057 -Aono-
蒼乃は念入りにシャワーを浴びてから、なるべく早く自室に戻った。律はベッドの縁に座ってスマホをいじっていた。
「蒼ちゃんも早いじゃない」
律が蒼乃の服を着ている。冬物のジャージであるが、些かサイズがでかい。昔流行った言葉で表すなら萌え袖というやつだ。控えめに言って可愛い。
「何してたの?」
「お姉ちゃんの相手。そうだ、蒼ちゃん。お願いがあるのですが」
律のお願いなら大抵のことは聞く。
「卒業アルバム見せて?」
確かに寝るにはまだ早い時間だ。でも、どちらかと言えば見せたくない。過去の自分よりも今の自分を見てほしい。
可愛くお願いをされてしまったので、蒼乃はクローゼットにしまっておいた卒業アルバムを二冊持ってきた。
「律のも今度見せてね」
「はるちゃんからたくさん写真をもらってるくせに」
律は中学のアルバムから開いた。何組だったか聞かれたので「三組」と答える。
「一年前の蒼ちゃんもべっぴんさんですな。黒髪っていうのが慣れないけど」
律がアルバムを見ている間は暇だったので、ベッドに上り、律を後ろから抱き締める。蒼乃と同じシャンプーを使ったはずなのに、いい匂いがするのはなぜだろう。
「小学生の頃から蒼ちゃんは雰囲気が変わらないね」
律の体に腕を回している。そのまま胸を触りたい気持ちがあったけれど、まだ早いと思って我慢をする。でも頭の中は律のことでいっぱいだった。
律が一通りアルバムを見終えたところで、そろそろいいかなと蒼乃は思ったものの、腕から律が逃れようとする。
「ちょ、蒼ちゃん。マニキュア塗るって話だったでしょ!」
「忘れてたわ」
もうすっかりという感じ。欲望が前面に出てしまっている。よろしくない。
律が鞄から蒼色のネイルを取り出す。
「まずは私が蒼ちゃんに塗ってあげる」
蒼乃の靴下を律が脱がせようとする。その仕草さえも扇情的に感じられてしまい、蒼乃は自分を戒める。
マニキュアは冷たかったけれど、一生懸命な律の手は熱かった。途中「あっ」と不穏な声は聞こえたものの、十枚全ての爪が彩られた。
「次は律ね」
足の爪が他のところにつかないように、蒼乃は律と場所を入れ替わる。
ベッドから放られた律の細い足。靴下を脱がす感じが、下着を脱がす時と似ているなと思った。さらに、律の綺麗な白い足が美味しそうだなとも思ってしまう。この煩悩を年末年始に取り除くことはできるのだろうか。
さすがに足に齧り付いては声を上げられそうだったので、軽く撫でるだけにしておいた。
「蒼ちゃんは器用だねー」
「律の爪の形が綺麗だから塗りやすいだけよ」
本当に綺麗。舐めたい。
十枚の爪を塗るのにそんなに時間はかからなかった。時間がかかるのは乾かす方だ。
「蒼ちゃん、マニキュアって乾くのに三十分から一時間かかるって」
律がスマホで検索してくれた。思ったよりも長い。しばらく律はお預けになってしまった。
そこで蒼乃は名案を思いつく。
「律、数学テストの時のお願い使うわ」
「なんでしょう」
すでに律の目は訝し気であった。
「音読をしてほしいの。小説の」
「音読? …………ぁあ、嫌だよ!」
蒼乃の意図することが分かったらしく、律は断固拒否の姿勢に入る。
「でも、〈お願い〉だから」
「それなら私も〈お願い〉使って拒否します!」
「律の〈お願い〉はさっき使ったでしょう。卒業アルバム見るので」
「言ってない! 言ってない!」
「私は〈お願い〉だからアルバムを見せたのよ。もう遅いです」
子供の理屈であった。屁理屈でもなんでもいい。得られる結果が全てだ。
蒼乃は足元に気を使いながら、一冊の小説を取る。全三巻あるうちの二巻目を手に取る。
「ページはここね。小さい声でいいから」
「そんなもの大きい声で言えるか!」
この本には日常で使う日本語が散りばめられている。単語の一つ一つを拾う分にはやましいことなんてほとんどない。ただ、単語を並べられている通りに読むと淫猥な文章ができあがる。小説家というものは、文字を組み立てる天才なのだと思う。
「律は私の〈お願い〉を聞いてくれないの?」
残念そうに言うと、律の真面目な瞳がぐらっと揺れるのが見えた。明らかに蒼乃の横暴さが溢れるお願いだというのに、律は責任を感じている。
「律」
名前を呼ぶと律の肩が震えた。蒼乃は冷静にもう少しだなと推測する。
「クリスマスだし、お願い。このページだけでいいから」
小さな唸り声とともに腕が伸びてきた。開いた本をそこに挟む。
律は声に出す前に、広がる活字の海に目を落としていた。面白いくらい、顔と耳が赤くなる。言っておくが十八禁の本ではない。一応全年齢対象のはずだ。小学生がレジにこの本を持っていっても咎められない。
「本当に読むの……?」
「読み聞かせて」
律が小さい口で小さい声を出して、活字をなぞる。律は読むことに一生懸命で気づかなかったと思うが、蒼乃はスマホの録音アプリを起動していた。
文字に色をつけるとしたら、きっとピンク色である文章を、ただただ律が音読する。音読なんて小学生がやることなのに、蒼乃はすごく興奮した。自分が変態なのだということも自覚する。
「おしまい!!」
勢いよく律が本を閉じた。
やることをやっているというのに、律の熟れ具合は面白いほどだった。
「読みたいなら貸すけど?」
「…………遠慮しときます」
悩んだところがまたいじらしい。
「この前来た時は立ち読みしてたじゃない」
「ページが違う!」
蒼乃は笑いながら本を受け取り、そっと本棚に戻した。
「蒼ちゃんは意地悪なところあるよね」
「そうかしら」
まだ足の爪が乾いていなさそうだったので、蒼乃は律の隣に座った。真っ赤なままの耳を上から眺めるために、彼女の髪をかきあげた。さらさらの髪がゆらりと流れる。
「蒼ちゃんの変態」
必死な罵倒も、蒼乃の機嫌をよくするだけだ。小さな耳を程よく摘む。
「私が変態だったら嫌いになる?」
「……ならないけどさぁ……」
「私は律がとんでもない変態だったとしても好きよ」
「私は変態なんかじゃないよ」
どうせなら変態な面があってほしいと願う蒼乃である。
「律、大好き」
赤くなった耳元で蒼乃が囁くと、律の体が分かりやすく跳ねた。この前は蒼乃も必死だったので気づかなかったが、律は耳が弱いらしい。
「耳、弱いの?」
耳元で聞くと、律が体をもぞもぞさせる。新しいおもちゃを与えられた気分だ。
「りーつ」
律は体を傾けて、蒼乃から逃れようとする。蒼乃は逃げる腕を取り、何度も彼女の名前を呼ぶ。触れなくとも律を感じさせられることが嬉しい。
「マニキュアもう乾いたかしら」
「まだ!」
乾いたら何をされるのか分かっているらしかった。律は必死に否定する。蒼乃は呼吸を整えて律の気持ちができあがるのを待つことにした。
「なら乾くまで何かしましょう」
「なにかってなに?」
「律がなにかを提案しない限り、私は好きにするけれど」
言葉の後半を耳元で言うと、「もう!」と大きめな声が飛んでくる。蒼乃は「しーっ」と人差し指を口に当てた。
「うるさくすると口塞ぐわよ」
何でとは言わない。律は大人しく黙ってスマホを取り出した。カチッとつけたロック画面にはたくさんの通知がきている。
「それ、お姉さんから?」
「そう……。返事するのやめたらめっちゃ送ってくるの。ブロックしようかなぁ、もう」
指をスライドさせて通知を全消ししていた。
「蒼ちゃんはいつもどんな動画見てるの?」
しばらく動画を見て時間稼ぎをする魂胆らしい。蒼乃は自分のスマホを取り出し、動画アプリを開いた。閲覧履歴は一週間以上前で、オススメの小説を投稿しているチャンネルだった。律と見て盛り上がるものではない。
「勉強、読書以外に蒼ちゃんはいつもなにをしてるの?」
「律のこと考えてる」
嘘ではない。いつも律にまつわることを考えている。デート前なら行く場所の情報を集めるし、デート後ならその日の思い出を振り返る。
「本当に私のこと好きだねー」
「本当に律のことが好きなのよ」
律は諦めたように笑った。足先で爪をなぞっている。ネイルはあらかた乾いたようで、律の体が蒼乃に寄りかかる。
「実は私も蒼ちゃんのこと大好きなのですよ」
「知ってる」
蒼乃はリモコンで部屋の電気を消した。真っ暗にすると律が見られないから常夜灯である。キスをするよりも先に律の体をベッドに押し倒す。
「声、我慢してね」




