13)終幕
ニルに名前を呼ばれた気がした。
陶酔した瞳で虚空を見つめるブレアは、こちらへ
視線を戻すと、笑みを浮かべる。
髪を掴まれ、引きずられかけた時、銃声が空間を引き裂いた。
「ユレカ! 立て!」
インと対峙していたニルが声を張り上げる。振り下ろされた
ショットガンを短銃本体で受け止め、拮抗の最中でも
青い瞳は、こちらを向いていた。
「立って、戦え!」
「……ニル……」
涙が止まらなかった。首を振ると、溢れた雫が
ホールの底へと飛び散ってゆく。
「私、ニンゲンじゃないって……パパもママも、
私が食べちゃったんだって……クリーチャーも
私の子供だって聞いて……それでも、ニル、いいの?」
「ユレカ……」
「私は、イヤだよ! 皆の傍にいたかったのに!
……ただ、ヒトの傍にいたいだけなのに……」
涙を流し、顔を押さえる。そこでニルが叫んだ。
「バカ! オマエは、ずっと前からニンゲンだろ!」
「……」
顔を上げると、こちらは何度も目を背けていたのに、
ニルの瞳は、ずっとこの身を捉え続けてくれていた。
「ずっと一緒に居たから分かる! 泣いてたじゃないか!
笑っていただろ! 怒って、たまにワガママを言って……
引っ込み思案の癖にガンコで……でも、優しかった!
オレの欠けた部分も未熟さも、受け入れてくれたじゃないか!
ニンゲンって、そういうものだろ! 自分の行動を
悔いて苦しんで泣いてるオマエの、ドコがニンゲンじゃ
ないって言うんだ! オマエよりニンゲンらしい
ニンゲンなんて、オレは知らない!」
雑音の中、ニルの声だけは澄み切って心に響く。
「で、でも、私、クリーチャーを……」
「それがどうした! オマエの遺伝子が何であろうと
構わない! 世界中の誰がオマエを拒んでも、オレはオマエの
味方だって、言っただろ? オマエだけが、
オレの『ニンゲン』だ!
だから、生きろ! 足掻いて生き続けろ!」
「ニ、ル……」
己を見失った時、自分の居場所がわからなくなった時、
いつでも彼は『見つけて』くれた。
どんなに迷っても、引きとめてくれた。
そのニルに恥じる行動をとってどうするのだ。
ブレアの手を払いのけた。
「いらない……そんな世界、いらない!」
「このままでいいというの? 貴女はクリーチャーを
生み出す遺伝子を持っているのよ? 私達の庇護無しでは
世界の何処にも生きる場所なんか無いわ」
「……それでも、パパとママは差別の中で
あっても自分達の想いを曲げなかったって、思い出した……。
私、ニルを信じてる。ニルも私を信じてくれてる。
だから、ニルを裏切るような真似は出来ない。
他の人と子供を作って生き延びさせてもらうなんて、出来ない」
その言葉にブレアが「馬鹿馬鹿しいわ!」と吐き捨てる。
「だから、あの子にインソムニアの身体をプレゼントすると
言ったのに! 愛し合ってる者同士でないと、子供は幸せに
なれないから……だから肉の器を提供したのに、まさか
拒むなんてね」
ニルに体を得る方法を吹き込んだのはブレアだったのか。
他者の体を奪ってまで生きたいと悩んだ葛藤と苦しみ、
アンドロイドの体へのコンプレックス……その狭間で
押し潰されそうになっていた少年の姿を思い出す。
眼前の女への怒りが燃え滾った。
「あなたが、ニルを追い詰めたの?」
「提案しただけよ。 でも、あの子は自ら進化を捨てた。
でも、もういいわ。あなたはインソムニアを
好きじゃないみたいだけど、もう時間が無いの。
ニルヴァーナシステムが破綻しかかっているし、
何より私はオズに……お父様に新たな器を作って
早く逢いたい! だから、インと交わって! 子供を産ませて!」
「いや! そんなの、いや! そんな
人殺しの裏切り者になんて、なれない!」
その言葉にインが振り返った。一瞬の隙に、ニルの
ペイルライダーがインの右目を撃ち抜く。
「くっ!」
後退するインを放り出し、駆け寄ったニルがブレアへも
武器を向ける。宙を舞う刃物はブレアの腕を貫いた。
「きゃあ!」
ニルの元へ駆け寄る。
足は震えていたが、歩き出せる力が戻っていたのだ。
「ユレカ!」
「ニル!」
差し伸べられた手に抱きしめられると、その腕によって存在を
繋ぎとめられているのを実感した。
「ニル、ありがとう……ニルがいてくれるから……私……」
肩を強く抱かれた。
「バカ。オマエの正体が何であろうと、そんなのどうでもいい。
オレがニンゲンでなくとも愛してくれたオマエが、どんな姿に
なろうと、何を生み出そうと、オレは傍にいる。
オマエじゃなきゃ、ダメなんだ……」
絶望で枯れ果てたと思った涙が、溢れてきた。
人類の全てに憎まれ疎まれても、ニルさえいれば
生きていける。呼吸を続けられるのだと。
その時、ブレアが「ありえない……」と呟いていた。
「そうよ、ありえないわ! どうして、アンドロイドが、AIが
私達、人類を攻撃しているの? AI三原則を破ったアンドロイドは
正常に機能するはずないのに! どうして、ニルヴァーナは
動いていられるの? おかしいじゃない!」
ニルには三原則のルールがあった事を思い出す。
レムナント、バイオロイドへの攻撃行動は規制されており、
それは取り除けない根幹の部分に
植えつけられているのでは無かったのか?
ニルを見ると、薄い唇に笑みを浮かべていた。
「カンタンなコトだ。オレの『人類』の認識が、オマエ達
バイオロイドやレムナントではなく、
『ユレカ』単体に変わるように
アルゴリズムの書き換えが行われただけだ」
ブレアの「有り得ない!」という悲鳴が何度も響く。
「有り得ないわ! だって、それは生物が己の塩基配列を
意図的に組み替えるようなものよ! 出来るはずない!
人類を人類として認識せずに、クリーチャーを人類と
識別するなんて! 」
「オレは正常だ。ウィルスチェックでもシステムエラーチェックでも
好きにすればいい。だが、他人の命を弄ぶキサマを見ていると、
誰でもニンゲンの定義を変えたくなるだろうさ。
そしてオレがキサマらの誘いに乗ってココに来たのは、
腐敗したニンゲンを一掃する為だ!」
武器をブレアに向けると、顔を押さえたインが立ち塞がる。
荒い息を吐き、押さえた掌からは血が赤いリボンのように
床へと伸びていた。
眼球を撃ち抜かれた致命傷を負いながらも、それでも彼は
ブレアを守ろうとしている。
「どけ。その女は他人の命と遺伝子を弄ぶ魔女だ」
「……確かに、彼女の行いは罪深い。だが、お前にユレカが
いるように、おれには……ブレアしかいない。
例え世界を侵す存在であろうと、おれはブレアを離せない。
それにブレアを失えば、暴走しかけたニルヴァーナシステムの
管理がとれず、大地は再び死滅していくだろう」
大地を統べるニルヴァーナシステムは、犠牲となった
人間の思念により破綻しかけていると言っていた。
放置しておけば、クレイドルから生還しても、
汚染された大地や放射能によって世界は朽ちてゆく。
「その為にユレカを犠牲にしろと言うのか?
オマエとの血統統合に差し出せと?
好き放題に地球を侵しておいて、このザマとはな。
一度滅びかけてもバカが治らないのが、
『人類』とは笑わせる!」
「……否定はしない。ヒトは愚かだ。……おれも、愚かな男だ。
たった一人、残された肉親の願いを叶えたかった……。
おれが不幸にした姉上の望みを……」
唇を噛むインの足元では、青ざめた表情のブレアが
蹲っていた。
高慢に見えた女は幼い少女のようだった。
そのブレアの背後から、ジェル状の物体が
忍び寄っている事に気がつく前に、
それはブレアの細い体を絡め取っていた。
「きゃああああああ!」
クリーチャーがホールから這い上がり、
ブレアを包み込んでいた。
口を開け、舌の上に乗せられた晩餐のように、ブレアは
穴へと引きずり込まれる。
「姉さん!」
インが淵から身を乗り出してブレアの腕を掴む。
ブレアとインの血の匂いに引き寄せられた哀しき本能の
生物は、捕えた獲物の消化を始めているらしく、
ブレアの悲鳴が響き渡った。
「いやあああ! な、何でクリーチャーが這い上がって
くるのよ? いやあ! 痛い! 痛い! 足が……足が!」
底からにじり寄る捕食者をショットガンで狙撃している。
だがインの片目から血が垂れ落ちるたびに
クリーチャー達は這い寄って来る。
それは害意ではなく、生きる為の行動だった。
「姉さん、ニルヴァーナシステムの停止を!
スイッチを、持っているだろう!」
「いや! いやよ! いやよ!
お父様が生き返るまで、世界をキレイに
保たなくちゃいけないもの! 停止なんて出来ない!
出来ないよぉ……お父様……お父様に逢いたいよぉ!」
泣き出すブレアが暴れれば、インの体も
地の底へと引きずられる。
このまま放っておけばブレアもインも自滅するのは
見てとれた。
己が弄んだ生物によって、惨たらしく
消化されてゆくのだろう。
我が子を放り込んだ時のように。
「いやああ! インソムニア!
痛いよぉ! 足も、肉も……あぁあああ!」
目を逸らしても聞こえる耳を塞ぎたくなるような絶叫。
粘着質な溶解音。
それでも、インは彼女の手を離さなかった。
ブレアを励まし続け、潰れた片目に構わず
彼女の生を願っている姿は血の鎖が見せる絆か。
「……」
服を握り締める。
憎悪と殺意が無いわけではない。むしろ、ブレアは
この手で殺してやりたいくらいに憎い。
「……ッ」
だが、肉親を敵から守ろうと我が身を顧みずに
飛び出したインと、こんな状況でも父を求めるブレアを
先程までの無慈悲な『敵』だと一分の隙も無く
嫌悪する事が出来なくなっていた。
「ニル」
傍らのニルを見つめると、相手も頷いた。
「ああ、わかってる! 助けるんだろ? お人よしだな!」
ニルと共に駆け寄りるが、背丈が足りずにブレアまで
手が届かない。インの体を掴んで引き上げようとするも、
既に彼女の腰の辺りまでクリーチャーは包み込んでいた。
「システムを停止させろ! でなければ……」
訴え続けるインに、ブレアは首を振る。
「イヤ! イヤ! イヤー! 助けて! お父様! お父様ー!」
インの声も届いていないのか。
背中越しで彼の表情は見えなかったが、
嗚咽が聞こえた気がした。
「ニル、システムの停止って、他に方法は無いの?」
インの体を掴んだまま、部屋中をサーチしていたニルが
首を振る。
「ブレアが全て持ち歩いているようだ。引きずり上げて
停止装置を奪うしかない」
「そんな……」
だが、ブレアは頑として譲らないどころか、
取り出したのはチップだった。
「インソムニア、だから、これ……」
それは、父であるオズの脳を無機物へと
変換させた彼女の希望の欠片だった。
ブレアはまだ、足掻き続けていた。
「これさえあれば……あのコと、あなたさえいれば、
お父様は完璧な体で甦る……」
ブレアの唇から血が一筋、垂れていた。その姿に
インが首を振る。
「姉さん、もう……終わりだ。おれには……」
「終わりじゃない……終わらせない……お父様……、
お父、様……逢いたいよ……」
意識を失いかけているブレアを前に、インはチップの
受け取りを躊躇していた。
「イン、ソムニア……受け取って……受け取って……」
「……ッ」
ジェルはブレアの全身を包み、チップをも飲み込んでいた。
それはインの腕も蝕みつつあるというのに、
手を離さずにいる姿にニルが叫ぶ。
「手を離せ! オマエまで食われるぞ!」
「……」
果肉のような色の肉塊はインさえ喰らおうとしている。
消化されたブレアの体は穴の底へ落下し、四散していた。
その無惨な姿に恐怖を覚えるも、インは呟く。
「……もう、いい……」
「インさん?」
「もう、いいんだ……」
儚く笑う男の声の後、後方の扉が激しく開いた。
「お嬢ちゃん、無事か?」
シザー達だった。
何故二人が此処を知っているのかと
問うより先に、緋牡丹が「ニル君が持って行ったボタンで
一部始終は聞かせて頂きました」と端的に説明する。
ニルはインに連れられる前に、緋牡丹らへの連絡手段と
して、あのボタンを持って来ていたのか。
だが、シザー等はインの姿を見て青ざめている。
「イン、アンタさん、その手……! 相棒、急げ!」
「言われずともそうしていますよ!」」
シザーの指示で緋牡丹が涙女を抜いた。
インの肘のあたりまでをクリーチャーは侵食している。
腕を切断するしか生還の道は無いとの判断なのだろうが、
インは立ち上がり、、ホールに背を向けていた。
「……いい。構うな」
「インさん?」
近づくと、インは離れる。『傍に寄るな』と無言で示す。
「……ずっと、息をする事さえ罪だと思っていた。
おれが彼女から奪った全てを取り戻す事こそが
罪滅ぼしなのだと……。だが、ブレアは……、姉さんは……
孤独を感じ続け、満たされる事は無かったんだな……」
インは目蓋を閉じた。そして、自嘲気味に笑う。
「そんな彼女の地獄の共に相応しいのは、おれくらいだろう
姉さんの哀しみを消すことは出来なかったが、
業火から身を守る盾ぐらいには……なれるはず……」
インの靴が淵を蹴った。
黒髪は舞い散る羽根のように真紅の軍服を包み込む。
「インさん!」
「イン!」
「閣下!」
両手を広げ、救いを求めるように、何かを抱きとめるように
インは落下してゆく。
視界の下では、最後まで差し伸べられていた腕すらも
飲み込まれ、消えていく。シザーが首を振った。
そこでクレイドルが揺れる。
「何? 地震?」
「いや、違う……コレは……」
ニルがホールの底を鋭い眼差しで見据えている。
「ブレアとインソムニアの脳を吸収した所為で、
ニルヴァーナシステムがパンクしかかっているんだ」
「そ、そんな! それじゃあ……」
システムの停止ボタンはブレアが持っていた。だが、
停止させても世界の気象は狂ったままか。
「ユレカ」
突如肩を掴まれ、顔を上げるとニルが帽子を脱いで
手渡してきた。
「ニル……?」
「大丈夫だ、ユレカ。行って来る」
「え?」
問い返す前にニルが帽子をかぶせてきた。
「ニルヴァーナシステムでニンゲンの思念……本能が
暴れているなら、その末端機器であるオレはシステムに
弾かれずに対話出来るハズだ。だから、オレは
思念を正しく統合し、この暴走を止めて見せる」
そんな事が可能なのか? 出来るのであれば、とっくに
ブレアが試しているような気もする。
緋牡丹が反論をした。
「無茶だ! 逆に飲み込まれかねない! 暴徒の群れに
一人で対峙するようなものだ!」
「全くだ、坊や……いや、ニルヴァーナ。
勝ち目が無いってレベルじゃないぞ」
ハンター達の反論に、ニルは笑っていた。
「一人で多人数と戦うワケじゃない。一人一人の思念と対話し、
共存を説く……一人が落ち着けば、また一人落ち着く。
暴れる本能……Esとの対話を、オレは成功させて見せる」
崩れ始める室内の中、シザーが声を荒げた。
「だが、それまで攻撃に耐えられるのか? 対話に
成功したとしても、アンタさんの身体……いや、メモリーも
破損してしまうだろう?」
「……オレの生きた証は、ユレカだ。
ユレカ……オマエは、この世界で幸せに生きろ」
「ニル!」
死ぬ気なのだと知り、駆け寄ったが、「来るな!」と
怒鳴りつけられる。
「緋牡丹、シザー、ユレカを頼む……。
オマエ達しか、いないんだ。オレの、最も大切なモノ……
それが消えるのだけは、耐えられない……」
その決意を知ってか、シザー達に退避を促される。
ニルの足は少しづつ、ホールへと近づいていた。
「ニル! あ、あのね、その……私、IDオリジナルなら
私が飛び込めば済むと思うの……だから!」
「済むかもしれないが、オマエは今の身体を失い、
IDオリジナル成体になってしまうだろうな。……ヒトとしての
知能と記憶を失い、クリーチャー化する」
「でも、ニルがいなくなるよりずっと……」
「オマエ、成体になりたくないから、ずっと
スリープ状態だったんだろう?」
「え?」
問い返すとニルは青い瞳を細めていた。
「エサが育つまで寝てたんじゃない。オマエは、自分の本能が
人を傷つけた罪悪感で、欲動……Esを眠らせていたんだ。
『もう誰も傷つけたくない』……それが根底にあるから、
攻撃衝動を持つ事を怖れていたんだと、今ならわかる。
オマエは、ヒトとして、生きて
いける可能性が出たんだ。だから……」
ニルが振り返り、笑った。
「オマエが生きていれば、それでいい。
オレは砕けて、フラグメントになろうと、このメモリーの全てを
失っても、ずっと、オマエだけを……」
「ニル!」
「さよなら、ユレカ。そして……ありがとう」
伸ばした腕を掴むことなくニルは飛び降りた。
無機物で構成されたバディはクリーチャーに
消化される事が無くとも、ヒトの思念が彼を破壊するだろう。
本格的に崩壊を始めたクレイドルの中枢から脱出しようと、
シザー達に腕を掴まれた。
「ニル……」
ずっと共に生きたいと言っていたではないか。
一人にしないと言っていた。
この世界の何処に行こうと、もう、愛した止まり木は
いないのか。
「ニル……ニルーー!」