019 -Aono-
律と学校で別れ、急いで家に帰った。超特急で自転車を漕いだので汗をかいている。時間は惜しいが、体の汗を流すためにシャワーを浴び、ちょっと、一応、念のため、見られても恥ずかしくない下着を身につけ、シャツを羽織った。
財布とスマホを持ち、母親に声をかけてから家を出た。
乗りたかった電車には乗れた。乗り換え駅で、律に教えてもらったケーキ屋を探す。一本道を間違えて焦ったものの、なんとかケーキ屋は見つけられた。
ショーケースに並ぶケーキはどれも綺麗であった。蒼乃は自分はどれにしようか悩み、きっと律も食べたがるであろうチョコケーキにする。必然的に自分の好みのものとなった。
しかし、家には律の母親がいるのだから、ケーキの交換なんてできないかもしれない。
蒼乃は時間を確認して、ケーキを崩さないよう慎重になりながらも、駅まで急いだ。
電車が五分置きにきてくれるおかげで、待ち合わせの時間には間に合う。でも、おそらく律は早めに待ち合わせにいるんじゃないかと思う。
はたして、想像通りに律は改札の前にいた。
「蒼ちゃん!」
律も服を着替えていた。白いカットソーに七分丈のジーパン。足元はつっかけサンダルとずいぶんラフな格好で、ここが彼女の地元なのだということを実感する。
「律、ごめん。待たせちゃった?」
「全然待ってないよ」
学校では普通に手を繋ぐ蒼乃たちであったが、ここでは繋ぎづらかった。正確には、律が繋ぎたくなさそうだった。予備動作でそれを感じた蒼乃は、仕方なく何もせずに律の隣を歩いた。
「コンビニ寄っていい?」
駅の階段を下りたところで、律がコンビニを指す。断る理由は何もないので「もちろん」と答え、一緒に冷房の効いた店内に入る。
「母さんが飲み物は自分で買えって。蒼ちゃんは何が飲みたい?」
「私は別に何でも……」
「えーせっかくだから好きなの選んでよ。高いものでもないんだしさ」
「じゃあアイスティーで」
蒼乃の飲み物はすぐ決まったが、律の飲み物が決まらない。外ではよくメロンソーダを好む律であったが、あいにくこのコンビニにメロンソーダはない。
「ジンジャーエールかなぁ、それともコーラ?」
炭酸が好きなところは変わらないらしい。迷いに迷った結果、律はジンジャーエールとアイスティーを持ってレジへ行く。小銭を支払い、コンビニを出た。袋をもらわなかったので、律の両手にペットボトルが握られている。
「うちね、ここから五分くらいだから」
そう言って律が歩き出す。彼女にとっては慣れ親しんだ道でも、蒼乃にとっては全てが新しいものに見える。律の周りの景色をしっかり吸収しようと集中しているうちに、目的地に着いた。
おそらく建売住宅だろうなという一軒家。表札にはシンプルに『相沢』とあった。
「ど、どうぞ」
どこかよそよそしくなる律が玄関を開けてくれた。蒼乃は覚悟を決めてスニーカーで踏み込む。
「おじゃまします」
蒼乃の声が家の中まで聞こえたのか、それとも律が鍵を開ける音を聞きつけたのか、奥から人の足音がした。
迎えてくれたのは四十半ばくらいの細身の女性だった。雰囲気から律の母親だと分かる。
「あなたが蒼乃ちゃん? ようこそ」
「初めまして。相澤蒼乃です」
「そんな緊張しなくて大丈夫よ」
さらっと挨拶ができたつもりでいたが、見抜かれていたらしい。
「いつも律がありがとうね」
「いえ、こちらこそ……。あ、これ、ケーキです」
ケーキの中にあったロゴを見て、律の母親の顔が明るくなる。
「まぁ、ここの美味しいのよ。ありがとう、蒼乃ちゃん。夕飯食べたらみんなでいただきましょうね」
ケーキの箱を受け取ると、律の母親は娘の方に向き直った。
「律、お母さんこれから夕飯の買い物に行ってくるからお留守番よろしくね」
◆ ◆ ◆
律の部屋は二階にあった。隣は姉の部屋らしい。
普段の様子から、律の部屋があまり片付いているとは思っていなかったが、思いのほか綺麗になっていた。おそらく蒼乃が来るからと片付けたのだろう。
「その辺座ってて」
どの辺りなのかまったく分からない指示を出して、律は一階にグラスを取りに行ってしまった。
ローテーブルの脇に座るのが王道であろう。蒼乃はベッドに背中を当てる感じで座った。ついでに布団の香りを嗅いだ。律の匂いというか、柔軟剤の香りが強い。洗濯をしたばかりらしい。
律の部屋はあまり特色がない。蒼乃の部屋も似たようなものなので人のことは言えないが、落ち着いたものだ。律の好みが色濃く出ているのは本棚だろうか。蒼乃でも知っている流行りのものから、タイトルだけではジャンルの分からないものまである。
「お待たせー」
わざわざ氷を入れたグラスを持ってきてくれた。グラスをローテーブルに置き、さっき買ってきたアイスティーとジンジャーエールを注ぐ。炭酸のシュワっとした音がまだまだ夏を感じさせる。
「母さん、出かけちゃった」
ぽつりと律が言う。律が視線を下げていたので、蒼乃と目が合うことはない。
「紅茶、飲む?」
グラスをこちらに寄せてきた。カランと氷が動く音がした。蒼乃は「うん」と小さく返事をしてからグラスに口をつける。甘い紅茶だった。蒼乃は砂糖の入っていない紅茶の方が好きだ。
ローテーブルの向こう側で、律もジンジャーエールを口に含んでいた。
「部屋、片付けたの?」
「うん。さすがに蒼ちゃんが来るなら片付けないといけないかなと思って」
「別に散らかったままでも気にしないけれど」
本音だった。片付けが苦手な子として認識しているので、今さら部屋が散らかっていたくらいで嫌いになったりしない。
「えーやだよ。恥ずかしいじゃん」
まぁ恥ずかしいと思ってくれるなら良かろう。散らかっているよりは片付いていた方がいいに決まっているし。
「……隣、座ってもいい?」
提案は律からだった。何気なく最初は向かい合う形で座った二人だったが、明らかに間にあるローテーブルが邪魔だった。
「もちろん」
提案を受け入れると、グラスを手に持ったままの律が右隣にきた。肩が触れそうになる位置に律が座る。蒼乃の背中に汗が伝う。
「いつもこの部屋にいるの?」
「お姉ちゃんが家にいる時は部屋に籠ってることが多いかなー」
「何で?」
「だってテレビ観ててもくっついてくるし、学校で何があったとかうるさいし、気が休まらないんだよね」
蒼乃は素直に羨ましいと思った。蒼乃だってテレビを観ながら律にくっつきたい。
そういえば律の部屋にも小さめの薄型テレビがある。でも、それを観るのは今ではない。
「蒼ちゃんのところも妹さんいるよね? どうなの、姉妹関係は?」
「うちはあまりお互いに干渉しないかな。テスト前に勉強みてあげるくらい」
「お姉ちゃんしてるじゃん!」
「律のところのお姉さんだって頭良いでしょ」
以前に進学先を聞いたことがある。誰でも名前を聞いたら分かるような大学だった。
「私は蒼ちゃんに聞くからいいの」
律の頭が蒼乃の肩にコツンと乗る。背中を流れる汗が増した。
広い家に二人きり。部屋に二人きり。付き合っている彼女と彼女の二人きり。
蒼乃は密着している彼女に腕を回した。細い腰に手をかける。特にリアクションは返ってこなかった。
「蒼ちゃん」
頭は蒼乃に預けたままだったので、蒼乃も律の方は向かず、視線は汗をかいたグラスに注いでいた。
「キスしたい」
心臓が跳ねた音がした気がした。実際は氷が溶けて動いた音だった。
聞き間違いかもしれない、幻聴かもしれないと思いながら、そっと隣を見る。律の耳は赤くなっていた。
「ダメ?」
頭が肩から離れ、緊張のせいか少し涙ぐんだ瞳が蒼乃を見る。
渇いた喉を無理やり動かし、蒼乃は詰まりながら言葉を吐き出す。
「律が、その、私のことを私と同じように好きなら、その、喜んでしますけど?」
「分かんない。……分からないからしてみたい。それでもし違うなと思ったら……やめればいい話だし」
「違うって……」
「いや、ごめん。違くて。なんて言うのかな……。蒼ちゃんとキスはしてみたいの。本当だよ?」
それでキスをしてみて、違ったら……。
蒼乃の脳裏に最悪なシナリオが浮かぶ。
「蒼ちゃん」
理性と感情……いやそんな綺麗なものじゃない。理性と性欲が天秤に乗せられる。
目前にいる律が恋しい。欲しい。
たとえキスをした結果、違うと言われたとしても、彼女の初めてを奪っておきたい。
「律」
短い彼女の名前を呼ぶ。「律、律りつ、りつ」何度も呼ぶ。自分を落ち着かせるためでもあった。彼女の頬に手を触れさせる。熱があるような熱さ。でも自分の手も熱かったので気にならなかった。
ファーストキスに予行練習なぞない。蒼乃はドラマで見たそれに倣いながら、自分の唇を律の唇に重ねた。物欲しくて、初めてだけど少し強めに押し付けた。
多分時間にしたら一秒あったかどうかなのに、時間が止まったように長く感じられる瞬間だった。
理性を表に呼び出して、蒼乃は律から三十センチくらい身を引いた。たかが唇を重ねただけなのに、指先から足先まで茹で上がったように熱い。
「……あはは、同じ好き、みたい」
理性の糸が切れる音が聞こえた。はっきり蒼乃の脳内でプツリと音がした。
先程のキスはお試しだったみたいに、蒼乃は律の唇を奪う。勢いも激しさも増して。
何度も唇を重ね合い、生き残る苦しそうな声で、懇願するように「蒼ちゃん」と呼ばれる。理性の糸は結び直されることなく、律が蒼乃を呼ぶために開けた口に舌を流れ込ませた。他人の舌が思ったより硬いことを知った。
律の中に自分の舌が入っているという背徳感が、蒼乃の背中を押し続ける。
「律」
さすがの蒼乃も息が苦しくなって、名前を呼びながら呼吸を整えようとする。至近距離に肩で息をする律の姿があることを改めて認識する。
「蒼ちゃん、好きだよ」
その言葉はまだキスをしてもいいよというお墨付きだと解釈した。小さな口の中を全て知り尽くしたいという気持ちでキスを続けた。
頭がくらくらする。微量の電流が流れているような不思議な感覚。
律の細腕が蒼乃の腰に回ってきて、皺をつけるように強く握ってくる。シャツが破けても構わないから、もっと強く求めてほしいと思った。
「律」
本当に彼女がいるのか確認するように名前を呼ぶ。甘い声で「蒼ちゃん」って返ってくるものだから、何を焦ったのか蒼乃は律を押し倒していた。
「蒼ちゃん」
拒否をするような呼び方ではなかった。律の顔は真っ赤になっていて、目尻には涙が浮かんでいたけれど、蒼乃を拒否するものはどこにもない。
なんなら押し倒した後、律の両腕が蒼乃の首に回された。戻る道はなかった。
少し戸惑いが滲んだ口づけをしながら、蒼乃の手が白いカットソーの裾に触れた。
「ただいま!」
突然部屋の外から聞こえた声で、蒼乃は我に返った。慌てて押し倒した律を引っ張って起こす。
律と目が合って、恥ずかしくて、戸惑って、結果、紅茶を飲んだ。水っぽくなっていた。




