「佐藤恵美」
陸上が、何よりも好きだった。
風を切るように地面を蹴り上げ、誰よりも早くゴールテープを駆け抜ける――その瞬間が、たまらなく好きだった。中学二年生で出場した中体連。憧れの舞台で、私は誰よりも速く、勝利を掴んだ。あの時の歓声と達成感は、今でも鮮明に思い出せる。
けれど、幸福な時間は長くは続かなかった。十五の夏が過ぎた頃から、私の身体は少しずつ、けれど確実に蝕まれていった。倦怠感、原因不明の痛み。病院をいくつも回り、告げられた病名は残酷なものだった。
「胚細胞腫瘍……ステージ、フォーです」
十六歳。人生これから、という時に突きつけられた絶望。あの日から、私の日常は一変した。
抗がん剤の副作用で髪は抜け落ち、激しい吐き気に何度も襲われた。大好きだった食事も、味が分からなくなった。そして何より辛かったのは、あんなに自由自在に動かせたはずの脚が、日に日に言うことを聞かなくなっていくこと。
リハビリに励んでも、体力は戻らない。病室の窓から見えるグラウンドを、ただただ眺めることしかできなかった。
(ああ……もう一度、あのトラックを全力で走りたかったな)
意識が途切れる直前、最後にそう願ったのを覚えている。
次に目を開けた時、私は不思議な場所にいた。
どこまでも白く、光に満ちた空間。足元には雲のような感触があり、まるで夢の中にいるみたいだった。
ぼんやりとした視界の先に、人影のような、けれど眩い光を放つ何かが現れた。それはゆっくりと近づき、優しい声で私の名前を呼んだ。
「エミ……エミ……」
まるで、ずっと昔から知っているような、温かく、懐かしい声。それは、私の母親の声にどこか似ていた。
「あなたは……一体、誰ですか?」
私がそう問いかけた瞬間、声ではなく、直接心に響くような感覚が訪れた。
「私は運命の女神、ステシア。あなたに、どうしてもお願いがあって参りました」
女神様――その存在を理解した途端、全身が震えた。まさか、こんな形で神様と出会うなんて。
「あなたに……遠く、遥か遠くの星に封印されている魔王ヴィゾルディアを、倒していただきたいのです」
女神様は、私にそう告げた。信じられないような、突拍子もないお願いだったけれど、その声には不思議な力があり、私はただ、その言葉に耳を傾けていた。
「……え? 魔王を、倒す?」
女神様の突拍子もない言葉に、私は完全にフリーズしていた。魔王って、あの、物語に出てくる悪いやつ? それが、遥か遠い星に封印されてる? そして、それを私が倒す?
「ちょ、ちょっと待ってください!」
頭の中がパニックになり、私は思わず捲し立てるように言葉を紡いだ。
「私が、ですか? ただの、どこにでもいる普通の女子高生ですよ! 運動は得意でしたけど、喧嘩なんて一度もしたことないですし! 暴力なんて、絶対に無理です!」
両手をぶんぶん振りながら、必死に訴える。だって、ありえない。自分が魔王と戦うなんて、想像すらできない。昨日まで病室のベッドで天井を見つめていた人間が、いきなり世界の命運を背負わされるなんて、まるで冗談みたいだ。
「女神様、何かの人違いじゃありませんか? もっとこう、武器とか魔法とか使える、すごい人にお願いした方が……」
私がそう言いかけると、女神ステシアは変わらず穏やかな光を湛え、優しく語りかけてきた。
「エミ、あなたのその強い想い、諦めない心こそが、魔王を打ち破る力となるのです」
……強い想い? 諦めない心?
病気になって、走ることを諦めざるを得なかった私のどこに、そんな力が残っているっていうんだろう。自嘲気味にそう思いかけたけれど、女神様の瞳があまりにも真剣で、私は言葉を失ってしまった。
「あなたは実は――勇者エミリアの分体として創られた、三人のうちの一人なのです」
女神ステシアの言葉は、まるでSF映画の冒頭のような衝撃的なものだった。勇者エミリア? 分体? 私の頭の中は、処理能力を超えた情報で完全にパンク寸前だった。
「勇者エミリアは、魔王の四天王である剣魔王アリオクと相打ちになり、魂の根源を破壊されて……もう、二度と生き返ることができない状態になってしまったのです」
女神様の声は、どこか悲しみを帯びているように聞こえた。さらに、信じられない事実が告げられる。
「その他の二人の分体も、魔王の呪いによって……ただ、あなたの世界には魔力が存在しなかった。そのおかげで、あなたの魂だけは無事だったのです。しかし……魔王の怨念は、あなたの肉体を蝕み、今の病という形で現れてしまったのです……」
え? じゃあ、私がこんな目に遭っているのは、魔王のせいなの? 三人の私? 分体って何? もう、何が何だかさっぱり分からない。頭の中の疑問符が、洪水のように溢れ出した。
「で、でも……女神様って、世界を創るくらいすごい力を持ってるんですよね? だったら、私みたいな、ただの病弱な女子高生じゃなくて、もっと強い誰かに頼めばいいじゃないですか!」
女神様の表情は見えない。けれど、きっと困ったような、悩ましい顔をしているんだろうな、と想像した。
「私たち神々には、創造する力はありますが、破壊する力はないのです。そして……魔王は、創造する私たち神々を殺すことができる、唯一の力なのです」
女神様の言葉に、私は思わずポカンとしてしまった。
「神様って、意外とできないことがあるんですね……」
全知全能だと思っていた神様にも、苦手なことがあるなんて。なんだか少しだけ、親近感が湧いた。走ることしか考えてこなかった自分と、少しだけ重なる気がしたから。
「我々神々は、エミリアとあなたを含むその三人を生み出した。魔王を倒すことができる、唯一の力として。しかし、魔王もそれを察知し、あらゆる手であなたたちを襲ったのです」
女神ステシアは、静かに、けれど重い事実を告げた。
「もし……私が、無理ですって断ったら、どうなるんですか?」
恐る恐る、そう尋ねてみた。
「私たちには、あなたに強制することはできません。ですが……もしあなたが拒否すれば、この宇宙は、やがて滅んでしまうでしょう。私たちには、それを受け入れることしかできません」
「え、ちょ……重たすぎるんですけど!」
宇宙が滅亡? そんなSF映画みたいなスケールの話、急に言われても困るんですけど! 私の頭は、キャパシティオーバー寸前だった。
つまり、このまま何もしなければ、私の大切だった故郷も、大好きな家族や親友たちも、全てが消え去ってしまう――。
そんなの、絶対に嫌だ。
「私なんかに、本当にできるんですか……?」
不安を押し殺して、震える声でそう問いかけた。
「あなたにしかできないのです」女神ステシアは、力強く頷いた。「ですが、安心してください。魔王を討伐するための特別な力はあなたにこそ宿っていますが、その他にも、その星にはあなたと共に戦ってくれる仲間たちがいます。まずは、その方々を集めるのです」
ゲームでいうパーティメンバー、ってことかな? そう考えると、少しだけ気が楽になった。一人で戦うわけじゃないんだ。
「それに、勇者エミリアの肉体は、まだそこにあります。彼女の身体能力は、目覚ましいものですよ。あなたが切望していた、もう一度走りたいという願いはもちろん、身体的なことは全て、あなたの望むままになるでしょう」
ほほう、それはちょっと魅力的かも。再びあの風を切る感覚を味わえるなら……。
「それに、私たちにできる限りのフォローは惜しみません。おまけに、あなたの好きだったものを、ご褒美として用意しましょう」
え、ご褒美? 私の好きなものって……。
「好きなものといえば……陸上の夢は、そっちで叶いそうだし……もしかして、オタ活の方!?」
そう、闘病生活の中で、私の唯一の心の支えだったのは、スマホで楽しむオタク活動だった。特に、刀剣浪漫譚『刀剣絢爛』に登場するキャラクターは、私の生きる希望と言っても過言ではないほど、大大大好きなのだ!
「それを、どうやってご褒美にするんですか?!」
前のめりになって問い詰めると、女神ステシアは穏やかな声で言った。
「……それでも、魔王討伐を、引き受けてくれますか?」
「わかった、わかりました! やります! 私が、魔王を倒します!」
他に選択肢なんてなかった。大切なものを守れるなら、私はなんだってする。
「ありがとうございます、エミリア。いいえ、恵美。あなたの決意は、全ての生命を救うことになるでしょう」
安堵の息を吐いた女神がそう言った瞬間、私の身体が内側から眩い光を放ち始めた。
「あなたを、勇者エミリアの肉体へと導きます。まずは、現在いる地点から南に五百キロメートル離れた、『ノヴァーラ』という国を目指してください。そこには、あなたを助ける力を持つ者がいます」
「五百キロメートル!? 遠すぎだって! せめて、その人のヒントくらいくださいよ!」
「それはおいおい、あなたに伝えに行きます」
女神の声には、どこかいたずらっぽい笑みが含まれているような気がした。ああ、そうだ。ファンタジーゲームって、こういうアバウトな情報しかないパターン、よくあるよな……。
「女神の意地悪ー!!」
そう叫んだ瞬間、私の意識はまるでエレベーターが急降下するように、急速に遠のいていった――。
パチリと目を開けると、そこは一面の草原だった。
頬を撫でる風が、信じられないほど心地いい。見上げると、空はどこまでも広がり、見慣れた青色だけでなく、まるでオーロラのように虹色の光を帯びて輝いている。
「……夢じゃ、なかったんだ」
思わず、そう呟いた。肌で感じる空気、目に映る景色、全てが現実感を伴っている。本当に、私は異世界に来てしまったんだ。
まずは、状況を把握しなくては。
意識を集中させると、近くに水の流れる音が聞こえてきた。まるで、五感が研ぎ澄まされたように、あらゆるものが鮮明に感じられる。これが、勇者エミリアの力なのだろうか。
ふと、お腹のあたりがスースーするのに気づき、目をやると、着ていたはずの服が剣戟で切り裂かれたように大きく裂けていた。
(この一撃で、エミリアは……)
そう思った瞬間、まるで巻き戻しのように、裂けていた服が何事もなかったかのように元通りになった。
その時、私のすぐ傍に置かれていた西洋風の剣が、眩い光を放ち始めた。
「うわっ!?」
あまりの輝きに、思わず目を瞑る。数秒後、そっと目を開けると、そこに在った剣は見慣れない西洋風のそれではなく――美しく弧を描く、紛うことなき日本刀へと姿を変えていた。
その優美な刀身、吸い込まれそうなほどの輝き。まさしく、それは……
「天下五剣……三日月宗近!!!!」
私は多分、感極まってヨダレを垂らし、ものすごく気持ち悪い顔をしていたと思う。まさか、女神様は最初に、私の趣味を理解して、憧れの太刀を授けてくれるなんて!
訳が分からないけれど、これは間違いなく心強い。三日月宗近にそっくりな太刀が私の手に……! この太刀があれば、きっとどんな困難も乗り越えられる――そんな気がした。
水気を求めて感覚を研ぎ澄ませば、すぐにそれらしき場所が見つかった。旅の馬や人が喉を潤すための、簡素な水飲み場だ。
恐る恐る水面に顔を近づけ、映る自分の姿を覗き込む。
「……目鼻立ちは、ちょっとキリッとした感じになったけど、確かに私だ」
そして何より目を引いたのは、髪の色だった。黒髪だったはずの私の髪は、まるで夜空にかかるオーロラのように、様々な色が複雑に混ざり合い、美しく輝いている。
腰に無造作に結ばれていた飾り紐を手に取り、慣れた手つきでオーロラ色の髪をポニーテールにまとめた。うん、悪くない。
「さて……まずは、言われた国を目指すか。確か、南のノヴァーラだったな」
その瞬間、脳内に滝のように、様々な記憶が流れ込んできた。おそらく、勇者エミリアが生きてきた中で得た知識の数々だ。
怒涛のような情報量に、頭がズキズキと痛み、視界がぐらりと揺れる。
(うわっ……エミリア。あんたも、なかなか大変な人生を歩んでたんだね……)
それでも、流れ込んできた記憶のおかげで、この世界の国々の大まかな位置関係や、文化、歴史といったものが、頭の中に叩き込まれた。
……しかし、五百キロメートルを徒歩で移動、マジで?
軽く肩を回し、足首をストレッチする。せっかく手に入れた丈夫な肉体、まずはその性能を試してみないとね。
懐かしいクラウチングスタートの姿勢を取る。あの頃、誰よりも速く走るために何度も繰り返した、原点とも言えるフォーム。
「よーい……ドン!」
次の瞬間、地面を蹴り上げた私の身体は、信じられないほどの速度で前へと飛び出した。
「は、早いっ!」
自分で出した速度に、自分が一番驚いている。これは、中体連レベルどころじゃない。高校の国体、大学のインカレ……いや、そんなレベルを遥かに凌駕している。まるで、弾丸そのものだ。
街道を走っていくうちに、荷物を積んだ馬車や、旅装束の人々を、まるで静止画のように次々と追い抜いていく。風を切る音だけが、耳に残る。
確かに、これはとんでもない身体能力だ。エミリア、恐るべし……!
これなら、五百キロメートルなんて、もしかしたらあっという間かもしれない。そんな希望が、胸の中に湧き上がってきた。
ノヴァーラへの道中、私は積極的に魔物を狩ることにした。
剣の技術なんて、生まれてこの方、全くの素人同然。けれど、勇者エミリアの知識と、この身体に染み付いた動きを自分のものにするためには、実践あるのみだ。
エミリアの記憶によれば、この辺りにはゴブリン、オーク、レッドボアといった魔物が生息しているらしい。実際に遭遇してみると、それ以外にも様々な姿形の魔物が現れた。
最初は戸惑ったものの、いざ剣を構えると、まるで長年使い慣れたかのように身体が自然と動く。避ける、斬る、薙ぎ払う――無駄のない動きで、次々と魔物を撃退していく。
すごいぞ、エミリア! あなたの経験と技術は、確かにこの身体に息づいているんだ!
そして、エミリアの記憶を辿るうちに、私と同じ分体であった二人の存在も鮮明になってきた。
光の癒しを得意とする神官エミール。彼女の力は、どんな病や傷も癒すことができるという。道中、怪我をした旅人や弱った動物を見かけるたびに、エミールの知識を借りて治癒魔法を試してみた。不思議な光が手を包み込み、みるみるうちに傷が塞がっていく。
(こんな力があったら、私の病気だって……)
魔力の存在しない、私の生きていた世界を少しだけ恨めしく思った。
そして、もう一人の分体、銃闘士エミーナ。彼女もまた、エミリアに劣らないほどの強大な力を持っていた。特に印象的だったのは、ダンスと銃術と格闘を融合させたかのような、流麗で予測不能な戦い方だ。エミリアの力強い剣技と、エミーナのトリッキーな動き。二つの戦闘スタイルが混ざり合うことで、私の戦い方はさらに幅広さを増していく。
そりゃそうか。元は一つの魂だった私たちだ。相性が悪いわけがない。
そんな風に、エミリアの力、そして分体たちの記憶とスキルを体に馴染ませながら、一週間ほどが過ぎた頃、ついに目的地であるノヴァーラへと辿り着いた。
しかし、その安堵も束の間だった。
ノヴァーラに足を踏み入れた瞬間、私は全身の毛が逆立つような、途轍もない恐ろしい力を国の反対側から感じた。これは……もしかして魔王の力?魔の者特有の肌を刺すような、底知れない殺意。その殺意がこの国に向かってきている。そうエミリアの本能が言っているように思えた。