「愛しき我が娘へ」
真結のレモンパイは好評だったようで、その後、料理長も時々真結の伝授したレモンカスタードでパイを作ってくれるようになった。
せっかくだから違うレシピでとコンポートをのせた物をお披露目したが、真結はメレンゲをたっぷりのせた物の方がより好みなので、そちらで作ってもらっている。ブルテニアの伝統的なスタイルでもあるそうだ。レモンの香りと共にふわっと溶けていくあの甘酸っぱい感覚が堪らない。
レモンカスタードでシュークリームを作っても良いし、ミルフィーユのようにパイに段々に挟んで重ねても良い。
「重ねるといえば、ミルクレープも良いわね」
真結は次に何を作ろうかなと考えていたら、お店で大人気商品だったミルクレープが思い浮かんだ。真結が勤めていたお店のミルクレープは他店の物と少し違っていて、間にイチゴ、キウィ、バナナを沢山挟んでいる。極めつけは表面をキャラメリゼしているのだ。パリパリっとした食感の下にクレープの柔らかさとクリームと甘味、果物の酸味が混ざって、絶品なのだ。
キャラメリゼが溶けてしまわないように、早めにお召し上がり頂かないといけない商品であるにも関わらず人気一位を争っているスイーツでもある。果物がたくさん入っているので、真結のお気に入りでもある。
「果物といえば、フレッシュフルーツタルトはまだこちらじゃ頂いたこと無いんじゃないかしら?」
色々と連想されて、作りたいもの食べたいものが増えていく。悩ましい。何から作ろうか? いやしかし、バニラビーンズに始まりカカオや生クリームなど恐らく高級品と思われる材料を連日消費するのは気が引けるし、いったいどうしたものやら。
それにまず、いつまでここでお世話になっていられるのだろう? あまり迷惑をかけたくないと思うものの、独り立ちの仕方というのがコーディアス達が教えてくれた内容では今いち把握できない。
街のパン屋か菓子屋、食堂で働かせてもらうという手があると思うのだが、そうなると真結の使いたい材料が無い可能性は大きい。バターはサラダ油で代用できるが、生クリームは? 何を作ったら良いのだろうか?
何を? 今はフレッシュフルーツタルトが食べたい。じゃあそれを作れば良いじゃない! ってだから材料が高級品ばかりじゃないか。……と徒然に耽って迷走していたら、耳に心地よく甘い声がその思考を中断した。
「気にしないでって言ったじゃないか。マユの好きな物は全部作って欲しいな」
コーディアスである。何時もの事ながら考えを口にしていたのだろう。真結の癖だ。
「私も君が好きな物はぜひ知っておきたいから」
砂糖菓子のように甘く溶けそうな笑顔だ。ソファにゆったりと腰掛けていたのだがそのリラックスしていた姿を見られたことにも、彼の笑顔にも、気恥ずかしくなる。
だが気を引き締めるように、手にしていた本をパタンと閉じて咳払いをした。
「こんにちは、コーディアスさん。珍しいですね、こんな時間にサロンにいらっしゃるのは」
「ふふっ、私も一応この時間には起きては居るんだよ? ただあまり自室から出ないってだけで」
真結は参考にしようと思って書庫からブルテニアの伝統料理やお菓子について記載されている本をサロンで読んでいたのだ。
自室や庭の東屋、サロン、サンルームなどその日の気分や天候によって読書をする場所を変えて気分転換しているのだが、まさかお昼前にサロンで出くわすとは予想外だった。
「それで、マユは何が好きなの? 気兼ねせず全部作ったら良いじゃないか」
先ほどの言を繰り返す彼に、真結は首を横に振って答えた。
「私もコーディアスさんと同じで、甘過ぎなければ基本なんでも甘いものは好きなんですよ。だから、全部作っていたらきりが無いです」
「そう? じゃあきりが有るまでずっと気長に作ったら良いよ。いっその事、マユの知り得るお菓子を全て作ってみたら良い」
楽しそうに言葉遊びをする彼に、真結もくすっと笑った。
「随分と時間のかかりそうなお話ですね」
だが何となくこのままずっと此処でのんびりお菓子を作りながら過ごす風景を考えてしまった。穏やかな日々で楽しそうではある。魔法もまだ思う様に扱えていないが、だからこそやりがいがある。
だが、コウ兄と突然あんな状況で別れたままではいられない。何としてでも帰りたい。
「そうだねぇ。マユの記憶が戻らないのであればこのままずっとここに居てもらっても良いんだけど」
そういえばそういう設定だった。気遣ってくれるコーディアスに、真結は罪悪感で胸がぎゅっと痛む。
「そんな顔しないで、君は気にしなくて良いんだから」
「いえ、でも私は」
彼に言ってないことがある。けれど言うのは躊躇われる。
そんな真結の胸の内さえも知っているかのように、コーディアスは穏やかに微笑んだ。そして、すっと表情が改められる。普段の微笑とは違った、大魔術師の顔だ。
「例え事故であっても、偶然だと思っても、作為的であっても…………それは必然で、成るべくして成ったんだ」
まるで神秘の謎を解き明かすかのように、宣託するように、厳かに響く言葉。すっと細められたヘーゼルの瞳の奥に計り知れない力を纏った光が強く灯っている。
「……必然?」
「マユは今ここに居るし、私の可愛い弟子でもある」
優しい手が、真結の髪をひと房を手に絡めた。
「だから、ここに居れば良いよって話」
くるっと髪を巻きつけるように指を滑らせて放すと、彼はにこっと屈託なく笑う。
「師匠になったからには責任をもって一人前に育てるよ」
任せなさいとわざとらしく胸を叩いてみせ、悪戯に笑うコーディアスに、真結は一瞬飲み込まれかけていた空気に頭を振って、ほっと息をついた。彼は、いつもの陽気で優しいコーディアスだ。
「まぁ、私に師事するからには、大魔術師になってもらうからね?」
彼は、本当はスパルタでプライド高いコーディアスだ……。
成れないわけがないよね? と無言の笑顔のプレッシャーをかけてくる師。そんな彼の一面を、真結は最近身をもって知っていた。
せっかく時間もある事だから、とコーディアスが言葉を紡いだ時、真結は早速魔法の練習かと身を引き締めた。だが、続いたのは
「ピアノを弾いてあげよう。何の曲が良い?」
というリクエストを聞くものであった。
サロンには、白いグランドピアノがある。お飾りか音楽家の人を呼んだ時の為かと思っていたが、屋敷の主が弾くようだ。
そういうことは、もっと早く知りたかったわ!
真結も母の影響で幼い頃から高校を卒業するまでピアノを習っていたので、ピアノ曲は大好きだ。
「じゃあ、子犬のワルツが良いです!」
タイトル通り子犬がころころと走り回るような可愛い曲だ。
有名どころなのでピアノを弾く人であれば誰でも知っていてそこそこ腕に覚えのある人はだいたいレパートリーに入れている曲だ。かくいう真結も弾ける。だからお願いしやすいとも思ったのだが、コーディアスは「子犬、のワルツ?」と首を傾げた。
そうだわ! ここにショパンは居ない!
作曲者が居なければ、この曲も存在しないだろう。だがこちらの曲はというと全く知らない。
「せっかくのリクエストに応えられなくて申し訳ないね」
「いえ、とんでもないです! 私のせか、国の曲なので、ご存知なくて当然です。……ええっと、少し弾いても宜しいですか? こんな可愛らしい曲なんですよ」
ピアノの椅子に座っているコーディアスの傍らに立って、一オクターブ高い鍵盤で右手だけ数フレーズ弾いてみる。すると彼も興味を持ってくれたようで、ぜひ聴いてみたいと椅子を譲られた。
真結は鍵盤に指をのせ、息を吸い、ヘンレ版でターンと一番初めの音を響かせる。サロンに澄んだ音が響き、真結は久々に弾くその曲に集中した。ピアノは毎日の練習が欠かせないが、職に就いてからそういうわけにもいかず週に数日しか練習していないので指が正確なリズムを刻めない。少し偏ったり音を飛ばしそうに鳴りながらも何とか最後まで弾けた。
……前に弾いた時より、かなり鈍ってるわ。
これじゃ子犬のワルツっていうより、たくさん転けていそう。
「本当に子犬が駆け回って遊んでいるような、明るくって軽快な曲だね」
「お耳汚しですみません」
コーディアスは楽しそうな笑みを浮かべて拍手をしてくれたが、真結は苦笑しか浮かべれない。弾かなければ良かったと、そそくさと席を立つ。
「そんな事はないさ。まぁ確かに指がもつれて練習不足かな? という印象を受ける部分もあったけれど、この屋敷に来てからピアノに触ってないだろう? マユがこの曲が大好きなんだなって分かる可愛くて良い演奏だったよ」
理解あるお言葉に、やはり苦笑しか浮かべれない。
「ではさっきリクエストされた時に応えられなかったお詫びと、今の素敵な演奏のお礼に」
そう言って彼が弾き始めたのは子犬のワルツに似た軽快な曲で、陽気で可愛らしい曲調だ。だがそれはふと短調に転じてどこか不安を見せるように陰る。数フレーズそれが続くと音の終わりが明るくなりそうな気配で曲が途切れ、ふわっと両手が鍵盤から離された状態でためられる。次の瞬間、ワルツのフレーズがもっと華やかになって繰り返されより楽しさと喜びを感じているように盛り上がりを見せる。そして大団円を迎えてそのワルツは可愛らしくも華麗に最後の音を響かせた。
完璧だわ。完璧すぎる!
王子的な甘い容姿に白いピアノと華麗なピアノワルツ。
真結はすっかり彼のステージに魅了されていた。
「ロザリーと蝶のワルツ。子犬のワルツに似た雰囲気だからお気に召すかなと思って」
どうだった? と事も無げに彼は訪ねるが、真結はあまりにも感動して言葉が出なかった。拍手に気持ちを込める。やっと出てきた言葉は「とても素晴らしかったです」と在り来たり過ぎて感動が伝わらないので、目に力を込めて深く頷く。
「ふふっ、気に入ってくれた? じゃあ次は何にしようか?」
一曲だけではなく、次を促す言葉に真結は嬉しさと驚きで目を見開いてしまう。彼は師でもありとても気さくで優しい人柄だが、屋敷の主様に次々とそんな事をお願いしても良いのだろうか!?
「私がリクエストを聞くのは滅多に無いことだから、気が変わらに内に言ったほうが良いよ」
悪戯に口角をきゅっと上げてそう言われてしまえば、つい反射的に右手を上げてお願いしてしまう。
「はい! 絢爛豪華な曲をお願いします!」
「じゃあマユの為に特別に、超絶技巧と参りますか」
指を慣らすように開いたり閉じたりしてから、彼はダイナミックに奏で始めた。指を酷使する超絶技巧曲だというのに、大変な素振りはなく心底楽しそうだ。
真結は息を飲んで彼の世界に惹き込まれていた。
他にも「次は何が良い?」と聞いてくれたので、勇ましい曲、元気で明るい曲、など気持ちが上がる曲調のものを幾つかお願いし、楽しい時間はあっという間に過ぎてしまう。
「では最後に。もうあの一度ワルツをマユに捧げよう」
片目をつぶって微笑む彼は、全く疲れの色が見られない。真結も「有難うございます」と微笑むと、彼は鍵盤に手を構えて目を閉じた。
奏でられる音階は「ロザリーと蝶のワルツ」だが、先ほどの陽気で可愛らしくも華麗である曲調と違って、可憐に可愛く、時に甘く、優しく見守りながら心配し、最後は愛しさに満ち溢れてふわりと余韻を残しながら消えていった。ずっとこの幸せな想いが続くのを暗示しているような終わり方だ。
同じ曲なのに、全く印象が違う。まるで恋の曲といっても良いほどだ。
「この曲はね、実は作曲者が彼の娘へと贈った曲でもあるんだよ」
四、五歳の、可愛い愛娘さんにね。という言葉に、真結は極めて得心がいった。その作曲者は、さぞ娘を溺愛していたのだろう。それが伝わる曲だった。
「原曲が今ので『愛しの我が娘へ』という題名なんだけど、世に広めることになった時に、彼女の為だけの曲だからって『ロザリーと蝶のワルツ』に改名してアレンジも解釈も変えてしまったそうだよ」
「娘さんの事をとても可愛がっていて大好きでだったんでしょうね」
「……だった?」
ロマンチストな人だったんだなと緩む頬を両手で押さえていたら、コーディアスが怪訝そうに呟く。
過去の偉人達の曲を演奏することが多い真結はついこの曲も古い物だと思ったのだが、違ったのだろうか? そう説明すると、コーディアスは寂しそうに微笑んだ。
「彼は今も生きているよ。ただ、この曲ともう一つの曲を最後に作曲は止めたようだけど」
「どうしてですか?」
こんなに素晴らしい曲を生み出せる才能があるのに勿体無い。
「彼は娘を失ってね……。だからこの曲を作って、それを最後にしたんだ」
「娘さんを亡くす前につくられた物じゃないんですか? だって……」
始終悲しみは全く感じられず、終わりも死の不安を過ぎらせる事もなく、希望に満ちていた。娘の死を悼んだ鎮魂歌でも、失った悲しみを昇華させるような曲でもない。
「だからこそ、だと私は思うよ。きっと彼は、可愛い娘の記憶はそのまま幸せな記憶として留め続けてるんじゃないかな?」
娘の死を受け入れられず、夢を見続けているということだろうか。
「作られた曲と作った本人の状況が全然違うんですね。真逆です」
記憶の中の生きている娘の曲と、実際には亡くなっている現実の作曲者。
「そう、まさに真逆だよ。表裏一体。生と死。光と闇。魔術においてもこれは大事な理念だ」
「…………あぁ、そこに繋がるんですね」
しんみりと作者の気持ちに共感して憂えていたのに、コーディアスに目を向けると是と微笑みながら頷かれた。つまり彼はこれが言いたかったのだ。
「まさかの展開です。読めませんでした」
「まだまだ勉強不足だね。魔術師たるもの常に思考を働かせないと」
「魔法使いにも、何かの属性使いにも成れていない私にそんなこと言いますか!?」
「君は魔術師になるんだから、今のうちからこれくらい当然さ」
全く悪気も企みも感じさせない和やかな笑顔で彼は言い切った。貼り付けたような笑顔でもないので、これはプレッシャーを与えようとしているわけではなく極々心からの至極当然に思って言っているのだろう。つまり、根っからのスパルタか。
「……っ! ま、まさか!? 今までのピアノ演奏も、これに繋ぐ長いフリだったんですか!?」
信じられない! という非難じみた目で問い詰めれば、彼も流石にそれは無かったようで困ったように眉尻を下げた。
「それは無いよ。マユに喜んでもらえたらな、と思ってリクエストを聞いただけさ」
そこまで疑う? 酷いなと目を伏せられれば、真結も申し訳なくてすぐに謝ろうと口を開く。
親切な彼の事だ。真結の気分転換にと気を使ってくれたのだろう。だが、それは発せられる前に閉じられた。
「まぁ、あのワルツを最初に弾いた時に『あ、これは』と思ったけどね」
「それって初めから企んでたのとほぼ変わりませんから!!」
ふふっと笑うコーディアスに、真結は高ぶる感情のままに手を振り上げ、そこでじたばたと握り拳を振る。
それを見てははははっと珍しく口を開けて笑う彼に、真結は「何で笑うんですか!?」と地団駄を踏みかけたが、あまりにもコーディアスが楽しそうに笑っているので、その表情を見ていると気持ちも萎えてきた。
それどころか自分だけ苛立っているのも馬鹿らしくて、結局つられて微笑んでしまった。