誘惑の夜
夜が更けて、いつもの時間にニコライが部屋を訪ねてきた。
招き入れる笑顔はぎこちなく強張って、早速ニコライが不審そうな顔をした。
「疲れているなら今日はやめておくけど」
「あっ、いえそんなことは! お会いしたかったわ!」
声がひっくり返りそうになりながら慌てて止める。
部屋へ入る足を止めかけた彼の背中を、押し込むようにしてソファに座らせた。
気合いを入れ過ぎて緊張していたけれど、ニコライがいつも通りに今日のことを労ってくれたり明日の予定を話したりしてくれるうちに、ようやくいつもの調子を取り戻せてホッとする。
お茶も美味しく淹れられたし、ニコライの怪訝そうな気配も消え去った。
あとはさりげなくスマートに色っぽく誘うのみ。
ちなみに、ヒルダと別れてから誘いの文句はたくさん考えた。
考えたけれどロクな答えは出てこなかった。
だっていつもは向こうから誘われてそれをあしらったりかわしたりするばかりだったから、女性からどう誘えばいいかなんてわからなかったのだ。
寒いから一緒に寝ましょうとか、あなたと同じ夢が見たいのとか。
身体が疼くの、身体が火照るの、なんていうのは考え付いた瞬間顔から火が出そうになった。
我ながら、そういう色っぽいことにはつくづく向いていないと思う。
今日誘うと決めたのはいいけれど、結局はノープランのままだ。
だけど女は度胸、だ。予定の変更はない。
ぶっつけ本番。その時の私に期待するほかなかった。
「では今日はそろそろ」
夜の逢瀬の時間は短い。
頭の中で悶々としているうちに、話が終わってしまったようだ。
穏やかな声で言って、ニコライが立ち上がる。
どうしよう、行ってしまう。
思った瞬間、自然と手が伸びた。
無意識にニコライの袖をそっと掴む。
ニコライが不思議そうな顔をした。
「どうしたのローズ」
優しく聞かれて肩がびくりと強張った。
何か言わなくては。
でも何を。
「あのっ、……」
気ばかりが逸って、開きかけた唇からは結局何も出てこないまま再び閉じられる。
居た堪れなくなって俯いた。
焦りと恥ずかしさにじわじわと頬が熱くなって、あまりの不甲斐なさに涙が滲む。
ちらりと上目遣いにニコライの反応を窺えば、真剣な顔をして私を見ていた。
このままでは何事かと心配させてしまうかもしれない。
早く。早く言わなくては。
「ロ、」
「こっ、今夜は帰りたくないの!!」
必死に絞り出した言葉は、どこかで聞いたような安っぽいセリフで。
帰りたくないも何も自分の部屋だし。
勢いよく言ってしまったせいで色気も何もない。
しかも何か言いかけていたニコライの言葉を遮ってしまった。
せめて落ち着いてその言葉を聞いていたら、もっとマシな誘い文句を言えていたかもしれないのに。
恋愛にテストがあるならば、今の回答は百点満点中ゼロ点を叩き出したことだろう。
最悪だ。
私の青春は終わった。
すっかり馴染んだ自室に沈黙が落ちる。
やってしまった。
絶対に外した。
ごめんなさいヒルダ。せっかくアドバイスをもらったのに、私大失敗だったわ。
「………………っふ、」
パニックに陥ってオロオロする私の耳に、空気漏れみたいな音が聞こえて顔を上げる。
「くっ、ふふ、あはは、ローズ、きみって人は……っ、」
見上げた先に、堪えきれない笑みを浮かべたニコライの顔があった。
「一体誰に吹き込まれたの。びっくりしたよ。……っくく」
「うぅ……友人に相談して……」
おかしくて仕方ないという様子のニコライに、素直に白状する。
物凄く恥ずかしかったけれど、その笑い方に馬鹿にしたり揶揄ったりしている気配はなかった。
むしろなんだか幸せそうな笑い声でホッとする。
やらかした自覚があったから、いっそこうやって笑い飛ばしてくれる方がありがたかった。
「はぁ……まったく。うっかり誘惑されてしまうところだったよ」
「ええ、本当に? 少しは誘惑されてくれた?」
「ああもちろん。最後のセリフが無ければ押し倒していたところだ」
「もう、冗談ばっかり」
笑いを含んだままの言葉にむくれて見せる。
宥めるように私を抱き寄せて、ニコライがこめかみに口付けた。
「冗談だと思う?」
「ええ、そりゃもう、きゃっ」
いじけたように言った瞬間、ふわりと身体が浮いて慌てる。
軽々抱き上げられたままベッドに連れていかれて、優しく横たえられる。
ニコライが覆いかぶさるように私の上に乗った。
「本気で君を抱きたいと思った」
真っ直ぐに私の目を見て、真剣な顔になったニコライが言う。
熱を帯びた目には嘘はなく、笑いの気配もどこかに消えていた。
「本当は、今すぐにでも」
入籍当日と似たようなシチュエーションだが嫌悪感も恐怖感もない。
ただ戸惑いと恥ずかしさに身を固くして、上手く声が出てこなかった。
だから代わりに彼の頬にそっと触れた。
好きにしていいのだという意味を込めて。
ニコライが真面目な顔から苦笑に変わる。
「無理しなくていいんだよ」
「……してないわ」
言い返してはみたものの、彼の指摘は正しい。
無理をしているつもりはなかったけれど、覚悟は足りなかったみたいだ。
頬に触れた指先が少し震えている。
「いいんだ、ゆっくりで。本当に君がしたいと思った時にすればいい」
「……でも、それまで我慢させることになっちゃう」
たぶん、焦っていた。
いつまでも触れさせないままでは、性欲の捌け口を他に求めてしまうのではないかと。
とても失礼な危惧を、いつも頭の片隅に持っていた。
ニコライのことは大好きだし、信じるに値する人だともうわかっている。
だけど心のどこかでまだ、ずっとそんな面ばかり見せられてきた男性というものを信じ切れないでいるのかもしれない。
「我慢なんて苦でも何でもない。君に出会うまでの方がよっぽど苦しかった」
そう言って額に口付けてから、隣にゴロンと身体を横たえる。
「それにね、忙しさに追われている中で慌ただしくってのも嫌なんだ。初めてなのに、朝二人でゆっくり過ごせないなんて耐えられない。きっとベッドを出ようとする君の邪魔ばかりしてしまう」
冗談めかして言って、慰めるように私の頭を撫でた。
自分から仕掛けておいて、意気地をなくした申し訳なさでいっぱいなのを見抜いているのだろう。
「ごめんなさい……」
「うん、まったくだ。困った奥さんだよホント」
わざとらしく呆れたように言って、そっと私を抱きしめる。
その声に責める色は少しもなかった。
「軽率に誘惑した罰として、一晩の添い寝を所望するよ」
「そんなの、私が嬉しいだけだわ」
「僕だってとても嬉しい。人生で一番だ」
負けじと言い返されて思わず笑う。
ゆるく抱き返すと、背中を抱く手の力が強くなった。
目を閉じると、ずっと緊張していたのが緩んだせいかすぐに眠気が訪れた。
全身が温かいお湯に浸されているような幸福感のまま、深い深い眠りに落ちていった。