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第1話:遺されたデバッグ・ログ

山崎という男は、一言で言えば「面白そうなこと」に目がなかった。


大学の講義中、教授が黒板に小難しい公式を並べていても、あいつは一度もノートを取らない。


代わりにカバンからバラバラの電子パーツを取り出し、「ねえ、これとこれ繋いだらどうなると思う?」と、隣の俺にニヤニヤしながら見せてくる。


「理論だとこうらしいけどさ、実際やってみないと分かんなくね?」

そう言ってテスターを当てるあいつの指先は、いつも少しだけ震えていた。怖がっているんじゃない。新しいおもちゃを前にした子供みたいに、ワクワクを抑えきれないのだ。


興味のある実験だけは、教授も引くぐらいの執念で完璧に仕上げてくるくせに、興味のない一般教養は「これ、俺の人生に必要ある?」と笑って、堂々と単位を落とす。

あいつの周りには、いつも火花の匂いと、「次はどんなバカなことして遊ぼうか」という、最高に騒がしい空気が満ちていた。


だから、あいつが大学に来なくなっても、俺は「またどっかで面白いもん見つけて、夢中になってるんだろ」くらいに思っていた。


けれど。


一週間ぶりにキャンパスで見かけた山崎は、致命的に、何かが違っていた。


「久しぶり、山崎! 次の講義、代返頼める?」


声をかけた俺に、あいつはゆっくりと視線を向けた。その動きには、以前のような軽さが微塵もなかった。

「……あ、うん。いいよ。別に、」

返ってきたのは、間違いなくあいつの声だ。でも、あいつの言葉じゃなかった。


いつもなら「代返? 俺の貴重な労働力をそんなことに使うなら、学食のカレー奢りな」とか、調子のいいことを言って笑うはずなのに。


目の前の山崎は、ただ、空っぽだった。

あいつの脳を動かしていた、あのキラキラした「好奇心」が、ごっそり抜き取られたみたいに。あまりに静かで、あまりに普通の、どこにでもいる「無気力な大学生」。


山崎が、再び大学に来なくなって三日が過ぎた。

胸のざわつきが止まらず、俺はあいつのアパートを訪ねることにした。


「おい、山崎。入るぞー」


部屋の中は、あいつが最後に弄り回していた機材が、そのまま散乱している。

ベッドの上に、山崎はいた。

仰向けになって、天井をただぼーっと眺めている。

「……あ、お疲れ」

「お疲れじゃねえよ。何なんだよそのツラ。どっか体悪いのか?」

山崎は力なく笑った。その顔には、熱も、毒も、何もなかった。


「いや……別に。なんかさ、何が楽しくてあんなに騒いでたのか、分かんなくなっちゃって」

あいつの瞳を覗き込んで、俺はゾッとした。


そこには、俺をいつもワクワクさせてくれた「これ、ヤバくない?」っていうあの輝きが、ひとかけらも残っていなかった。


形は同じだ。声も同じだ。

でも、俺の前にいるのは、俺が知っている山崎じゃない。


中身を丸ごと、全然知らない「誰か」と入れ替えられたみたいな、見知らぬ抜け殻。


「……お前、マジで山崎か?」

冗談のつもりで言ったのに、あいつは答えなかった。

ただ、視線を落とした先。冷え切ったハンダごての横。


そこには、あいつがいつも持ち歩いていた、使い古した一冊のノートが転がっていた。

表紙には、あいつの字で、殴り書きのタイトルがあった。


『デバッグ・ログ:2026/04/01〜』


めくった一ページ目には、山崎の、あの人を食ったような軽快な筆致でこう記されていた。



『四月一日。中庭のベンチ横。百円玉が0.5秒くらい空中に留まってから落下した。面白すぎだろ。今日からこの世界のバグを全部洗い出すことにする』



読み進めるうちに、背中にじっとりとした嫌な汗が伝う。

ノートの中身は、俺たちが「あいつはどこかで面白おかしくやってる」と信じ込んでいた数ヶ月間の、狂気じみた「日常の解体記録」だった。



『五月二十日。雨。横浜駅のホーム。端っこの三メートルだけ、雨粒の跳ね返り方が変。アスファルトの反発係数が0.1%くらい書き換わってる気がする。これ、重力の設定ミスか?』


『六月十五日。ベランダで蚊を観察。百円玉を近づけると、こいつら急に正十二面体を描いて飛びやがる。空間の移動処理をサボりすぎだろ。手抜き工事かよ、この世界』



そこにあるのは、俺の知っている「試行回数の化け物」としての山崎だった。


ポテトチップスを何百枚と投げて滞空時間を計測し、セミの鳴き声の周波数を解析して音響バグを疑い、挙げ句の果てには自分の脈拍が「四拍に一回、スキップされている」ことまで数値化している。


普通の奴なら「病んでる」で切り捨てるだろう。

だが、俺は知っている。山崎は、根拠のない妄想で動くような男じゃない。あいつはいつだって、自分の指先で触れた「実数」だけを信じていた。


「……バカバカしい」

乾いた笑いが漏れた。


喉の奥がカラカラに乾いている。

俺は気分を落ち着かせようと、途中のコンビニで買ったコーラに手を伸ばした。プラスチックのコップに、黒い液体を注ぐ。


その時だ。


「……は?」

注いだはずの液体が、コップの底に溜まらない。

それどころか、コーラはプラスチックの壁をじわじわと「透過」して、そのまま机の上にベチャリと広がった。


こぼれたんじゃない。コップという物質が、液体を堰き止める「判定」を失っている。

俺は慌てて机を拭こうとしたが、今度は俺の指先が、布巾を通り抜けて机の木材に数センチほどめり込んだ。


泥の中に手を突っ込んだような、生理的な気持ち悪さが指先を襲う。


慌ててノートの、最後の方のページをめくった。

そこには、今までの軽薄なノリが消え、震えるような筆致でこう書かれていた。



『七月三日。ついにコップが機能しなくなった。物理演算が追いついてない。……次は、俺かな。俺っていうデータも、そろそろ「エラー」として弾き出される気がする』



「山崎、お前……これ……!」

叫んで顔を上げたが、ベッドの上の山崎は、何も見ていない瞳で天井を見つめたままだった。


今のあいつには、コップが透けようが、親友の手が机に埋まろうが、そんなことは「どうでもいい」のだ。

俺は耐えきれなくなり、ノートを鞄に突っ込んで部屋を飛び出した。


外に出た瞬間、殺人的な日差しが網膜を焼く。

眩暈に耐えながら空を見上げたとき、俺の心臓は凍りついた。


青空に浮かぶ、巨大な入道雲。

その右側が、まるで壊れたディスプレイのドットが欠けるように、一瞬だけ四角く反転して消えた。後ろにあるはずのない、どろりとした「真っ黒な虚無」がそこから覗いていた。


あいつは、ずっとこれを見ていたのか。

この世界が、ただの「書き換え可能な、出来の悪いデータ」に過ぎないという絶望を、一人で観測し続けていたのか。


「……そんなに必死にならなくても、夏休みは来るよ」

背後から、平坦な声がした。

いつの間にかアパートの廊下に出てきていた山崎が、陽炎の向こう側でぼーっと立っている。


「何も考えないほうが、ずっと楽だよ。エラーが出ないように、ただ座っていればいいんだ」

それは、あいつの口を借りた「世界」からの警告のようだった。

異変に気づくな。好奇心を捨てろ。そうすれば、お前だけは「正常なデータ」として残してやる――。

俺は怖くなって、震える足で階段を駆け下りる。


だが、その時。

俺の足元に伸びていた影が、西日に逆らうように、あり得ない方向へと長く、長く伸びていくのを。


俺は、もう「見なかったこと」にはできなかった。

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