「ヴェイル・アグラディア」
「――あなたに、力を貸してほしいの」
ギルド《リヴァージュ・ブルー》の作戦室が、死神マカーブルの噂でざわついている中。
私の言葉に、空気が一瞬だけ止まった。
それを切り裂いたのは、ヴェイル・アグラディアの鋭い視線だった。
その瞳は氷のように冷たく、理性のフィルター越しに私を値踏みしている。
「……あのな、お嬢ちゃん」
ヴェイルは小さくため息をつくと、わずかに肩をすくめた。
「もし俺に惚れちまったってんなら悪いが、冗談に付き合ってる暇はねぇんだ」
言い終えると、彼はくるりと背を向け、行こうとする。
その瞬間、胸の奥がムカッと熱くなった。
たしかに、私たち4人のうち3人は男に免疫がない。私もそうだ。
でもそれとこれとは話が違う!
「ち、違うわよ! そんなんじゃない!」
私は彼の前に回り込み、腰に差していた聖剣を抜き放つ。
銀白の光が、空気を裂いた。
「これは、女神ステシアから授かった聖剣よ。あなたと魔王を倒すために、女神が導いてくれたの!」
聖剣をヴェイルの目の前に突き出すと、彼の目が一瞬で鋭く変わる。
その眼差しは、剣の真価を即座に見抜いたことを物語っていた。
「……その剣、本物か」
「ええ。女神に選ばれた証。私だけじゃ魔王には届かない。でも――あなたなら、きっとわかるはず。自分が“ただのダークエルフ”じゃないってこと」
ヴェイルは視線を剣から私へと戻し、眉をひそめる。
「……俺が、魔王討伐に必要な存在だって? 根拠は?」
「女神の啓示もあるけど、私の感もあるわ。それと、あなたの力」
私は静かに告げた。
「空間すら読み取るその洞察力。誰よりも状況を把握し、常に最適解を導き出すあなたの能力。魔王の呪いさえ回避できるのは、あなたしかいない」
ヴェイルの唇が、わずかに動く。
彼の中で、何かが揺れた証だった。
「女神の導き、か……」
ぽつりと呟いたその声は、先ほどまでの冷淡さとは違っていた。
私はもう一歩、彼に近づく。
「信じてとは言わない。でも……一緒に来て。あなたの力が、必要なの」
沈黙の中、彼の瞳の奥が、ふと優しく揺れた気がした。
ヴェイルは、少しだけ視線を宙に漂わせた後、静かに口を開いた。
「……たとえ、それが本当だったとしても――今は、目の前の危機を何とかしなきゃならない」
その声には、どこか重い決意がにじんでいた。
「今、俺たちが最優先すべきは“死神マカーブル”の件だ。それに……仮にそいつがいなかったとしても、俺はこの場所を離れるわけにはいかない」
彼はふっと、目を細めた。
その瞳には、冷静さとは別の温もりが浮かんでいた。
「……病弱な弟がいるんだ。俺が傍にいてやらなきゃ、アイツ……」
その言葉と共に、ヴェイルの表情が一瞬だけ優しく、そしてどこか寂しげにゆらめく。
彼にとって、弟の存在が何よりも大切なのだと、痛いほど伝わってきた。
私は、その気持ちを否定するつもりはなかった。けれど――
「死神マカーブルは、必ず私たちが討伐するわ。それは約束する」
私は一歩前に出て、彼の目をまっすぐ見据えた。
「それとは別に……私は聖神官としての力も持っている。もしかしたら、あなたの弟に何かしてあげられるかもしれない」
そう言うと、私は両の掌に意識を集中させる。
胸の奥から静かに呼び起こすように、聖なる力――“聖光気”を具現化させた。
眩い金の光が、指先からあふれ出し、周囲を柔らかく照らす。
空気が震えるほどの神聖な波動が、その場を包んだ。
「……っ!」
ヴェイルの目が見開かれる。
「それ……本物か? 本当に、聖神官の力と……勇者の剣、両方……」
疑念と確信の狭間で、彼の声が揺れる。
「まさか……だが……その力、間違いなく“本物”だ……!」
彼は拳を握り、しばし沈黙した。
その表情は、揺れながらも何かを決意しようとしているように見えた。
「みんな、落ち着け。」
低く、よく通る声がギルドの喧騒に静かに割って入る。
それはヴェイルの声だった。まるで、騒然とした空気を断ち切るように。
その一言で、ざわついていた空気がほんのわずかに落ち着きを取り戻す。
「さっきの商人が目撃したという“死神マカーブル”――まずは、あの話が事実かどうかを確認する必要がある。それと、街への影響だ。何より優先すべきは、住民の安全だろ」
その言葉に、ギルド内の空気がまた変わった。
受付嬢が常連の冒険者たちに声をかけて回り、情報収集の協力を仰ぎ始める。
武器の手入れをしていた屈強な男は、無言で立ち上がり、幹部からの指示に黙って頷いた。
ローブ姿の魔法使いは水晶玉を取り出し、遠方の気配を探り始める。
――まるで、軍が動き出すように。
(そうだよね。私は……女神の啓示ばかりに気を取られてた。でも、まずやるべきことがある)
そんな私の思考を断ち切るように、ヴェイルの声がまた届く。
「すまなかったな。ここじゃ落ち着かない。場所を変えよう」
ギルドの喧騒の中でも、彼の声だけは妙にハッキリと耳に届く。
さっきまでの鋭い眼光とは違い、今のヴェイルの目には、穏やかさと、ほんの少しの“気遣い”がにじんでいた。
「ええ、そうね。それがいいわ。……あなたの家に、連れていってくれないかしら?」
私の言葉に、ヴェイルが一瞬――ほんの一瞬だけ目を丸くした。
「お、お前……唐突すぎだろ……。まあ、いいけど。ボロ屋だけどな、文句言うなよ」
軽くため息をつきながらも、彼は周囲の冒険者たちに軽く手を振り、私を伴ってギルドを出る。
ギルドの扉を開けると、夕焼けが名残惜しそうに空に滲んでいた。
騒がしさの残るギルドとは違い、外の空気は静かで、どこか温かかった。
ヴェイルは並んで歩きながら、ぽつりと語り始めた。
「病弱な弟がいるんだ。……あまり大きな声を出すなよ。あいつ、ちょっとした音でも目を覚ますから」
その声には、弟への深い思いやりがこもっていて、私は思わず足を止めそうになる。
(この人、本当に弟のことが大事なんだな……)
私の中に、“勇者として”ではなく、一人の人間としての感情が静かに芽生えていくのを感じていた。
二人が向かったのは、街の喧騒から少し離れた、古びた木造の家だった。そこに住んでいるのは、ヴェイルのたった一人の家族――病弱な弟、リアム。
ギルドでは鋭く冷静なリーダーだった彼が、家の扉を開けた瞬間、雰囲気がふっと和らぐ。
「リアム、また無理して起きてるな?寝てなきゃダメだって言っただろ」
優しい声。それはさっきのヴェイルからは想像できないほど、兄としての柔らかさを帯びていた。
部屋の隅、薄暗い布団の中で、リアムは細い腕をついて顔を上げた。青白い頬にうっすら笑みを浮かべながら、私を見上げる。
「こんにちは……兄さんの仲間、ですか?」
「ええ。勇者の聖剣士、エミリアと申します。少しだけお邪魔させてくださいね」
そう答えると、リアムは小さく頷き、慣れない手つきでお茶を淹れようとし始めた。どうやら来客は滅多にないようだ。
そしてその小さな好奇心は、彼の体力とは裏腹に止まることを知らなかった。
「すごい剣技とかって、やっぱりあるんですか?モンスターと戦った話、もっと聞かせてください!あと好きな食べ物は?」
次々と飛んでくる質問に、私は思わず吹き出しそうになる。
ヴェイルは溜息まじりに「落ち着け、リアム」と言うが、その声もどこか甘い。
「だって、勇者様に会えるなんて滅多にないんだから!」
弟の無邪気な声が部屋に響いたその時だった。リアムが急に激しく咳き込み、顔を歪めた。
「……ほら、無理するな。薬飲んで、もう寝ろ」
ヴェイルが枕元に駆け寄り、そっと弟の背を撫でる。その手は、どこまでも優しかった。
「うん……でも、兄さん、僕が寝たからって変なこと言い出さないでね?」
「お前は親かよ……」
呆れたように返しながらも、ヴェイルの顔はどこか緩んでいた。
そんな微笑ましい兄弟のやりとりに、私は思わず心が和らいでいた――けれど。
(……やっぱり。リアムくん、あなた……)
私は静かに言った。
「そのお薬じゃ、リアムくんの病気は治らないわ。これは、呪いよ」
ヴェイルの顔色が変わる。「……なんだって?」
「魔王は、直接手を出せない相手には、呪いの種をばら撒くの。じわじわと心と体を蝕んで、気づいた時には手遅れってやつ」
私は静かにリアムの体に手をかざし、聖なる光を灯した。
薄い煙のような黒い瘴気が、一瞬だけ空間に揺れた。
「あなたの能力――空間を読み、罠を見抜き、危機を回避するその力は、魔王にとって最も厄介なものよ。だからこそ、あなたを“動けなくする”ために、弟に呪いをかけたの」
リアムのかすかな笑顔が、ヴェイルの胸を貫く。
これまで何度も感じていた「小さな違和感」――名医の薬も、治療魔法も効果がなかった理由が、ようやく形になった瞬間だった。
ヴェイルの拳が、小さく震えた。
「ふざけやがって……!」
その声は低く、けれど確かに、怒りに燃えていた。
私はその隣で、静かに言葉を紡いだ。
「だから、あなたの力が必要なのよ。魔王を倒すには、あなただけが見抜けるものがある」
ヴェイルは弟をなんて可哀想なのだとまっすぐ見つめている。
「今は私の聖光気で和らいでいるけれど――リアムくんを本当に救う方法は、ただ一つだけよ」
彼の目が鋭くこちらを向いた。声は震えていたが、その中には確かな焦りと願いがあった。
「そ、それは……?」
私はまっすぐに彼を見据え、迷いのない声で告げる。
「古の魔王を討つこと。それだけが、リアムくんをこの呪いから解放する唯一の道よ」
その言葉は、刃のようにヴェイルの胸を突いた。
魔王――伝説に語られる存在。人知を超えた呪詛の根源。
たった一人の弟を救うために、そんな存在と戦わねばならないというのか。
部屋の片隅、リアムはふと目を伏せた。弱々しい体ながらも、兄の動揺を敏感に感じ取っているのだろう。
彼の沈黙が、かえってこの場の重さを際立たせていた。
「……オレに、それができるのか?」
ヴェイルは苦く笑いながら呟いた。「オレは、ただのレンジャーだ。勇者でもなければ、選ばれし者でもない。弓の腕に少し自信があるくらいで、魔王と真正面から……無理だろ」
「いいえ。だからこそ、あなたが必要なの」
私は腰の聖剣に手をかけ、凛とした声で言った。
「剣は、私が振るう。だけど、見えない敵の気配を感じ取り、罠を察知する。空間そのものを読む“あなたの力”がなければ、魔王の深層には辿り着けない。あなたは、ただのレンジャーなんかじゃないわ」
そして、私は微笑んだ。「それを、少しだけ証明してあげる」
ヴェイルを連れて、私たちは街の外れ、森の奥の静かな広場へ足を踏み入れた。風が静かに葉を揺らし、そこにはちょうど良い大きさの岩があった。
私は聖剣を鞘から引き抜き、静かに深呼吸を一つ。
体内の聖光気を刃に集中させ、淡く光る剣を、何の力みもなく振り上げた。
――次の瞬間。
閃光が走る。
空気が断たれ、世界が一瞬、静止する。
遅れて響いた鋭い破砕音。
目の前の巨岩が、まるで熟れた果実のように、静かに、綺麗に、真っ二つに割れて地面へ崩れ落ちた。
その切断面は驚くほど滑らかで、まるでバターを熱したナイフで切ったようだった。
ヴェイルは息を呑んだまま、言葉を失っていた。
「これが、私の力の一端よ」
私は静かに言った。
「この剣でなら、サイクロプス程度なら一撃。けれど、魔王はそれだけじゃ倒せない。あなたの感知能力、洞察力、判断力――それらがなければ、私も戦えない」
ヴェイルの視線を、まっすぐに受け止める。
「あなたの力が必要なの。リアムくんを救いたいなら、共に来て。必ず、救ってみせる」
沈黙の中で、ヴェイルの拳が震えた。
それは、恐れではない。決意だった。
……ちなみに、私の渾身の一撃で真っ二つになった、あの巨大な岩――どうやらこの街では、ちょっとしたシンボルだったらしい。
後日、その持ち主の方に平謝りする羽目になったのは……まあ、私のうっかりということで許してほしいところ。
でも、何が幸いするかわからない。
あまりに見事すぎる切り口が話題になったらしく、岩は「勇者に斬られし伝説の岩」として、なんと新たな観光名所に格上げされた。今では、子どもたちがその前で記念写真を撮るほどの人気ぶりだ。
――結果オーライ、ってやつよね!