最終話
西の人々は団結しました。彼らは見えない女の子が見えるという点で、心がひとつでした。
客観的に見れば、それは女の子を神として祭りあげた宗教なのかもしれません。あるいは宗教とは呼べず、風習や習慣の類なのかもしれません。少なくとも、女の子を絶対視しているという点において、ある種の信仰に近いと言えるでしょう。信仰という言葉の意味を、後世の科学信仰や近代信仰のように、何かを絶対的なものと見なすこと、と定義するならば、間違いなく信仰です。けれども西の人たちからしてみれば、そのような意味づけなどどうでもよいことでした。
人々は国長から身分の低い者に至るまで、常日頃から女の子を気にしています。
西の者が二人以上集まって何かをする時、そこには常に女の子がいます。目には見えず、あるのは空気ばかりなのですが、西の人たちから見れば、確かにそこにいるのです。
女の子に対して逆らうことは許されません。どのような論理も正義も、女の子には通用しません。もし逆らおうものなら「童女殿の表情を読め!」と叱責の言葉が飛んできます。理屈や倫理を超越した絶対的な何かがそこにはあるのです。
とはいえ、西の人々にとって、女の子は決して理不尽な存在というわけではありません。
女の子の顔色に沿う限り、自由に発言し、また行動を取ることができるからです。責任を気にする必要もありません。彼らはただ「童女殿の表情を読んだだけ」だからです。
何か問題が起きたとしても同じです。「皆、童女殿の顔色に従っただけ」であり、「誰も悪くない」からです。表向きは何か非難されることはあっても、いつのまにか誰も大して責任を取らないまま、なあなあで済んでしまうのです。
強いて責を求めるとしたら、それは女の子に対してでしょう。童女殿があんな顔をしていたから悪いんだ、というわけです。けれども、人々はもう、女の子に対して何もすることはできません。罰することも、裁くことも、何ひとつとしてできません。西の人たちにとって、責任とは追求しても仕方のないことなのです。責任の所在を明らかにすべきだ、などと言われても困ります。彼らにとって悪いのは目に見えない女の子であり、誰も自分に本当の意味での責があるとは思っていないからです。
これらの事実が、西からみて「よいこと」であったのかはわかりません。
少なくとも、悪いことばかりではなかったのは確かです。東の本王という共通の敵に対し、真っ当な恐怖と現実的な危機感を共有しているうちは、彼らは女の子の顔色のもと、一致団結し、互いに協力し合ったからです。
秋になり、東との大戦が再開されました。
西は流行り病や大雪のおかげでおおいに戦力が落ちていましたが、病は東にも伝染しており、その点において条件はさほど異なりませんでした。
兵法殿の国では、吹雪の中行方不明になった長男の代わりに次男が後を継いでいました。彼は兵法殿ほど書物に通じているわけではなく、それゆえ西の国長たちにはこれといった秘策があったわけではありませんでしたが、彼らは粘り強く戦いました。
東の本王は、西の軍の不思議な一体感にとまどい、不気味なものすら感じました。本王は様々な作戦を駆使しましたが、どれ一つとして決定的な効果を上げることはありませんでした。西の軍は去年のように軽々しく動くことはなく、それゆえ簡単に罠にかかることもなかったからです。
その年、西の国々は、勝ちこそしなかったものの、大きく負けることもありませんでした。
大戦は、翌年も、翌々年も繰り広げられました。
十年が経ち、二十年が経ち、幾度か休止期間を挟みつつも、その間ずっと戦は続けられました。両陣営はその期間、どちらが大勝ちすることも大負けすることもなく、均衡を保ち続けてきました。
均衡が崩れたのは、老いた東の本王が病に倒れ、死んでしまった時のことです。東の国々は後継者を巡ってばらばらになってしまいました。西の国長たちは、今こそ長かった戦を終わらせる時だと考え、東の国々に一挙に攻め込みます。指揮系統のまとまっていない東の軍は、西の軍の前にあえなく敗れ、東の国々はここに滅ぼされました。
西の国長たちは祝杯をあげました。
その中には、もはや最年少ではなくなってしまったかつての若長もいました。彼は戦利品である東の本王の遺品を眺め、何やら感慨深いものを感じました。ふと周りを見回すと、女の子のことを知らない世代の国長たちが、すでに場の過半を占めています。
けれども、彼らもまた女の子の表情を読むことができます。子は親を見て育ち、親の考え方というものを真似するものだからです。一朝一夕というわけにはいきません。長い時間をかけて、見よう見真似で、あるいはしつけという形で、じわじわと少しずつ身につけていくものです。が、それゆえ、一度身体に染み込めば忘れることはありません。土着の信仰や風習というものが、誰の手に記録されずとも自然と受け継がれていくのは、そういった理由があるからです。
かつての若長は、そっと一息をつくと、国長たちのほうを向き、こう言いました。
「こよいはめでたい日、一晩中飲み明かしましょうぞ」
国長たちは、女の子の表情を見ました。女の子は笑っていました。
「ぜひ!」
彼らは声をそろえて言いました。
数十年の歳月が流れました。
かつての若長は老いて死に、女の子を知る人々も、ほとんど皆、死んでしまいました。女の子自身の存在も忘れ去られようとしています。
けれども、見えない何かを崇める信仰だけは残りました。それは、西の人々の心の内だけのことではありません。東の人々もです。彼らもまた、新たな支配層として移住してきた西の人々に取り入れられ、数十年の時を共に過ごしているうちに、同じ信仰に染まっていったのです。
人々は、自分たちがなぜ見えない何かをこんなにも気にするのか、わかりません。そもそも何を気にしているのかすら、わかっていません。
その何かは、その場にいる皆の気持ちや心情を映し出しています。人々はそれを読み取り、自身の言動に反映します。が、それが元々何であったのか、なぜこんなにも、道理や人倫すら通じないと思えるほど、逆らえない気持ちになるのかはわかりません。
やがて、その何かは空気と呼ばれるようになりました。他に呼びようがなかったからです。
その頃、再び大きな戦が起こりました。
今度は西の国同士の戦です。
島全体を支配した西の国長たちは、初めのうちこそ、無難な関係を保っていましたが、東の本王という共通の敵がいなくなってしまったからでしょう。次第に露骨な敵意をぶつけ合うようになっていきました。もとより決して仲がいいとは言えない間柄であった以上、それはある種必然であったのかもしれません。それでも、本王を共に倒したという仲間意識をそれなりに持つ世代が国長であるうちは何とかなりました。しかし、彼らが老いて死に、その子の世代になると、もはや遠慮がなくなります。とうとうある時、戦が勃発してしまったのです。
長い争いの末、戦は終結しました。
たくさんの国が滅んでゆきました。かつての若長の国はもうありません。兵法殿の国も、島長の国も消えてしまっています。
残った国はひとつだけでした。島がひとつの政権で統一されたのです。
そして、その頃には、空気への信仰は、もう信仰であることすら意識されなくなっていました。島の人々にとって、空気に逆らわないのは、もはやあまりにも当たり前の習慣になってしまっていたのです。
しかし、意識はされなくとも、信心は受け継がれていきます。
時代が過ぎ、外国から様々な新しい宗教がやってきても、それは変わりません。新しい宗教はどれもこれも、空気を敬うこの島土着の信仰の上に成り立つように作り変えられていったのです。人々は新しい神様を信じる一方で、空気を神様よりも上にあるものとして、無意識のうちに心の中で位置づけていたのです。
近代を迎え、宗教を信じないことが知性の証とされるような時代になっても、信心はなお消えません。
人々は、今でもこう言います。
「空気を読みなさい」
なぜならこの国では、空気が一番偉いからです。
それがこの国の人々の心に受け継がれてきた信仰だからです。
おしまい