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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

売られた元伯爵令嬢が廃棄処分寸前の奴隷を買ったら

作者: 蒲公えい
掲載日:2026/03/28

 拝啓 天国のお母様


 天国ではいかがお過ごしでしょうか。

 私は今、借金返済の為に激務の日々を送り、挙句の果てには変態侯爵様の所へ嫁がさせられそうになっています。


 マーガレット


 ◇◇


(今日もいい天気だなぁ……はは……)

 

 マーガレット・アルスワンは虚無を眺めながら、箒を握り締め、深いため息を吐いた。


 何時もはうるさいくらい耳に入ってくる嘲笑も、今日は子鳥のさえずりのように聞こえてくる。

 貴族社会の養成所と呼ばれている学園もその内は貴族のように汚く、醜いものだと、マーガレットは投げつけられた小石を拾うと、再びため息を吐いた。


 貴族の子女達が通う学園の小間使いとして働いているマーガレットだが、身分でいえば一応伯爵家の令嬢であり、年齢で見ればこの学園の生徒でもおかしくない。


 それがお世辞にも綺麗とは言えない使用人の服を着て、掃除に勤しんでいるかと言えば、理由は単純で残酷なものだ。


 自ら進んで借金を負った両親に、カタとして売られたからである。


 貴族が売られるのは数は少ないが滅多にない話ではない。しかし、伯爵家の令嬢が売られるのは珍しい話で、中々特殊な例で買主に買われ、この学園で働いている。

 売られはしたが身分が身分だっただけあり、両親との縁は切れておらず、こうして働いた金はアルスワン伯爵家の借金返済へ回っていた。


 この国の奴隷制度もまた他国と比べて特殊な立ち位置で、雇用形態のひとつとして任を得ている。しかし、売られたが最後、貴族社会へ戻る事は出来ない。ある1つの事例を抜いてになるが、自分には関係のない話だ。


 なんとも都合のいい雇用形態だろうかと、不満はあるが抗議を申し出る気はない。それが貴族社会だと諦めの気持ちが強かった。


 このまま飼い殺しのように働く事について思う事はない。あの2人と離れて暮らせるのは幸運と言えよう。それに、元々掃除の類は嫌いではない。そう思っていたが……


『ラセニ侯爵と結婚しろ』


 あの男(実父)より届けられた一通の手紙によりよからぬ事態が発生した。


 奴隷身分でも貴族へ戻れる唯一の方法……それが結婚だ。自分には関係ないと思っていたからこそ、度肝を抜く結果となってしまった。


 特に相手は変態侯爵と名高いラセニ侯爵だ。両親と離れて暮らすのが第一条件とするならば問題は無いのだろうが、結婚に向いていない性格だとマーガレットは自認している。


 変態侯爵が望むような容姿も性格も持っていない女なのはもとい、女として大事なものが欠けているのだ。そんな者が嫁いだとて、待遇は目に見えているだろう。


 その時、良からぬことが頭を過ぎった。


(私が奴隷を買って逃げてしまえば……)


 奴隷と言えど、マーガレットの様な奴隷と他国から強制的に連れてた奴隷……ピンからキリがある。そして整備の行き届いていない奴隷市場には身分証明というものは必要ない。金さえ持っていれば良い。


 持ち金は決して多くはないが、少年位の年齢ならば安値で買えるだろう。

 そしてその少年を育成し、剣士か魔法士にでもなれば仲間として申し分ない。


(よし!善は急げだ!)


 ◇◇


「どんな奴隷をお求めで?」

「……えーとっ」


 裏道の、そのまた裏道にある奴隷市場は異様な雰囲気に包まれていた。男爵令嬢くらいには見えなくもない格好をしているが、それでもこの世界に入れば一張羅に見えてくる。


「このお金で買えるのは……」


 そう言ってお金が入った小袋を持ち上げると


「うるっせ!離せよ!」


 奥から男の叫び声が聞こえてきた。

 この世界では珍しいことでもないのか、店主は変わらず和かな笑顔を張りつけている。


(人間の世界ではないみたいだ)


 そしてその世界に足を踏み入れている自分も同罪だと、マーガレットは急に手が重たくなったような気分に陥る。


 まだ収まることのない叫び声の方へマーガレットが視線を向けると、店主はおずおずと口を開いた。


「殺処分になる男ですよ。何をしても暴れる手の付けようのない男でして……買主にも噛み付くような酷い奴隷なんです。太客に手を出してしまいもう手が追えなく」


(殺処分……)


 マーガレットが僅かに下唇を噛んだその時、


「こっちだ!はやくこい!」


 太い男の声と同時、キラリと鎖が見えた。


 小太りの男に引っ張られながら、徐々に殺処分の男の影が伸びてくる。


 銀色の長髪に綺麗な碧眼の美しい男だった。口輪が付けられているが、垣間見える白い素肌に細い線は男と言わなければ性別すら偽れるだろう。


(こんなに顔が良くても殺処分の未来が待ってるんだ。まるで少し前の……)

 

 冷たい視線と目が合うとギロリと睨みつけられる。マーガレットはその視線に既視感を抱くと、膝の上で拳を握りしめた。


「おい!お客様の前だぞ!?直ぐに下げろ!」

「買います」


 店主の素っ頓狂な声が響く。


「だからその奴隷を買います。殺処分が決定しているのなら安値で買えますよね?」

「なんなら無料でもよろしいですが……本当によろしいので?」

「二言はありません」


 ◇◇


(時期尚早だっただろうか……)


 使用人用の寮の自室で、マーガレットは訝しげに目を細めた。


 奴隷紋の書き換え手数料の僅かな金額で買えたが、引き継ぎ作業を終えてから今に至るまで一言も話そうとしない。ずっと細く長い足と腕を組み、夜空を見ていると言えば聞こえはいいが、ぶっきらぼうに そっぽを向き続けている。


 そもそも奴隷紋も買主の任意によるが、凶暴性を懸念してかなり頑丈な印を刻んだ。念の為の処置だろうが、かなり痛かっただろう。それを声ひとつ出さずに耐えぬいたのは流石としか言いようがない。


(機嫌が悪いのは分かるけど……)


 そうとは分かっていたとしても、そろそろ名前くらい教えてくれてもいいのではないだろうか。


「私はマーガレットと申します。あなたの名前を教えていただいても?」


 なるべく丁寧に問う。


 青年の視線がチラリとこちらに向くが、返答はない。耳が聞こえていた事以外、このままでは進展が無さそうだ。


「あなたの年齢は?」

「……」

「好きな食べ物は?」

「……」

「嫌いな食べ物は?」

「……」

「あのねぇ……」


 しびれを切らしたマーガレットが筆談に切り替えてみるかと、紙とペンを鞄から出し振り返ると、瞬きの一瞬で青年に押し倒され、首には持っていたはずのペンが突きつけられていた。


 美しすぎる顔から表情が消え、冷たく鋭い碧眼が肌を刺す。


 辞めろと、奴隷紋を発動させれば簡単だが奴隷紋を使うのは抵抗があった。だからと言ってこのまま死ぬのは本意ではない。


 ここで殺されてしまうのかもしれないが、そうならないという漠然とした理由があった。初めて会った時の刺すような冷たい目は殺意ではなく、きっと……


「大丈夫。何もしないから」


 取り繕う訳でもなく、ただ真っ直ぐマーガレットは青年と目を合わせた。これで死ぬなら本望だ、と。


(こいつ、悪意を感じない……?)


 青年は琥珀色の眼差しに首を傾げると、何も言わずマーガレットから離れるとペンを放り投げた。


 体を起こしたマーガレットはゴホンと、咳払いで空気を変えるが


「それでは気を取り直して……お名前は?」

「……」


 ―――プツン


 マーガレットの堪忍袋の緒が切れる音がした。


「こ……わよ」

「は?」


 ぬらりとした声に青年がマーガレットに思わず視線を移すと、殺気立ったマーガレットの琥珀の瞳がギロリと揺れ動いた。


「人が大人しくしてるからっていい気になってるんじゃないわよ!こっちは奴隷紋に命令としていかないように気を使ってるってるのに、あんたは何よ無視しちゃって!少しは心が痛んだりしないの!?この馬鹿野郎!」


 詰め寄っていくマーガレットに圧倒されながら、青年は壁際に追いやられていく。


「名前は!?」

「……レ、レグルス」

「好きな食べ物は!?」

「ない」

「嫌いな食べ物は!?」

「に……苦ぇ食いもん」


 フンッと鼻を鳴らしたマーガレットは漸く元の位置へと戻り、ふんぞり返るようにベッドへ座り込んだ。


「初めから素直に話していれば良かったのに」


 買主としての威厳ある姿を諦めたマーガレットは気軽に話すことにした。


「あんたこそ、貴族の令嬢がこんな態度でいいのかよ」


 男爵令嬢に間違われなくも無い格好をしていたが、この寮に入ってからはそれが違うとが分かったはずだ。ベッドひとつ入れれば椅子を置くにも窮屈な小部屋に、新しくはない使用人の服が壁にかかっている。

 バレるはずもないとタカをくくっていたが、バレるような事をした覚えもない。


(洞察力が鋭いみたいね)


 マーガレットは驚きを隠すようににこりと笑ってみせる。


「あら、よく分かったわね」


 マーガレットが何気なく問うと、レグルスは視線を逸らし分が悪そうに口を尖らせた。これ以上踏み入ってくるな、とでも言いたげな雰囲気だがこちらもこれ以上踏み入るつもりはない。


 人間関係において知らなくてもいい事は山ほどある。それがついさっきまで他人だったのなら当然だろう。


「まぁ見て分かるだろうけど、()よ。ここでは元すらも秘匿事項みたいで、複雑な立ち位置ではあるけど」

「ふーん。んで?なんでそんな元お嬢様が俺なんかを買ったんだよ」


 レグルスもこちら側に興味が無いのだろう。ふーんで終わった身の上話は本題に移った。


「私と一緒に逃げて欲しいの」

「はぁ?」


 レグルスは怪訝そうに顔を歪ませる。


「このまま働くなら良かったけど、ちょっと状況が変わったの。まだ詳しい日取りは決まってないけど……」

「日取りも分かんねぇのに俺を買ったのかよ」

「元々時間をかけて決めるつもりだったのよ!」

「思い立ったら吉日タイプか。後々苦労しそうな性格だな」


 無性に腹が立つが、言っている事は当たっている為、何も言うことは出来ない。ハハッと馬鹿にした様な吹き出す笑みに思わず拳を握る。


「私ができるのは衣食住の保証。食については私の半分をあげることになるから足りないだろうけど、奴隷市場の飯よりかはマシでしょう?」


 レグルスの様にキリの市場にいた訳ではないが、出された飯は残飯もいい所だった。固く冷たい床に匂いのする水、大部屋と言えどそこに友情と呼べるものは存在せず、その日、自分の命を繋ぎ止めるのもやっとな場所だ。


 彼の着ているものを見る限り、相当劣悪な場所にいたのだろう。


 まずは身なりを綺麗にするところからなのかもしれない。服とは言えない布同然の服から見える腕からには痛々しく切り傷や打撲痕が刻まれている。


 風呂はまさか女性専用を使わせる訳にもいかず、奥の手を使うことにした。


「熱っ!お前馬鹿なんじゃねぇの!?魔法くらいまともに使えるようになれよ!」

「うるさいわね!叫ぶと周りに気付かれるでしょ!?」


 この学園で働いて約2年。

 人があまり寄り付かない場所は把握しており、バケツに水魔法で水を貯め、火魔法で湯加減調整に勤しむ。湯船を用意出来ればよかったのだろうが、バレずに持ち出せるのはこれが最低限だった。


 バケツリレーを繰り返す事、数回。

 満足したのか、レグルスは渡したタオルで体を拭くと、ぶつくさ言いながらも寮へ戻る前に買っておいた服を素直に着用した。


「てかお前、魔法使えたんだな」

「……言わないでよね。売値と価値が釣り合わないって何されるか分からないわ」

「俺が誰に言えんだよ。それこそ奴隷紋で言わない様に命令すればいいだろ」


 マーガレットは手首から全身を這う様に刻まれた鎖状の奴隷紋に視線を向けるが、直ぐに視線を逃がすとレグルスの頭を目掛け勢いよく平手打ちをした。

 痛っと聞こえた様な気がするが、マーガレットはお構い無しに歩き出すと、いつもよりワントーン下がった声で呟く。


「奴隷紋は使わない」


 レグルスはその後をゆっくり追うと、マーガレットの小さな背中に不可解だと言わんばかりの視線を向けた。


 部屋に戻ってからは傷薬と包帯を片手にレグルスの治療にあたった。傷は思っている以上に酷く、持っている簡易的な傷薬では一時しのぎにしかならないだろう。


 少し当たっても痛い傷だが、声一つ上げないのは我慢強いにも程があるのではなかろうか。


 初めこそ自分でやると暴れたが、それが無理だと分かった途端に大人しくなった。ちょいと包帯越しに傷に触れても怒るどころか顔色一つ変えようとしない。


(買主に手を出すような……手の追えない男、ね)


 廃棄処分寸前の乱暴者にはどうしても見えなかった。


 だからこそ、痛々しく刻まれた傷やそれに至るまでの経緯が深く胸に刺さって離れない。

 包帯越しにマーガレットは傷に触れると、哀しそうに顔を歪ませた。


「明日、もう少し良い薬を貰ってくるから。私が治癒魔法を使えれば良かったのだけれど……」


 人の距離を明確に分ける性格だが、無情ではない。元は誰よりも人の痛みに涙し、人との壁を壊そうと奮起する少女だった。


 顔を歪ませたマーガレットを前に、レグルスは視線を逸らすと


「お前、俺が怖くねぇの?」


 独り言ように口を開いた。


「俺が前の奴みたいに……なんならまたペンを突きつけるか、殴るかもよ」


 なぜいきなり暴力宣言をし始めたのかとマーガレットが顔を上げると、青年と言うには幼い雰囲気をしたレグルスの横顔があった。


 マーガレットは無言で立ち上がると、レグルスの顔を両手で掴み、強制的に目を合わせる。


「だったら殴ってみなさいよ」


 レグルスはポカンと口を開き、マーガレットを覗き込むが悪意がない事以外、何も伝わってこない。


 何を考えてるんだ……と、レグルスは目を丸くし、奇怪な生き物を見るような目でマーガレットの反応を待つ。


「とりあえず厨房からパンを持ってくるわ。廃棄前だから硬いけどなんとかなるでしょ」


 マーガレットは突然手を離すと、椅子から崩れ落ちるレグルスをお構い無しに部屋から出ていった。


 ―――今までの買主は顔目的の好色家か、怖いもの見たさの変人、()()()()()()()()が買い求めてきた。


 なまじ顔が良いだけあって初めは高値で売れたが、無愛想な口ぶりに横柄な態度、奴隷紋の痛覚をものともしない様子や、身体にある無数の傷を見るなり、奴隷市場へ返却をくらった。


 奴隷は……特に最下級の奴隷は人間ではない。ツボでストレス発散をするのが自由な様に、痛めつけようがお咎めをくうこと、そして罰されることも勿論ありえない。


 それこそ、綺麗な身なりをした貴族や人が良さそうな人間も豹変する。


 一度返却をくらえばその都度価値が落ち、安価で売られる様になる。売られた場所が場所だっただけあり、落ちる時はすぐに落ちた。何度か手を出したせいで最後には元値の3分の2以下で取り引きされるほどだ。


 奴隷の女子供を買っていた常連の貴族の男を最後に殴った時、殺処分を言い渡された。誰も奴隷の意見を聞いてはくれない。物に発言権はない。


(まぁ……人間だった頃から聞いてなんてくれなかったっけ)


 レグルスはマーガレットに渡された硬いパンを食べながら、お気楽そうにベッドで眠る彼女に呆れた視線を向ける。


 すやすやと気持ち良さそうな顔を前にして無性に腹が立ってきたレグルスは、試しにマーガレットの頬をつねってみた。奴隷紋は発動せず、本当に無防備で寝ているらしい。


『大丈夫。何もしないから』

『だったら殴ってみなさいよ』

『明日、もう少し良い薬を貰ってくるから。私が治癒魔法を使えれば良かったのだけれど……』


 今日一日、マーガレットと過ごした僅かな言葉に幾度となく首を傾げる。


(同じ奴隷でもこんなお花畑、見た事ねぇぞ)


 お人好しにも程がある性格だが、介入してこない代わりに介入される事を嫌う。会話の中にいつも見えない壁が聳え立っている。


『元すらも秘匿事項みたいで、複雑な立ち位置ではあるけど』


 元貴族の能天気娘だと思っていたが能天気というより、公にする部分と隠す部分を明確に分け、明るいところのみを全面的に出しているような賢い女だ。


(何者なんなんだよ、こいつ)


 ◇◇


「お前、仕事に行かず水浴びにでも行ったのか?」

「……うるさい」


 部屋で待機を命じられたレグルスは、昼前に帰ってきたマーガレットの姿に呆れ半分に目を丸くした。上から水を浴びたのか、髪からぽたぽたと水滴が落ち、服もずぶ濡れだ。


 季節は夏に片足を入れ、だいぶ暑くなってきている。なのにも関わらずマーガレットは作業着の下に1枚薄手の長袖を着ているが、服を着ながらの水浴びはどう考えてもおかしいだろう。


「何したらそうなるんだよ。お前、相当グズなのか?」

「別に……着替えるから後ろ向いててよね」

「はいはい」


 自分から被らなければ頭からあそこまで濡れることはないだろうが、そんな自虐癖があるようには思えない。


(もしかして……)


 言われるがまま後ろを向いていたレグルスだったが、マーガレットが部屋を出たのを確認すると、バレないよう後を追った。


 見た目だけは一級品で、一歩外へ出れば羽虫の様に女が寄ってくる事を理解している。そして手癖が悪い事をよく利用して、バンダナと男物の使用人服を借りる(盗む)と、バンダナは顔を隠す様に巻き付けた。


 部屋でのお転婆が嘘のように仕事ぶりは真面目一色だった。言われた範囲を着実にこなし、マーガレットの背後には埃一つ無い。


 意外と真面目なんだなと、感心する一方であそこまで濡れて帰ってくる理由が見つからなかった。過ぎった嫌な予感が確信に変わっていく。


「見て、奴隷落ちよ」

「なんでこの学園なのかしら。私達まで不運が回ってきそう。早く違うところに買われればいいのに」


 マーガレットに聞こえるように言っているであろう嘲笑が廊下に微かに響くが、それを聞いている生徒達もその生徒を言及する事はもとい、見向きもしない。


 まるでそれが日常のように。


(胸糞悪いな)


 レグルスは眉間に皺を寄せ、マーガレットに視線を向けた。すると次は、綺麗だった背後に何故かゴミが散乱している。


 教室から愉快そうに笑う生徒を見て、これも嫌がらせのひとつかと、自ずと理解する。マーガレットもそれに気付いてはいるが、やめろの一言すらない。


 そして同僚も、まるでこの場で何も起きていないかのように通り過ぎる。


『ここでは元すらも秘匿事項みたいで、複雑な立ち位置ではあるけど』


 そう言っていたマーガレットのなんとも言えない複雑な表情が脳裏を過ぎって、『このまま働くなら良かったけど』と、こんなクソみたいな環境すら超える何かが気になった。


 しかし、それを聞いたとしてもマーガレットが話さないのは確かだ。


 レグルスは歯がゆい感情を噛み締めながら、自分に刻まれた奴隷紋に唇を噛むが、すぐに肩から力を抜いた。


(……俺には関係の無い事か)


 ◇◇


「おい、飯」


 これが買われた奴隷の態度なのかと、マーガレットは薄い目でレグルスを眺めた。

 まるで初めから私物の様にベッドへふんぞり返り、飯を強要してくる。同じ奴隷でもこんなに違うものかと思うところもあるが、信頼が僅かに出てきている証拠だと思うことにし、怒りをぐっと抑えた。


 しかし、どんなに騒がれても渡せる量には限りがある。1日3回支給されるパン2つ。それを2人で別け、そしてたまに廃棄のパンを貰えるが、満たされる分としては不十分だ。


 奴隷市場より質も量も増えた為、贅沢は全く言わないが、上の口が言わなくとも腹の口がとにかくうるさい。


「ここを出れればもっとマシなものを食べれるようになるから、それまでの辛抱ね」

「へいへい」


 このままでは弱って2人とも逃げる所の話ではなくなる。早めに計画を立てなければ逃げる以前の問題で、変態侯爵に嫁ぐ未来が待ってるのだ。


 父からは夕方、日取りを知らせる手紙が届いた。早急にこちらも動かなくては最悪の未来が待っている。それだけは避けるべく、マーガレットは計画を綿密に立てることとした。


 マーガレットが紙に計画案を書き出していると


「てか、そろそろネタばらししてくれよ。一応、逃げるんでしょ?俺ら」


 レグルスは後ろから回り込み、マーガレットの動く手を止めた。


「ネタばらしって?」


 マーガレットは振り返ることなく、言葉を並べる。


「結婚、そんなに嫌なのかよ」


 あぁやっぱり知っていたのかと、マーガレットは驚くことなく振り返った。


 勝手に見たのかと問い詰めたくなったが、開けてはいけないと話したのは下着や服が入っているところのみだ。話ではないが、暗黙の了解で分かるだろうに。


 マーガレットはため息を吐いて、引き出しから2通の手紙を出した。


「これが、ーーー」


 結婚について話そうとした時、マーガレットは急に大声を上げながら立ち上がった。耳を抑えたレグルスに睨みつけられながら、マーガレットは申し訳なさそうに口を開く。


「洗濯入れるの頼まれてたの。急用ができたらしくて、昼の仕事と交代で。洗濯場はすぐそこだし、数分で終わると思うからここにいて?その後で話すから」


 逃げられたわけでないと、レグルスは了承し、マーガレットは足早に外へ向かった。


 初夏になり、外は虫の鳴き声が響いていた。昼間は暑く感じるが、夕方にでもなれば風が心地よい。長袖を着込んでいるので丁度いいのかとすら思う。


 早めに切り上げて部屋へ戻ろうと、マーガレットは洗濯物を干している場所へ走った。しかし、そこに洗濯物は一切掛かっていない。


 洗濯籠がなかった時点で嫌な予感はしていたが、今日もどうやら嫌がらせをしてきたようだ。だとすれば、昼間代わってもらった掃除も手をつけていないだう。


(明日にでもお咎めをくらいそうだ)


 自分でやったわけではないミスで怒られるのはもう慣れている。罵詈雑言を右から入れて左から流し、適当な具合で合図ちと謝罪を述べれば10分程度で解放されるだろう。

 使用人統括の機嫌が良ければ。


 マーガレットはため息を吐いて、洗濯場に背を向けた。ここは昼間は日が当たりやすいが、夕方になると一気に人気がない気味の悪い場所になる要注意場だ。


 大きな雲が太陽を覆い、辺りが一瞬、暗闇に包まれた。

 ゾクリと、背筋に冷たい空気が伝い、マーガレットは咄嗟に振り返った。そこには誰もいない。


(あの人の手紙を見たせいで、少し過敏になってるみたい)


 気にしすぎかと、安堵する―――しかし、顔を向けた先、そこには3人の男が立ち塞がっていた。


 ◇◇


「遅い」


 少し待てと言われてから5分は見ていたが、それから何十分経っただろう。話をはぐらかす為に態々遅くしているのかと思ったが、姑息な真似が出来る性格でないと見透かしている。


 隠しは出来るが嘘はつけないという、中々善人じみた性格だ。


(暇だし、外へ行ってみるか)


 レグルスはベッド下に隠してある男性用の作業着とバンダナを巻くと、周囲を気にしながら部屋から出た。


 この寮からは僅かに声が聞こえてくる。相当壁が薄いのか、大声で話せば外まで筒抜けだ。


「こんなにお金貰ったの初めて!」


 なんて言う女の声が響いていた。


 昼間は抜け出すことがあるが、この時間帯は初めてだ。女の集団はうるさいものだと、レグルスが顔を顰めていると


「あの奴隷落ちを1人にさせるだけでこんだけ貰えるなんて、割が良すぎだわ!」


 嬉々と語るその人物が誰かなど、すぐに分かった。


 調べて分かったが、奴隷であってこの学園で働いているのはマーガレット1人だけだ。他は下級貴族の子女だったり、頭の良い平民だったりと、周りの家柄はそう悪くはなかった。


 特殊な事例でマーガレットが買われたことなど、噂話が娯楽のひとつのこの場所では瞬く間に広がる。だからマーガレットは相手にされず、奴隷落ちという愛称すら付けられるのだろう。


 今すぐにでもマーガレットを金で売った事を殴りに行きたかった。そんなはした金で彼女がどうなるのか想像もしなかったのかと、レグルスは拳を握る。


 しかし、そんなことをしたところで状況は変わらない。


 何度か抜け出して散歩をしたお陰で洗濯場の場所は把握していたレグルスは全力で洗濯場へ走り出した。


 ◇◇


「やめて!離しなさいよ!」


 手に短剣を持った男はせせら嗤いながら、マーガレットの腕を持って上へあげていた。


 体格に差があるせいで足をどんなに振り上げても良くてかする程度で、足掻きにしかならない。


 こうなる事は予想していた。貴族の子女を守る役目を果たしている学園が侵入者をこんなにも簡単に入らせ、こんな時間帯に狙ったかのように洗濯場へ来る理由はひとつしかない。


「しかし実の父親に売られるなんて悲惨な娘だよなぁ」


 そう、売られたのだ。


 一度は奴隷に落としたマーガレットを嫁がせることに違和感はあった。この事実を公にされかねない賭けに勝つには口封じがいちばん容易い。


 それをやりかねないと、逃げる算段を立てていたが、こうも早く行動に移すのは想定外だった。こっちが思っていた以上に血も情も無い人間なのかと、マーガレットは唇を噛む。


 この学園に来てから階段から突き落とされたり、パンの中に刃物が混ざっていたりした事があった。きっとそれも使用人に金を渡して、全てを隠蔽するつもりだったのだろうと理解する。


 そして中々報告がないのに痺れを切らして、強硬手段に出たのだろう。


「しかしこんな上玉をみすみす殺すのは勿体ない気もするよな」


 3人いる男のうち、ひとりが思い立ったように呟いた。近くにいる男が上から下を舐め回すように視線を動かし、


「ちっと肉付きがよくないがな」


 そう言って持ち上げていたマーガレットを地面へ叩きつけた。


 鈍い痛みが背中に伝わり、マーガレットは痛っと声を上げる。しかし、彼らはお構い無しに短剣をマーガレット目掛けて振り上げた。


(死ぬ……)


 マーガレットは掴まれていない足を勢いよく振り上げた。見事、男の急所にクリーンヒットし、ズレた刃先はマーガレットの首元から腕にかけての服を切り裂く。


 後ろで見ていた男が肩から腕にかけて顕になった肌を見て、顔を歪ませる。


「なんだこいつ、傷モノかよ」


 火傷のあとから打撲痕、青くなった肌は決して綺麗と呼ばれるものではない。それを覆うように這う奴隷紋も傷を引き立たせるように、痛々しくも全身に広がっていた。


 骨が浮き出た身体に、全身にある()()から付けられた傷の痕。


 人間でないものを見るような、もはや同情すら垣間見せる視線だ。これを向けられたくなくて隠していたが、こうなってしまってからでは遅い。


 この肌を見て、手を出そうと思う男はいないだろう。


 そうなれば残っている道は死、のみだ。


 3つになる年に実母が亡くなった。

 それから1年も経たずに義母が来て、弟が生まれ、存在価値のないマーガレットは虐待をされていた。


 実母の記憶はほぼ無く、朧気にある優しげな微笑みに縋り付きながら眠っていたのをよく覚えている。遺品は全て燃やされ、実母を思い出す物は家から消え去って、家での居場所はとうの昔に取り上げられた。


 そして使用人と同様に家では働き、鬱憤ばらしに殴られる日々。給金が貰えるだけ、使用人の方が待遇が良かったのかもしれないが。


 奴隷の様に扱われ、10歳に奴隷市場に売られた。


 最後くらいは幸福に満ちて死にたい。

 それだけを生きる目的にして、がむしゃらに上を向いて生きてきたが、それも叶わず死ぬだろう。


 マーガレットは男の隙間から夜空を見上げた。


(今日は満月なんだ)


 最後にこうして満月の夜に死ねるなら、最後は幸せだったと言えるのではなかろうか。


 次第に顔を真っ赤にして怒りを露わにした男は、刃物を勢いよく振り上げた。


(せめて心臓を一突きに殺してくれればいいのに)


 マーガレットは抵抗する力もなく、目を伏せた。


 真っ暗な視界と静まり返った外の音。


 死というのは思っていた以上に、真っ暗で静かな場所だった。来世というものがあるとするならば、もっと次は―――


「誰だお前!」


 急に聞こえてきた男の叫び声に、マーガレットは目を開く。手首にかかっていた重さが消え、視界も急に明るくなった。


 咄嗟に男達が見ている方に視線を向けると、そこには


「レグルス……?なんで」


 何故か男物の使用人服を着たレグルスが仁王立ちしていた。マーガレットに覆いかぶさっていた男は壁に寄りかかる様にのびており、顔には靴の跡がくっきりと残っている。


「お前の帰りが遅すぎて、腹減ったから食べ物探しに来たんだ」

「はぁ?」


 マーガレットが体を起こすと、レグルスはギョッとした顔をして上着をマーガレットに掛けた。デレカシーの無さそうな男でも、流石に気にするらしい。


 聞きたいことは山ずみで、とりあえず問い詰めようと、マーガレットが上を見上げると、背後から男がレグルス目掛けて走り出してきていた。


 マーガレットよりも強い奴隷紋の影響で、レグルスは魔法が使えない。体術が使えるか分からないが、体格差はどう見ても劣勢だ。


 自分のせいで誰かが亡くなる姿だけは見たくなかった。誰かの幸せを奪う様な生き方は、自分の生き方すらも否定しそうだったから。


 マーガレットは覚悟を決めるように震える手を握りしめると


「レグルス!命令よ!私を捨てて逃げなさい!」


 魔力と意志を込めて、奴隷紋に命令を下した。


 今まで見たことの無い光がレグルスを覆い、戦おうと向けた足を引き戻す。


「馬鹿野郎!俺がいなくちゃお前が死ぬんだぞ!?」


 一瞬怯んだように見えたが、すぐにレグルスはマーガレットを睨みつけた。


「あなたが死ぬくらいなら私が死んだ方がましよ!」

「俺は奴隷だぞ!?物に命懸けんなって!」

「あなたは人間よ!私が買った、私が責任を持たなくちゃいけない人のひとりなの。だから逃げなさい!」


 頭の中は真っ白で、自分で何を言いたいのかよく分からない。ただこの場から逃げてさえくれれば、買主の奴隷紋は無効となり、自由に生きることが出来る。


 マーガレットは震える足で立ち上がると、必死に抗おうとするレグルスの体を突き飛ばした。


「命令だって言っているでしょう!?私はもうこんなの慣れっこだから大丈夫。死ぬのなんて、怖くないから」


 何を言ってるんだと言いたげな視線がレグルスから突き刺さる。

 どうにかして納得して欲しくて、マーガレットはレグルスの前に立ち塞がると、微笑んで見せた。


 マーガレットのすぐ後ろまで男が迫ってきた。月に照らされた長い刃がキラリと光って、心臓へ突きつけられる。


 漸くこれで地獄のような人生が終わると思うと、急に気分が軽くなった。


 レグルスは体を動かそうにも奴隷紋で縛り付けられ、こちらに顔を向けることすら叶わなくなっている。それでいいと、マーガレットは思った。

 ぶっきらぼうなだけで優しいレグルスは、自分の死を見てしまえば責任感で押しつぶされてしまうだろう、と。


 マーガレットは呆然と腹寸前まで迫った刃を眺めた。


「うるっせぇ!」


 しかし、刃は急に動くはずのない方へ急に方向を変え、迫ってきていた男は塀でのびている。


 咄嗟にレグルスの方を見ると、汗を流しながら肩を上下に揺らしていた。

 奴隷紋の効果が発動し、心臓に針が刺さっている以上の痛みが襲っているだろう。


 何故逃げないのかと問い詰めようとしたが、レグルスは野獣のような瞳孔で最後の怯えている男にトドメを指すと、マーガレットの額を指で弾いた。


 鈍い痛みが額にじんわりと襲い、何をするんだと、レグルスを見上げる。


「俺は人間なんだろ?だったら俺が何をしようと自由だ」

「はぁ?というか奴隷紋って痛いのにどうして立っていられるのよ」

「お前と一緒だ。だから分かんだよ。慣れてても痛くない訳がねぇって事くらい」


 そしてレグルスは再び、マーガレットの額を指で弾く。


 マーガレットが額を抑えると、


「デコ、痛いだろ」


 何を当たり前のことを言っているんだとマーガレットは首を傾げる。


「お前は怖くて泣いたんじゃない。俺に叩かれて痛くて、泣いたんだ。あの転がってる雑魚共のせいじゃねぇ」


 レグルスの影に隠れて、どこから覗いたとしても顔は影って見えないだろう。

 そしてマーガレットから見えるのも、月に照らされたレグルスの端正な顔だけだ。


(どうしてレグルスも泣きそうなんだろ)


 分からない。物心ついた頃からずっと、ひとりで生きてきたから。誰かを頼って生きていけない環境だったから。


 弱音の吐き方も、泣き方も、随分前に忘れてしまった。泣いても、誰も助けてくれないし、物事が良い方向に進まない。


 願っても助けてくれない環境に生まれてきてしまった。しかし、願わずとも、突き放したとしても追いかけて助けてくれる存在が目の前にいる事が、マーガレットの凍っていた感情を溶かしていく。


 マーガレットはレグルスの服の端を掴むと、下を向いてポタポタと涙を零した。


 声を上げて泣くことを知らない為に、声を押し殺して泣く。それをレグルスも咎めることなく、頭に手を置いて泣き止むのを待った。


 ただ一言だけ


「あの時、俺を買ってくれたのがお前でよかった」


 マーガレットが泣き止むまでに、レグルスが口を開いたのはそれだけだった。


 ◇◇


 部屋に帰ると、マーガレットは2通の手紙をレグルスに手渡した。


 端切れのような紙には要件だけ書かれ、決定事項のみが殴り書きの様に並んでいた。手紙と言うよりもただの報告書に過ぎないとすら思う。


「借金って書いてあるけど、そんな訳分からん奴の事だし追いかけてきたりしねぇの?」

「借金分の返済なんて1年前に終わってるわよ。私には知らせてこないけど」


 なんでわかるんだと言いたげに首を傾げるレグルス。


「私を売った時の金額と月々の給金9割、まぁそこから幾らか引かれていたとしても随分前に終わってるでしょうね」


 若いってそれなりの価値になるのだと、マーガレットは乾いた笑みを零した。


「それで……」


 ベッドへ無造作に置かれていた2通の手紙を回収したマーガレットは、儚げに目をうつむせる。


 別に拒んでいてこの話をしなかった訳じゃない。ただ、凛とした女性を演じていたかったからだけなのかもしれない。

 本当の自分ではありえない、綺麗でまっさらな芯のある女性を。


 レグルスは言いたくないのなら言わなくてもいいと、念を押して言った。しかし、マーガレットは首を横に振ると、レグルスの隣に移動した。


 たまたま触れてしまったかのように小指の先をレグルスの指に当てる。


「貴族社会の結婚は軽くない。夫婦だけで生きていこうって選択肢はもちろん、男児を産むことが女の責務で生きる意味なのよ」


 それについては咎めるつもりはない。貴族として産まれ、何不自由ない暮らしをする代償がそれだと言うなら、喜んでこの身を捧げよう―――と、思っていた。


 奴隷落ちを、するまでは。


 奴隷になる上で初めに店主に言われたのは、マーガレット・アルスワンは死に、お前は今日からただのマーガレットになった、という残酷な真実だった。


 両親に売られながらも、両親に為に働き続けるのは奴隷の生き方のひとつなのだと、今でも冷酷な店主の目を鮮明に覚えている。


 貴族として生まれてきたからと、何とか保っていた全てが前世の生き方となった時、きっと全てが壊れてしまったのだろう。


あの男(実父)は私が虐められているのを黙認してた。挙句の果てにはあの女(義母)との遊ぶ金欲しさで借金をして、払いきれなくなったと分かった途端に実の娘を簡単に売った男の血が……私には流れてる」


 喉から何とか振り絞る声を上げながら、マーガレットは震える体を両腕で抑え込む。


「誰かの愛し方なんて知らない。子が生まれたとして、あの男(実父)の様に子へ当たってしまったら……最低最悪だと思っていた男と同じ人間なってしまったら……私は生きていけない」


 鏡に映る母だけではない誰かの面影を見る度に殺したいほど憎く、怖くなる。


「あなたの事も、逃げれたは直ぐに解放するつもりだった。奴隷紋の解除は裏通りに行った時ある事は確認したから」


 ひかれてしまっただろうか。

 こんな弱い人間だったのかと、軽蔑されてしまったのだろうか。


 いつもうるさいレグルスが途端に静かになり、底知れない恐怖がマーガレットを襲った。


 暫くすると、レグルスはおもむろに口を開いた。


「俺はさ、元々はこの国じゃない平民と奴隷の間……お綺麗に言えば路上生活者?だった」


 脈略のない話に、マーガレットの驚いた視線が肌を指す。

 遠くを見るような目で空を眺め、思い出を拾う様に話し出した。


「父はいない。でも母ちゃんがいた。腹はすくし汚かったけど、仲間はいて、それなりに幸せだったよ」


 ほのかに微笑んだレグルスは指折りで何かを数えると、


「確か……13になった年、母ちゃんが流行病で死んだ」


 今でも思い出すやつれた母の姿に、視界が僅かに歪む。


「立て続けに戦争が始まって仲間を失って、路頭に迷っていた時、隣街の傭兵団に拾われた。その時の団長が良い奴でさ。かなり荒れてた俺に魔法検査までさせて迎え入れてくれた」


 その団員も快く迎え入れてくれて、また仲間が出来たような気がした。仲間と言うよりかは急に兄貴が沢山できたような感覚だった。

 喧嘩して怒られて、目まぐるしい日々が続いて、魔法の才能があったお陰で居場所が確立して行ったが、それを喜ぶヤツらばかりじゃなかった。


 副団長の位置を取られるのかと焦ったヤツが仲間を集めて結託し、団長とその一部が遠征に出掛けていた時、まんまと罠に嵌められた。


 頭は悪かった。

 だからあっちが盗んだとか、改竄したとかいう書類を突きつけられても何を言ってるか分からなかったが、アイツらが面白くなくて難癖をつけてきたことだけは理解した。


 団長がいない以上、決定権は副団長にある。


「そんでまんまと横領した分の対価を回収するべく、最下級の奴隷市場に売られたってわけ。何言ってるんだって話じゃん?」


 マーガレットを見ると、マーガレットの顔は身の上話をしていた時よりもうんと悲しげに歪んでいた。


(何が愛し方を知らねぇだよ)


『運命の人って急に現れるよの?レグルスの辛い事をレグルス以上に悲しんでくれる人……そんな人滅多に現れないけど、そんな優しい人が目の前にいたのなら』


 レグルスはマーガレットを抱き寄せると、ドクンドクンと鳴る心音に耳をすませた。

 何をするんだと慌てる声が耳元で響く。


『その優しい人もレグルスと同じくらい辛い思いをした人だから、もう独りじゃないよって抱きしめてあげて?』


 次第に慌てる声が泣き声に変わり、マーガレットは縋り付くようにレグルスに両手を回した。


(思い出すのも辛かったはずなのに……なんでか、前より辛くねぇの)


 レグルスはマーガレットの肩に顔を埋め、震える肩には気付かないふりをする。


 これはひとりぼっちだった2人が不器用ながらも寄り添い、幸せになっていく話。


 逃げる事に後ろめたさを感じる必要はなく、ただ2人でいる居場所を変えただけなのだと思える日まで。


 そして居場所を変えた2人に―――


「なぁ!マーガレット!」

「どうしたの?」

「雪の間から花が見えたぞ!」


 雪が溶けて、春が来る事を願って。


 そして


「奴隷雇用の件で逮捕状が届いている。身に覚えはあるな?アルスワン伯爵」


 マーガレットに残酷な未来を突きつけた誰かにも、それ相応の天罰が食らうことになるのは2人が逃げて間もない頃の話である。

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