第一話
昔々、今から二千年近くも前のことです。
島はまだ一つの政権のもとに統一されておらず、数十もの小さな国々が東西二つの国家連合に分かれてにらみ合っていました。
両者の仲は、険悪としか言いようがないものでした。
互いに相手のことを野蛮だと言ってののりしり合います。交流はほとんどありません。唯一の交わりは、東西の境で軍同士が小競り合いを起こすことくらいです。
こんなにも彼らの仲が悪いのにはわけがあります。
文化が違うからです。
東の国々では、海を越えた先にある大陸北部の寒い地方から移住してきた人たちが多く、また西の国々では、大陸の南の暖かい地方から移住してきた人たちが大勢いました。
出身が違えば、習慣も風習も異なります。
たとえば東の国々では馬が多く、生活の一部として馴染み深いものとなっていましたが、西では野生の種がわずかばかりに生息している程度でした。西の人たちからすれば「東の連中は気味の悪い動物を手なづけている。野蛮だ!」ということになります。
また西の国々の人たちは、人は不幸な死に方をすると怨霊になって祟りをもたらすと強く恐れており、魂を鎮める儀式というものを盛んに行っていました。けれども東にはそんな風習はありません。「西のやつらは死にまつわる怪しげな儀式をしている。野蛮だ!」という風にしか映りません。
そういった様々な文化の違いが、あいつらは自分たちとは違う不気味な連中だ、という感情を生みます。種々のいさかいを生み出します。いさかいは、時として武力を用いた衝突へと発展します。
いつしか東と西の境では、毎年のように小競り合いをするのが当たり前になっていました。
そんなある時のことです。
東側の国長の一人が、いつもの小競り合いのさなか、流れ矢に当たって討ち死にしてしまいました。
国長とは国を治めている人で、王さまのようなものです。武器を手にして、自国の軍を率いる役目も帯びていることから、通常は成人した男がなります。
その一人が戦場で死んでしまったのです。
東側はこれをよい機会だと考えました。
彼らは野心的であり、常々、西の国々を征服したいと考えていたのです。「卑怯な手で討ち取られた国長殿の仇を取ろう!」という呼びかけのもと、東の国長たちは立ち上がりました。
別に討ち死にした国長は卑怯な手でやられたわけではないのですが、呼びかけとはそういうものです。
一方、西の国々もそんなことをされれば黙ってはいられません。
何もしないでいれば、東に滅ぼされてしまいます。かといって、今さら降伏したとしても、東の人達が寛大な処置を取ってくれるという保証もありません。
こちらも国々を挙げて戦に臨むことを決意しました。
こうして東西両勢力が、総力でもってぶつかり合うこととなりました。
島を二分する大戦の始まりです。
東の国々は、本王を中心に戦の準備を始めました。
本王とは、東で一番偉い人です。島の東側には群を抜いて広い平野があります。本王は、そこを治めている国長です。歳の頃は三十代半ば、ひげで顔が覆われた強面です。
国長なのにどうして本王と呼ばれているかというと、彼自身がそう呼称しているからです。彼の国は、東の他のどの国よりも大きかったので、「本当に偉いのは、王であるこのわしだ」という気持ちを込めて、自らを本王と名乗っていたのです。
本王は誰よりもたくさんの兵を持っていました。ですから、東の国長たちは誰も彼に逆らったりはしません。下手に逆らうと、自分の国が滅ぼされてしまうからです。
そもそも今回の大戦にしても、実のところ、本王の意向で始められたようなものでした。東側が野心的だと先ほど言いましたが、正確には本王が野心的なのです。彼が西への征服欲を抱き、討ち死にした国長の仇を取ろうと言い出したことから、戦が始まったのです。
必然、西との戦い方を決める場でも、本王が主導権を握ることとなります。本王が一人で作戦を始めとした戦に関わる物事を決め、他の国長たちは「はい、わかりました」とうなずくのです。
それが東側のありようでした。
一方、西の国々には、本王のような一番偉いと言える人物はいませんでした。
西側は、まとまった広さを持つ平野や盆地というものがなく、どの国も群を抜いて大きいというわけではなかったからです。誰かが「俺の言うことを聞け」と言っても、東の本王と違ってたくさんの兵を持っているわけではないので怖くありません。逆に「なぜお前の言うことなど聞かなければならないのだ」と反発されてしまうでしょう。
ですから、西では、国々全体にかかわるような大きな物事を決める時は、話し合いの場で採決されるのが習わしとなっていました。どこか交通の便のよい集まりやすい場所に、国長たちが顔をそろえ、輪を囲んで話し合うのです。
今回の東との大戦でも、その習慣は踏襲されました。どうやって東と戦うかを決める話し合いの場が設けられたのです。
西の国々の命運を決める大事な場です。
ところがどうでしょう。
いざ始まってみると困ったことが起こりました。
話し合いの場だというのに、誰ひとりとして意見を言おうとしないのです。皆が皆、黙りこくったまま、気まずそうにうつむいています。
いったい何があったのでしょうか。
実はこれ、今回に限った話ではないのです。
西でしばしばおこなわれているこの話し合い、まともに提案なり意見なりが出されたことが、ここ数十年のあいだ一度もないのです。
なぜ誰も意見を言おうとしないのでしょうか。
理由は二つあります。
第一に、何か提案してそれが採用されたとして、その案を実行した結果、もし失敗したとしたら、提案した人の責任になってしまいます。なぜなら、国長たちは皆、自分と同じくらいの力を持つ他の国長たちの存在を、大なり小なりめざわりに思っているからです。
おそらく、自分の国では誰もがぺこぺこしてくれて「俺はこの世で一番偉いのだ」という気分になれるのに、外に出ると他にも国長と称する者が大勢いて、彼らはぺこぺこしてこないという、そのあたりの事情が影響しているのでしょう。
東の本王のように圧倒的に強い国長がいれば、素直に従おうという気持ちにもなれるのでしょうが、そんな人物はどこにもいません。皆、心の底では「俺は、本当はあいつらより上なのだ」という気持ちを持っているのです。
目立つ失敗なんてしようものなら、ここぞとばかりに責任を取れという話になります。意見を言った国長は、作物をよこせ、領土をよこせ、とよってたかって叩かれてしまうでしょう。
第二に、もし成功したとしても、今度は嫉妬されてしまいます。
「ただ意見を言っただけのくせに、偉そうな男だ」などと、陰口を叩かれてしまいます。自分以外の国長が功績を上げたことが気に入らないのです。「俺は責任を覚悟で意見を言ったのだ。お前たちはただ黙っていただけではないか」などと主張しても、自分に都合の悪い話なんて誰も耳を貸しません。
結局、意見を言った国長は、長年に渡ってことあるごとに他の国長たちから因縁や難癖をつけられてしまいます。
実際、話し合いの習慣が始まったばかりの頃は、積極的に意見が交わされたものだったのですが、そのたびに目立った人物が叩かれてしまいました。
何か意見を言って、失敗すれば文句を言われて叩かれ、成功すれば嫉妬されて叩かれる。そんなことが繰り返されてきたのです。
これでは誰も何も提案しようとはしません。
いつしか話し合いの場とは、一同が一様に押し黙って、結論を出さずにやり過ごす場となってしまいました。
正確には、じっと押し黙っているのも体裁が悪いと思うのか、「最近はいかがですか?」「まあ、それなりですなあ」などと当たりさわりのない会話は、時折かわされます。
西の国長たちの常として、万が一にも目立たぬよう、角が立たぬよう、互いの年齢や立場にかかわらず、表面上は丁寧な言葉づかいでかわされます。
が、それだけです。
肝心なことについては何も話しません。
今回の東との戦についての話し合いも、そういった理由で皆が皆、黙りこくってしまったのです。
2012/8/16 新規投稿
2012/8/18 改行・空行の付け方を修正