ミライの歌を聞かせて
ミライこと鹿子未来は、喫茶メロンの看板娘である。
喫茶メロンはオーナーが本業を引退してから開いた店で、老後の趣味で細々とやっているレトロな喫茶店だ。
客入りはあまり気にしていなかったらしく、かれこれ一年はここでバイトをしている俺も、テーブルが満席になったところを見たことがないくらいだった。
ところが、オーナーの孫娘の未来が手伝うようになってから、状況は一変。
客入りは見違えるほどに増え、雑誌や新聞の取材まで来るようになってしまった。
俺よりも頭一つ分は小さな背丈。
色白というには白すぎる体。
ころころよく変わる表情。
ミライに会うためにやって来た客は跡を絶たず、何も知らずに来た客も目を奪われずにはいられない。
俺だって最初に会ったときは本当に驚いたし、客として来ていたらまんまとリピーターになっていた自信がある。
ただ、職場の同僚として考えると、正直かなり危なっかしい。
歩くだけで妙にフラつくし、手先も不器用でよく物を落っことす。
高いところに手が届かないのは仕方ないとしても、腕力が子供並にしかないせいで、コーヒー豆の詰まった袋を持ってくるだけでも一苦労。
テーブルまでコーヒーを運ぶだけでも、平均台の上でも歩いているんじゃないかと思えるくらいの有様だ。
お客さん達はそんなミライを応援したり、目を輝かせて見つめたり、一体何のために喫茶店に来ているのか分からないくらいだ。
普通ならもっと簡単な仕事を割り振るべきかもしれない。
けれど、お客さんはミライが接客してくれるのを期待しているのだし――そもそもの話、こうやって苦労することがミライの存在意義なのだから。
店中の注目を浴びながらコーヒーを運ぶミライの姿を、レジカウンターの後ろから眺めていると、他の従業員から小声で話しかけられた。
「相変わらず、ミライは大人気だねぇ。お陰で忙しいこと忙しいこと」
仕事中なのに気怠げな態度で笑うその女性は、未来の従姉妹の井馬遥。
こちらもオーナーの孫娘で、俺と同じ大学の先輩だ。
普段の格好は今どきの女子大生を絵に描いたようなファッションなのだが、さすがに今は店の雰囲気に合わせたエプロン風のレトロな制服を着用している。
「ですね。前の看板娘と比べたら愛嬌も……痛い痛い痛い」
手の甲を抓られて即座に降参する。
もちろん、前の看板娘とは遥さんのことである。
「おじいちゃんがミライを使おうって言い出したときは、流石にどうなることかと思ったけど。ほら、うちってレトロな雰囲気で売ってたし」
「それはまぁ、俺も驚きましたよ。随分と思い切ったことしたなって思うくらいには」
「遂にボケたかの間違いじゃなくて?」
「他人がボカしたこと言い直さないでもらえません?」
こんな風に遠慮のないやり取りを交わすことができるのは、俺が大学に入った直後からずっとアルバイトを続けていて、すっかりこの店に馴染んでしまったからだ。
……それだけに、オーナーの判断には心底驚かざるを得なかった。
喫茶メロンの売りは昔ながらのレトロな雰囲気の内装である。
しかしハッキリ言って、ミライはこの雰囲気にまるで馴染んでいない。
何故なら――
『榊君、ちょっと休憩入ってくるね。充電も切れそうだし』
一仕事終えたミライが、頼りない小さな歩幅でレジカウンターに戻ってくる。
すべすべの白い体表――ただし、合成樹脂製の。
感情表現豊かな表情――ただし、液晶画面上の。
何を隠そう、ミライはロボットなのだ。
全高は百四十センチ程度。
ボディの外装は白いプラスチックで造られ、全体的に丸みを帯びた曲線的なシルエットの人型をしている。
頭はフルフェイスのヘルメットのような球形で、ヘルメットでいうシールド……つまり顔に当たる部分が曲面ディスプレイになっていて、そこにデジタル表示のデフォルメされた表情が映し出される仕組みだ。
しかしただの球形では可愛げがないと思われたのか、頭にはツインテールのようにも犬の垂れ耳を模したようにも見える、一対の装飾部品が付けられている。
移動システムはまさかの二足歩行。
走ることはできず、普通に歩くだけでもフラつきがちだが、それでもロボット工学はここまで来たかと感心せざるを得ない。
ロボットの店員が働く喫茶店。
この一言だけで、客が一気に増えてリピーターまで付いた理由も、レトロな雰囲気に合わないのではと懸念した理由も、簡単に理解してもらえることだろう。
「ちゃんとミライの充電しときなさいよ。それとあんたもしっかり休むこと。休憩するのも仕事のうちなんだから、この前みたいに勝手に作業とかしないこと。分かった?」
『はーい。それじゃ、充電してきまーす』
ミライは店舗の奥に引っ込んでいき、部屋の隅に設置されている椅子型の充電器に腰を下ろし、かくんと項垂れるようにして機能を停止した。
さて、未来が休憩に入っている間くらいは、俺も接客の仕事に回るとしよう。
いくらミライ目当ての客が多いとはいえ、喫茶店としての業務を滞らせたら本末転倒だ。
そう思ってレジカウンターの外に出ようとしたところで、店の電話が着信音のメロディーを鳴らした。
表示されている発信者名は、鹿子未来。
何かあったのだろうかと思いつつ電話を取ると、さっきまでミライの内蔵スピーカー越しに聞こえていた声がした。
『あ、ごめんね。さっき言い忘れたんだけど、ミライの足回りにちょっと違和感があったんだ。ひょっとしたらどこか壊れてるかも』
「了解。セルフチェックのボタン押しとけばいいんだっけ」
『よろしく。ありがとね』
未来から頼まれた通り、充電中のミライの後頭部の蓋を開けて自己診断機能のスイッチを入れておく。
ミライは人型ロボットである。
しかし、よくあるSFみたいに自分の判断で動いているわけではない。
人間が遠隔操作し、その人の代わりに行動するためのロボット。
いわゆる『アバターロボット』という奴だ。
まだ研究段階ではあるらしいが、完成すれば人間の代わりに危険な災害現場へ送り込めたり、専門家が地球の裏側の仕事もこなせるようになったりするのだと聞いている。
要するに、ミライという機種名のアバターロボットを、店にいない鹿子未来という人間が遠くから動かしている、というわけである。
ロボットと人間の名前が被っていてややこしいが、ミライの完成よりもずっと前に未来が生まれていたのは間違いないので、単なる偶然の一致なのだろう。
そんなことを考えていると、自己診断機能の黄色い警告ランプが点灯した。
「げっ、黄色は『故障の恐れ有り』だっけか。大学に連絡入れとかないと」
アバターロボット・ミライは俺が通う大学で研究されているロボットだ。
もちろん、俺はまだ二年生なので研究に関わっていないし、喫茶メロンが運用テストに協力することになった詳しい経緯も聞かされていない。
未来の素性についても同様だ。
知っているのは喫茶メロンのオーナーの孫娘だということと、バイト先の先輩である遥さんの従姉妹だという程度。
ミライのテストユーザーになった理由どころか、顔や年齢すら知らないくらいだ。
声からすると同世代のように思えるが、スピーカー越しなので自信はない。
「おーい、榊君。まだ掛かりそう?」
「あっ! もうちょっと待ってください!」
遥さんに呼ばれ、慌てて大学の研究室に電話を入れる。
未来が休憩に入っても客は多いまま。
こんなところで油を売っていたら怒られてしまいそうだ。
◆ ◆ ◆
そうして迎えた閉店時間。
オーナーは今日の売上の集計やら何やらをするため、いつも早々に事務室へ引っ込んでしまうので、営業後の掃除は俺を含む従業員の役割だ。
ちなみに、昼間に連絡を入れた大学の担当者は、まだ来ていない。
あちらの事情はよく知らないが、そんなに研究が忙しいのだろうか。
まぁ、今のところミライの不調も悪化する様子はないし、急いで直す必要はない程度だったのかもしれない。
薄暗くなった窓の外を眺めながら、いつものように後片付けをしていると、可愛らしい歌声がどこからともなく聞こえてきた。
『ふんふんふーん♪』
歌っているのはミライだ。
あの小柄で白くて丸っこいロボットが、掃除機で床を清掃しながら、アイドルソングを上機嫌に口ずさんでいる。
厳密には、ミライを遠隔操作している未来がマイクの向こうで歌っているのだけれど、まるでミライ自身の歌声のように思えてくるから不思議なものだ。
しかし、なんというか、これは。
「歌、上手いんだな」
『へあっ!?』
思わず率直な感想を呟くと、ミライは腕をびくりと震わせて掃除機のノズルを取り落とした。
ああ、やっぱり両腕の動きは未来と連動してるのか。
コントローラーでどうにかなる器用さじゃないと思ってたんだ。
『いいいいい、いたの!?』
ミライは掃除機の電源を切って振り返った。
顔部分の丸い曲面ディスプレイに映る表情が、驚きのあまりころころと変わっていく。
ただし表情といってもかなりデフォルメされたもので、基本状態は青い丸を二つ並べて目に見立てている程度。
表情の演出も丸のサイズが変わったり、バツ印や山なりの曲線になったりするくらいの変化なのだが、そういう単純な変化の組み合わせでも、割と表情豊かに見えてしまうものらしい。
『マズったなぁ、もう……聞かなかったことにとか、できない?』
ミライは白いプラスチックの両頬に手を当てて、恥ずかしがるような仕草をした。
まぁ、そりゃそうだ。
俺が未来の立場だったら、ミライのコントロールをオフにして逃げ出している。
ちょうどそのとき、間がいいのか悪いのか、未施錠だった出入口から痩せ気味の見知らぬ男が入ってきた。
年齢は多分五十歳前後。
スーツ姿で気難しそうな顔をしていて、片手に下げた工具箱が妙に不釣り合いだ。
閉店時間を間違えた客が入ってきてしまうのは、珍しいけれど全くないわけでもない。
「申し訳ありません。もう閉店時間を過ぎて……って、あれ? 確かうちの大学の……ええと……ミライの開発してる研究室の、教授さんですよね。修理の件ですか?」
まったく、まさかこんなに待たされるとは。
研究で忙しいのだとしても、閉店時間をオーバーしてから来るのは遅すぎだ。
しかし顔は脳内で一致しているのに、肝心の名前が思い浮かばない。
自分が通っている大学の教授の名前を忘れるのか? なんて言われるかもしれないが、余裕で忘れるものだ。
というかそもそも、講義を受けていないなら名前を覚える機会すらない。
確か物凄く印象的な名前だったと思うのだが、どうして印象的だと思ったのかも記憶が曖昧だ。
なるべく名前には触れないよう適当に誤魔化していると、未来が思いもしないことを言い出した。
『あ、お父さん!』
「えっ!?」
思い出した! 鹿子教授だ!
ミライがこの店に運び込まれたその日、鹿子教授も責任者として立ち会っていた。
ちょうど俺も出勤していた日だったので、オーナーと同じ苗字なのが印象に残ったのだが、結局は『名前が印象的だった』という情報しか記憶に残っていなかった。
……俺の物覚えが悪いわけじゃない。
ろくに会ったこともない相手の記憶なんてそんなものだ。
それはそうと、これで謎が一つ解けた。
未来が新型アバターロボットのテスターをやっている理由は、父親が研究の中心人物だから。
分かってみれば何とも明快な理由である。
「自己診断機能のフィードバックデータを見る限り、不調の原因は脚部モーターだ。修理するから座りなさい」
『はーい』
鹿子教授に指示されるまま、未来はミライをカウンター席の椅子に座らせた。
教授は慣れた手付きでミライの電源を落とし、足首周りのカバーを外してモーターの取替作業に取り掛かった。
あまりに自然な流れだったので、口を挟むのも忘れてそれを眺めてしまう。
本当なら、修理を始める前にオーナーを呼んでくるべきだったのかもしれないが、それに気付いたときにはほとんど作業が終わってしまっていた。
「……君は確か、榊君だったね」
鹿子教授がこちらに目を向けることもせずに話しかけてくる。
「え? あっ、はい」
「未来はきちんと職場に馴染めているか? 余計な心配かもしれないが、どうにも不安が拭いきれなくてね」
「ロボットの方のミライじゃなくて、動かしてる方の未来……さん、ですよね。だったら問題ありませんよ。常連さんとも上手くやってます。まぁ、ロボット越しに会ったことしかないんで、普段と比べてどうとかは言えないですけど」
俺は鹿子未来という人物のことを何も知らない。
しかしそんな俺から見ても、未来はケチの付けようもなくちゃんと働いているし、他の従業員や常連客との関係も良好だ。
働いている姿を見て不安になることは多いけど、その原因はどれもミライの方の機械的な問題であって、未来のせいではないのだ。
「ミライの向こうでどんな顔してるのかは知りませんけどね。少なくとも自分は、楽しそうに働いてるなって思ってますよ」
「……そうか、それはよかった」
鹿子教授はミライの足の修理を手早く済ませると、すぐに道具を片付けて立ち上がった。
「この子は歌が好きなだけの普通の子だ。今後も仲良くしてやってくれ」
「はぁ……それはまぁ、同僚ですし」
心配性な親もいたものだ。
そんなテンプレ台詞を実際に聞くなんて、さすがに思いもしなかったぞ。
鹿子教授はミライの電源を入れると、遠隔操作を再開した未来に至って家庭的な――今日の夕飯についての伝言を残し、早々に店を出ていってしまった。
『えっと、榊君。お父さんから変なこと言われなかった?』
「娘と仲良くしてやってくれってさ」
『それだけ? 本当に?』
「何か身に覚えでもあんのかよ」
冗談っぽく言い返しながら、俺も帰り支度に取り掛かる。
胸まで覆う暗色のエプロンを脱ぎ、ロッカールーム……というには狭い小部屋に向かう途中で、何気なく足を止めて振り返る。
「ああ、そうそう。さっき歌が上手いなって言ったの、からかったとかじゃないからな。普通に聞き入ってたくらいだぞ」
好きなことをからかわれたと思ってしまうのは、まぁ良いことじゃない。
こっそり練習しているところを見られて笑われるという経験は、笑った奴が思っている以上に心を深く抉るのだと、俺も身をもって理解している。
けど改めて考えてみると、なかなかクサいことを言ってしまったんじゃないだろうか。
不意にそんな考えが脳裏を過ってしまい、逃げるように店を後にする。
「じゃ、また明日!」
視界の隅に映ったミライは、デフォルメされた青い丸形の目を大きくして、驚いたように突っ立っていたのだった。
◆ ◆ ◆
次の日から、ミライの仕事ぶりに異変が生じた。
とはいっても、悪い意味じゃない。
足首のモーターを修理したお陰でふらつく頻度も減ったし、接客も明るく精力的で文句のつけようもない。
ロボット店員の話題性がなかったとしても、未来の接客ぶりだけでも相当なファンが付くんじゃないかと思えるくらいだ。
問題は営業が終わった後。
いつものように後片付けを始めた頃――
『ふんふんふーん♪』
ミライが歌いながら店舗の床に掃除機をかけている。
前みたいに人知れずこっそりというわけではなく、俺が目の前にいることを気にも留めず、心の底から楽しそうに堂々と歌っている。
一体どういう心境の変化なのだろう。
昨日は見なかったことにしてほしそうなくらいだったのに。
綺麗な声色で音程も完璧。非の打ち所がない歌声だ。
俺としては一向に構わないというか、むしろミライの内蔵スピーカー越しに聞くしかないのが惜しいくらいだった。
自慢じゃないが、俺はこれでも多少なりとも音楽を齧っているつもりだ。
その上で断言できる。
未来の歌声は質も技術もプロ並、いや、プロ顔負けだ。
「……なぁ、鹿子」
『はい?』
歌唱が一段落したタイミングで、思わず声を掛けてしまった。
多分、反射的に歌の上手さを褒めようと思ったんだと思う。
だけど意識してしまうと気恥ずかしいし、どれくらい練習してるんだ、みたいな質問をするのも馴れ馴れしい気がする。
一秒くらいの間にそんな葛藤を済ませてから、歌とは関係ない無難な話題に逃げようと決めた。
「その……前々から気になってたんだけどさ。ミライってどうやって動かしてるんだ? まさかゲームのコントローラーみたいなのとかじゃないよな」
『教えてなかったっけ。上半身はモーションキャプチャーっていうのかな。グローブとか色々つけて動かすアレね』
ミライは掃除機を一旦止めて、丸みを帯びた腕を左右に広げた。
遠隔操作の向こうでは、顔も知らない本物の未来が実際に腕を広げているのだろう。
『顔のエモーションは表情読み取りでも変わるし、ボタン操作でも好きに変えられる感じ。あらかじめ用意された顔にしかできないけど、種類は結構あって使い切れないくらい』
「なるほど。でもさすがに、下半身はモーションキャプチャーじゃないんだろ?」
『さすがにね。本当に歩き回るわけにはいかないし。うーん、なんて説明したらいいんだろ』
ミライが口の下に手を当てて、未来の考え込む仕草を再現する。
まぁ、ミライに口はないのだが。
『そうだなぁ、結構おっきな椅子に座ってて、フットレストみたいな感じでペダルが幾つか置いてある、みたいな。前進後退、左右旋回にスライド移動。その辺全部、ラジコンみたいにペダルで動かしてる……って言ったらイメージできるかな』
「できるできる。けどそれじゃあ、しゃがんだり階段上ったりはどうしてるんだ? 全部ペダルでやってたら足の踏み場もないだろ」
単なる照れ隠しで切り出した質問だったのに、気付けばすっかり聞き入っていて、次から次に質問を重ねてしまった。
なにせ正真正銘本物のロボットの操縦方法なのだ。
俺じゃなくてもこうなっていたに違いない。
『んー、そういうのはほとんど自動だよ。モニターの端っこにメニューバーがあって、手元や足元のボタンでカーソル合わせてモーションを選んで実行、って感じ。細かいところは調整してくれるし、階段とかは普通に近付いたら勝手に上り下りしてくれる仕組みだね』
「凄いな、それ!」
『でしょ? お父さんもそこが一番苦労したって言ってたしね』
ミライがデフォルメされた青丸の目を細める。
まるで微笑ましいものを見て微笑んだような反応だ。
「ここまで高性能なら、ダンスなんかもさせられそうだな。プログラム作るのは大変だろうけど、歌って踊れるロボットとか人気出そうだ」
『あー……うん、さすがにそれは大変じゃない? できるかどうかでいえば、できるんだろうけど。それに個人的なアレだけど、歌はともかく踊りはちょっと……』
「そりゃあ、できるかどうかとやりたいかどうかは別問題だわな。楽しくないならやる意味もないんだし」
そもそも単なる思いつきだ。
真剣なアイディアなんかじゃないし、無理にしてもらおうとは毛頭思っちゃいない。
しかしミライは、俺の言動のどこかに思うところでもあったのか、青い丸を更に丸くして押し黙ってしまった。
「……鹿子? 通信、大丈夫か?」
『え? あ、うん! 平気平気っ! 話は変わるんだけど、榊君って普段どんな音楽聞いてるの?』
本当に唐突な話の切り替えだった。
あまりに露骨だったので一瞬戸惑ってしまったが、根掘り葉掘り追及するようなことでもないだろう。
「音楽か。そうだな……」
最初に思い浮かんだアーティストの曲名を口にする。
さっき未来が歌っていたアイドルソングとは似ても似つかない、男性ボーカリストの有名曲だ。
「知ってる知ってる。こういうのだよね?」
素人目にも難しそうなその曲を、未来はアカペラで見事に歌い始めた。
「……やっぱ上手いな」
「私が自慢できるの、歌くらいだしね」
未来は照れくさそうな声で笑って、その歌を続けながら店内清掃を再開した。
遠隔操作でミライに床掃除をさせながら、こんなにも淀みなく歌い上げるなんて、感心を通り越して聞き惚れざるを得ない。
「お疲れーっす。悪いね、シフト変わってもらっちゃって」
そのとき不意に、店の奥から遥さんがひょっこりと顔を出した。
「うわっ!?」
「サークルの後輩からどうしてもって言われてさ……って、何その反応。幽霊でも出たみたい……な……」
遥さんは言葉を失って目を丸くした。
視線の先にあるのは、歌いながら掃除機を掛けるミライの姿。
掃除機の音と自分の歌声のせいで、未来は遥さんが来たことに気付いていないようだ。
「未来が、歌ってる」
「……? そりゃ誰だって歌えるでしょ」
「そういうことじゃなくって……榊君の前だと、いつもこうなの?」
「いえ、昨日が初めてですけど? こっそり歌ってたのを見かけただけですよ。それで吹っ切れたんじゃないですか?」
俺の前で堂々と歌うようになった理由は、大方そんなところだろう。
「にしても、ほんと上手いですよね。昔からああなんですか? ……遥さん?」
返事はない。
遥さんは喜んでいるような困惑しているような、一言では言い表せない表情でミライを見つめていて、俺のことなど視界にも入れていなかった。
「ごめん、榊君。先帰るね。忘れ物取りに来ただけだし」
「えっ、はい、お疲れ様で……」
最後まで言い切る前に、遥さんはスマートフォンでどこかに電話を掛けながら、従業員用の通用口から店を出ていってしまった。
あんなに急ぐ理由がどこにあったのだろうか。
唐突すぎて、不思議を通り越して不気味ですらある。
『榊君? どうかした?』
「あ、いや、何でもない」
思わず、遥さんが来ていたことを伏せてしまう。
遥さんの態度はさすがに不自然過ぎる。
馬鹿正直に全部説明するのは考えものだ。
……なんて考えてはみたものの、実際は案外大したことない理由だったりするのだろう。
せいぜい家庭内のあれやこれやな問題くらいのもので……いや、それは結構な理由かもしれないが。
◆ ◆ ◆
喫茶メロンでのアルバイトは、正直かなり気に入っている。
オーナーはいい人だし、従業員とも関係は良好。
アルバイトを始めた動機は『大学のサークル活動に使う金を稼ぐため』だったが、今ではそれと関係なく働いていたいと思っている。
未来が俺と二人きりのときに歌うのも、プロ顔負けの歌声というのもあって、むしろ楽しみになってきたくらいだ。
けれど、あくまで俺はアルバイト。
朝から晩までずっと働いているわけではなく、昼間は学生らしく大学で講義を受けている。
そんなある日、今日最後の講義が終わった後のこと。
マナーモードにしていたスマートフォンをチェックすると、見知らぬ携帯番号からの着信履歴が残されていた。
何だったのか気にはなるが、不用心に掛け直すのも考え物だ。
急ぎの用件だったら掛け直してくるだろう……なんてことを考えた矢先、まさしくその番号からの着信が入ってきた。
「……はい、榊です」
『あ、もしもし、鹿子です。ちょっと相談したいことがあるんだけど、時間大丈夫?』
「鹿子? 電話なんて珍しいな。どうしたんだ?」
そもそも未来から俺に連絡があったこと自体が初めてだ。
未来と顔を合わせるのは――実際に顔を見たことはないのだけれど――喫茶メロンでアルバイトをしているときだけ。
用件も店の業務連絡くらいしか思いつかないが、それなら店の固定電話から掛かってくるはずだ。
『えっと、ミライのテスト運用なんだけどね。お父さんが、喫茶メロンでオーディオ機能のデモンストレーションもしたい、って言ってるんだ』
「オーディオ機能っていうと、マイクやスピーカーか。どんなことするんだ?」
『まだ未定だってさ。それでね、私からもアイディア出して欲しいっていうから……その、ね。歌はどうかなって答えようと思ってるんだけど……』
「へぇ、良いんじゃないか? 鹿子の歌なら間違いなくウケるだろ」
『ミライのテストなんだってば。ほら、デモンストレーションってことは、他の人に聞いてもらうわけだし。聞いてて退屈なのは申し訳ないじゃない』
機嫌よさそうに言葉を続ける未来。
まさかミライ越しにスマートフォンを使っているわけではないだろうから、電話口の向こうにいるのは生身の未来のはずだ。
スピーカーを通している時点で普段と大差ないはずなのに、何だか妙な気分になってしまう。
『でも音楽って、勝手に使っちゃマズいでしょ? だから権利的にセーフでお店の雰囲気に合ってるのを探してるんだけど、いまいちピンとこなくって。それで、榊君からも意見を聴きたいなって』
「自由にカバーできる曲もあるだろ。動画サイトで発表してるのとか。そういうじゃダメなのか?」
『今風のだと、ミライのイメージに合ってても、お店の雰囲気にはちょっと……ね。ただでさえ雰囲気壊してるのに、これ以上はちょっと気が引けるっていうか』
電話越しのやり取りでも、未来が本気で悩んでいることが伝わってくる。
未来にとって、喫茶メロンは祖父が経営する喫茶店で、ミライは父親が研究開発しているアバターロボットだ。
どちらに対しても、下手なことはしたくないと考えているのだろう。
だったら俺も真剣に考えなければ失礼だ。
『最初はジャズとか無難かなって思ったんだけどね。意外と著作権切れてないのが多くってさ』
「ジャズ? 英語の歌もいけるのか?」
『まぁね! 喋れないけど歌ならバッチリ!』
「マジか。それなら百年以上前の古い洋楽とか狙い目かもな。有名なのはカバーされて知名度高かったりするし。それでもダメなら、普通に許可取って使わせてもらうのが手っ取り早いんじゃないか?」
構内のベンチに腰を据えて話し込む。
さっきの講義よりも熱が入っているんじゃないかと、自分でも呆れそうになってしまう。
しかもデモンストレーションの成功がどうこうではなく、もっと色んな唄を聴きたいという思いに背中を押されている自覚がある。
どうやら俺は自分で思っていた以上に、未来の歌に惹かれてしまっているようだ。
『古い洋楽かぁ。それならちょうどいいかも。ありがと、榊君。進展があったら、また相談に乗ってもらえるかな』
「もちろん。じゃ、また明日な」
残念ながら今日はバイトのシフトが入っていない。
続きは次の機会に回すことにして、ひとまず通話を終えることにする。
さて、家に帰ったら俺も曲を探して――
「榊君」
「うわぁっ!?」
背後から不意に声を掛けられ、思わず変な声を上げてしまう。
振り返ると、そこにいたのは遥さんだった。
「ごめんごめん。ところで、さっきの電話、未来でしょ。デモンストレーションの件で相談されてたんじゃない?」
どうしてそれを、と言いかけて、無意味な質問だと思いとどまる。
遥さんは喫茶メロンの従業員かつ未来の従姉妹。つまり完全な身内だ。
デモンストレーションの件を知っていても何の不思議もないし、それなら立ち聞きしただけで電話の内容を察することもできるだろう。
「ほんと、まさかあんなこと言い出すなんてね」
「鹿子の奴、人前では歌わないタイプだったんですか?」
「色々あってね。歌わなく……ううん、歌えなくなっちゃったんだ。こんなに早く立ち直れたなんて、正直びっくり。もちろん凄く嬉しいんだけどね。ひょっとしたら君も理由の一つかも」
遥さんは困ったように笑いながら、丁寧に小さく折り畳まれた紙片を差し出してきた。
色と質感からして、切り抜かれた新聞紙だろうか。
「だから君にも知っておいてもらいたいんだ。未来に何があったのか。あんなに歌うのが好きだった未来が、どうして人前で歌えなくなったのか」
「…………」
俺は促されるまま紙片に手を伸ばし――
「……やめときます」
首を横に振って、その手を引っ込めた。
「どうして?」
非難するように眉をひそめる遥さん。
そんな目で見られても俺の気持ちは変わらない。
「本人が話したくなったら、そのときに聞かせてもらいます。いくら遥さんだといっても、他の人から聞き出すのは違うと思うんです。だから、すみません」
「……そっか」
遥さんはホッと表情を緩め、紙片をポケットにしまい直した。
「ありがとね、榊君。未来のこと気にかけてくれて」
「いえいえ。これでも俺、鹿子の歌のファンみたいなものですから」
「そこはファンだって言い切りなさいよ。未来も喜ぶと思うよ」
「ええー……嫌ですよ。小っ恥ずかしくじゃないですか」
くすくすと笑う遥さんに釣られて、俺も冗談っぽく笑い返す。
紙片の内容が気にならないと言えば嘘になる。
けれど、俺の本音はさっき伝えた通りだ。
個人的で一方的な好奇心に突き動かされて、ミライというもう一つの体の向こうに隠された、本当の未来を暴き立てる――ああ、本当にろくでもない。
そんなことをして喜ぶ俺なんて、想像もしたくなかった。
◆ ◆ ◆
次の出勤日。店の裏手の従業員用通用口の扉を潜り、ロッカーに鞄を置こうとしたところで、聞き慣れたスピーカー越しの声に呼び止められた。
『おーい、榊君、ちょっといい?』
振り返ってもそこにミライの姿はない。
『こっちこっち! 充電中!』
呼ばれるままに隣の部屋へ向かう。
椅子型の充電器に座ったミライがぶんぶんと手を振っていた。
普通、充電中のミライは遠隔操作をオフにしているが、それはあくまで操作している未来も休憩を取るからだ。
機能的には、充電しながら動いたり喋ったりすることも問題なくできる。
「……ちゃんと休憩しろって言われてなかったか?」
『まぁまぁ。この前の相談の続きなんだけど……』
どうやら未来は、俺が出勤するのを待ち構えていたらしい。
『一応、候補の曲は決まったんだ。でも、いい感じの音源が見つからなくってさ。自由に使っていい音源でも、メロディーが電子音でイメージに合わなかったり、ワンコーラスしかなかったり。古い曲だと公式のオフボーカル版なんかないし』
「随分と拘るんだな」
きっと、それくらいに音楽が好きなのだ。
遥さんが言うには、未来は好きだった歌を人前で歌えなくなっていたのだという。
それはつまり、歌えなくなるまでは人前で歌っていたということだ。
一体どういう状況で歌っていたのかは知らないが、久々の復帰とあっては気合が入るのも当然だろう。
「だったら生演奏とかどうだ? うちの大学の音楽系サークルに声掛けたりしてさ」
『あーっ! それいいかも! でもお父さん、そっち系のサークルに顔利いたかなぁ』
「その辺は俺がやるよ。これでもギター同好会だからな。エレキじゃなくてアコギ……いわゆるクラシックギターって奴」
『……えっ? ええっ!? それ初耳! いつからやってるの!?』
ミライが身を乗り出そうとしたが、充電中で椅子に繋がっているのでほとんど体を動かせていなかった。
「齧り始めたのは中学の頃からで、部活とかサークルでやるようになったのは、大学に入ってから。バイト始めたのは自前のアコギを買うためだったし、喫茶メロンを選んだのも店の雰囲気とかBGMが趣味に合ってたからだしな」
『えーっと、つまりミライのテスト運用、かなり嫌だったり?』
「最初だけな。今は全然」
単に見慣れてきただけじゃない。
ミライを通して未来という人物の人柄に触れ、あの歌声に何度も耳を傾けているうちに、すっかり目を離せない存在になっていたのだ。
ちらりと壁掛け時計に目を向ける。
今日は偶然いつもより早めに来たので、正確な出勤時間まではまだ余裕がある。
もう少し未来と話していようか――そんなことを考えた矢先、不意に未来の方から話題を変えてきた。
『中学生からギターかぁ。私も同じくらいからだったなぁ』
「同じって、歌い始めたのが?」
『うん。それで、好きなことを仕事にしたいって思ってさ。色々応募して、アイドルみたいなことするようになったんだ」
「アイドル!? 道理でプロ顔負けだと思った。本当にプロだったんだな」
『えへへ……だけど、あんまり長続きしなくてさ』
ミライのスピーカーを通じて聞こえる未来の声からは、隠しようのない寂しさを感じずにはいられなかった。
『事務所との方向性の違いっていうのかな。私は歌だけで認められたかったけど、事務所の人はダンスとビジュアルで売りたかったらしくって。続ければ続けるだけ、どんどん息苦しくなっていって……結局、体調崩して活動休止。人前に出るのも嫌になっちゃって』
これまで見ないふりをしてきた疑問や違和感が、嘘のようにほぐれて消えていく。
ミライを踊らせてみるアイディアを聞かされたとき、どうしてあんなにも言葉を濁したのか。
その理由も今なら理解できる。
いやそれどころか、ミライのテスターをするようになった経緯も――
『多分ね、誰も私の歌なんか興味ない、外見しか評価されないんだって、無意識に思いこんでたんだと思う。でも、引きこもってばかりじゃ良くないでしょ? だからお父さんの紹介でミライのテスターを始めたんだ。ほら、これだと人前に出たうちに入らないから』
未来はミライの繊細な手をひらひらと振ってみせた。
「ミライは……アバターロボットは専門家だけのものじゃない。心や体の問題で人に会えない、外に出られない人にとってのもう一つの体になることもできる……最初にミライを運び込んだときに、鹿子教授がそんなこと言ってた気がするな」
『うん、だからこれも立派なテストの一環だ、なんて言ってね』
「……良い人達に恵まれたんだな」
事務所の活動方針と合わなかったことは、不幸としか言いようがない。
けれど、彼女を取り巻く人々が優しい人ばかりだったのは、間違いなく幸運だったと言えるはずだ。
祖父のオーナーと父親の鹿子教授は、自分達の地位と立場を最大限駆使して、未来を立ち直らせるための場所と機会を用意した。
遥さんは同僚として働きながら、常に未来を気に掛け続けていた。
大学で俺に新聞の切り抜きを渡そうとしたのも、きっと未来の過去を教えようとしたんだろう。
俺の不用意な言動が、未来を傷つけたりしないように。
未来が立ち直ることができたのも、彼らの尽力があってこそだったに違いない。
『うん、でもね』
ミライを通して、未来が俺の目をまっすぐに見据える。
未来の素顔は分からないままなのに、未来が今どんな表情をしているのかは、不思議と理解することができた。
嬉しそうに笑っている。屈託のない心の底からの喜びを込めて。
『一番良かったのは、君に逢えたことかな』
「えっ?」
あまりにも強烈な不意打ちに、頭の中が真っ白になる。
「いや……その、どうしてそうなるんだよ。今の今まで何も知らなかったヤツだぞ?」
『だからだよ。君は何も知らなかった。鹿子未来は、実は元アイドルでした! ……なんて夢にも思わなかった、本当にただの赤の他人。顔も知らないんだから、この子可愛いから優しくしてあげよう! ……みたいなことも思わなかったでしょ?』
「……それはまぁ、完全にロボだしな、見た目」
椅子型充電器に座って脚を揺らすミライの姿は、マスコット的な可愛らしさはあっても、未来が言うような気持ちになるものじゃない。
俺は未来の過去について何も知らなかった。
姿形に至っては今も全く分からないままだ。
それでも未来に好感を抱いている理由は、会話を通じて理解できた人柄と――心奪われる歌声だ。
『私のことを何にも知らない君が、私の歌だけを聞いて、上手だよって褒めてくれた。下らないことかもしれないけど、本当に嬉しかったんだよ? もう一度、皆の前で歌おうって思えたのも、全部君のお陰なんだから』
「……下らないなんて、そんなこと言うなっての。ほんとに凄いんだからさ」
気恥ずかしさに負けたのは、未来よりも俺の方が先だった。
そろそろ仕事を始める時間だという状況を言い訳に、踵を返して部屋を出ようとする。
「デモンストレーション、頑張れよ」
『うん、頑張ろうね』
思いもしない言葉を返されて、思わず足を止めて振り返る。
『榊君が良ければ、一緒にやってほしいな。榊君がギターを弾いて、私が歌うの。どうかな?』
「……後悔するなよ? 鹿子ほど上手じゃないからな?」
『やった!』
無邪気に両手を上げて喜ぶ未来。
こんなの断れるわけがないじゃないか。
俺だって、いつかやれたら願っていたことなのだから。