045 -Ritsu-
下っ腹は相変わらず痛かったが、蒼乃が手を握り、話をしてくれるだけでずいぶんと楽に感じた。
中学の栄光の話をしているところで、保健室に来客があった。カーテンは閉め切られているので姿は確認できなかったが、声で分かる。担任の八重樫である。英語の話なんかするから呼び寄せてしまったのかもしれない。
「アイザワさん、いるでしょ」
どっちのアイザワのことを言っているのだろうか。律が思ったことを南が代弁していた。
「あなたのクラスにはアイザワさんが二人いるでしょう。どっちのことかしらね?」
「両方よ」
足音がして、蒼乃が隠れる暇もなく、カーテンが開いた。別に下心はなかったので、手も離していない。
「アイザワさん」
「「はい」」
二人で返事をする。おかしい。
「ではまず簡単な方のアイザワさん」
「はい」
何で「相沢律」って呼ばないんだろうと思う。簡単な方のってつけると長くないか。
「体調はどう? まだ顔色はよくないようだけど」
「朝よりはマシになりました」
「それならよかったわ。無理しないでね」
律を職員室に呼びつけた時よりもずっと優しい声色だった。しかし、蒼乃を呼ぶ時は言葉にトゲが生える。
「それで難しい方のアイザワさん」
「はい」
「授業はどうしたの?」
「猛烈な吐き気に襲われまして」
律の手を握ったまま、真顔で嘘をつく姿は面白かった。
「あ、でもご心配なく。今はそこそこに元気です」
「はぁ」
八重樫は大きくため息をついた。疲れているその肩を南が掴んだ。
「体調不良の子を追い返すなんてできないでしょう。ほら八重樫先生、顔色が悪いわね。お茶飲んでいく?」
「一杯もらえるかしら……」
八重樫は南の手をしっしっと叩く。南お茶を入れにカーテンの外に出て行った。
「えーっと難しい方のアイザワさん。授業はなるべく出るようにしなさい。内申点に響くから」
蒼乃は八重樫の方を特に見ずに小さく返事をしていた。また律が保健室で休むことになったら、蒼乃は付き添いにくるだろう。
「二人のアイザワさんも温かいお茶飲む?」
律がコクコクと頷くと、蒼乃が「飲みます」と返してくれた。八重樫はもうなにも言う気にもなれないようで、大きなため息を再びついた。
律はだるい体を起こし、紙コップをもらう。中身は梅昆布茶だった。そういえば小学生の頃も、仲の良かった保健室の先生から梅昆布茶をもらった記憶がある。
「おいしー」
温かい飲み物は、今の律にとって薬も同然だった。これを機に水筒の中身を麦茶から温かいほうじ茶に変えてもらおう。
「まったく授業中だと言うのに……」
「八重ちゃん、授業は?」
「私は空き時間です」
律と八重樫のやり取りを聞いて、南は小さく笑った。
「本当に生徒から八重ちゃんって呼ばれているのね」
「やめなさいって言っても聞かないのよ」
八重ちゃん呼びって可愛くていいと思う。
「私ももう二十七よ。ちゃんづけで呼ばれる歳じゃないのよ……」
「八重ちゃん、全然若く見えるけど」
「高校生に言われても嬉しくないわ」
それもそうかと思う。律は今、誰もが羨む女子高生なのだ。
八重樫はしっかりお茶を飲み終えてから、蒼乃に向き直って教師らしいことを言った。
「相澤さん、次の授業にはちゃんと出なさい」
再びカーテンは閉じられた。律もお茶を飲み終え、もぞもぞと布団の中に戻る。左手は相変わらず蒼乃と繋いだままだった。
「蒼ちゃん、サボりバレてるじゃん」
「八重先生の目の前で教室を飛び出したから」
「そんなに急いできてくれたなんて嬉しいなぁ」
体調が悪い時というのは心細くなるものだ。蒼乃が来てくれたと分かった時、とても嬉しかった。それに素行の良い律からすれば、授業をサボってまで一緒にいてくれることには大きな意味が生まれた。
「律は次の授業どうするの? 体調は?」
「うん、大分良くなってきたから出ようかな」
律が欠席すると言ったら蒼乃がこのままここに残りそうな気がした。それに体調は多少良くなっていた。薬のおかげか、蒼乃のおかげか。
「でもギリギリまでここにいる……」
布団と彼女の手の誘惑には勝てない。
「律が体調崩したら看病するからいつでも呼んでね」
「お姉ちゃんと同じこと言う」
二人から看病されるとなったら、地獄だろうなと考える。心が休まる時などないだろう。
「蒼ちゃんが具合悪い時も私が行くからね。……励ますことくらいしかできないけど」
お粥もチンするやつしか作れない。家庭科というのはそういう時に必要なのか。
彼女のためになることなら、覚えないとなぁと甲斐性なしな律が日頃の考えを改める。尽くされるだけではだめなのだ。
「蒼ちゃん」
彼女の名前を呼ぶ。「何?」と確かな返事が戻ってくることが幸せだった。
「蒼ちゃん蒼ちゃん」
彼女の名前を連呼する。蒼乃も抑え気味な声で「律」と呼んでくれた。
チャイムが鳴る。
律は少し後ろ髪を引かれながら、ベッドから這い出た。上履きに足を入れ、蒼乃と手を繋ぐ。家から背負ってきたリュックは蒼乃が持ってくれた。
「あらあら」
手を繋いで出てきた様子を見て、南は顔をほころばせた。今さらだが南も当然律と蒼乃の関係を知っているようだ。
「お幸せに」
そこはお大事にだと思う。




