第五章 「ドイツ」民族と出遅れなかった帝国
ナポレオン戦争後のヨーロッパに確立されたウィーン体制は、見せかけの安定に過ぎませんでした。1830年のフランス7月革命、そして1848年にヨーロッパ全土を席巻した「諸国民の春」は、抑圧された自由主義とナショナリズムのエネルギーが、いかに王侯貴族の築いた秩序を揺るがすかを白日の下に晒しました。この混沌の時代、多くの君主が玉座から追われ、あるいは権力の大幅な縮小を余儀なくされましたが、しかし、ドイツ帝国だけは、この嵐の中で、より一層強固な国家へと変貌を遂げました。その中心にいたのが、皇帝ルートヴィヒ3世(カール1世の息子)の慧眼によって見出された、一人の天才的政治家でした。
彼の名は、コンスタンティン・フォン・バイアーシュテット。ライン大公国出身の貴族でありながら、その精神は徹底した実力主義と人文主義に貫かれていました。ハイデルベルク大学で法学と哲学を修めた彼は、ビスマルクのような「鉄と血」ではなく、「理性と言葉」を武器とする宰相であったと伝えられています。
宰相の登場と「1848年革命」への対応
カール1世が崩御し、その息子でロマン主義的な傾向を持つルートヴィヒ3世が即位すると、帝国内のリベラル勢力は、より一層の議会権力強化と普通選挙の導入を求めて活動を活発化させました。1848年、パリ、ウィーン、ベルリンで革命が勃発すると、その炎は帝都フランクフルトにも飛び火しました。国民院(下院)の急進派議員と、それに呼応した学生・労働者たちが、共和制への移行を求めて大規模なデモを展開するのでした。
プロイセン国王やバイエルン国王は、帝国宰相に軍隊による徹底的な鎮圧を要求しましたが、しかし、皇帝の信任を得て宰相に就任したばかりのバイアーシュテットは、これを拒否しました。彼は、非武装で国民院の演壇に立つと、歴史に残る演説を行いました。
「諸君!自由を求めるその情熱は、ドイツの偉大なる力である。しかし、真の自由とは、街頭の熱狂の中にではなく、賢明なる法と、安定した秩序の中にこそ宿る。我らが敵とすべきは、皇帝陛下ではない。我らが真に戦うべき相手は、ドイツの力を蝕む分裂主義、すなわち各邦の君主たちの利己心であり、国民を惑わす無責任な党派心であり、そして何よりも、我らの子供たちの未来を脅かす貧困と無知である! 皇帝陛下の下、一つの強力な政府として団結することこそ、諸君が求める全ての自由と繁栄を実現する、唯一の道なのだ!」
バイアーシュテットは、革命のエネルギーを巧みに利用することとしました。彼は、急進派の要求する共和制を退けつつも、彼らの不満の根源であった社会問題に取り組むことを約束。革命の矛先を、地方の諸侯の特権や、非効率な行政機構へと向けさせたのでした。
帝国大改革:賢慮による中央集権
革命の嵐を乗り切ったバイアーシュテットは、皇帝ルートヴィヒ3世の全面的な支持を背景に、「帝国大改革」として知られる一連の革新的な政策を断行しました。その目的は、リベラリズムの理想を実現しつつ、その恩恵の源泉が帝国中央政府、すなわち皇帝にあると国民に認識させることで、事実上の権力集中を図ることにありました。
世界初の社会保障制度(1852年): 彼は、産業化によって深刻化する労働問題に対し、世界に先駆けて国家主導の疾病保険・労災保険・老齢年金制度を創設しました。これにより、労働者階級は、革命家たちの甘言よりも、帝国の具体的な保護政策に救いを見出すようになりました。
「皇帝陛下は、我々貧しい者たちの生活をも守ってくださる」という意識が国民の間に広まり、社会主義運動は急進性を失い、体制内の改革勢力へと変貌していき、素朴な皇室への尊敬の念が生まれました。
帝国中央省庁の創設: これまで各構成国がバラバラに運営していた郵便、電信、そして急速に拡大する鉄道網を管轄する「帝国交通通信省」や、度量衡・通貨を統一管理する「帝国経済省」を設立。これにより、国民の日常生活の隅々にまで、地方の君主ではなく、帝国の権威が浸透。ドイツは、一つの経済共同体として、より緊密に統合されました。
帝国軍法の改正: バイアーシュテットは、プロイセンやバイエルンの猛反対を押し切り、「ヨーロッパの平和に対する責任」を名目に、各構成国の軍隊の指揮権を、平時においても皇帝大権の下にある帝国参謀本部の監督下に置くことを法制化しました。これにより、ドイツ帝国の軍事力は、名実ともに皇帝の掌中に帰することとなりました。
外交の妙技:「誠実な仲介者」という名の覇権
バイアーシュテットの天才は、外交において最も鮮やかに発揮された。彼は、戦争という野蛮な手段を極力避けながら、ドイツの国益を最大化していきました。
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題(1852年): デンマークとの戦争を望む国内のナショナリストたちを抑え、彼はロンドンで国際会議を主宰。「ドイツ民族の統一」という感情論ではなく、「北海からバルト海へ至る自由で安全な航行路の確保は、全ヨーロッパの利益である」という実利を説き、イギリスの支持を獲得。最終的に、デンマークに対し巨額の経済補償を支払うことで、両公国の主権を平和的にドイツ帝国へ移譲させることに成功しました。
クリミア戦争(1853-1856): 彼は「武装中立」を宣言し、ロシアと英仏どちらにも与しなかった。戦争が泥沼化すると、彼は「誠実な仲介者」としてパリ講和会議を主導。この過程で、恩を着せたロシアからは中央アジアへの経済進出の黙認を、英仏からはオスマン帝国内での鉄道敷設権を獲得。ドイツは一滴の血も流さず、戦勝国以上の実利を得ました。
イタリア統一戦争(1859年): 彼は、オーストリアがイタリアの権益を失うことを静観した。これにより、ハプスブルク家はドイツへの影響力を完全に喪失し、その関心を多民族帝国の内部へと向けざるを得なくなりました。バイアーシュテットは、オーストリアの弱体化という長年の懸案を、同胞の血を流すことなく解決したのであります。
黄金時代の頂点と忍び寄る影
1860年代初頭、宰相バイアーシュテットの下、ドイツ帝国はまさに黄金時代の頂点にあったといえるでしょう。国内では、リベラルな憲法の下で経済が飛躍的に発展し、世界で最も進んだ社会保障制度が国民の生活を支えており、外交では、「平和の守護者」としてヨーロッパに君臨し、その発言は列強の政策を左右するほど強力なものになりました。そして、これらの成功は全て、帝国中央政府、ひいては国民からの敬愛を一身に集める皇帝の権威へと還元される性質のものでした。権力は、暴力によってではなく、国民の支持と信頼を背景に、静かに、しかし確実に皇帝の元へと集約されていったのです。
しかし、この「理性による帝国」の栄光は、宰相コンスタンティン・フォン・バイアーシュテットと、彼を支える皇帝ルートヴィヒ3世という、二人の傑出した個人の存在にあまりにも大きく依存していたといえるでしょう。あまりに巧みで、あまりに成功しすぎたその政策は、周辺国に静かな、しかし消えることのない「ドイツへの不信と嫉妬」を植え付けました。そして国内でも、ナショナリズムの指導者たちは、「平和的覇権」を生ぬるいと感じ、より直接的な「血と鉄」による栄光を求め始めました。
バイアーシュテットが築いた壮麗な理性の神殿は、彼自身が去った後、次なる時代の、より激しい情念の嵐に耐えうるものなのか。その答えを、まだ誰も知る者はいなかった…