妖精郷の崩壊
明け方のルリが、人間の男を連れてきた。
迷い込んだ旅人だという。
男は傷だらけで疲れ果ててはいたが、若く、そして美しかった。
「夏至祭のゲストだ」
明け方のルリは誇らしげに言った。
「夏至祭の!」
「すばらしい!」
「今年の夏至祭は最高の儀式になるね!」
羽を持つ妖精たちは、口々に身をよじってはしゃぐ。
「ゲストの名前は?」
「セシルというらしいわ」
「セシルはどうやってここまで来たの?」
「はぐれた恋人を探していて、迷い込んだと言っているわ」
「セシルは今、どうしているの?」
「明け方のルリが癒やしているわ。三日もすれば、動けるようになるでしょう」
「それはよかった。心臓も元気になるね?」
「ええ、とても。心臓は夏至祭までにすっかり元気になるわ」
「素晴らしい心臓を捧げられる。妖精郷のために、セシルを大事にしないとね」
「セシルを元気に、しなくちゃね」
それからきっちり三日後の夜、セシルはすっかり回復した。
瑠璃色の瞳を持つ明け方のルリは、看病しているうちにすっかりセシルの虜になっていた。
力強く脈打つその心臓を、夏至祭で古き神に捧げ、その後で喰らうのだ。
もしかしたら、自分は妖精どころか女神にだってなれるかもしれない。
その日まで、セシルを大事にしなければならなかった。
◇◇
明け方のルリは、沼のほとりを散歩する。
セシルと共に。
夜の沼では、死の娘バンシーが歌っていた。
まるでオペラのように、里の人間たちの名を次々と呼び、その死の定めを告げる。
悲しみに泣き腫らした真っ赤な目が、闇の中に爛々と光る。
「あの女優がまた泣き芝居をしているわ。ルリはあいつが嫌い。昔は恐ろしい顔した死神だったくせに、『死の娘』なんて呼ばれてチヤホヤされてから、美女に姿を変えたのよ」
沼の縁にも、何かが潜んでいる。
馬のような体躯に、水草のようなたてがみを持つ獣。
「水馬よ。聞いたことがあるでしょう? 人間を背中に乗せて、水底へ引きずり込むの」
沼の周囲には鬼火が漂い、その周りをぬめぬめした小鬼たちが行進している。
「ウォーター・シェリーよ。気をつけて。人間の魂が大好物なんだから」
セシルは沼の怪異たちに恐怖した。
しかし、同時に憐れみも感じていた。
「こんな小さな沼で恐れられているが――もし聖者が一人でもやってきたら、皆追い払われてしまうんだろう?」
明け方のルリは目を丸くする。
「それはそうよ。聖者は強いもの」
はるか東方のエルサレムで誕生した、十字架を持つ強い神の一族は、この島でも猛威を振るい、いくつもの妖精の棲家を滅ぼしていた。
「それに、この沼は小さすぎる。だからここに棲む妖精たちの力も弱い」
セシルは冷淡に言い放つ。しかし、明け方のルリは言い返した。
「そんなことないわ。沼は広いもの。この沼は、このあたりで一番大きくて、深いのよ」
「『海』を知っているかい?」
「海……見たことはないけれど、聞いたことはあるわ。水が呪われて塩辛くなって、その苦しさでいつも震えている……大きな沼でしょう?」
セシルは笑って、明け方のルリを抱き寄せた。その耳元でそっと囁く。
「海は沼の何千倍、何万倍も大きいんだ。もしこの沼が海に飲み込まれたら、水馬たちは自分たちが溺れてしまうし、ウォーター・シェリーなんて鯨という巨大な魚に一飲みにされてしまうよ」
「バンシーは?」
「バンシーの声は、あまりに広すぎて陸の誰にも届かない。……怖いかい?」
「見たことがないから、わからないわ」
「ならば、いつか連れて行ってあげよう」
セシルは妖しく微笑み、明け方のルリを強く抱き寄せ、口づけをした。
◇◇
「人間は馬鹿だ。世界を『横』にしか見ていない――」
弁を振るうのは、明け方のルリの友人、十一月のアンだ。
「明け方のルリは、生まれてから間もないから知らないのさ。人間の世界が横なら、妖精の世界は『縦』なのさ。海だの東方だのが広くたって、それは上っ面だけの話。広がりきったらおしまいだよ」
十一月のアンは両手を思い切り広げ、おどけたように視線を右から左へ動かしてみせる。
「そのうち、世界のあちこちで戦いが起こって滅びるさ。でも、妖精の世界は深いんだ。地獄の手前までが私たちの縄張りなのさ。そして、妖精の世界には戦争がないから、永遠に滅びない」
「でも……」
明け方のルリは首を傾げる。
「長老たちが言っていたわ。エルサレムの神は恐ろしい力で、妖精の世界の上に蓋をするように、海や山や人間の国を作ったって。だから、私たちは邪魔者になって、みんな鯨に飲み込まれてしまうって」
「だからこその、夏至祭だろ?」
「ああ、そうか。……そうね、夏至祭ね。セシルの心臓を捧げれば、きっと」
「そうだよ。きっと明け方のルリは女神になる。私たちも強くなる。海がここまで押し寄せても、飲み込まれはしないさ」
◇◇
ミッドサマーの夏至祭まで、あと一月。
明け方のルリとセシルは、まるで夫婦のように暮らしていた。
妖精の里で共に暮らすことで、人間は少しずつ妖精へと近づいていく。
そしてその方が、心臓はより妖精の魔力に馴染むのだという。
「ねえセシル。夏至祭の日に、私はあなたを太陽に捧げるわ。この石のナイフであなたの心臓を取り出すけれど、やり方に希望はある?」
セシルは明け方のルリを抱きしめ、髪を撫でながら答えた。
「そうだな。ならば僕の胸を、まずは横に切り裂いて、それから縦に切り裂いておくれ。必ずだ。約束だよ」
「必ずね。約束するわ」
セシルはふと思いついたように尋ねた。
「ところで、君と仲の良いあの妖精……十一月のアン。なぜそんな名前なんだい?」
「十一月に生まれたからだと聞いているわ」
「それなら――」
セシルは含みのある目で彼女を見た。
「明け方のルリは、明け方に生まれたのかい? そもそも、妖精はどうやって生まれるんだ?」
「私は、『明け方の瑠璃』……ここに来た時にそう繰り返し名乗ったと長老が言っていたわ。妖精がどうやって生まれるのか、私は知らないの」
セシルはただ一言、「そうか」とだけ答えた。
◇◇
夏至祭の日が訪れた。
夏草は風に揺れて甘い香りを振りまき、鳥たちは祝福するように空を舞う。
太陽が赤く、高く燃えていた。
石柱に囲まれた台座に横たわるセシル。
すべての妖精たちが周囲に集まっていた。
オレンジ色の篝火が焚かれ、十一月のアンをはじめ数名の妖精が柱の周りを舞い踊り、神々を讃える。
やがて、セシルの前に明け方のルリが立った。
その手には鋭利な石のナイフ。
「約束通りにやってくれ」
「約束通りにやってあげる」
夫婦のような阿吽の呼吸。
セシルの剥き出しの胸を、ナイフが切り裂く。
横に一文字。そして、縦に一文字。
生まれて間もない明け方のルリは知らなかった。
それが、異教の神を退ける、最も力ある「十字」の印であることを。
流れ出すセシルの血。しかしセシルは苦悶の中で哄笑した。
傷口から、凄まじい光が迸る。
「妖精共よ。十年の間、厳しき戒律を守り、正式に聖者と認められしセシル・ジョルジュの血の奇跡を見よ!」
セシルは叫び、立ち上がった。
その体はエルサレムの神の加護を受け、まばゆく輝いている。
その手には、いつの間にか鉄の剣が握られていた。
「沼に隠しておいたのだが、臆病な水馬どもは鉄の臭いに近寄りもしなかったよ」
セシルはまず、聖なる光を浴びて動けなくなっていた十一月のアンに向かって十字を切り、助けてと哀願するその首を撥ね飛ばした。
妖精たちは逃げ惑い、ある者は血を浴びて消滅し、バンシーは髪をかきむしりながら崩れ落ち、水馬たちは沼深くへと逃げ込み二度と浮かんでこなかった。
妖精達はいなくなった。
ただ一体、その場に座り込み、呆然としている明け方のルリを残して。
明け方のルリは、震える声で言葉を絞り出した。
「みんな、壊れてしまった……。なぜ壊したの? なぜ滅ぼしたの? 私の故郷を……」
セシルは冷たく、黒い瞳を伏せた。
「ここは君の故郷ではない。私は、瑠璃色の瞳の『取り替えっ子』をずっと探していた。……十年の間、片時も忘れずに」
セシルは語る。
ある明け方、恋人のラピスを沼に連れて行き、花飾りを贈った。
朝早くにしか咲かない花で作った冠だった。
「ラピスの瞳は明け方の瑠璃の色だ」そう声をかけると、彼女は嬉しそうに「明け方の瑠璃」と繰り返した。
だが、それが最後だった。
ほんの少し目を離した隙に、ラピスは皮膚のない醜い豚に姿を変えられていた。
花飾りをつけた豚は、一声鳴いて崩れ去った。
チェンジリング。
妖精は美しい人間の赤子や娘を好み、醜い身代わりを残して連れ去ってしまう。
大人たちはセシルを責めなかったが、彼は諦めなかった。
「この日のために修行し、この日のために彷徨ったのだ。明け方の瑠璃色の瞳を持つラピス……君に海を見せてあげよう」
セシルは初めて、心の底からの笑みを彼女に向けた。
だが、振り向いた明け方のルリ――ラピスの瞳は、もはや夜明けの色をしていなかった。
光を失った深淵のような黒い瞳が、虚ろにセシルを見つめ返した。
そして、最後の妖精は人間の娘に戻り――妖精郷は完全に崩壊した。




