彼女とエロ本を買いに行く話
「買い物に行くから、車を出して」
週末の残業をどうにか終えて帰宅した俺の願いは、玄関ドアを開ける直前に潰された。
隣の部屋から出てきた彼女はラフなジーンズ姿でボサボサ髪をかき上げている。
「もっと早く帰ってきなさい、ずっと待っていたんだから」
「姉さん……」
オシャレを知らない男児を思わせる彼女は、俺の実姉ではない。
姉さんは隣の家に住んでいた、少し年上の幼馴染。よく一緒に遊び、よく俺に無茶振りをしてくる人だった。
まさか成人して故郷を離れた今でも振り回されることになるとは、想像もしていなかった。
「買い物には付き合う」
長い付き合いなので、俺だって姉さんの突飛な言動には馴れている。頬をひきつらせながら、仕事で培った愛想笑いで返す。
「でも今日は疲れているんだ。明日は休みだから--」
「明日は休みだから、ゆっくり夜のドライブを楽しめる。そういうことね?」
「……はい」
抵抗心はへにゃっとへし折れた。この状態の彼女には何を言っても無駄だと骨身に染みている。
「ほら、さっさと着替えてきて。夜は寒くなるんだから、風邪を引くわよ」
俺の気持ちを知らずか、どうでもいいだけか、彼女は得意げに、手にしたカーディガンを見せてくる。
「それ学校指定だったやつだろ。新しいの買ったらどうだ?」
「あなたにだって捨てられないものがあるでしょ」
そう言って、彼女は子どものように無邪気に笑う。
「聞いた話なのだけど」
コンビニで買った菓子をかじりながら、ようやく助手席の彼女が目的を教えてくれた。
「✕✕町の外れに自販機があるの」
「え。✕✕町って、ここから車でもかなり遠いぞ。やっぱり明日に」
「夜じゃなきゃ、いけないの」
あっけらかんとした彼女の言葉に、嫌な予感がした。
「何を、買いに行くんだ?」
「エロ本」次の菓子袋に手を伸ばしながら、彼女は続ける。
「その自販機で買ったエロ本には、心霊写真が写っているんだって」
「しょうもない!」
俺が思わず叫ぶと、彼女は声に出して笑った。
「ええ、本当にバカな話。でも、どんなものか気になるでしょう?」
「ならない! やっぱり帰る、家に帰らせて!」
「駄々をこねないの。ほら、先にご褒美あげる」
笑顔で差し出された菓子も当然、俺の金で買ったものだ。
ふと、気づく。このやりとり、以前にもやった覚えがある。いつだったろう?
「……そうだ、思い出した。あの自販機か」
赤信号で停車したとほぼ同時、アルバムの写真を見たときのように当時の記憶が蘇ってきた。
心霊写真が載ったエロ本を売る自販機。
小学四年の夏休み、姉さんが録画した深夜の心霊特番で取り上げられたウワサ話だ。確かな証言も証拠もない、眉唾ものの小ネタで、番組内でも自販機を探そうと✕✕町の辺りをロケをしていたが結局、何も見つけられずに終わっていた。
なのに、姉さんは絶対に自販機はあると言い張り、俺に探しに行かせたのだ。
「そのワガママでどれだけ苦労したかっ」
金がないので電車もバスも使えず、✕✕町まで何時間も自転車を漕ぎ、どうにか番組のロケ地は見つけたものの、当然、件の自販機は見つからなかった。『この近くにエロ本の自販機はありませんか』と聞き回る度胸も、思春期の俺にはなかった。
「そのときも、帰りたいって泣きついたの?」
「ああ、そうだ! なのに、もう少し探せば見つかるはずだからって、姉さんは無責任に突き放して!」
帰るに帰れず、夜中まで右往左往していた俺は最終的に警察に保護され、家に戻された。当然、親には叱られた。なぜか姉さんにもこっぴどく叱られた。
「大変だったのね」
「そんな他人事みたいに」
「わたしには他人事よ」
しれっとスマホをいじっている彼女に、何と言えば俺の気持ちが伝わるのかと頭を悩ませる。
だが、彼女のほうが早かった。
「ほら、見て」
ぱっと向けられたスマホの画面には、ある場所に赤いピンが打たれた地図が表示されていた。
「その自販機は、昼間は電気が落とされていて、夜だけ動いているそうよ。怪談っぽい話でしょ?」
「だけど」
「あのときとは、違うでしょ」
口答えしようとした俺の唇に、ご褒美のチョコ菓子が押しつけながら、彼女は前を向く。
「心配しなくても、わたしは、一緒にいてあげる」
ちょうど、信号が青に変わった。
「わたしはここで待っててあげるから買ってきなさい」
やっと地図が指した住所に到着し、片田舎の車道脇に車を止めて息をついたとき、言い放たれた彼女の言葉。
俺は飲みかけたペットボトルから口を離して、聞き返す。
「俺一人で行けってことか?」
「一緒に買いに行くの? わたしと? エロ本を?」
「……一人で行きます」
矢継ぎ早な問いかけに、反論の余地はない。
そもそも弟にエロ本を買いに行かせる姉が間違っているという当然の道理なぞ、姉さんには通じない。そんなことは分かっていたことじゃないかと自分に言い聞かせて、車を出た。
とっくに深夜を過ぎた田舎道には俺たち以外、車も人もない。エンジンを止めれば虫の音しか聞こえないだろう。
窓を開けた彼女がこちらに懐中電灯を差し出してくれる。
「暗いから気をつけて」
「姉さんこそ、危ないから車から出ないこと。ちゃんと鍵をかけて、窓も閉めておくように」
彼女は返事の代わりに窓を締めて鍵をかけると、こちらに手をふる。うなずき返して、俺は車を離れた。
月も星も隠す曇天のせいで、ここから見える明かりはポツポツと点在する照明灯だけだ。手元の懐中電灯を頼りに、俺はガードレールの外を覗く。
急斜面の数メートル下は、田んぼが広がっている。その一角、掘っ立て小屋の隅で小さな光がパチパチと瞬いていた。
「あんなところにあったのか」
たしかに昼間なら目立たず、小学生の俺が見つけれなくても仕方ない場所だ。けれど、地元の人間なら知っている。あのテレビロケは本当に見つけられなかったのか?
首を傾げながら、下へ降りられる場所がないかと辺りを探す。十メートルほど離れたところに、あぜ道へ続く土手を見つけることができた。
泥の臭いが混ざった蒸し暑い空気をかき分けながら、目的地へと進む。
途中、穴ぼこに足を取られて田んぼに嵌りそうになったときは、やはり一人で来て良かったと思った。姉さんが来ていたら静かな夜に爆笑が響いたに違いないし、そもそも彼女にこんな荒れた道を歩かせたくはない。
冷や汗を拭い、俺はようやく因縁の自販機の前に立つ。
件のエロ本自販機は、やはりレトロだ。
塗装が剥げた古臭い筐体は、切れかけた蛍光灯が点滅を繰り返していた。商品のディスプレイパネルは黄色く変色し、モザイクのように商品サンプルを隠してしまっている。そのせいで本のタイトルどころか、それが本当にエロ本なのか分からない。確実なことは注文ボタンに書かれた値段だけだ。
「高いなぁ」
もし子供の頃に自販機を見つけていても結局、何も買うことはできなかったな。そう苦笑しながら、当時の小遣い以上の硬貨を惜しげもなく、投入口へと入れていく。
「どれにしようかな、と」
本の内容はどうでもいい。問題は心霊写真が写っていて、それに姉さんが満足してくれること。
古い写真は画質が悪く、現像ミス等の条件が絡めば、心霊写真に見えることも多かったそうだ。昔の雑誌も似たような品質だろう。その上、こんな保存環境の販売機に何年何十年と入れっぱなしにされていれば、相応に痛みが進んでいるに違いない。心霊写真っぽいモノがひとつくらい見つかるはずだ。
そんな本を出してくれと自販機に願ってから、俺はボタンを押した。
「ん?」商品が出てこない。品切れか。違うボタンを押してみる。
「あれ?」反応がない。
どのボタンを押しても、連打しても、本は一冊も出てこなかった。
「壊れているなら仕方ないよな」
姉さんが納得するとは思えないが、せめて自販機の写真でも撮って帰ろうとスマホを取り出そうとした、そのとき、
「すまんねえ」
「ひ」
急に声をかけられた俺は声にならない悲鳴を上げて、跳ねるように振り返る。
声の方へ懐中電灯を向けると、人影があった。
恰幅の良い六十過ぎの男性が、丸い光の真ん中で笑っている。酒が入っているのか、薄くなった頭の天辺まで赤い。
「おっちゃんと同じで古いもんでね、こいつ。ときどき止まりよるんよ」
額をペシリと叩きながら、男性はもう片方の手で自販機を指差した。俺はホッと、胸をなでおろす。
「持ち主の方ですか」
「そうそう。飲んで帰ってきたら、ちょうど兄ちゃんが見えたからすっ飛んできたんよ。で、どれにする?」
男性は慣れた手付きで自販機の扉を開けると、中から本を取り出し、見せてくれる。
「おっちゃんのおすすめはこれ、後家百華」
「えっと」
内容はさておいても、ひどい代物だった。包装の劣化したビニル袋は破れ、表紙の角はちぎれて、変色した紙は虫が湧いていそうだ。購入以前に、持ち帰ることもお断りたい。
が、俺は受け取った。それが彼女のお願いだと諦めて。
「ありがとう、これにします、じゃあ失礼し--」
「こいつもいいよ、乱れ後家情事」
「いいえ、一冊で十分です」
「あとはね、熟した後家の蜜壺。後家の棲家。ワクワク後家団地--」
「後家ばっかですか!」
「おっちゃんの趣味だからねえ」
男性は無邪気に笑いながら、まとめて数冊、俺に押しつけてくる。ものすごくありがた迷惑。
「いや、本当にいりませんから」
「あげるあげる、どうせ買いに来る物好きなんて滅多にいないんよ。それに、おっちゃんには分かる。兄ちゃんには素質がある」
どんな素質だ!?
吐き出しそうになる言葉をぐっと飲み込んで、代わりにもう一度、頭を下げておいた。
「特別なおまけも付けといたから、楽しんでよ」
まるで同士を見つけたように嬉しげな男性は、小脇にエロ本を抱えた俺を笑顔で見送ってくれた。
「なんでこんなに買ってきたの」
車に戻って戦利品を見せた途端、彼女が眉をひそめた。
「それも……おばさん物ばっかり」
「あー」
ルームランプの下、改めて表紙を見る。どの表紙のモデルも相当『年季』が入っている。彼女の母よりも年齢層は上だろう。
「年上好きと思っていたけど、シスコンじゃなくてマザコンだった?」
「違う」
俺は慌てて事情--自販機の持ち主の趣味--を説明すると、彼女は一応、納得したらしい。
「ふぅん。だったら、好みは何?」
「……それより、心霊写真を探すんだろ」
ほら、と本の束を差し出すが、彼女はそっぽを向いてしまう。
「見せるの? わたしに? エロ本を?」
「どうしろって言うんだ」
「見つけたら教えて」
「は? なに、どういうこと?」
「心霊写真があったら、そこだけ見せて」
空気を入れ替えるため窓を開けながら、彼女はしれっと言って返してきた。
両手に握った、全く興味のないエロ本。こんなもので貴重な休日が潰れるのか。予想できていた事態だが、現実になると、ちょっと泣きたい。
せめて一冊くらいマシな本はないかと表紙を流し見ると、おかしなものが混ざっていることに気づいた。
一冊だけ、薄い。
どれも聞いたこともない出版社名の本ばかりだが、他は流通品らしくきちんと製本はされている。けれど、この一冊は厚紙を束ねただけの、ひと目で手作りと分かる小冊子だ。
特別なおまけ、とはこれのことか。
男性の言葉を思い出して、期待もせず、中を開いた。
左のページには新聞の切り抜き、右には写真が貼ってある。
切り抜きは、死亡記事だった。何十年も前の日付。〇〇市。男性が事故死。
一方、写真は喪服の女性が写されている。横顔だが、ピントが少しボケていて、隠し撮りではないかと感じた。
次のページも同じ。十数年前、□□村、ある男性の焼死記事と、喪服の女性。
次のページも同じ。三年前、△△町、ある男性の殺人記事と、喪服の女性。
次のページも同じ。一年前、☆☆市。ある男性の失踪記事と、喪服の女性。
……
最後のページも同じ。数ヶ月前。✕✕町。ある男性の病死記事と、喪服の女性。
この男性だけは知っている。といっても知人ではない。地元の政治家で、選挙ポスターでたまに見る程度の顔だった。問題は、彼の死んだ後の話だ。地盤を引き継ごうとしたその妻--未亡人は行方不明になって、いまも見つかっていない。
「ねえ」
声に、顔を上げる。
彼女が、不思議そうに車窓の外を見ている。
「あの人、なに?」
そちらへ視線を向ける。
道路脇の照明灯の下、ガードレールと地面の隙間に、男がいた。
それは確かに、あの自販機の男だった。地面と水平に傾けた頭をペシリペシリと叩きながら、暗い瞳をじぃとこちらへ向けている。
いいや、違う。男が見ているのは、彼女だ。
「見るなっ」
俺は後部座席に本を放り投げ、車を急発進させた。
逃げ帰った頃には、やはり夜が明けていた。
ウトウトと半分眠っていた彼女を部屋に送り帰してから、ゴミ袋を手に駐車場へ戻る。一刻でも早く本を捨てたかった。
あの本自体への嫌悪感もあるが、絶対に見られたくない人がいる。まだ起きてはいないだろうが、早く処分するに越したことはない。
だが、
「ない?」
車内には食べ残した菓子や飲み物が残されているだけで、後部座席に投げ捨てた本は影も形もない。座席の下や隙間に落ちていないか何度も確認するが、切れ端すら見つからない。
戻ってくるのに十分もかかっていないし、車には鍵もかかっていた。誰がいつ、あんなものを持ち去ったんだ?
「まさか、あの男」
嫌な想像が頭をもたげたとき、
「こんな時間に、なにを探しているの?」
「ぅわ」
呼びかけられて、冷や汗が流しながら恐る恐る、声の方向へ身体を向ける。
……違った。
後ろに立っていたのは、あの男ではない。姉さんとも違う、俺よりも年下の少女だった。
いま隣の部屋に住んでいる学生。まだ早朝で少し肌寒いからか、お下がりのカーディガンを羽織っている。
「そんなにびっくりするなんて、また隠し事?」
声は穏やかだったが、視線は俺の肩越しに車内をじっと観察している。
「なにもない!」うわずった声で否定してから、咳払いして息を整える。
「そっちこそ、こんな早くにどうかした?」
「朝帰りしたお隣さんが慌てた様子だったから、心配で見に来たの」
「ありがとう。でも、全然、なにもないんだ」
そう、なにもない。彼女がどれだけ怪しもうと、本は残っていない。知られるはずがない。落ち着いて言い訳を考えよう。
「ふぅん、なにもないんだ」
「……」
朝の空気より涼やかな瞳で見つめられると、つい後ろめたさで目をそらしてしまった。
姉さんなら隠し事が下手だと笑うに違いない。彼女は違う。綺麗に梳かした髪を指で弄びながら、淡々と質問を重ねてくる。
「ふぅん。随分、散らかっているけど、また夜遊び?」
「と、友達とドライブに行っただけ」
「友達。誰?」
「……それは」
姉さん、とは言えなかった。
彼女の姉とエロ本を買いに出かけた、そんな話は冗談でも言えない。
答えられず俺が押し黙っていると、
「また、嘘ついた」
彼女の細い指がゆっくりと、俺の頬に触れた。少し、つねられる。
姉さんなら血がにじむほど捩じったはずだが、今は優しく撫でられるだけ。
「でも、許してあげる」
怒りも、詰りも、押しつけもしない。ただ俺を安心させるように彼女は微笑み、また繰り返す。
「わたしは、姉さんとは違うでしょ」