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第十話

 話し合いから十数日が過ぎました。

 今、若長(わかおさ)は西の総大将として、東の本王(もとぎみ)を待ち構えています。


 もっとも若長には、自分が総大将だという意識はあまりありません。謙遜によるものではなく、事実そうだと思っています。私など実のところ飾り物に過ぎない、というのが若長の偽らざる認識でした。

 彼がそのような認識を持つに至ったのは、女の子の表情に押されて脅迫されたかのように総指揮の任を受けたからというのも原因のひとつですが、もうひとつ決定的な理由がありました。

 話し合いの場で、こんな出来事があったのです。


 若長が総大将に決まってすぐのことです。細い目をした国長(くにおさ)が、突然立ち上がりました。若長にとって、この時までは今ひとつ印象の薄い国長でした。

「皆の者、一体何を考えているのか!」

 彼は立ち上がるやいなや、日頃の丁寧な口調も抜きで、大声で叫びました。

 国長たちは驚きました。いきなりこいつは何を言っているのだろう、と思いました。

兵法殿(へいほうどの)の言う通りではないか!」

 細い目の国長は、周りの様子に構わず、主張を続けます。

「去年と同じ作戦でいいというのは愚の骨頂である。動物を狩る時であっても、同じ手を何度も使えば相手は学習する。まして相手は東の騙王(かたりぎみ)である。同じ手は二度と使えない、と考えるのが当然ではないか!」

 細い目の国長は、国長一同をぐるりと見渡しながら言いました。


 彼の視線は、とりわけ白髪まじりの国長に強く注がれていました。そもそも貴殿が兵法殿の言葉を遮ったり、若長を総大将に推したりするからいけないのだぞ。細い目の国長の目線には、彼のそんな気持ちが込められていました。

 白髪まじりの国長は国長で、言いたいことはあるでしょう。貴殿こそ童女(わらべめ)の表情を読まなかったのか、と。あんな顔をされてしまっては、我らとしてはどうしようもないではないか。である以上、遅かれ早かれこういう流れになっていたのだ。俺はただ話を早くしようと、わざわざ率先して言ってやったのだぞ、と。

 そう言いたかったに違いありません。

 けれども、二人がわかり合うことはありませんでした。

 白髪まじりの国長が、童女を見ろ、と言いたげに女の子を視線で指し示した時も、細い目の国長は気づきませんでした。


 しかし、彼が気づかずとも、女の子の表情は既に険しいものになっています。国長たちも、初めは戸惑った様子でしたが、だんだん露骨に不快気な視線を向けるようになっていきます。

 それでも細い目の国長は話すことをやめません。

「それに総指揮にしたところで、若長が悪いとは言わぬが、ことは国々の命運がかかっておる。騙王相手には万全の態勢を取るべきであろう。ここはやはり経験豊富な島長(しまおさ)殿に兵を預けるべきでは……」


 ああ……。

 若長は心のうちでため息をつきました。

 細い目の国長が何を思って突然このような発言をしたのかはわかりません。ですが、彼の発言はどれもが若長が言いたかったことを代弁してくれているのです。そして、そのどれもが女の子の顔をますます嫌そうなものに変えていくのです。

 自分の代弁者が嫌悪の目を向けられているのを見るのは、若長にとって苦痛でした。

 若長はこの光景を見まいと顔を伏せます。が、すぐさま、国長ともあろうものが何を情けないことを考えているのだ、と我に返り、慌てて面をあげます。

 その時です。若長は女の子が目を閉じていることに気がつきました。どうしたのだろう、と思います。何かあったのだろうか、と思います。疑問を声にしようと、口を開きます。唇を広げ、喉から声を出そうとします。

 けれども若長の動きはそこで止まってしまいました。

 女の子が目を見開き、新たな表情を見せたのです。


 背筋がぞっとしました。

 女の子は見たこともないほどに冷たい表情をしていたのです。それは、これまで見せてきた不快気な顔など比べ物にならないくらい人間味の失われた表情でした。

 ぞっとしたのは国長たちも同じです。彼らは一瞬固まり、それからはっと顔を見合わせます。細い目の国長を目で指し示し、もう一度互いの顔を見て、こくりとうなずきます。

 うなずき終わって顔を上げた時、国長たちの内には、もはや細い目の国長に対しては何をしてもよい、という共通の認識が生まれていました。女の子の冷たい表情が、そうしてもよいと言っているからです。そうしなければいけない、と言っているからです。


「ちょっとよろしいですかな」

 何人かの国長が立ち上がります。同時に、外にいる見張りの者たちに「こっちへ来い」と声をかけます。

「な、なにを? 話はまだ……むぐっ!」

 細い目の国長は口をふさがれ、両手を押さえられました。

「縛り上げて、三日ばかりどこかに放り込んでおけ」

 国長の一人がそう言うと、見張りの者たちは戸惑った顔を見せます。相手は国長だからです。自分たちに命令する立場の者であり、決して逆らってはいけない存在だからです。

「ああ、そうそう」

 別の国長が言います。やはり何かの間違いであったかと、見張りの者たちは期待の目を向けます。国長は言いました。

「飯もやるな。三日くらいなら、水だけでも死にはしないだろう」

 見張りの者たちはもはやどうしていいのかわからず、助けを求めるように周囲を見渡し、そして女の子と目が合いました。彼らは先ほどまでの国長らと同じようにぞっとし、顔を見合わせ、互いに首を縦に振りました。

 本当に逆らってはいけないのが誰であるかを理解したのです。


 若長はもう何も言えなくなってしまいました。自分と考えの近しい者が、国長とは思えぬほど乱暴な扱いを受け、場から引きずり出されるのを目の当たりにしたのです。彼にできることは、時おり国長たちの誰かが了解の返答を求めるのに対し、うなずくばかりです。

 うなずきなら、若長は、同じ総大将と言っても去年の島長とはだいぶ違う、と感じていました。


 若長の感覚は間違っていませんでした。

 去年の島長に対する国長たちの感情を言葉にするなら、きっとこのようなものになっていたことでしょう。

「戦経験の豊富な島長殿に任せましたぞ。我らの命運、お預けします」

 ここで負けたら皆が滅んでしまうというひっぱく感、余裕のなさから生まれるなりふりかまわぬ能力主義、ここまで来たら皆で力を合わせるより他はないという開き直りの気持ち、そういったものがほどよく混ざり合っていました。


 一方、今年の若長に対する感情は、おそらくこうです。

「とりあえず若長が総大将なら、手柄を立ててもどうにかやりこめるから、そうしておこう。それに落ち目の騙王相手なら負けることもあるまい」

 去年の勝利から生まれたどこかしら余裕のある気持ち、東の本王を高く評価することを恥と思う感情、島長と兵法殿がこれ以上手柄をあげすぎては嫌だという嫉妬心、そういったものがどろどろに溶け合っています。


 はたしてこれで勝てるのだろうか。若長の心は、戦の始まる前から、すでに不安で満ちていました。



 そうして気がつくと自身の姿は戦場(いくさば)にあり、西の軍とともに東の本王を待ち構えています。

 陣構えは去年と同じです。両側を山で挟まれた位置に若長の本軍があります。両側の山には別軍が三つ伏せてあります。本王が本軍と対峙している間に、左右そして後ろをふさいで包囲殲滅してしまおうという一年前とまるで変わりのない作戦です。

 斥候が若長のもとにあわただしく駆けてきます。本王の軍が、彼らのいる場所から半日もかからないところを移動中であるとの報を告げます。

「どうやら……今日か明日には戦になりそうですな」

 若長の従人(したがいびと)が言いました。

 従人の声色は平生とは異なり、多分に緊張を含んだものでした。とうとう戦が始まるのだと若長は改めて気を引き締め直します。


 緊迫した時が過ぎていきます。

 そろそろか、と若長が思ったその時です。

 遠くに、ぱっ、ぱっと土煙が見え始めました。

 本軍の構えている先には、広く平原がひろがっています。その地平線のあたりに、土煙を上げる黒いかたまりが見えたのです。かたまりは次第に大きく、またはっきりと人や馬の形となっていきます。もはや明らかです。本王の軍がやってきたのです。

「来たぞ!」

 若長は叫び、全軍に迎撃の体勢を取らせました。

 いよいよ戦だ。血と汗と金属と土埃の混じりあった独特のにおいが鼻の奥にまでつんと突いてくる、あの戦が始まるのだ。そう思うと、全身にぞくぞくとした震えが走ります。


 ところが、まもなくして、若長の意気込みをくじかせるような予想外の出来事が起こりました。

 最初、土煙がぱたりとやみます。

 今まであったものが見えなくなったことで、若長や従人たちは敵を見失ってしまったのかと思い、何度も瞬きをし、あちらこちらを見渡します。すると、東の軍そのものは元の位置にいることに、すぐ気づきます。敵軍は、ただ平原の真ん中でぴたりと止まってしまったのです。


 若長はとまどいます。いったいどうしたことか、と思います。不気味さすら感じます。軍が敵の姿を目にしながら、その手前で突如として止まってしまうなど、若長は聞いたことがありません。後世では珍しくもない戦法ですが、この時代の人間である若長にとっては、わけのわからない行動でしかありません。

「いったいどうしたことか?」

 若長は心のうちの疑問を言葉に発し、周囲に問いかけます。けれども、答えられる者は誰もいません。

「はるばる遠路から行軍してきたのだから、疲れて休んでいるのではないでしょうか」

 従人の一人がそう答えましたが、若長は納得しません。わざわざこちらの見ている目の前で休む必要があるのだろうか。休むならもう少し手前で休息を取ってもよいのではないか。そう思ったからです。

「向こうが来ないのならば、こちらから攻めてしまえばよいのではないでしょうか」

 そのような意見も出ました。

 ですが、東の軍の何を考えているのかわからない不気味な行動と、自分は総大将といってもお飾りに過ぎないという意識が、若長に思い切った決断をさせるのを鈍らせます。迷っているうちに、時間ばかりが過ぎていきます。


 夜になりました。

 東の軍は動きません。

 暗闇に乗じて襲撃があるかもしれない。若長はそう考え、かがり火を焚かせ、兵たちにも臨戦態勢を取らせ続けました。

 一晩待っても、本王は来ませんでした。



 朝になりました。

 兵たちは緊張を強いられ続けたせいか、疲労の色が濃くなっています。手に持つ弓や矛も、戦うための武器というより、単なる重い荷物のような格好になってきています。


 若長はいらいらしてきました。けれども、それ以上に不安を感じていました。頭の中に疑問が次々と浮かび上がってきます。いったい本王は何を考えているのだろうか。去年のことを思い出して警戒しているのだろうか。それとも何か罠があるのだろうか。といって、このまま兵たちに臨戦態勢を取らせ続けては、戦う前から疲れ果ててしまう。一体どうしたらいいのだろうか。

 若長は悩みます。自問自答します。答えは出ません。


 そこへ来訪者を告げる報告が上がってきます。本軍にいる国長たちがやってきたのです。彼らは自国の軍を率いて若長の指揮下、本陣に布陣していました。が、東の軍が目に見える位置まで来ているというのに、戦は一向に始まりません。

 不安を感じたのでしょう。また、しびれをきらしたのかもしれません。若長と話をしにきたのです。

 さらによく見ると、国長といっても、本軍の者ばかりではありません。左右の山に伏兵として潜んでいるはずの別陣の指揮官である国長たちまでもが、何人かやってきたのです。

 若長は驚きました。今は戦の最中です。軍はどうしたのですかと問うと、従人に任せましたと返事が返ってきます。いま騙王に攻められたらどうするのですかと問うと、その騙王が来ないからこうして話し合いにやって来たのです、と言います。

 若長は結局のところ、自分は総大将として信用されていないのだと理解しました。だからこそ作戦外の出来事や、予想しなかった事態が起こると、若長に任せようとはせず、意見を言いにやってくるのです。

 とはいえ来てしまったものは仕方がありません。さっさと話し合いを済ませて、自陣に帰って頂こう。若長はそう判断しました。


 こうして、臨時の話し合いの席が設けられました。国長たちのおよそ半分近くが顔をそろえた格好です。

 後方から女の子も呼び寄せられています。若長は初め、呼び寄せることに難色を示しました。女の子のぞっとする顔を思い出したからです。ですが、断り切ることができません。どのみち女の子抜きではまともな話し合いはできないのです。


 話し合い自体はあっけなく終わりました。

 ここはもう攻めるしかないでしょう。東の騙王はぶるぶる震えて怖がっています。あやつはもはや自ら前に出ることもできない臆病者に過ぎません。ただちに全軍で一気に攻めましょう。

 そのような意見が多数出ました。女の子の表情を読めば、東の本王を見くびる発言しかできないからです。

 誰も反対する者はいませんでした。細い目の国長のことを思い出したからです。

 最後に白髪混じりの国長が、ではそういうことと致しましょうと言い、それで話はまとまってしまいました。


 無論、若長を初めとして、もう少し警戒すべきではないか、そもそも当初の作戦が崩れた以上は行き当たりばったりでいくのは危険ではないか、といった意見を持つ国長も少なくありませんでした。

 むしろ理性ではそのように考えている国長のほうが多かったのかもしれません。

 ですが、彼らは何も言うことができませんでした。言ってしまった時、はたして女の子がどのような顔をするか。その結果、皆がどのような反応を示すのか。実際にそれをやった細い目の国長がどうなってしまったのか。それを思うと何も言えなかったのです。


 話し合いが終わると、国長たちは自軍に戻ります。幸か不幸か、東の軍はまだ動きません。

 西の軍では、山に潜んでいた別陣が、突撃のため、本軍に合流を始めます。東の軍の見ている前で、もぞもぞと山から下りて合流をするのです。それも、行き当たりばったりの作戦変更によるものでです。

 そのさまに、若長は改めて、勝てるかどうか不安に感じます。いったいどうしてこうなってしまったのかと思います。大の大人たちが、その多くが理性的ではないと考えている行動を、自ら取っているのです。

 若長は首を横に振ります。ここにいたってはやるしかないんだと自身に言い聞かせます。

 息を大きく吸い、吐き出します。

 頃合を待ち、そろそろだと判断します。

 大きく手を上げ、声を張り上げ、全軍に突撃の命令を下しました。


 命令を出す直前、若長は自分が何か取り返しのつかないことをしようとしている気がしました。不安の気持ちがよみがえってきました。そもそも総指揮を取る身でありながら、自身の判断ではなく、何か得体のしれない力によって動かされているようにしか思えないのです。

 ですが、若長にはもはやどうすることもできませんでした。ここで話し合いとは違う命令を出しても、話が違うではないかとまた国長たちがやってくるだけでしょう。あるいは若長を無視して自分たちだけで突撃してしまうかもしれません。


 彼の唯一の抵抗は、話し合いが終わってから突撃指令を出すまでの間、西の軍があわただしく動くのにまぎれさせ、従人に命じて自軍の兵の一部を山に伏せさせたことでした。万が一のことを考えてのことです。兵の数はさほど多くありません。これから突撃を仕掛けるというのに自軍の多くを割くわけにはいきませんし、あまり数が多いと他の国長たちに見つかって何事かと問いただされてしまうからです。


 その伏兵を除き、いま西の全軍が突撃を開始しました。

 兵たちが、わあっと声を上げながら一斉に駆け出し、平原に陣を取っている東の軍に襲いかかります。

 伏兵はないだろう、と若長は思いました。このような開けた場所では兵を隠す場所などないからです。であれば、この勢いのまま突っ込めば、いけるかもしれない、と彼は思いました。東の者どもに小細工などさせる間もなく一気にたたみこめるかもしれない。そう希望を抱いたのです。


 若長は忘れていました。東の国々には馬が多いこと。それゆえ東の軍には馬上兵(まがみもの)という兵種があること。そして、頭数こそ多くはないものの、馬上兵ばかりを集めた本王直属の部隊というものが存在することをです。

 若長は気づいていませんでした。その本王直属の馬上兵部隊が、東の軍の両端にそれぞれかたまって陣取っていることにです。


 西と東の軍がぶつかります。弓矢による撃ち合いから始まり、互いの距離が詰まったところで、矛を用いた叩き合いへと移っていきます。


 その時です。

 東の軍の両端にいた馬上兵たちが、ぱっと外側に駆けました。

 気づいた者は、ほとんどいませんでした。戦の最中でそれどころではなかったからです。気づいた者たちにしたところで、なんだあいつらは、どこにいこうとしているのだ、などと思っただけで、どう対処していいのかわかりません。

 わからずにいるうちに、馬上兵は西の軍の両脇を駆け抜け、後ろに回ると、くるりと反転しました。

 そして、西の兵たちの背後から一斉に襲いかかってきたのです。


 馬上兵というのは怖いものです。馬という大きな生き物が、人よりも速く力強く突進してくるのです。当時、この島の馬はさほど大きなものではありませんでしたが、それでも十分な迫力があります。

 その怖い馬上兵が、決して頭数は多くはないにしろ、戦っている背中からまとまって攻撃をしかけてきたのです。


 西の軍は乱れました。初めは混乱、続いて恐慌が支配します。

 東の本王の考えは簡潔明瞭なものでした。勝つためには挟み打ちが有効です。両側から襲いかかられてしまえば、なかなか容易には対処ができないからです。それは彼自身が身を持って経験しました。

 ですが、山に兵を伏せるというやり方は西もよく知っており、簡単には引っかからないでしょう。であれば、足の速い馬上兵を使えばよいのです。歩兵たちがぶつかり合って互いに拘束されている中、馬上兵たちが素早く敵の背後に回りこめば、挟み撃ちの完成です。それに西は馬が少なく、人々は馬に慣れていないゆえ、わかっていてもなかなか防ぐのは難しいでしょう。


 本王の考えは的中しました。西の国長たちは我先にと逃げ出し、兵たちも恐怖の声を上げながら来た道へと退避します。相手に殴りかかろうとしたら、後ろから恐ろしい大きな生き物にがつんとやられたのです。わけもわからず、恐慌状態になって逃げ出す以外の判断を、彼らは取ることができませんでした。去年の東の兵たちと同じです。

 逃げ道はありました。本王直属の馬上兵部隊というものは、決してその数は多くなく、それゆえ挟み打ちと言っても、西の軍は完全に包囲されたわけではなかったのです。

 本王としてはそれで十分でした。逃げる兵など、物の数ではないからです。後ろから追いかけてくる軍と、逃げながらまともに戦える兵など、ほとんどいません。ましてや組織だった行動も取れず、ただやみくもに逃げるだけの兵どもなど、本王にしてみれば烏合の衆と同じです。


 本王は追撃を開始します。このまま西の兵たちを狩りながら、その勢いで国をいくつか攻め滅ぼしてしまおうという算段です。

 もし若長の伏兵がいなければ、それは実現していたことでしょう。西の軍はこの時、統率も何もなく、ただばらばらになって逃げていただけだったからです。

 若長の伏兵が横から突然わっと駆け下りながら襲いかかって来たのは、本王の軍が山の合間の道を通ろうとした時でした。

 勝った、と油断していた東の兵たちは混乱します。同時に恐怖もよみがえってきます。去年、同じ手で散々にやられたからです。


 伏兵の数はさほど多くなく、本王の軍が乱れている間に、攻めかかった勢いのまま、通り過ぎて行ってしまいました。

 ですが、彼らのうちに生まれた恐怖と警戒心は容易には消えません。

 本王も同じでした。彼は去年のことを思い出し、まだ何かあるのではないかと疑念を抱きました。

 遠くを見ると、西の指揮官らしき男が声を張り上げています。兵たちは弓をつがえ、あるいは矛と木楯を掲げ、軍としての体制を整えつつあります。恐怖心が落ち着き、我に返ったからでしょうか。あるいは、ここで敗れれば後がないということに、今になって気づいたのかもしれません。決死の覚悟が雰囲気に見え隠れしています。


 まあよい。本王は思いました。これで、やつらはばらばらになるに違いない。であれば無理に今戦うこともなかろう。

 本王がそう思ったのは、ひとつは彼の持論によるものです。話し合いで物事を決める連中は、状況が悪化すると責任のなすりつけ合いとむき出しの利害意識で泥沼になる、というのが本王の考えでした。責任者がはっきりしていないか、いたとしても名目上の存在に過ぎないものだと思っていたからです。本王が十代の頃、彼の国で行われていた話し合いというのは、そういうものでした。


 ですが、一方でそれは方便でもありました。伏兵に襲われたことでよみがえった恐怖心を理屈で塗り固めたのです。ここで負ければ今の地位を失うかもしれない、という恐れの気持ちを合理の考えで覆ったのです。

 どのみち放っておいてもやつらは内輪もめで自滅するに違いない、と本王は理性で考えました。今ここで無理をして追撃をすることもなかろう、と理屈で思いました。

 思うことで、追撃しない理由をこしらえたのです。


 本王は、決定的な決断をすることができませんでした。

 西は生き延びることができました。

 けれども、散々に負けてしまったという事実はどうにもなりませんでした。

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