落ちるその前に
その日真結は、友人の結婚式に呼ばれていた。ブライダルメイドという彼女の友人として栄えあるお役目も頂いていたが、実はもう一つ企んでいる事があった。
短大の時のクラスメイトでありパティシエ仲間の彼女にぴったりなサプライズである。
会場が暗くなりスポットライトを浴びて運ばれてきたのは二段ケーキ。
ハートの形をした真っ白な生クリームのケーキはストロベリーを縦に薄くスライスしたものでレースのように側面を彩られ、パインやオレンジなど色鮮やかなフルーツ達がきらきらと宝石のように輝いている。
アクセントにセルフィーユの緑やアラザンの銀色が散らされ、ケーキを覆うように添えられた薄ピンクの飴細工はまるでプレゼントのリボンのようだ。
真ん中には新郎新婦の人形が寄り添うように飾られている。
予定になく突然運ばれてきたそのケーキに新婦が目を見開き、すぐに感づいたのか真結の方を見て目を輝かせた。
「おめでとう!」
サプライズが成功したことに、真結は悪戯な笑みを浮かべた。
会場からは祝福の声が次々に上がり、新郎新婦の微笑みが幸せに満ちていて、真結は自分も嬉しくって温かな気持ちになる。
彼らの未来が希望に満ち、幸多きものでありますように。
二次会が終わり三次会まで参加したが、帰宅が遅くなるのをあまり好まない真結は他にも日付が変わる前にと解散するメンバーに加わることにし、電車に乗る前に家で待つコウ兄にメールする。
『もう遅いから、駅まで迎えに行くよ』
すぐに返信があり、真結は思わず微笑んでしまった。
両親亡き後、代わりに真結を育ててくれたのがコウ兄だ。
真結は五歳頃まで海外に住んでいたのだが、世界的に続いた自然災害で多くの人が亡くなり、真結も父を失った。
それを切欠に母と日本へ帰ってきたのだが、不幸なことに日本でも祖父母などの幾人かの親戚が亡くなっており、同じく両親が他界した母の従兄弟であるコウ兄と一緒に暮らすようになったのだ。
その頃、彼はちょうど大学受験を控えていた。
小学生に上がる歳だった真結は歳の離れた妹のように可愛がってもらい、幸いにも祖父母から譲り受けたものや母が研究職だったということもあって生活には困らず習い事もバレエやピアノなどたくさんさせてもらった。
だが、ずっと続くと思っていた穏やかで幸せな生活は中学生の時に崩れ去った。
火事に巻き込まれ、母をも亡くしたのだ。
その後、寮制の学校を勧める遠い親戚も居たが、真結は差し伸べられた手を離さなかった。
「大丈夫。真結の事は、俺が守るから」
深い悲しみに寄り添い、救い上げてくれたコウ兄。
父のようでもあり、兄のようでもあり、初恋の人でもあり、とても大切な人だ。
パティシエとしての職が順調な今、真結は両親へする親孝行のように保護者として面倒をみてきてくれた彼へ恩をたくさん返したいと決意している。
だから今も結局一人暮らしをすることはなく、ここ数年体調を崩している彼が心配で変わらずずっと一緒に暮らしている。
恩返し、なんてのは建前かしら?
確かにその気持ちはあるが、甘えや依存なのかもしれない。
大切な人は皆、自分を残して去っていく。彼に縋り付いていない、とは言えない。
だが、通院を繰り返し原因不明のままどんどん体力がなくなり眠っている時間が長くなる彼が心配なのは本当だ。
医者は皆そろって首を傾げる。
そしてコウ兄は、病院を嫌がる。
だが自分の身体に良いことを知っているのか、パワースポットと呼ばれる場所を巡ったり、森林浴に出かけたりすることを好み、そういう時は決まって体調の良い日が続く。
自然からのエネルギーを受け取っている、とか?
超現象という物を頭から否定してかかるわけでもなく、かといって信じ込んでいるわけでもない真結だが、彼の様子を見ていると自然とそう思う。
「迎えに来てくれるってことは、体調が良いのね」
家から駅まで歩いて十分もかからないが、心配性の彼は深夜に近い時間帯や雨の時はよくこうして迎えに来てくれる。
雨の日は車だが、今夜は風が心地良く満月も大きく見えてとても綺麗なのできっと散歩がてらの徒歩だろう。
電車を降りて改札口を出ると、すぐに彼の姿が目に入った。
行きかう人々の中すらっとした高めの身長の彼は見つけやすい。甘く優しい声と同様に甘く整った顔立ちに、通りすがりの女性たちがちらりと視線を送っている。
そんな彼の隣を歩くからこそ真結は例え「妹」であろうと身なりを整えて少しでも見目良くあろうと努力している。自分のせいでコウ兄が何か言われるのは嫌だし、女性たちの視線や陰口も面倒だからだ。
今夜は結婚式帰りだから、そんな心配は杞憂よね。
ひじ丈の真っ白なグローブは上品に見せてくれ、薄い緑が混じったような淡い水色のロングドレスは古代ギリシャの女神が着ているようなエンパイアラインで清楚かつ優美に見えるはずだ。長い黒髪はハーフアップにして毛先をくるくる巻いている。
「お帰り、真結」
真っ直ぐに歩み寄ってきた真結に気づき、コウ兄がふわっと顔を綻ばせる。
真結は胸の奥がほっと温かくなるこの微笑みが、大好きだ。悲しい時でも嫌なことがあった時でも、優しく包み込んでくれるような彼の微笑みを見られれば素直に安心できる。
「ただいま。今日はとっても調子が良いみたいね。顔色も良いわ」
「そうだね、嬉しいことに今日は一度も臥せる事がなかったよ」
丁寧で上品な模範優等生で通してきた真結だが、コウ兄にとっては手のかかる幼い妹のままなのだろう、頭を撫でられた。
「最近はベッドで休んでいることが多かったからなぁ……」
そう呟く彼は横に流した長めの前髪が目にかかったのか、色白の指ですっと払いのける。
真結は前髪をおろしている方が好きだったが、本人は外見があまり変わらず童顔なのを気にしているのか、額を出して大人の男性らしさを演出しているそうだ。
それを聞いた時は思わず笑ってしまい、コウ兄は、昔は逆に大人っぽいって言われてたんだけどなと年甲斐もなく少し拗ねていた。
「だからね、今日は少し散歩したい気分なんだ。付き合ってもらえるかな? 」
彼の薄い茶色の瞳に覗き込まれて、その願いを断れるだろうか。
答えは否だ。
「もちろん」
せっかく着飾っているんだもの。
もうちょっとこの姿をコウ兄にも見てもらいたいな、と真結はドレス姿のまま家路を遠回りして帰る事に笑顔で快諾する。
「神社のご神木のところまで行かない?」
真結の提案に、コウ兄は微笑して頷く。
その大樹は自然に囲まれた神社の本殿や拝殿からは少し離れた場所に根を落ち着けていて、コウ兄のお気に入りの場所の一つだ。
「俺もそう思ったとこ」
今のセリフ恋人っぽい!
真結は口元が緩みそうになるのをにこっとした笑みで誤魔化した。
二人でとりとめもなく話しながら歩いていると、ふと手にあるはずの重みが無いことに気づく。
は! いつの間にか引き出物の袋がコウ兄の手に渡ってる!?
彼の優しい気遣いはさりげなく自然なので、たいていそうと知るのは成されたあとだ。驚く程の神業だ。何故だか悔しい。
そういえば、駅を出た時は車道側だったのに気がつけば歩道側に居る。
信号を渡った時や向いから自転車が来た時など背にコウ兄の手がふわっと添えられたので、いつの間にか誘導されていたのだろう。
いつもの事ながら相手に感づかせないスマートなエスコートだ。鮮やかな手際だ。
「足元に気をつけて」
あっという間に境内に入りご神木へと続く林道に差し掛かる。
ドレスはハイウエストで切り替えられていて動きやすいのだが、踝まで長さがある上にハイヒールを履いているので、コウ兄が手を差し出してくれた。
さすが紳士。
気遣いに満ちた動きに、真結はそっと手を重ねる。気恥ずかしさよりも、さりげないエスコートに嬉しくなる。
目的地についても手はそのままに真結は大きなご神木を仰ぎ見た。
推定樹齢四百年は超える大樹は大人が三、四人手をつないでやっと囲める大きさで、中に虚がある。
その虚の中に入って人が消えてしまったとも、この樹に天狗がとまり、人を浚って行ったとも伝えられているそうだが、その一方で人々の悩みを解決し願いを叶えてきた神秘的な力のある樹としてしめ縄を施し、大切にされている。
真結はすっと大きく息を吸った。
ご神木の周りは凛と空気が澄んでいて、深呼吸すると体や心に溜まった澱が少しずつ呼気にのって溶け出し、軽く澄き通っていくような気がする。
真結が手を重ねていない方の手で樹皮に触れると、コウ兄も大樹に手を伸ばし、目を閉じた。
ゆっくりとした呼吸音が静かに響く。
大地にどっしりと根を下ろし空へと高く力強く伸びるご神木は神秘的な雰囲気があり、祈るようなコウ兄の横顔は満ちた月明かりに照らされ、まるで厳かな儀式のようだ。
邪魔しないようにしましょう。
真結はじっと息を潜めて見守る。
この、静謐な時を待つことは全く苦にならない。
どれくらい経っただろうか、不意に目を開けたコウ兄は真結へと向けた視線を柔かくし、懐かしむように目を細める。
「時が経つのは早いなぁ」
突然どうしたのかしら?
「よくやく今日を迎えた気もするけど、思い返してみるとあっという間にも感じる。……大きくなったね」
小さかった頃はこんなだったのにと彼は膝あたりを手で示した。
「もうちょっと大きかったわ」
出会った頃を思い出し、真結はその手をぐいっと押し上げた。
「ううん。もう少し、小さかったよ。俺が片腕で抱き上げられたくらいなんだから。……可愛かったなぁ。もう天使だよ。」
手をまた下げてうんうんと頷くコウ兄は「今はとっても綺麗になったよね、素敵なレディだ」と付け加える。
真結の幼い頃の身長に確信を持っているような様子は良いのだが、恥ずかしい事をさらりと言わないで欲しい。
「そうだったかしら?」
照れて頬を染めない程度には彼の甘言に慣れている真結は、確かにコウ兄にひょいと抱きかかえられるのが大好きだったなぁと思い出がよみがえる。
平均より少し身長の高い真結としては小さい頃ももっと高かったつもりだったのだが、自分の記憶より、何でもすぐ暗記できてしまう彼の記憶の方が確かかもしれない。
「……懐かしいな」
そう呟きながら、真結へと甘く優しく微笑むコウ兄。
だが、その眼差しは真結を通して別の誰かを見ているようにも感じられた。
胸の奥が、少し疼く。
「コウ、兄」
呼んでも見たものの、言葉は続かない。
だがその時、どくん、と一きわ大きく胸が鳴った。
心臓を締め付けられるような苦しさと、迫りくる焦燥。
真結は繋いだ手に、思わず力が入ってしまった。
……何? どうしたの?
突然襲われた不安のような胸騒ぎ。何かがおかしい、逃げるべきだと切羽詰った本能が危機を告げる。
不意に、気づく。
景色が歪んで見える場所があるのだ。
一歩後ろへ下がったその瞬間、満月の明かりさえ届いていない真っ黒な闇が、人を飲み込もうとするように口を開いた。
「っ!」
言葉を発する間もなく引きずり込まれる感覚を覚え、真結はとっさにコウ兄を突き飛ばす。
尻もちをつくことはなく、身体は落ちていく。
後ろによろめいた彼が驚きに目を見開き、だがすぐに真結を助けようと手を伸ばしているのが見える。
そして、いつの間にかそんな彼の後ろに身体をすっぽり覆うような衣服を着た女性の姿があった。
深く被ったフードで顔は見えないが、その口角はきゅっと上がり笑んでいるのが分かる。
誰?
何が起きてるの?
問いかけることもできず、身体が闇の中へと落ちていく。
そうして辿り着いたのは、見知らぬ森。
夜空に二つの月が輝く、真結の知らない世界だった。