026 -Ritsu-
テスト一週間前になり、部活動も活動停止期間となる。遥が「やばいやばい」と言っていたが、彼女はなんだかんだで良い成績を維持していた。要領がいいのだと思う。日向も数学科目を苦手とはしているものの、平均点は取れている。蒼乃は言わずもがなで、結局死線を彷徨っているのは律だけだった。
約束通り、律は放課後教室に残り、蒼乃と勉強をしていた。本来の座席は蒼乃が律の後ろに座るが、勉強中はクラスメイトの席を借りて、横並びで励んでいる。
「全然解ける気がしない……」
「英語ばっかに気を取られて約束のこと忘れないでね」
見せびらかすように、蒼乃は数学の問題集に取り組んでいた。
「赤点取ったら怒るから」
「怒った蒼ちゃんなんて見たことないねー」
「見たい?」
「いいえ」
蒼乃は怒らせたらダメなタイプだと思う。
「英語なんて予習するだけで精一杯なのに……」
テスト勉強の前に、明日の予習だった。担任の八重樫は律を当てがちなので、油断ならない。
「律、そこスペル間違ってるわ」
「本当だ……」
字が汚くて自分でもよく分からなかった。
「ああ、勉強いやだ……」
シャーペンを放り出し、ノートに顔を埋める。蒼乃に左耳を引っ張られる。
律はあまり勉強が好きではない。それなのに進学校に入れたのは、一種の才能である。ただ、高校レベルの勉強となると才能だけではカバーできなくなった。
もちろん勉強はきちんとしている。する姿勢はある。しかし、分からないところばかりだとやる気を失ってしまう。
未だに耳を引っ張られてた。仕方なく律は顔を上げる。
「どうしたらやる気出る?」
蒼乃に聞かれて考える。教室には二人しか残っていなかったので、律は冗談を言った。
「蒼ちゃんがキスしてくれたらやる気出るかも。なーんて」
言ってから冗談にならないことを悟る。左耳をつまんでいた指が、耳の形をなぞる。
「律。こっち向いて」
冗談だよ、と言い返す雰囲気じゃなくなった。律は中身のつまっていない脳を振りながら、蒼乃の方を向く。
やや吊り目気味な目が律を捉える。
目を閉じるものだと悟り、律は両の目を閉じた。柔らかいものが唇に当たる。吐息も感じた。
「ほら、これでやる気出たでしょう」
目を開けると、律から離れていく蒼乃が見えた。照れた様子もなく、しかし慣れたわけでもなく、戸惑いの混じった様子だった。
「学校でするとは思わなかった……」
「律が言ったんじゃない」
言ったけど。まさか本当にするとは思わなくて。思い返したら耳が熱くなるのを感じる。
「なんかアレだね。背徳感って言うの。悪いことをしたみたいな感じがする」
「二人の秘密だからいいのよ」
蒼乃が人差し指で机の上を叩く。
「勉強」
「はい……」
シャーペンを握り直すも、余計に集中力が欠いた。唇に触れた感覚がまだ残っている。英文が全然読めない。
触感を変えようと思い、リュックから水筒を取り出した。中身は安物の麦茶だ。あまり残っていなかったので、律は中身を煽った。
プラスチックの飲み口は硬い。
空になった水筒の口もきっちり閉める。一息ついてノートに目を落とした。呆れるくらい汚い字だった。昔からどうも字を書くのは苦手である。レタリングなら得意なのだが。
蒼乃がいるうちに英語の予習を終わらせる。その先はもう英語に触れたくなくて、化学の問題集をやることにした。
英語よりはペンが進む。
二人の間にしばらくの沈黙が続くが、特に居心地は悪くない。
根は真面目な二人だ。ひとたび集中モードに入れば、時間が過ぎるのはあっという間だった。
「もうこんな時間ね」
蒼乃の言葉で律も時計を見た。もうすぐ最終下校の時刻だった。初めはガヤガヤと人の気配がしていたフロアも静まり返っている。
「そろそろ帰ろっか」
律はノートを閉じた。化学は今日持って帰らないので、ロッカーに放り込んでおく。
蒼乃も勉強道具をロッカーに戻しに来る。横目で律のロッカーの中身を見られた。何も言われなかったが、何か思われてそうだった。
「今年中には片付けるよ……」
一応予防線を張っておく。蒼乃は「はいはい」という感じで信じていない。
「律」
「はい?」
蒼乃が両手をロッカーの上につく。右腕と胴体と左腕とロッカーで輪ができた。そのサークルの中に律が閉じ込められている。
「勉強頑張ったでしょ? 貴方も、私も」
「まぁそこそこできたんじゃないかな」
進捗状況は上々。一人でやるとついスマホをいじったりしちゃうので、成果は出たと言える。
「頑張ったならご褒美があってもいいでしょう」
ズイッと蒼乃の顔が寄せられる。身長差は七センチ。律は見上げる形となる。
「目、瞑って」
まるで呪文のようだった。律は言われるがまま目を閉じ、半開きだった口を閉じた。教室で二回目のキス。舌が混じり合いたそうにしていたが、お互いそれは我慢した。さっきより下唇が少し強めに押されているのを感じる。
二人の呼吸だけ聞こえる。もう少し耳を澄ませば互いの心音も聞こえそう。
それは静かだったからではない。直径一メートルに満たない範囲が、二人だけの世界になっていたからだ。
だから廊下から聞こえてくる外音には気づかなかった。
ガラッと引き戸が開いて、反射的に蒼乃が姿勢を正した。
「まだ残っていたんですか」
担任の八重樫だった。
「簡単な方のアイザワさん。英語の勉強は進みましたか?」
「えー、まぁ予習は進んだかなぁ」
「それはよかった。今回のテスト、期待してますよ」
明らかなプレッシャーを受けながら、急いで帰り支度をする。八重樫は教壇に立ち、動かない。二人を見送ってから出ていくつもりらしい。
「じゃあ八重ちゃん、さようなら」
逃げるように律が後ろのドアから教室を出た。蒼乃もそれを追う。
「アイザワさん」
どちらを呼んだのかは分からない。しかし、止まったのは蒼乃だけだった。
八重樫は窓の方を指す。
「カーテン締めた方がいいですよ」
言わんとすることを理解し、蒼乃は自身の不備を呪う。
「蒼ちゃん! 帰るよー」
「今行く」
八重樫に会釈をして、蒼乃も教室の外に出た。




