンガーボールの水はもちろん飲みませんよ?
フォークの曲線の内側に料理を載せて食べるかフォークの背か迷ったが、長いテーブルの一番頭に座しているコーディアスをいちいち見るのは不自然になりそうなので、その側面の真結とは斜めに面する位置にいるルーチェの手もとをさりげなく見て真似た。
背側ですね。了解です。
一皿目を食べ終え、フォークナイフを右斜め下に柄が来るように置く。何も考えずにそうしてしまったが、ふと視線を感じて前を向くとルーチェが訝しむように真結のカトラリーの位置を見ていたので動揺した。
しまった!
縦に並べるんですね!
細心の注意を払ってさりげなさを装いつつ位置を正す。
日本ではイギリス式フランス式のマナーが混在して使われているので真結も気にしていなかったが、今は気を抜いてはいけなかった。
スープの場面でも、左手で器を奥に傾け手前から奥にスプーンを運ばせるかその逆か迷ったが、それもルーチェを会話のついでにちらっと見て真似をした。
どうやら先ほどからイギリス式のマナーのようで手前からだった。
デザートまでようやくたどり着いたときには気苦労で疲れ果ててしまったが、次回からは何とかなりそうだと安堵できた。
そうして日々の晩餐を重ねるごとにこちらの料理はどうやらイギリスっぽいことを把握したのだ。
絶品な物もあれば正直日本人の味覚としは微妙な物もあった。
だいたいにおいて言えるのは、どれも味見た目共に繊細さや美しさに欠け、まずいとは言わないものの美味しいとは言えないという残念な事実だった。
そういう訳もあり、真結の作るお菓子はこちらでは珍しがられるのではないかと思ったのだ。
腕によりをかけて美味しく綺麗なお菓子を作り、喜んでもらいたいと張り切る。