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ゲルマンの「理性の帝国」  作者: オルタナシミュレーター
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第四章 大王と欧州の嵐 帝国の出現

1789年夏、バスティーユ襲撃の報が、ハイデルベルクの夏の離宮にいるカール・アウグストゥスの元にもたらされました。老いたる大王は、当初、この出来事を冷静に受け止めたと言われています。彼は、書斎で側近たちを前にこう語ったと伝えられます。


「パリの民が牢獄を打ち壊したか。それは、王が民の声に耳を傾けず、理性の代わりに圧政を続けた必然の結果であろう。幸いにして、我がラインの民は、王に物申すのに石を投げる必要はない。彼らには大学があり、新聞があり、そして何より、彼らの幸福を自らの責務とする君主がいるのだから。」


その言葉には、自らが築いた啓蒙国家への絶対の自信と、旧態依然としたブルボン朝への侮りが込められていました。彼は、人権宣言の理念に、自らの統治哲学と通底するものさえ感じていました。しかし、革命が理性ではなく激情に導かれ、急進化していくにつれて、大王の表情からは余裕が消えていきました。


ライン連邦内でも、革命の思想は熱病のように広がりました。特にハイデルベルク大学や、コスモポリタン的な気風の強いマインツでは、学生や知識人たちが「自由・平等・友愛」を掲げる「ドイツ友の会」といった秘密結社を結成。フランスのジャコバン・クラブと連絡を取り始めます。これに対し、連邦を構成する小諸侯たちは、自らの領地で同じような反乱が起きることを恐れ、盟主である大王に、革命思想の徹底的な弾圧を要求しました。カール・アウグストゥスは、自らが守護してきたはずの「言論の自由」と、国家の「秩序維持」という、二つの善の狭間で、深刻なジレンマに直面することになります。


シュヴェツィンゲンの誓い:君主たちの結束

1791年6月、ルイ16世一家のヴァレンヌ逃亡失敗の報は、ヨーロッパ中の宮廷を震撼させました。フランス国王が、自らの臣民の囚人と化したこの事件は、カール・アウグストゥスに、もはや傍観は許されないと決意させます。


同年8月、大王は、オーストリア皇帝レオポルト2世とプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世を、自身の壮麗な夏の離宮であるシュヴェツィンゲン宮殿に招聘しました。かつて七年戦争で敵味方に分かれて戦ったドイツの三大君主が、革命という共通の脅威を前に、一堂に会したのです。庭園の劇場で、三君主は歴史的な「シュヴェツィンゲン宣言」を発表します。それは、フランス国王とその家族の安全が完全に保証されることは、ヨーロッパ全君主の共通の利益であるとし、もし国王に再び危害が加えられるならば、ライン連邦、オーストリア、プロイセンは、共同で「最も効果的な手段を、躊躇なく用いる」用意がある、と警告するものでした。これは、フランス革命政府に対する最後通牒に他なりませんでした。


「ラインの盾」:革命戦争の勃発

1792年4月、フランス革命政府は「シュヴェツィンゲン宣言」を主権への侵害とみなし、オーストリアへ宣戦を布告。フランス革命戦争の火蓋が切って落とされました。プロイセン・オーストリア連合軍は勇んでフランス領内へ進撃しますが、ヴァルミーの戦いで、愛国心に燃えるフランスの「国民軍」の前に、まさかの敗北を喫します。


しかし、西の戦線では全く異なる光景が展開されていました。カール・アウグストゥスは、革命フランスの持つ、イデオロギーに支えられた国民軍の力を正しく見抜いていました。彼は、無謀なフランス侵攻には加わらず、代わりに「ラインの盾(Der Rhein-Schild)」と呼ばれる徹底した防衛戦略に徹します。

ライン川左岸(西岸)に沿って、彼の治世の間に建設・改良が続けられてきた「アウグストゥス要塞線」が、その真価を発揮しました。マンハイム、マインツ、コブレンツ、ケルンといった要塞都市は、相互に連携し、最新の「フランケン鋼」製の大砲で武装していました。


フランスの革命軍が、勢いに乗ってライン川を渡ろうと試みるたび、彼らはこの近代的な要塞網と、モーリッツ・オイゲンの時代から続く精強なライン連邦軍の正確無比な砲撃の前に、おびただしい損害を出して撃退されました。プロイセン・オーストリア連合軍が敗走を続ける中、ライン連邦軍はドイツ西部を革命の奔流から守り抜く、巨大な防波堤となったのです。


大王の最期と遺産

1793年1月、ルイ16世がギロチンで処刑されたという報せは、カール・アウグストゥスに深い衝撃を与えました。彼は宮廷の全ての祝祭を中止し、一週間の喪に服しました。啓蒙の理想が、これほど野蛮な結末を迎えたことに、彼は心からの悲嘆と、革命政府に対する抑えがたい怒りを感じていました。


治世の最後の数年間、大王は、革命戦争の防衛指揮を執りながら、自らが築いた国家の未来を案じ続けました。彼は、自らが信奉した「理性」の時代が終わりを告げ、愛国心や民族といった、より原始的で熱狂的な力が世界を動かす「国民」の時代が到来したことを痛感していました。啓蒙君主である彼が、国家の安定のために国内の急進的な思想家を投獄し、出版を検閲しなければならないという現実は、彼の統治における最大の皮肉でした。


1795年の冬、ヨーロッパが依然として革命の動乱に揺れる中、カール・アウグストゥスは、82年の栄光に満ちた生涯を、雪に覆われたハイデルベルク城で静かに終えました。彼の死の床には、後継者である孫のカール・ルートヴィヒが控えていました。大王は、最後の力を振り絞り、こう遺言したと言われます。


「忘れるな。我らの力は、フランケン鋼の硬さや、国立銀行の金貨の数だけではない。それは、多様な民が、自らの才能を自由に花開かせ、明日の幸福を信じられる国であるという、その一点にある。これから来る時代は、我らが知るどの時代よりも荒々しいだろう。だが、民の理性を信じ、民の幸福を思う心を失わぬ限り、ヴィッテルスバッハの太陽がラインの地から消えることはない。」


大王の死は、一つの時代の終わりでした。啓蒙君主の理性が支配した18世紀は終わり、ヨーロッパは、コルシカ島出身の一人の若き将軍、ナポレオン・ボナパルトという、全く新しい天才が引き起こす、さらなる巨大な嵐へと突入していきます。偉大な指導者を失ったライン大公国とライン連邦は、この未知の脅威に、どう立ち向かっていくのか。その答えは、新たな世紀の戦場でのみ、示されることになるのでした。


1795年、偉大なる啓蒙君主カール・アウグストゥスが世を去った時、ライン大公国は巨大な船団に例えられました。栄光と富を積み込んでいるが、嵐の中で偉大な船長を失い、若き後継者、大王の孫であるカール・ルートヴィヒの双肩に、その全ての運命が託されることになりました。彼は祖父のような灼けつく太陽ではなく、むしろ夜の航海を導く北極星のような君主でした。派手さはないが、冷静で、理性的で、そして何よりも現実を鋭く見据えている。彼の前には、革命フランスが生み出した史上最高の天才、ナポレオン・ボナパルトが立ちはだかっているのでした。


天才との対峙:ラシュタットの現実主義(1796年~1804年)

カール・ルートヴィヒが継承した「ラインの盾」戦略は、革命戦争初期のフランス軍の猛攻をよく防ぎました。しかし、若きナポレオン将軍がイタリアでオーストリア軍を奇跡的な戦術で粉砕し始めると、戦局は大きく傾くことになります。ライン戦線でも、フランス軍の圧力は日に日に増し、大公国の国庫と人命は静かに、しかし確実に削られていくのでした。


1797年、オーストリアがカンポ・フォルミオで屈辱的な和約を結ぶと、カール・ルートヴィヒは決断を下します。彼は、これ以上の消耗戦は国家を疲弊させるだけだと判断し、フランスとの和平交渉を開始するのです。交渉の場であるラシュタットで、若き大公は、同じく若き英雄ナポレオンと初めて対面を果たします。ナポレオンは、力で押し切れると考えていた相手が、敗北を認めつつも臆さず、冷静に国家の利害を語る姿に強い印象を受けたと伝わります。彼は、この巨大なドイツ国家を敵として叩き潰すよりも、その工業力と富を利用する方が得策だと瞬時に判断したのでしょう。


ラシュタットで結ばれた和約は、ライン大公国にとって苦渋の選択であったといえます。ライン川左岸のいくつかの要衝をフランスに割譲し、その代償として、フランスはライン連邦の独立と領土の保全を公的に承認する。カール・ルートヴィヒは、小さな領土と引き換えに、国家の存続という最大の果実を得たのです。彼はハイデルベルクの宮廷で、批判する諸侯に対しこう言いました。「獅子は、時に自らの爪を一本折ることで、致命傷を避けるものだ。」


武装中立:嵐の中の避難港(1804年~1812年)

1804年、ナポレオンがフランス皇帝の座に就くと、ヨーロッパの緊張は頂点に達することになりました。彼は、全ヨーロッパを自らの足元にひれ伏させようとし、ドイツ諸邦には、自らが主宰する新たな「ライン同盟」への参加を強要しました。プロイセンは屈辱的な敗北を喫し、オーストリアは首都を蹂躙され、神聖ローマ帝国は1000年の歴史に幕を下ろしました。


この渦中、カール・ルートヴィヒは茨の道を選ぶことになります。「武装中立」彼は、ナポレオンの圧倒的な軍事力の前に、対仏大同盟への参加がいかに無謀であるかを知っていました。かといって、プロイセンのように兵士を供出し、ナポレオンの戦争の駒となることも拒絶しました。


1806年、ナポレオンがベルリンを占領した後、彼はカール・ルートヴィヒのハイデルベルクに訪れ、会談を持ちました。皇帝はライン連邦に軍隊の供出を迫ったが、大公は驚くべき対案を提示する。「陛下に、我が国の兵士の血を捧げることはできませぬ。しかし、陛下の軍隊が常に勝利するために不可欠な、鉄と金を捧げましょう。」


彼は、ナポレオンの軍隊に対し、莫大な財政支援と、ライン大公国の誇る工業製品、すなわち「フランケン鋼」で造られた最高品質の大砲の砲身、マスケット銃、そして何十万着もの軍服を、独占的に供給することを約束した。ナポレオンは、自軍の兵士を温存し、かつ世界最高水準の物資を得られるこの「鉄と金の同盟」を受け入れた。ライン大公国は、表向きはナポレオンの従順な同盟国として振る舞いながら、その実、人的資源を完全に温存し、戦争特需によって国富をさらに増大させていった。北海の港からは、大陸封鎖令の網をくぐり、イギリスとの密貿易が続けられ、その利益は国立銀行の金庫を潤した。


この偽りの平和の下で、カール・ルートヴィヒは祖父の遺産を発展させ続けた。ナポレオン法典を参考にしつつ、よりリベラルな「ライン民法典」を制定し、連邦内の行政と司法の統一を進めた。彼は、ナポレオンの覇権が永遠でないことを見抜き、来るべき日に備えて、静かに、しかし着実に国家の基礎を固め続けたのである。


獅子の覚醒:解放戦争の立役者(1812年~1815年)

1812年、ナポレオンのロシア遠征失敗の報は、カール・ルートヴィヒの元にもたらされた。数十万を数えた大陸軍が、ロシアの冬将軍の前に雪原の藻屑と消えたのです。この中に、ライン大公国の兵士は一人もいませんでした。


1813年、プロイセンがロシアと共に「解放戦争」の狼煙を上げると、ナポレオンはドイツで決戦を挑むべく、新たな軍を編成しました。彼は、同盟国であるライン連邦に対し、今度こそ全兵力の動員を厳命したのです。これが、カール・ルートヴィヒが待ち続けた時であったのはいうまでもありません。


彼は、ナポレオンからの勅使を前に、ハイデルベルク城の玉座から静かに立ち上がると、歴史的な「ラインの宣言」を発しました。「我々は、フランス皇帝との盟約を忠実に守ってきた。しかし、皇帝が求めるは、もはや友情ではなく、ドイツ民族の完全な服従である。我が祖父、カール・アウグストゥス大王の遺志に従い、私は、我が民を奴隷の戦争に赴かせることを拒否する。今こそ、ラインの獅子が、ドイツの真の解放と、ヨーロッパの恒久平和のために立ち上がる時である!」


これは、ナポレオンに対する事実上の宣戦布告でした。カール・ルートヴィヒは、10年以上にわたって温存し、最新の装備と訓練で磨き上げた、20万の精強なライン連邦軍を率いて、対仏大同盟に参加しました。この「裏切り」は、ただでさえ苦境にあったナポレオンにとって、背後から心臓を刺されるに等しい、致命的な一撃となりました。


同年10月、**ライプツィヒの戦い(諸国民の戦い)**において、ライン連邦軍はその真価を発揮することになります。彼らは、オーストリア軍やプロイセン軍のような復讐心に駆られた熱狂ではなく、冷静なプロフェッショナリズムをもって、ナポレオン軍の最も頑強な陣地へと突撃を敢行します。その近代的な砲兵隊が敵の戦列を粉砕し、規律正しい歩兵部隊が着実に前進する様は、連合軍の勝利を決定的なものとしました。


ウィーン会議と帝国の誕生

ナポレオンがエルバ島へ流された後、ヨーロッパの未来を決めるウィーン会議が始まりました。この席で、カール・ルートヴィヒは、もはや単なるドイツの一諸侯ではなかったといえます。彼は、戦争の帰趨を決した大国の君主として、オーストリアのメッテルニヒ、ロシアのアレクサンドル1世らと対等に渡り合う欧州の雄でした。


彼は、メッテルニヒらが構想する、旧態依然としたドイツ連邦案に真っ向から反対。代わりに、自らが治めるライン連邦を土台とし、オーストリアのドイツ語圏を除く、全ドイツ諸邦を一つにまとめる、壮大な国家構想を提示しました。それは、各邦の王や公がその主権を維持しつつも、共通の憲法と二院制の帝国議会、そして統一された軍隊を持つ、近代的な連邦国家「ドイツ帝国(Deutsches Reich)」の創設でした。


この提案は、小国が乱立する状態に戻ることを恐れる中小諸侯から熱狂的に支持されました。一方、プロイセンは不満を抱きました。しかし、戦争で疲弊した国力では、ライン大公国の威光に逆らうことはできなかったのです。


1815年6月、ワーテルローでナポレオンの百日天下が終わりを告げた直後、フランクフルトのパウロ教会で、歴史的な式典が執り行われました。ドイツ諸侯は、満場一致で、ライン大公カール・ルートヴィヒを、初代「ドイツ皇帝カール1世」として推戴しました。


ナポレオンという嵐は、旧き神聖ローマ帝国を完全に破壊し去りました。しかし、その跡地に生まれたのは、フランスの支配するヨーロッパではなく、カール・アウグストゥスが夢見、カール・ルートヴィヒが実現させた、ラインのヴィッテルスバッハ家が統べる、統一ドイツ帝国でした。啓蒙の光は、革命と戦争の嵐を乗り越え、ヨーロッパ中央に、新たな時代の秩序を打ち立てたのです。


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