第十二話
若長と女の子は二人きりで、自軍の陣から離れた草むらにいました。
国長たちは、それぞれ里の周囲に陣を張っていました。若長の陣も、そのうちのひとつです。
時刻は、夕暮れが近づこうかという頃合です。話し合いが終わってから、すでに陽が傾くほどの時が過ぎています。
少し前まで、二人は一緒に遊んでいました。話し合いが終わって自陣に戻ると、若長は女の子に、外で遊ぼうと言ったのです。女の子は、ぱあっと顔を明るくしました。はやくいこう、いこう、と言いたげに、体をそわそわさせ始めました。もう若長の前にいる時は、娘の前にいる時と同じようでした。
今までの若長であれば、このことはより一層二人の心が近づいたことを示す出来事だと、嬉しい気持ちになっていたことでしょう。
けれども、彼はもはやそれを喜ぶことができません。
若長は先ほどから頭が働いていませんでした。
総大将として一度は死を覚悟しました。その後突然起こった女の子をめぐる処遇を目の当たりにしました。良心的であるはずの自分自身が、本当はどういう人間であるかを理解しました。死罪、という言葉を聞きました。
こうしためまぐるしい事態の変遷と気持ちの変化に、若長はすっかり頭を働かせる力を失ってしまっていました。何か考えてはいます。それにもとづいて行動もしています。けれども、その意味については理解していないのです。
ぼんやりとした意識のまま、若長は女の子と遊びます。二人は追いかけっこをしました。肩車をしました。秋の花をつみました。若長は、自分が何をしているのかよくわかっていませんでしたが、それでも女の子は喜んでくれていました。楽しそうに笑ってくれたのです。
ひとしきり遊ぶと、女の子は疲れたのか、若長の膝の上で眠ってしまいます。すやすやと小さな寝息を立てる寝顔を見ながら、若長はそっとその頭をなでます。
「若長殿……」
若長の脳裏に、兵法殿の言葉が思い起こされます。
話し合いが終わった時のことです。兵法殿がぽつりと若長の名を呼びました。顔には疲労の色がただよっていました。目つきは弱々しく、声には吐息が混じっています。
「どうしましたか」
若長はそう返事をしようと口を開きかけ、声を発しようとして、気づきました。若長を見ているのは兵法殿だけではありません。国長たちがいつのまにか皆、若長に視線を向けているのです。
ああ……。若長は思いました。
彼はそれだけで、自分が何を求められているのかわかってしまいました。
若長は女の子の世話役でした。また彼は今回の戦の総大将であり、本来なら責任を取るべき立場の者でした。けれども先ほどの話し合いで、若長は直接責任を取らなくてよいことが決まりました。であれば、彼は何をすべきでしょうか。
もはや明白でした。
それでも、伝わっていないのかもしれないと思われたのでしょう。国長の一人が、若長が腰に帯びた剣を指して、こう言いました。
「立派な剣ですなあ。さぞかし切れ味もよいでしょう」
若長は黙ってうなずきました。
彼の頭が働くのをやめたのはその時でした。
陽がゆっくりと山の背に向かい始めています。今しばらくすれば、辺りは夕闇になるでしょう。遠くでは、秋の虫の音が、りーんりーんと鳴り響いています。
若長は女の子の寝顔を眺めていました。
やがて膝からおろし、そっと地面に横たえます。手には腰から抜かれた剣が握られています。
心が何か叫んでいますが、聞こえません。
膝立ちになり、大きく息を吸い、吐きます。両手にぐっと力を入れます。
そして、剣を一気に振りかぶりました。
が、それ以上のことができません。手が動きません。腕が働きません。振り下ろすことができないのです。
両の手に一層力を入れます。歯を食いしばります。
けれども、両腕は頭上高く上がったままです。
眼下では女の子がすやすやと寝息を立てています。時折、ううん、と声を出します。ちいさなてのひらが何かを探し求めるように動き、若長の服の裾をきゅっとつかみます。
「無理だ……」
若長はつぶやきました。
「このような年端もいかぬ童女に責任を押しつけるなど……いったいどうしてできるというのだ……」
ですが、そう言いながらも、武器を手放すことができません。ぎりぎりとぎりぎりと、今にも振り下ろしそうに力が込められています。口で言っていることと、やっていることがまるで違うのです。自分でも何がしたいのだか、わかりません。わかろうとしても、頭が働きません。彼の中の何かが剣を振り下ろそうとして、何かが食い止めているのですが、それが何なのか、自分は結局どうすればいいのか、何ひとつとして判別がつかないのです。
判別がつかないまま、けれどもやがて、力の均衡が、剣を下ろすほうへと崩れていきます。
ゆっくりと、ゆっくりと下りてゆきます。
その時です。
剣の刀身に陽がきらりと反射しました。
光が女の子の顔に当たります。
「ううん……」
女の子が目を覚ましました。小さな手で目をこすりながら、まぶたを開きます。あどけない瞳に、剣を振り下ろそうとしている若長が映ります。
「ああ……」
若長は声をもらしました。
「ああ……ああ……」
二度、三度ともらしました。
女の子が若長を見ています。平素とは異なる様を見て、だいじょうぶかな、と心配してくれているのが表情からうかがえます。どうしよう、どうしたらいいのかな、と思ってくれていることがわかります。何かを言おうとして口を開き、一つの事実を思い出して表情が暗くなり、けれども代わりに表情と身振り手振りで、どうにか気持ちを伝えようとしてくれます。周囲の大人たちの感情など、みじんも映し出していません。
若長は、それだけでもう何もできなくなりました。剣を手に持っているという事実に耐えられなくなります。地面に投げ捨てます。自由になった両腕で女の子をぎゅっと抱きしめます。
「すまない……すまない……」
若長は謝罪します。今回のことや、これまでのことが、心を駆け巡ります。言葉にこめられます。そうして、何度何度も謝罪します。
止まっていた頭がようやく動き出し始めました。
女の子は最初、どうしたらいいのかよくわからないといった様子でしたが、やがて若長の背中をあやすように、手のひらでそっとなでました。
「……国に帰ろう」
若長は言いました。女の子から一度身体を離し、両肩にそっと手をかけ、まっすぐに目を見つめます。
「そうだ。一度国に帰ろう。国長どもは、なあに、私の話術で適当にごまかせばいい。それにもうすぐ冬だ。あいつらだって戦どころじゃないさ」
そう言って、若長は語り始めました。これから先どうすればいいのかをです。どうやって、自分と女の子と家族が、このさき無事に生きていくことができるのかをです。
女の子は初め、首をかしげていましたが、しだいに若長の話に引き込まれていきます。反応が返ってくると若長も嬉しくなり、それに合わせて、話の内容を子供向けにわかりやすく派手なものへと変えていきます。
物語の中の若長は大活躍でした。戦場では大いに武勲をたてます。敗れた国長たちも、若長の人徳に感激して仲間になります。どんな困難でも、知恵と勇気と仲間を信じる心で次々と乗り越えていきます。
西の国々を統一し、さあいよいよ東の本王との一大決戦です。
若長は語ろうとしました。本王との大戦を物語ろうとしました。
けれども彼は、女の子の瞳を見てしまいました。
女の子は続きを期待しています。どうなるの? どうなるの? とわくわくした面持ちで続きを待っています。
ですが、その瞳には若長が映っています。現実の若長です。大活躍などとてもできそうにない現実世界の若長です。
物語の熱が冷めていくのを感じます。
が、そのことが結果として、若長の背中を押すことになりました。
等身大の自分を見直す一方で、そんな自分でも女の子から期待されていることを認識し、まずはできることからやればいいではないか、という決意をさせたのです。物語ではなく、現実の行動を伴うものにしようと意を決させたのです。
そうだ。若長は思いました。大活躍とまではいかなくても、私にだってできることはあるはずだ。私自身は卑小だし、自分の都合ばかり考えているし、表面ばかりが良心的などうしようもない人間で、それについては何の申し開きもできないが……、しかし今からでも成せることはあるはずだ。であれば、確実にやれるところから始めればいい。まずは童女を、国に無事つれて帰るところからでもいい。そんなことからでもいいんだ。
若長は、よしっ、とうなずきました。「話の続きはまた明日だ」と言いました。急いで出立しようと思ったのです。女の子はちょっとだけ拗ねた顔をしましたが、若長の物語に興奮して疲れてしまったのでしょう。ほどなくしてうつらうつらし始め、そのまま眠ってしまいました。
西の空では夕陽がいよいよ遠くの山の向こうに隠れようとしています。若長は沈みゆく陽をしばらく眺めていましたが、暗くなる前に女の子を連れて帰らなければと思い、視線を地上に戻しました。
目が合いました。
女の子とではありません。国長たちとです。
草むらから少し離れた森の中に、国長たちが大勢いました。彼らの従人らもいました。
まもなく陽が沈もうとしており、辺りは暗くなりつつあるにもかかわらず、異様にくっきりと浮かび上がっています。
ぞくりとしました。
彼らはずっと若長を見ていたのです。
いつからかはわかりません。
けれども、じっと、何も言わず、ただただ若長と女の子を見ていたのです。
結局のところ、西の国長たちは互いを信頼していませんでした。先の戦で、東の本王が攻めてこなかった時と同じです。彼らは口では若長に任せたと言いながらも、どうにも信用しきれず、半ば自然発生的に若長を監視しにきたのです。
ですが、若長にはそんなことはわかりません。彼はひたすらに混乱するばかりです。
なぜ……こんなところにどうして……いったいいつから……。
どうにもならぬ思考が若長の脳裏をぐるぐると駆け巡ります。
頭がまた働かなくなります。
「あ……」
若長の口から、再び声がもれました。先ほどとは明らかに響きが違っていました。
「あ……うあ……」
若長はもはや何がなんだかわかりませんでした。彼は草むらに横たわって寝ている女の子を見ようとします。陽が落ちかけて、よく見えません。姿を思い浮かべようとします。どうしてだか何も出てきません。
代わりに脳裏に浮かんだのは、彼の家族の姿でした。妻と娘でした。若長の頭に、先ほどの話し合いで想像した不吉な未来が思い起こされます。石をぶつけられる二人。泣いている二人。牢の中で動かなくなった二人。それを被害妄想だと言い聞かせる理性は、もはや若長にはありません。
足もとがよろめき、ひざからくずれます。捨てた剣が手に当たります。よくわからないままに柄をつかみます。安らかに寝息を立てている女の子のもとにひざまずきます。両手で剣をにぎりしめ、高く振り上げます。
唇を血が出るほどかみしめます。強く握りしめ過ぎているためか、両手が赤くなってしまっています。
「あ、あ……ああー!」
ひときわ大きな叫び声をあげ、若長は剣を振り下ろしました。
陽が沈みました。




