絡み酒の泣き上戸(4)
ところが、予想以上に強かった炭酸が喉を刺激し、一気にむせ返ってしまう。
「天野さん、大丈夫ですか?」
「は、はい。申し訳ございませ、」
次の瞬間、反射的にセリフを吸った息ごと飲み込み、慌てて両手で口を押さえた。
東海林に少々緊張した表情で問い掛けられる。
「どうしました。まさか」
「……」
涙目で二度頷く。
そのまさかだった。空っぽの胃にアルコールを大量に流し込んだからだろうか。咳をする間にあっという間に気分が悪くなったかと思うと、次は吐き気とともに熱い何かが喉をせり上がってきたのだ。
このままでは吐いてしまう──我慢が限界に達しようとしたその時、突然体がふわりと宙に浮いた。
「……!?」
空中浮遊する幻覚を見るほど酔ったのかと焦ったが、すぐに状況を把握して目を見開く。東海林が自分の膝の裏と背に手を回し、軽々と抱き上げていたからだ。世に言うお姫様抱っこである。
いつもの永夢なら「わー、お姫様抱っこだ! 私初めて!」とはしゃいでいたかもしれないが、少しでも油断すると口から混合物Xが漏れ出てきそうで何も言えない。
その間に東海林は大股で店を横切った。
「すぐトイレに行きますから、数十秒だけ我慢してください」
「……」
こうなってはすべてを東海林に任せるしかない。永夢は口を押さえたままこくこくと頷くしかなかった。
鬼気迫る長身スーツは相当迫力があるのか、立ち歩いていた酔っ払いたちが、モーゼに割られた海さながらに一斉に後ずさる。いつしかトイレに向かって一本の道ができていた。
途中、入店したばかりで待ち合わせの相手を探していたのだろうか。辺りを見回していたお洒落メガネの男性が、東海林に横抱きにされている永夢を目にし、「天野……?」と絶句してその場に立ち尽くしていたのには永夢は気付かなかった。
──幼い頃は悲しいこと、苦しいこと、辛いことがあると、すぐに泣きべそを掻く子どもだった。
『お母さ~ん、聞いて~……』
小学二年生の夏休みが開けて三日後、永夢は帰宅するが早いか、キッチンで夕食の支度をする母に訴えた。
『あらあら、どうしたの』
『私の夏休みの工作、伊藤君に壊されちゃった』
『伊藤君ってあの可愛い顔した男の子?』
『うん、そう……。教室に飾ってあったんだけど、男子が中でボール遊び始めて、伊藤が投げて当たっちゃって……』
腕には宿題の一つだった工作、紙粘土で製作した貯金箱を抱えていた。
ちなみに、デザインは丸々としたブタにしか見えないのだが、本人は可愛いウサギだと主張している代物である。痛々しいことに胴から真っ二つに割れていた。
永夢は天井を仰いで泣き叫んだ。
『せっかくお母さんに手伝ってもらったのに。伊藤君なんて大嫌……。ううん、嫌……。……。ほ、ほんのちょっとだけ嫌いになったんだから~!』
『ちょっとだけって、あんた本当に面食いねえ。将来が心配だわ。とにかく見せてくれる?』
母は苦笑しつつ貯金箱を受け取った。
『これくらいなら直せると思うけどね』
『でも……』
腰を屈めまだぐずる永夢の顔を覗き込む。
『あっ、そうそう。お腹空いたでしょ? 今日は永夢の好きなグラタンだよ。エビをたくさん入れたからね』
『えっ』
好物が夕食だと聞いて悲しみ一色だった心が一気に喜びに満たされた。
『ご飯食べたら一緒に直そうね』
『……うん!』
母の手料理は永夢にとっては魔法にも等しかった。料理名を聞いただけで嬉しくなり、口に入れると世界一幸せだと思えたのだから。
温かいベッドの中でまだ寝ていたいのに、頭が軽く痛んでうまく眠れない。
「うう~ん……」
永夢は眉根を寄せ、身動ぎをして頭から布団を被った。ところが、まもなく隙間から漂ってきた、日本人の本能に逆らいがたい香りに気付き、子犬さながらに鼻に全神経を集中させクンクンする。
「ご飯だ。いいにおい……」
炊きたてのご飯の他にもう一つ、馴染みがある料理の香りが入り交じっている。
味噌と野菜の香りだ。野菜は何種類かあるところまではわかるのだが、もっとも主張の強い、泥臭いような、懐かしいような香りの野菜がなんなのかわからなかった。
料理の香りを嗅いだからか、途端に空腹を覚える。次の瞬間、布団内の空間に調子の外れたラッパにも似た音が響き渡った。
「……お腹空いた」
永夢はのろのろと布団から頭を出し、目を擦って枕を見下ろしてぎょっとした。自宅マンションの枕ではなかったからだ。ライトグレーで随分メンズライクに見える。
「えっ!?」
飛び起きて辺りを見回す。
塵ひとつ落ちていない木目のフロアを見ただけで、もう自分の部屋ではないとわかるのが悲しい。
無駄のまったくない寝室だった。ベッドと、ベッドサイドランプと、名前を知らない観葉植物だけだ。
ベッドは広々としており、シミひとつない純白のシーツに、枕と同色のなグレーの布団が掛かっている。寝心地が永夢の部屋のベッドより圧倒的によかった。
ここはどこだと首を傾げる。さすがに「私は誰?」とは口にしない。自分が天野永夢だということはわかっていた。