ヨレヨレの失恋(2)
そんな状態で眠りに落ちたので、翌朝の目覚めは最悪だった。
「えっ、今何時!?」
飛び起き、枕元のスマホで時刻を確認して仰天する。なんと、すでに始業三十分前だった。勤め先の会社のオフィスの最寄り駅までは徒歩と電車で合わせて二十分以上かかる。
つまり、ギリギリだった。
「大変!」
慌てて通勤バッグを手に取りマンションのドアを開ける。髪を整え、メイクをする時間などなかった。息せき切って出入り口のセキュリティシステムにIDカードを通し、オフィスに顔を出す頃にはこれから仕事が始まるというのにヨレヨレだった。
頭のてっぺんのお団子からは髪が零れ落ち頭はボサボサ、メイクを落とさずに寝たので顔はドロドロ。五年上の同僚編集者、錦戸から心配されてしまった。
「おい、天野、その格好はなんだ。頭のお団子がお団子じゃなくなってるぞ」
錦戸は永夢の勤め先である大手出版社、青雲館の文芸第三出版部のやり手だ。すでに人気小説家のベストセラーシリーズを何作か担当しているだけではない。
小洒落た黒縁眼鏡と整えた顎髭、それとは対照的なラフな短髪が似合う青年でもあった。都会的で垢抜けた雰囲気があり、ボーダーTシャツの上にさらりと羽織ったカーディガンがよく似合っている。
そして、担当の女性小説家に軒並み評判がよかった。
永夢はアハハと笑って誤魔化した。
「昨日寝転がってスマホ見たままうっかり寝落ちしちゃって……」
錦戸は腕を組んで永夢を見下ろした。
「その割には目が腫れてるな。わかった、彼氏に振られたんだろ?」
「……っ」
図星を突かれて押し黙る。
これでは答えを言ったようなものだ。いつもの元気な自分でいなければと、なんとか切り抜けようとしたもののうまくいかない。「その通りなんですよ」とまた笑うしかなかった。
「三年付き合っていた彼氏なので、結構ダメージ大きいんです。今日は優しくしてくださいね」
なんとか場を明るくしようとしたものの、錦戸は気まずそうに押し黙っている。「彼氏に振られたんだろ?」は冗談のつもりだったのだろう。
「あー……悪かった。セクハラだった。でも、そうか。別れたのか。そうか……」
「気にしないでくださいよ。よくある話ですから」
そう、失恋など腐るほどよくある話だ。ただ、いざ自分が当事者になると、胸を締め付けられるように苦しかった。
錦戸はなんとか励まそうとしてくれたのだろうか。「よし」と頷きシャツのポケットから名刺らしきものを取り出した。
「愚痴聞いてやるから、仕事終わったらこの店行ってろ」
よく見ると名刺ではなくダイニングバーのショップカードだった。
「一度連れて行ったことあるだろ。ホラ、恵比寿駅近くの」
「えっ、そんなことありましたっけ?」
錦戸の右の眉がピクリと上がる。
「……あっただろ。アクアリウムのあるところ」
「ああ、あの水族館みたいなところですか」
「今日俺ちょっと遅くなりそうだけど、先行って飲んでろ。後から三上も誘って行くからさ」
「あっ、ありがとうございます」
いずれにせよ、錦戸が心配してくれるのはありがたかった。一人きりで散らかった部屋にいると、ますます落ち込んでしまいそうだったからだ。
「へへー」と平伏の真似をしつつ恭しくカードを受け取る。
「もちろん奢りですよね? 可哀想な後輩に払わせようとか、錦戸さんはそんな鬼畜じゃありませんよね?」
「お前、その図々しさでなぜ男を逃した」
「私、彼氏の前では控えめなんですよ。ついでに尽くすタイプで……」
錦戸とは軽口を叩き合えるだけではなく、何かと世話になっている。入社したばかりの頃、もう一人の三年上の女性編集者、三上とともに文芸編集の仕事を一から教えられたのだ。
この二人とは先輩、後輩の間柄ではあるものの、妙に馬が合った。部署内で数少ない同年代だだったからだろうか。一年目からよく二人、あるいは三人で飲みに行ったものだ。
二人にそれぞれ恋人がいることも知っているし、自分に彼氏がいることも話してある、頼りになるのと同時に気の置けない同僚だった。
錦戸が疑わしそうな目になる。
「お前が尽くすだって? 到底信じられないな」
「好きな人限定なんですよ」
今日は錦戸の慰めと酔いの力を借りて、何もかも吐き出してしまいたかった。
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