朝霧の中で
真結は魔法の自主練習は早朝にも行うことにした。
サラは真結付きの侍女でいつ如何なる時もすぐに対応できるようにと隣の侍女部屋で眠っているので、彼女を起こさないようにこっそりと足を忍ばせ、朝霧の立つ庭に出る。
寝つきが悪く、眠れたと思っても夜が明けきれないうちに目が覚めてしまうことがしばしばあるため、その時間を有効活用することにしたのだ。
もちろん、ぐっすり眠れた日は睡眠欲に任せてそのまま心地よく惰眠を貪る。
サラが起こしに来るまで起きない。至福の時だ。
緩急をつけるのは大切だと思う。何事も頑張りすぎて体調を壊してしまえ元も子もないのだから。
「今私に必要なのは、自然界に存在する魔力を感じ取ることよね」
コーディアスのおかげで魔力の放出はコントロールできるようになったが、自然界のそれと呼応させるというのがさっぱり掴めないのだ。
「どんなふうに存在しているのかしら? 形は? 匂いは? 色は? ……ここはやっぱり目に見えないくらいの小さな粒子なのかしら?」
こればかりは師に質問しても明確な答えは得られなかった。彼はただそこに有るのを感じているそうだ。しかもそれは意識しないと彼も感じとれないようで、自然界の魔力との対話は大魔術を使う時くらいしか神経を配らないという。
魔法初心者の子どもらを除き、魔法を使い慣れた人々にとってそれは無意識のうちに行うことなのだ。手を動かそうとして、その為の筋肉の動きを意識しないのと同じなのだろう。
「よし、まずは水のイメージから」
命の水、清らかなる水、癒しの水、ミネラルウォーター、プール、雨……の、規模は大きいからジョウロの水。ジョウロからさぁっと優しく草花にかかり、土に染み入る水。水。
真結は映像もくっきりに想像した。体内に巡る魔力もいつでも放つ準備は出来ている。
このまま出力しても魔法が行使されないのは嫌というほど経験済みなので、自然界の水の魔力というものを探す。分からなくても探す。
肌に感じる朝の薄霧の微かな湿気。ここに含まれている水素? これ?
「いでよ、水!」
呪文は言い飽きたしどうにも気まずいので簡潔に。声に出さない時さえもある。
手は草花に振りかざすようにしている。せっかく水を出現させるならついでに水遣りもできればと思い、きまってそう構えている。
「…………ふぅ」
やっぱり、何も起こらないのよねぇ。
切ないわ。
「ねぇ、あなたたち。何が悪いのかしら?」
そして自分の問題点について省みるのだが、偶に草花相手に口に出してみる。声に出し耳で聞くほうが、頭が整理されると聞いた事があるからだ。暗記物はこれにプラス『書く』『見る』も加える。
「あなたに私の力は届いている? やっぱり水属性っていうのに結び付けられてないのよね? ……まさかこの霧に混ざって見えない程の、きめ細かなシャワーが出せてるってことは無いわよね!?」
タイミング良く朝露が葉を伝い、花が肯首するように揺れた。
「……そうよね。それは期待しすぎよね」
しばらく草花相手に独り言を呟いていたら、朝の早い庭師が現れたので、真結は「おはよう」と声をかけた。
侍女や従者、執事たちとは違い、下級使用人とは必要最低限しか貴族は口をきかないものだと教わっていたが、最近彼とはよく顔を合わせるので、貴族でもなく身分制度など気にしない一般人の真結は会話を交わすようになった。
だがここで暮らす際の常識の一つとしてそれを教えられたので、話しかける時は分別が無く品も無い娘が屋敷の主の客人だと面目を潰さないよう、はしたないと思われない程度には配慮している。
「お早うございます、お嬢様。今日もお早いことで」
素朴で誠実そうな年配の男性だ。
初めて真結が話しかけた時はおっかなびっくり膝まづかれてしまったが、今では彼もこの時間だけはと割り切ってくれているようだ。
「今朝も早く目が覚めたものだから。けれど、あなた達は毎日夜も明けないうちから仕事でしょう? 大変じゃない?」
「とんでもねぇ。そのぶんわしらは寝るのも早いもんで。ですがお嬢様、時々わしらよりも早起きで来なさってるようだが、ちゃんと眠れてますかい?」
「まぁ、ご存知でしたの? でも心配いらないわ。有難う」
屋敷の主の客人、弟子という立場なので、真結は一応お嬢様ぶった物腰で話す。
庭師は人好きのする笑顔で「あんまり無理をするもんじゃねぇですよ」と顎髭をさすると、慈しむように草花に手を入れ始めた。虫を取ったり花殻を摘んだり。
ここは華やかで計算され尽くした造形美の主庭とは違って、自然に溶け込むような形で花々が植えられている。その雰囲気を生かすためあまり剪定していないのか、特に日当たりが良いのか、植物の成長が著しいようだ。それとも繁殖力の強い種なのだろうか。
「この子達はとても元気ね」
「お嬢様のおかげですな。先ほどみてぇに、よく気にかけて下さってますから」
花相手の独り言をしばしば目撃されているようだ。優しくたくさん話しかけられた植物は成長が早いという。庭師もその事を言っているのだろう。といっても、真結の魔法の練習では花たちも煩く思っているかもしれない。
「そうかしら? あんな事でそれ程変わるものなの?」
「へい、この子達も喜んでますわ。有難い事です。お嬢様のお力の賜物ですなぁ」
そこまで言われる程の事ではないが、人の良い彼の少し大げさなお世辞なのだろう。貴族だと思われているので、そう接されるのも仕方ないのかもしれない。
「これからお散歩ですかい?」
自主練習の後は時々歩いて回っているが、もちろん庭師もそれを知っている。そして今日は何処の庭の何の花が咲きましたよ、あの庭の花を入れ替えてみましたので気が向いたらご覧下さい、など広大な敷地内のお勧め散歩道を教えてくれる。
「ええ、そうね。霧もだいぶ晴れてきたことだし、少し散策するわ」
「でしたらここから西の小さな薔薇園がちょうど見頃を迎え始めたんで、行ってみると良いです」
あまり花には詳しくないが、流石に薔薇は知っている。
「いつも素敵な散歩道を教えてくれて有難う。今日はそちらへ足を運んでみるわね」
艶やかな赤い色を思い浮かべながら、礼を述べてさっそく向かうことにする。見るときの楽しみを取っておいてくれてるのだろう、彼はいつも多くは語らないが、真結は毎回訪れたお勧めの光景に癒され清々しい気持ちになれる。
とりあえず道なりに真っ直ぐ行って、適当な所で左に曲がりましょう。
足取りも軽く真結は薔薇園へ歩みを向けた。薄霧の中の幻想的な庭も綺麗だが、見渡せる程度には霧も晴れてきているので朝露に濡れた草花が所々きらめいていて美しい。
屋敷の表は草原や小川などがあり開けているが、裏はちょっとした森林がある。そこから偶に霧が押し寄せてくるのだが、真結がしばらく歩いているといつの間にかまたその密度が濃くなってきた。風の流れが変わったのだろうか?
「あら? 何の音かしら?」
視界が薄らと白いので、のんびり気ままに足を運ぶペースを落としていたら、ひゅっと風を切るような音が聞こえてくる。
等間隔に聞こえたかと思えば不規則に鳴るそれは、真結のいる場所からそう遠くないとは思うのだが、音源を探して歩いてみようにも霧が濃いせいか見知った屋敷周りの庭とは知らない風景に見えてちょっと怖気づいてきたので、部屋へ戻ることにした。
今朝はもう充分歩いたし、せっかく勧めてもらったけど薔薇園は明日の楽しみにしましょう。
「えーっと、たぶんこっちよね?」
霧が流れていく方へと足を進める。音も聞こえなくなったので、元来た道に近づいているはずだ。歩いていたら視界も開けてきて手入れされた庭の様子も見えるようになったので、ほっと胸を撫で下ろす。だが「おい」と急に声をかけられて小さく飛び跳ねてしまった。
お、驚いたわ。
まるで小心者みたいで情けないじゃない。
……いえいえ、やっぱり急に気配もなく声をかける方が悪いわね。
「お前、こんな所で何をしている?」
振り返れば、訝しげに目を細めたルーチェが佇んでいた。あまりにもお馴染みのその表情に、頬を引っ張りたくなる。強制的に笑わせてみようか。
「何って、朝の散歩だけれど」
「こんな早朝に?」
そう胡乱に見られるほど、もうそんなに早い時間ではないはずだ。お嬢様方は、たいてい朝に弱いものなのだろうか?
「朝早くても良いでしょう? じゃあ、私は部屋へ戻るから」
真結はさっさと切り上げてしまおうと背を翻した。
だがルーチェはまだ何か言い足りなかったようで、真結の腕をぐっと掴んで引き止める。
「……サラはどうした?」
「私一人よ?」
見て分からないの? と眉を寄せて言ってやりたかったが、あまり彼を刺激したくない真結はとりあえず外面良く口角だけ上げて笑顔らしきものをつくる。
「供をつけろ。一人で出歩くな」
「でも私の我侭で朝早くから起こすなんて可哀相じゃない」
これくらい良いじゃないかと真結は抗議したかったが、曖昧な苦笑という形をとって濁す。
「それが仕事だ。そんな事はお前が気にすることじゃない」
それも仕事だと言われればそれまでだ。手厳しい。気遣ってあげたいという思いやりを持つのは間違っていないと思うのだが、ここでの生活は真結の感覚と離れたことが当然であったりもする。
「そういうあなたこそ、こんな所でどうしたの?」
もうこの話はお終いとばかりに質問を返したら、ルーチェはふんっと鼻で笑った。
ただでさえ身長差で見下ろされているというのに、そんな態度をとられたら見下されている気持ちになる。……のを通り越して、最近では「子どもだなぁ」と思うことにしている。
「不信人物が朝早くからうろうろしているのが見えたからな。捕獲に来た」
なんて嫌味な奴。
真結は無視することにした。回れ右をして彼から離れる。
おおかた彼は真結が逃亡を図ったとでも思っているのだろう。そんなこと有り得ないのにこの霧の中わざわざご苦労なことだ。
例え真結がこの屋敷から逃げ出したとしても、今はまだその先で生きて行く術がない。仮に企むとしても時期尚早であるし、そもそも師でもあり保護者でもあるコーディアスの恩を忘れて勝手に屋敷を出るはずがないではないか。
「おい、どこへ行く?」
だが彼はなおも問い詰めてくる。
「だから、部屋へ戻るって言ったでしょう?」
全く今朝は常になくよく絡んでくるなと真結は渋々足を止めた。
「……お前、本気か?」
見飽きた疑わしそうな眼差しは、今朝は戸惑っているようにも見えて、真結は「さっきも言ったでしょ!」という言葉を飲み込む。だが彼も「さっきも」思ったらしい。そう呟いて、真結の進行方向とは逆の道を指差して続ける。
「お前の部屋は、こっちだ」
あら? そうだったかしら??
西の薔薇園に行くために左に曲がったので、右に行けば良いと思ったのだがどういうことだろう。
真結はきょとんと首をかしげて口を引き結んでいるルーチェを見上げた。
そうか! 霧で方向感覚がおかしくなっちゃったのね!
手をぽんと打って納得すると、くるっと方向転換する。
「さっ、行くわよ」
いつの間にかルーチェをお供にすることにし、彼が珍しくも紳士的に道を先にゆっくりと歩いてくれたので、真結はよくやく霧が晴れてきらきら輝く庭に目を取られつつ部屋に戻ったのだった。