雨の日の旅立ち
良い夢を見ていたような気がする。
心地よい暖かな草原を走る、そんな夢を。
そんなことはできない、もう長くはない。
そう思いながら外に目を向ける。
今日は余命宣告を受けた日から半年、人生最後の日。
八十三年間を振り返る。
長かったなぁ。
私の家には今、私と一匹の猫しかいない。
「…ああ、雨だ。」
朝から降り続く雨は庭に川を作り、庭に咲くクレマチスは雨に濡れてもなお美しく咲いていた。
サビ猫のパルは心配そうに私を見つめている。
「大丈夫だよ。」
私はただパルを撫でる。
そして…いつのまにか私は眠りについていた。
パルはいなかった、しかし枕元に立つ少女がいた。
「迎えに来ましたよ○○さん、さあ行きましょう。」
目の前に暗闇が広がる。
少女に手を引かれると、簡単に体が持ち上がった。
少女はとても可愛らしい。
髪はツインテールで、紫陽花のような大きな飾りをつけている。
そこからつづく髪は水色からピンクへと色が変わり、かなりの癖毛であった。
見た目に驚いたあと、更に不思議なものを見た。
少女が連れる…豚!
いや、豚といっても豚らしくない。
全体的に頭だけしかないような丸い体はピンク色で、水色の長いうさぎに似た足があり、鼻が大きなハートになっていた。
何この生き物、可愛い。
「この子が気になりますか?」
少女は私の視線に気づいたのか私を見て微笑み、そしてしゃがんで豚を撫でた。
「この子はトントと言います。トントはとても鼻がよくて、好物の悪夢や死の匂いを探し出すんです。その嗅覚の発達に伴って聴覚や視覚は退化。トントは私達導き手には欠かせない存在です。」
豚は撫でられて嬉しかったのかジャンプしていた。
「さあ。」
手を引かれるがままに暗闇に足を踏み入れると、一本の光の道が現れて部屋はすっと見えなくなってしまった。
歩みを進める少女。
「どこまで続いているのですか、それにどこへ向かおうとしているのですか?」
だいぶ歩いた頃にふと心配になった。
「もうすぐです、もうすぐあちらに行けますよ。」
私はこの少女に会ったことがある気がする、しかし思い出す必要はなかった。
くすくすと少女は笑う。
「貴方とは夢で会いましたね、まさかまた貴方を担当するとは思いませんでした。」
道はどこまでも続くかのような気がしたが、そうでもなかった。
「道の終わり。」
光の道の終着地は時空の歪みだった。
道よりも激しく光るそれから懐かしい、日向の草と暖かい太陽を思わせる香りが漂う。
歪みに手を伸ばすと、さらっとした感覚が身体に広がる。
そして、私は十代くらいまで若返った。
「うわっ…服がダボダボ。」
元から低かったとはいえ、だいぶ背が縮んでしまった。
一瞬。
私はいきなり場所、時間、世界そのものが変わるのを感じた。
さっきまでいた暗闇とは違い、眩しさに目を細める。
時間が経ってだんだん景色が見えてくるようになった。
初めに見たものは草原だった。
それから奥に森、森の中に薄紫色の湖、そしてそこに続くレンガの一本道。
振り返ると炎に包まれた大地、氷に覆われた土地。
果てしなく空が、大地が広がっている。
ここは草原にある丘の上らしく、風が少し強い。
裸足で草の感触を味わう。
風が吹くと鈴のような音、ベルのような音が花から……。
えっと、花って音したっけ。
近づいて指で花弁を弾いてみた。
チリンッという音と共に手にジーンとした痛みが広がった。
花は硬かったのだ。
「それは音性植物ですよ、聴覚が鋭い虫を誘っているのです。」
後ろを見ると少女は歪みから出てきていた。
「一体貴方は誰ですか、ここは…?」
「私はラーシュ、そしてここは世界最大の夢であり、唯一の死後の世界です。私は人の死後、ここへ導く仕事をしています。まだ仕事があるのでもう行かないといけません。後のことはそこにある石版に教えてもらってください。」
瞬間移動でもしたのだろう、止める間もなく彼女は消えていった。
そんな無責任な。
だいたい石版に教えてもらうってどうやってよ。
そんなことを考えながら頭をボリボリ、石版に触れる。
石版は温かかった。
脈打つ鼓動を感じたような気がして、指先に意識を集中させてみる。
文字がチロチロ動いて…。
石版の文字が虹色に光って浮かび上がり、脳内に流れ込んでくる。