プロローグ
異世界。
港市国家ノヴァーラの南に位置する、潮風の香りがかすかに漂う賑やかなギルドの一角。木製のテーブルを囲み、数人の冒険者たちがそれぞれの武勇伝や近況を語り合っていた。その中で、ひときわ目を引くのは、一人のハーフダークエルフのレンジャーだった。
絹のように滑らかな黒髪は、肩にかかるほどに伸び、時折、楽しげな会話の流れに合わせてさらりと揺れる。彫りの深い顔立ちには、ダークエルフ特有の神秘的な美しさと、人間らしい温かさが絶妙に混ざり合っていた。翡翠のような深い緑色の瞳は、常に穏やかな光を湛え、仲間たちの言葉を優しく受け止めている。鍛え上げられた身体には、手入れの行き届いた革鎧がしっくりと馴染み、腰には使い込まれた弓と矢筒が静かに控えていた。その佇まいは、まさにギルドでも一、二を争う実力を持つレンジャーの風格を漂わせていた。
「それでな、そいつが巨大な牙を剥いて飛びかかってきたんだ!」
屈強な戦士が身振り手振りを交えて語る冒険譚に、レンジャーは口元に微かな笑みを浮かべながら耳を傾けていた。グラスを傾け、喉を潤すと、その声が穏やかに響いた。
「ああ、アンタが苦戦するんだ、なかなか手強い相手だったようだな、バルド。」
その声は、まるで上質なベルベットのように滑らかで、低音の中に温かさと深みが宿っていた。過度な感情的な起伏はなく、常に落ち着いていて、聞いているだけで心が安らぐような響きを持つ。それは、まるで静かな夜に語りかけられる物語のように、耳に心地よく、知的な印象さえ与える声だった。
別の仲間が、最近依頼を成功させた獲物の話を得意げに語り出すと、レンジャーは相槌を打ちながら、その言葉の端々にユーモアを織り交ぜた。
「なるほど、見事な毛並みだったのだろうな。だが、油断は禁物だぞ、エルマ。美しいものには毒がある、とはよく言ったものだからな。」
その声には、人を惹きつける優しい響きの中に、長年の経験からくる深慮と、仲間を気遣う温かい感情が滲み出ていた。ギルドの仲間たちは、彼の落ち着いた声と穏やかな物腰に信頼を寄せ、彼が発する言葉の一つ一つに耳を傾ける。
ハーフダークエルフのレンジャー、彼の名はヴェイル。その美しい容姿と、魅力的な声を持つ彼は、ノヴァーラ南のこのギルドにおいて、かけがえのない仲間たちとの穏やかな時間を過ごしていた。それは、次の冒険への静かな序章であり、彼らにとっては何よりも安らげるひとときだった。
ギルドの喧騒に、ひときわ大きな声が混じった。入口の扉が開き、埃まみれの旅装を纏った恰幅の良い商人が、息を切らせて駆け込んできたのだ。
「旦那、どうなさいました?」
カウンターにいた女ギルド員が心配そうに声をかけると、商人は脂汗を滲ませた顔で辺りを見回し、よろめきながら近くの空いている席に倒れ込んだ。
「水だ! まずは水をくれ!」
差し出されたジョッキの水を一気に飲み干すと、商人はようやく落ち着きを取り戻し、周囲の好奇の目に気づいた。
「皆、聞いてくれ! 恐ろしいものを見た!」
その言葉に、談笑していた冒険者たちの視線が一斉に集まる。先ほどまで穏やかな空気が流れていたギルド内に、緊張が走った。
「街の、街道のすぐ近くでだ…」商人は声を震わせながら続けた。「見たんだ…死神マカーブルを!」
その名が出た瞬間、ギルドの中がざわめき立った。「死神マカーブルだと?」「そんな馬鹿な!」「あれは伝説のモンスターだろう?」
ヴェイルも、仲間たちとの穏やかな会話を中断し、静かにその商人に視線を向けた。彼の翡翠の瞳には、普段の穏やかさに加えて、僅かな警戒の色が宿る。
商人は、周囲の驚愕と疑念の入り混じった視線に押されるように、必死で証言を始めた。
「間違いない! 黒いフードで顔は見えなかったが、鎌を持っていた! まるで骨のような白い手が、鎌を握りしめて…! 周りの草木は枯れ、地面は凍り付いていたんだ! あまりの恐ろしさに、荷車を捨てて必死で逃げてきた!」
真面目な商人のその形相は、間違いなく現実味を帯びていた。高レベルモンスターとして知られる死神マカーブルは、その名の通り、死を司ると言われる恐ろしい存在だ。その昔、死を恐れた狂った王が大規模な黒魔術により召喚、一国が滅んだ伝承がある。それが、街の近くの街道に現れたというのだから、尋常ではない。
「旦那、それは本当にマカーブルで?」屈強な戦士バルドが、眉を顰めて問いかけた。「見間違いということは…」
「ありえない! あの禍々しい気配、それに周囲の異様な雰囲気…絶対にそうだ! 生きてここに戻ってこられたのが奇跡だ!」商人は必死に首を横に振った。
ギルド内は、完全に静まり返った。冒険者たちは顔を見合わせ、それぞれの胸に不安が広がっていくのを感じていた。もし商人の話が真実なら、街の安全が脅かされるだけでなく、近郊の生態系にも大きな異変が起きている可能性がある。
ヴェイルは、静かに立ち上がった。その落ち着いた動きは、周囲のざわめきとは対照的だった。彼の緑色の瞳は、遠くを見据えるように、僅かに鋭さを増していた。
「皆、落ち着いてくれ。」
彼の低い、しかしよく通る声が、ざわめきを鎮めた。その声には、不思議な説得力があった。
怯えた商人に対し、丁寧に話しかける。
「詳細を確認する必要があります。もし本当にマカーブルが現れたのであれば、早急に対処しなければなりません。」
ギルドマスターの部屋へと向かうヴェイルの背中を、仲間たちは固唾を飲んで見送った。ギルド一番のレンジャーの言葉は、重く、そして頼りになるものだった。ノヴァーラの南の小さなギルドは、一人の商人の告白によって、一気に緊張の色に染まっていた。
ヴェイルがギルドマスターの部屋へ向かおうとした、その瞬間だった。
騒然としたギルドの入り口とは反対側、少し影になった場所に、見慣れない少女が立っているのが目に留まった。華奢な体躯ながら、背筋をぴんと伸ばした凛とした立ち姿は、周囲の喧騒とは隔絶された静けさを湛えている。年齢は十代半ばだろうか。シンプルで実用的ながら聖なる力を感じる意匠の施された装いを身につけ、腰には見慣れない形状の、細身で湾曲した異国の剣が下げられていた。その瞳は、深いオーロラのような色を宿し、こちらをまっすぐに射抜いている。
ざわめきがまだ残るギルドの中で、彼女の声は不思議なほどクリアに響いた。
「あなたがヴェイル・アグラディアですね。」
その声は、鈴が転がるように清らかでありながら、どこか毅然とした響きを含んでいた。言葉遣いは丁寧だが、そこに迷いや遠慮の色は見られない。まるで、ヴェイルがそこにいることを確信しており、話しかけるのは当然であるかのような、独特の存在感を放っていた。
ヴェイルは足を止め、その少女に向き直った。先ほどの商人の話で僅かに張り詰めていた空気が、彼女の出現によってさらに静まり返る。ギルドの冒険者たちは、一体何が始まったのかと、固唾を飲んで二人を見守っていた。
「オレがヴェイルだが…」
彼の声は、普段の落ち着きを保ちながらも、僅かな警戒の色を帯びていた。見知らぬ少女が、なぜ自分の名前を知っているのか。そして、このタイミングで現れたのは偶然なのだろうか。
少女はヴェイルの言葉に、微かに頷いた。その表情は、どこまでも冷静で、感情の機微を読み取らせない。
「あなたに、お話があるの。」
彼女の言葉は短く、しかし、その奥には何か重要な意味が込められているように感じられた。ギルドの喧騒は完全に止み、全ての視線が、ヴェイルと謎の少女の一挙手一投足に注がれていた。
「私の名前はエミリア」
少女は、ヴェイルの問いかけに、淀みなく、しかし静かに答えた。その声は、先ほどよりも幾分か落ち着いたトーンだったが、その言葉が持つ重みは、ギルドの空気をさらに引き締めた。
「女神ステシアより勇者として力を授かった聖剣士よ。」
その肩書きは、まるで古の英雄譚から抜け出してきたかのように、現実離れしていた。勇者。それは、長きに渡る歴史の中で、幾度となく人々の希望の象徴として語り継がれてきた存在。聖剣士という言葉もまた、特別な力を持つ者にのみ許される称号だろう。
華奢な少女と、勇者、聖剣士という言葉のギャップは大きかったが、彼女の瞳に宿る強い光と、揺るぎない立ち姿は、その言葉に不思議な説得力を持たせていた。腰に佩かれた異国の剣も、ただの装飾品ではない、特別な力を秘めているように見えた。
ギルドの冒険者たちは、驚愕の表情でエミリアを見つめていた。まさかこんなタイミングで、伝説の中の存在と出会うなど、誰も想像していなかっただろう。先ほどの伝説級モンスターの話も、この少女の登場によって、信憑性が増した。
ヴェイルは、エミリアの言葉を静かに咀嚼していた。勇者。聖剣士。それが真実であれば、彼女がここに現れたのには、何か特別な理由があるはずだ。偶然などではないだろう。
「エミリア…さん?」
ヴェイルは、慎重に言葉を選びながら問いかけた。「あなたが、私に話があるというのは、一体どのようなことでしょうか?」
エミリアは、ヴェイルの問いに、まっすぐな視線を返した。その瞳には、強い決意のような光が宿っていた。
「あなたに、力を貸してほしいの。」