第二話
陽が傾き始めました。
木造の建物の一室で、衣袴を身にまとった男たちが、顔に陰を作りながら、じっと黙りこくっています。
昼前に始まった話し合いは、夕刻に迫ろうというこの時分になっても終わる気配を見せません。話し合いの前は明るかった部屋の中も、徐々に暗みを帯び出してきています。
普段なら、このあたりで解散でした。
たとえば、何年か前、皆既日食という現象が起きた時、西の人々はこれをたいそう不吉に思い、不気味に思い、ここはひとつ皆で協力して何か大掛かりな儀式でも行うべきではないか、と議題を出しました。
けれども、そんな時であっても、国長たちは何ひとつとして決めることができません。結局、「もうそれぞれの国が勝手に儀式でも何でもすればよいでしょう」と解散してしまったのです。
しかし、今回ばかりはそうはいきません。誰も彼もが勝手にしていれば、西の国々は東に滅ぼされてしまいます。
ですが、その一方で、話し合いの場ではできるだけ目立たないようにしなければならないという習慣は、国長たちの身と心にすっかり染みついてしまっています。いざ口を開こうとしても、注目されてはいけないという意識が強く働き、何も言葉が出てこないのです。
中には「俺は違う」と思っている者もいました。特に若い国長たちの中には「話し合いの場では俺ががつんと言ってやる」などと血気盛んな者もいました。
けれども、そんな彼らも、いざ話し合いが始まってしまうと、やはり注目を浴びてはいけないという従来の意識に引きずられ、何も言うことができなかったのです。
誰かが何かを言わなければいけないのはわかっている。けれども、誰も何も言えずにいる。そんな状態が、もう長いこと続いていました。
外はいつしか雨が降り始めています。
先ほどまで、国長の一人がぎこちなく「雨が降ってきましたなあ」などと言っていましたが、それも今は途切れています。
暗く沈んだ雰囲気の漂う静かな部屋に、ざあざあという雨音だけが響いています。
その時です。みしり、と小さな音がしました。
「誰だ!」
国長の一人が声をあげました。
見ると、戸口のところに女の子が一人、立っています。
年のころは六、七歳ほどでしょうか。
貧しい村娘のようで、ざんばら髪に、足は裸足、体には布に穴を開けて頭からかぶっただけの粗末な服を着ています。雨宿りの場所を探していたのか、髪は濡れ、服の裾からはぽたぽたと滴が落ちています。表情は暗い雰囲気に覆われ、口は閉じられ、ただ黙ってじっとしています。
声をあげた国長は、女の子を追い出そうと口を開きました。
「出ていけ!」
そう言おうとしました。
別段、難しいことではありません。ただ声を張り上げるだけです。いつも民に対してやっていることです。
ところが、どうしたことでしょう。おかしなことに、何も言葉が出てきません。
彼だけではありません。彼以外にも女の子を追い出そうとした国長は何人かいました。ですが、皆同じです。言葉が出てこないのです。
原因は女の子の持つ雰囲気にありました。
ただそこにいるだけで気にせずにはいられない人、というのを見たことがあるでしょうか。
滅多にいるものではありません。一生見ることがないままに終わることもめずらしくありません。
が、一度出会えば、その印象は深く残ります。
目立つ外見をしているというわけではありません。何か特別なことをしゃべっているわけでも、変わった動きをしているというわけでもありません。
ただそこにじっとしているだけ。それだけです。
なのに、どうしてだか気になって仕方がない。視線をそらしても、なぜだかまたついつい目で追ってしまう。理由はわからないけれども、ともかく周りの人間をそういう風にしてしまう。
そんな人物です。
女の子はまさにそのような雰囲気を持っていました。それもはっきりと強くです。
身なりはただの村娘です。顔立ちは歳相応に可愛らしいものでしたが、貧しい暮らしのせいか、やせており、全体として薄汚れたところさえあります。表情は国長たちの心情を映し出すかのごとく暗く、口元は閉じられていて、何もしゃべろうとしません。
であるのに国長たちは皆、女の子の雰囲気にわけもわからず気押されてしまい、目を離すことも、言葉を発することもできなかったのです。
「くしゅん」
音がしました。身体が濡れていて寒かったからでしょうか。女の子がくしゃみをしました。
国長たちは一斉に、はっとしました。
「わ、童女よ。ここはお前のような者の来るところではない。で、出ていけ!」
兵法殿と呼ばれている国長が、慌てて言いました。
彼は三十代後半の、体の細い神経質そうな男でした。先祖代々伝わる大陸伝来の軍略書を片言ながらも読めることが何よりの自慢という人物です。西の国々は大陸に近いので、東の国々にはない書物というものがわずかながらにありました。彼はことあるごとにそのことを自慢します。それがあまりにもしつこいので「よほど兵法がお得意なのですなあ」という半ば皮肉を込めて、兵法殿という大陸風の呼称がつけられていました。
もっとも、本名ではなく通称で呼ばれるのは、兵法殿に限った話ではありません。西の国々では、とりわけ身分の高い人ほど本名で呼ばれることを忌避し、肩書や通称、通り名といったもので呼ばれるのが慣習だったのです。
「さあ、早く出ていけ!」
国長という身分でありながら、ただ一人の女の子相手に声すら出せなかったのが恥ずかしかったからでしょうか。兵法殿はことさらに強い口調で言いました。
「まあまあ」
そんな兵法殿の言葉に対し、異議を唱えた国長がいました。若長と呼ばれている青年です。
「童女一人くらい、よいではないですか」
若長というのは、西の国長たちの中で最年少の国長に代々冠される呼称です。若いといっても結婚はしており、幼い娘も一人いるのですが、それでもまだ十分に若いと言える歳です。経験に裏付けられた自信というものがまださほどないせいか、他の国長たちほど自尊心も嫉妬心も強くなく、国長たちの中ではめずらしく謙虚であると見られている人物です。
けれども、この時の若長はやや平素と異なる心境になっており、兵法殿に対して何かしら反対の意を表したいという気分になっていました。
理由は三つあります。
第一に、若長は兵法殿が苦手でした。兵法殿は特に最年少の若長に対し、ことあるごとにものを教えてやるという態度を取ります。ですので、たまには一言言ってやりたいという気持ちがありました。
第二に、先ほどまで何も発言できずにいた自分に対し、恥ずかしいという気持ちがありました。彼もまた「話し合いの場では俺が一言言ってやる」と思っていながら結局何も言うことができなかった、そんな国長の一人でした。その反動から、誰でもいいから何かしら意見を言ってやりたい、という気持ちがあったのです。
そして何より、女の子は彼の娘と同年代でした。可愛い盛りの年頃です。そんな女の子を雨の中放り出すのは忍びないという気持ちが働いたのです。
「しかしですな、若長……」
兵法殿が何か言おうとします。
若長は他の国長たちのほうを向いて、言いました。
「どうでしょう。雨がやむまでの間、童女をここに置いてやってはいかがでしょうか」
普段ならこのような提案は却下されていたことでしょう。大事な話し合いの場に、童女を同席させるなどふざけているのか、とたしなめるような声が上がっていたことでしょう。
しかし、この時、国長たちは誰も彼もが疲れていました。互いのむさくるしい顔を長いこと黙りこくったままにらみ合っていたため、嫌になっていたのです。これを機会に従人らに童女の世話をさせるなどして、一息入れたいという心境になっていました。
「よいのではないですかな」
国長の一人がそう言うと、連鎖的に他の国長たちも、ほっとしたような顔で次々と同意します。最後は兵法殿も渋々といった様子でうなずきました。
すると、どうでしょう。
皆の安心した気持ちが伝わったのか、女の子もまたすぐに、ほっとした顔をしたのです。
それまでずっと暗く沈んだような顔をしていた女の子が初めて見せた、明るい表情でした。
そんな女の子の様子を見て、若長をはじめとした幼い子を持つ国長たちは思いました。
ああ、うちの子もこんなだ、と。
幼い子供というのは、周りの大人たちが楽しげにしていると、意味もわからず一緒になって笑うことが時折あります。逆に大人たちが険悪な雰囲気になっていれば、同じように不機嫌そうな顔になることだってあります。
大人たちの気持ちを理解しているわけではありません。ただ彼らの感情や、あるいは感情から醸し出される雰囲気が乗り移ってしまい、そんな表情になってしまう時があるのです。
ただ、それにしては、女の子の表情の変化は、他の子に比べ、異常なほどに鋭敏なものでした。国長たちがほっとした雰囲気を醸し出すのと、女の子がほっとした表情を見せたのは、ほぼ同時だったのです。普通は、そこまですばやく、かつはっきりとした反応をするものではありません。
が、そのことを深く気にする者は誰もいません。
国長たちはただ、女の子の様子を見て、うちの子と同じところもあるのだなあ、と安心した気持ちになりました。先ほどまで不思議な雰囲気に気押されていた分、彼らは落ち着いた心持ちを得たかったのです。
その独特の雰囲気だけでも、実のところ不気味であるというのに、これ以上女の子に普通と異なる点があるなどと察したくはありませんでしたし、思いたくもなかったのです。
そうして安心したところで、彼らは女の子を濡れたまま放っておくわけにはいかないことに気がつきます。若長が従人らを呼び、濡れた女の子の身体をふかせます。また、ある国長は小さな敷物を用意させて、女の子が座るための場所を用意してやります。
よくよく考えてみれば、何もこの部屋にいさせなくても、どこか別室で休ませてやればよいのではないか、と思った者も中にはいました。
けれども、若長らの満足げな様子を見ると、今になって異議を唱えることもためらわれます。ためらいが生じれば、この程度のことをわざわざ言うこともなかろう、という心境に傾きます。
こうして、女の子は話し合いの場に同席することになったのです。
2012/8/17 新規投稿
2012/8/18 改行・空行の付け方を修正
2012/8/19 誤字修正