2章 おまけ 「依る」
「……うるさい」
王都ブレイビアのギルドは、いつ来ても騒がしい。
金属の擦れる音。笑い声。怒鳴り声。酒の匂い。
人が多い。それだけで、息が詰まる。
ここには、いつも人がいる。
でも――居場所は、ない。
依頼書が並ぶ掲示板の前で、ティナは立ち止まっていた。
立ち止まっていた、というより、動けなかった。
背中に、視線を感じる。
好奇心。警戒。値踏み。
そして、必ず最後に来るもの。
――欠損。
右肩の先は、もうない。
布で隠しても、鎧で覆っても、気づく者は気づく。
気づいた瞬間、距離が生まれる。
「……」
昔は、違った。
力があれば、前に出れば、それでよかった。
でも、右腕を失ってから、世界は変わった。
近づいてくる者は、理由がある。
同情か、興味か、利用か。
信用できるものは、何一つない。
だから、期待もしない。
ギルドは仕事を探す場所。
人と関わる場所じゃない。
それだけでいい。
――そう、思っていた。
「……あんた」
声がした。
振り返る前から、わかる。
まただ。
また、声をかけてくる。
男。
年齢は少し上。
前に出る感じじゃない。
装備は悪くないけど、強そうには見えない。
うるさそうな街。
どうでもいい人間たち。
その中の、また一人。
「ずっと立っとるけど、仕事探し?」
変な訛り。
軽い口調。
……正直、面倒だった。
放っておいてほしい。
関わらないでほしい。
どうせ、長くは続かない。
「……別に」
短く返す。
この程度で引くなら、それまで。
引かないなら、もっと面倒。
男は少しだけ目を細めて、掲示板を見る。
それから、ティナの方を見た。
視線が、一瞬、右肩に落ちる。
――来る。
同情か。
忠告か。
「危ないからやめとけ」か。
ティナは、無意識に体を硬くした。
でも。
男は、何も言わなかった。
「Eランクからやな。ゴブリン討伐」
それだけ。
距離を、詰めてこない。
説教もしない。
憐れみもない。
ただ、事実を言っただけ。
……変な男。
特別じゃない。
まだ、何者でもない。
ただの、声をかけてきた男。
そのはずなのに。
なぜか、その場を離れる気になれなかった。
─────────────────
ユウトは、前に出ない。
最初は、それが理解できなかった。
強いのに。
判断も早いし、魔法も正確。
前に出れば、戦闘はもっと楽になる。
「後ろにいる方が、役に立つから」
そう言って、当たり前みたいに下がる。
――逃げている。
そう思った。
私みたいに、
失ったものから目を逸らしている人間だと。
でも、違和感はすぐに積み重なっていく。
戦闘が始まると、
ユウトは迷わない。
支援魔法を、
“使っていいか”なんて聞かない。
当然のように、
私の動きに合わせて魔力を流す。
速くなる。
重くなる。
踏み込みが、確実になる。
それを、誇らない。
「うまくいったな」
それだけ。
自分が何をしたか、
どれだけ助けたか、
一切口にしない。
――怖がらない。
私の強さを。
私が、斧を振るうことを。
右腕がないことも、
全部、ただの事実として見る。
特別扱いもしない。
腫れ物みたいにも扱わない。
ある日、聞こえた。
「でも…片腕だろ?」
「危ないって」
「ユウトの隣でいるからイキってるだけだろ?」
いつものことだ。
聞こえないふりをする。
そうやって、生きてきた。
でも――
「聞こえてるで」
ユウトが、立ち止まった。
振り返って、
噂していた連中を、正面から見る。
声は低くて、
冗談の余地がなかった。
「腕の数で強さ決めるなら」
「お前ら、もう引退した方がええ」
空気が、張り詰める。
「影で言うんは、楽や」
「でもな、前で斧振ってるんは、ティナや」
――なんで。
私の代わりに、怒る。
「文句あるなら、本人に言え」
「言えへんのに噂流すんは、一番ダサい」
誰も、何も言えなかった。
歩き出す時、
ユウトはいつも通りだった。
「行こ」
それだけ。
褒めない。
慰めない。
守った自覚すら、なさそうだった。
怖くなった。
この人は、
私を“欠けた存在”として見ていない。
だから、
守ることに理由がない。
ある日、商店街で買い物をしている時
「これ、使い」
そう言って、
小さなバッグを差し出された。
「……なんで」
「物、持ちにくそうやったから」
それだけ。
特別な意味もない。
感謝を求める気配もない。
――何もない私に。
名前も、立場も、
失ったものだらけの私に。
当たり前みたいに、何かをくれる。
ユウトは、暗くない。
誰とでも話す。
笑う。
場を和ませる。
私と、正反対。
「この人は、逃げている」
「弱い」
そう思う。
でも。
捨てない。
噂も。
欠損も。
危うさも。
全部知った上で、
隣にいる。
気づいたら。
いないと、落ち着かなくなっていた。
声が聞こえないと、不安になる。
無意識に、位置を確認している。
――危ない。
分かっている。
これは、恋じゃない。
そんな軽いものじゃない。
もっと近い。
もっと重い。
生きるために、
必要な存在。
「独りで立つ」
そう思っていた幻想は、
いつの間にか――崩れていた。
でも、まだ。
この気持ちの名前を、
私は知らない。
────────────────
「……ユウト」
声は、ほとんど空気に溶けた。
返事はない。
白い天井。
消毒薬の匂い。
静かすぎる部屋。
ベッドの上で、ユウトは眠っている。
顔色は悪く、呼吸は浅い。
――一、二、三。
胸が上下するのを、数えてしまう。
――四、五。
意味がないと分かっているのに、やめられない。
ここはギルドハウスの療養所。
安全な場所。
もう、戦闘は終わっている。
それでも、体が動かない。
ティナはベッドの横に座ったまま、
離れられずにいる。
起きるかどうかなんて、
自分にはどうにもできない。
それなのに――
見ていないと、怖い。
指先が、無意識に動く。
ユウトの外套の端を、掴んでいた。
……なぜ?
理由が、分からない。
ただ、
ここに触れていないと、
何かが崩れてしまいそうだった。
「……」
声を出そうとして、やめる。
「起きて」
そう言えば、
もし、起きなかったら。
その想像が、
胸の奥を締めつける。
だから、言えない。
代わりに。
「……ユウト」
名前だけを、呼ぶ。
何度も。
小さく。
確かめるみたいに。
――もし、この人がいなくなったら。
考えただけで、息が詰まる。
また、一人になる。
また、
世界と、刃を向け合う日々に戻る。
それは、できる。
戦うこと自体は、できる。
でも――
“意味”が、なくなる。
気づいた瞬間、
ティナは自分が怖くなった。
こんなふうに、
誰か一人に縋っている自分。
強さだけで立ってきたはずなのに、
今は、立てない。
でも。
手を離したくない。
離したら、
もう戻れない気がした。
これは、依存かもしれない。
重い。
危うい。
間違っているかもしれない。
それでも。
それでも――
ユウトの呼吸が、
また一つ、上下する。
それを見て、
胸の奥が、ほんの少しだけ緩んだ。
ティナは、答えを出さない。
出せない。
ただ、心の中で思う。
――依存でもいい。
――重くてもいい。
それでも、私は――




