夜中に夫のすね毛を剃る妻の話
「これ、ゴミ箱に入れといて」
六歳の娘は目を合わせず、こっくりうなずいて袋を受け取る。無表情のまま背を向けて、リビングに走っていった。
まだ緊張しているのだと思う。まともに口もきかない。
もう、あれから二ヶ月経ったのだ。少しくらい慣れてきてもいい時期だとは思うのだが──
ため息をつき、俺は大掃除に戻る。
押し入れの奥から次なるダンボールを引っぱり出す。
蓋を開くと、がらくたの数々が現れた。どれもこれも、いわくがついているせいで捨てられなくなったものばかりだ。
この中ばかりは整理できない。俺はダンボールをどけておこうとして、ふと思いつく。
戻ってきた娘を手招きして、アルバムを開いた。
「父さんと母さんの、昔の写真だよ」
そんじょそこらの「昔の写真」ではない。
「俺が母さんに、付き合ってください、って言った夜の写真だ」
娘はぎこちなく俺の手元をのぞき込む。
写真の中では、ふっくらした頬の女が恥ずかしそうに笑い、長髪の男がこちらにVサインを突き出している。
「おれはいろいろ台詞を用意してたんだけどさ。土壇場で全部忘れちゃったんだ。で、言ったのが──『俺がハゲても一緒にいてほしい』って。おかしいだろ。笑っちゃうだろ」
「うん」
娘は目も上げなかった。
それきり俺は何も言えない。
会話が終わる。沈黙がくる。娘がそっと離れていく。つけっぱなしのテレビがリビングに、華やかな笑い声をまき散らす。かえって重苦しい空気が際立った。
大学生の頃、俺は肩まで髪を伸ばしていた。騒音すれすれの音楽にかぶれていた影響だ。一応スリーコードは押さえられるという程度のギターを担いで、キャンパス内をお気楽に歩き回っていたのだ。
だから、彼女にとっての第一印象もやはり「髪の長い人」だったらしい。そういえば、就活のためにばっさり切ったとき、ずいぶん残念そうにしていたっけ。
俺たちは好き合って結婚したはずなのに、三年も経たないうちに、くだらない喧嘩をこじらせて別れた。生まれたばかりの娘は彼女が連れて行った。
どちらが悪いもない。お互い子どもだったと思う。
再会したのは五年が経ってからだった。
俺の頭は予想を上回る速度で薄くなりかけていた。彼女はそれを見て、
「なんだか、ちょうどいい感じになったね」
そう言って、気の抜けたような笑いを漏らした。
復縁を決めた。
これから親子三人で幸せになるのだ、と楽しみにしていた。
しかし、ついにふたりが俺のマンションに越してくるという日の朝、急報が入った。
彼女が死んだ。
交通事故だったという。
後には、ひとりぼっちの俺と、ひとりぼっちの娘が残された。
そして、一緒に暮らし始めて二ヶ月がすぎた今も、俺たちはまだひとりぼっちのまま、家族になりきれずにいる。
ある夜のこと。
夕食の後、俺はパンツとTシャツのリラックススタイルでテレビを観ていた。テレビがついていると、とりあえず家の中が静かになりすぎないですむ。
すると、視線を感じる。
振り返ると、娘はテレビではなく、俺の足に注視していた。
俺が見ているのに気づくと、赤くなってぱっと目を伏せた。
「どうかした?」
娘は蚊の鳴くような声で、
「足、きれい」
俺はあぐらをかいた自分の足に目を落とす。
すね毛がなくなっていた。
まるで女の脚のようだ。輝くようにつるつるで、妙に生白い。
はてな、と俺は考える。
特に思い当たる節はない。何となくひざの辺りを指で撫でてみて、
「どうしてかなあ。剃った覚えはないんだけどなあ」
娘は困った顔をして、ただ「そうなの」と言った。
真剣に考えるとかなり不可解な現象だったが、そもそも真剣に考える理由がない。
まあ、なくて困るものでもなし、別にいいか──俺はそれきり思考を放棄し、それよりも、娘と少しだけ話せたことに、くすぐったい喜びを感じていた。
それから数日後のことだった。
深夜に目が覚めた。
いつも通りの部屋の天井を見上げ、隣で眠っている娘の寝息を聞きながら、いま何時かなと考える。
そして、ふと気づいた。
体が動かない。
ああ、なるほど、これが金縛りというやつか──と思った。
いくら力んでみても、皮膚の下でうごめく力は現実的な動作に結びつかない。まるで丸太にでもなったような気持ちだ。
別に動けなくても構わないのだが、体が思うようにならないというのは何とも息苦しい感じがした。俺はもがいてみる。
そのとき、裸の足に重みを感じた。
足元で何かが起こっている。
目だけが動いた。
いつの間にか、俺の体にかかっていた布団がはがされていた。
丸太と化した俺には、「それ」の姿はほとんど見えなかった。しかし、薄暗い部屋の中で、間違いなく何かがうごめいている。
人間サイズの巨大な蜘蛛。
違う。
闇に目をこらしていると見えてくる。今、俺の足に抱きついているのは、──あの黒くて長いものが髪だとすると、
女だ。
──いや、
違う。俺は知っている。この気配を知っている。
彼女だ。
そう気づいた次の瞬間、
ずるり。
すねに生温かい感触がうごめいた。
悲鳴も上げられなかった。
この状況で脳だけが、ネズミの車のように回転し、答えにたどり着く。
彼女が俺の足を舐めている。
その舌は粘性を帯びた唾液に濡れている。人間よりもむしろ猫のそれに近い、ざらついた舌が、ぞろり、ぞろりと動く。
角質が舐め削られるわずかな痛み。べったりとした感触。濡れたすねにかかる、氷のような温度の息づかい。
舌舐め剃りの音とともに、寒気が背筋を這い上がってくる。
これが、俺のすね毛が消えていた理由か。
妖怪だ。
これは彼女ではない。動き回る屍だ。
パニックに陥った頭が、夢中で体を動かそうとする。
起き上がれない。首も胴も、丸太のように動かない。腕も──
腕。
右手の指先に、やわらかく絡む何かがあった。
硬直しきった体の中、そこだけが日だまりのようにあたたかかった。この、小さなみずみずしいものは。
子どもの手。
隣で寝ていた娘が、俺の手をにぎっていたのだ。
魔法が解けた。
ため息とともに、定規のように突っ張っていた体が弛緩した。光が夜を照らすように、恐怖も、寒気も、消えてしまった。
俺は仰向けのまま、ひじをついて上半身を起こす。
「ひいっ」
足元で、猿のような悲鳴が上がった。
彼女はひっくり返って尻もちをついた。畳の上を猛烈な勢いで後ずさって、
「ごめんなさいごめんなさい! ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
部屋の壁に背中でぶつかって、頭を抱えて震えだした。
「ほしかったの。生きているあなたがほしかったの。ちょっとだけでいいから命がほしかったの。真っ暗だから、こっちは真っ暗だから、怖くて、怖くて、寒くて、」
うおぉんと泣いた。
「どうしたの、落ち着いてよ」自分でも驚くほど冷静な声が出た。「俺の命がほしいって言ったの?」
「ちが! 違う違う違うっ! 違うよぉ! ちょっと、ちょっ、ちょっとだけでよかった!」
俺は不思議に、理屈を飛び越えて理解した。
体毛か。
伸びては生え替わる、それは俺の命の一部だ。
「ほしかったの。あったかいから、寒かったからっ」
「命が……ほしかったのか? 生きてるものの、かけらがほしかったんだな?」
「ごめんなさい! さむ、寒くて、」
「……でもそれなら、何も足なんかじゃなくても、」
「かみはだめっ!」
彼女は再び泣き叫んだ。
「かみは、だめ。かみはだめ、だって、だって、」
だって──
その先は言葉にならない。
しかし、俺にはわかった。
妖怪でも化けものでもない。動き回る屍でもない。
彼女のことが、わかった。
──こいつ、何を気にしてるんだよ。
ちょっと笑った。
俺は布団の上で立ち上がり、彼女に近づいた。部屋の隅に逃げ出そうとした彼女を背後から抱きしめて、
「……逃げるなよ。逃げることなんか、何もないじゃないか」
冷たい体。
一体どんなに寒い思いをしてきたのだろう。
「愛してる。ずっとおまえのことが好きだ。俺にやれるものなら何でもやる」
「う、うぁ、う」
彼女は俺にしがみついて泣いた。
俺も、少しだけ泣いた。
翌朝、妻の写真に手を合わせていると、起きてきた娘がぎょっとした顔をした。
「あはは、おはよう」
「ど、どうしたの、それ」
娘はたじたじと三歩も後ずさった。俺は頭をつるりと撫でて、
「かっこいいだろ」
つるつるなのである。
「どうだ、こういうのも結構似合うんじゃないかと思ってさ。触ってみる?」
最後のは冗談のつもりだった。
だから、娘がおそるおそる手を伸ばしたときには、こっちが驚いた。
慌てて頭を垂れて、彼女の手を待つ。
わずかに震える小さな指の感触が、俺の頭に触れる。
知らぬ間に、俺の方まで息を止めていた。
顔を上げると、娘と目が合った。
彼女は目をそらし、しかしもう一度俺の目を盗み見て、蚊の鳴くような声でこう言う。
「……お坊さんみたい」
そして、はにかむように笑った。
おーばーけーだーぞー。
「夜中に夫のすね毛を剃る妻」というお題でした。こういうお題を考えつく人は心底すごいと思います。