近づく距離
日中はゆっくりと語り合う暇もなく、それからの日々は多忙を極めた。
公務への同行、式典の準備、王宮内での身の処し方や諸外国との関わり方の勉強など。
学校で習ったことを深く掘り下げて、具体的な私の立ち位置を実務の傍ら学び続けた。
その合間を縫って、わずかな時間でも二人で過ごすのは至難の業だ。
一日が終わる頃にはクタクタで、湯浴みを済ませたらすぐにでもベッドに沈みたくなる。
それを堪えて待っていると、控えめなノックの音が聞こえてくるのだ。
リサはもう自室に戻っていて、時計を見ればもう寝た方がいい時間に差し掛かっている。
けれど来訪者を迎えないという選択肢はなかった。
「いらっしゃいニコライ。今日もお疲れさまでした」
「こんばんは。ローズもお疲れ様」
笑顔で招き入れると、ニコライは少し疲れた笑みを浮かべて部屋に入った。
ニコライは私よりもさらに忙しいようで、隙間時間さえなさそうな忙殺ぶりだ。
初日以降ニコライはベッドには近づかない。
応接用のソファに座り、私と適度な距離を保ってくれる。
私の中ではとても常識的で、紳士的な距離感だ。
それだけで少し感動してしまう。
「今日も一日よく頑張ってくれたね。疲れてるだろうに、付き合ってくれてありがとう」
「そんな。この時間くらいしか二人きりで会えないもの。なにより私があなたとお話をしたいのよ」
お茶を淹れながら言えば、ニコライは微笑んで「嬉しいよ」と呟くように言った。
「明日、少しだけ昼間に空き時間を作ってもらえることになった。もちろん君も」
「本当に? 大丈夫なの?」
「ああ。死ぬ気で色々こなしたからね。明日だけじゃない。これから、出来る限り毎日だ」
礼を言って受け取ったティーカップに口をつけてから、得意げに笑う。
その表情が少し幼く見えて、つられて笑顔になってしまった。
なるほど、疲れた表情はそれのせいだったのか。
かなり無理をして私と二人で過ごす時間をもぎ取ってくれたのだと思うと胸が高鳴った。
「だから、短い時間だけどデートをしよう。庭の散策くらいしか出来ないけれど」
「嬉しい。王城のお庭って素敵なんだもの。ちゃんと見て回りたかったの」
もちろん嬉しいのはそれだけではない。
ニコライと過ごす時間そのものが、想像するだけで心が躍った。
籍を入れてからもう二週間も経つけれど、ゆっくり話が出来るのは寝る前のこの十分程度だけだ。もっと仲を深めたいのに、なかなかままならなくてじれったく思っていたところだった。
けれどデートだと言われてしまうと途端に意識してしまって、素直に気持ちを伝えることが出来なかった。
経験値の低さを嘆きたくなるのはこんな時だ。
さらりとデートという単語を口に出来るニコライ。
聞くだけで動揺してしまう私。
あまりの違いを目の当たりにして、気恥ずかしさで少し俯いてしまう。
ニコライは私の葛藤など知りもせず、真っ直ぐに私を見ていた。
少しの間、沈黙が訪れる。
「……きれいだ」
「えっ?」
囁くような声にパッと顔を上げると、ニコライと思い切り目が合った。
彼は少し驚いたような顔をしたあとで、確かめるように自分の口許に触れてから軽く咳払いをした。
「……あー、その、今は化粧はしていないのだったかな」
「あっ、うん、はい、そう……ええと、あなたが二人の時はそのままでいいって言ってくれたから……」
今度はニコライの方が気まずげに目を逸らして、小さく「そうか」と答えた。
思わず出てしまった言葉、なのだろうか。
そう気付いて、頬がじわじわと熱くなっていく。
今の私は百パーセントのスッピンだ。
それを褒められたのだとしたら、ものすごく嬉しい。
今まで、入浴を終えた後もメイクをするのが正直とても苦痛だった。
それがニコライの気遣いで解放されて、こんなに楽なことはないとありがたく思っていた。
その上でこんなふうに褒めてくれるなんて。
厚化粧を讃えてくれる人はたくさんいたけれど、いつだって見返りの期待やお世辞や嫌味といった別の要素が含まれていた。
けれど地味な地顔に対するニコライの言葉には他意もなく、ただ純粋な感想の言葉として発せられたように思えた。
意地でも肌を傷めたくなくて入念にお手入れはしてきたが、その努力が報われたのかもしれない。
「……ありがとう。ニコライは褒めるのが上手なのね」
「いや、むしろあまりに稚拙で恥ずかしいよ……」
素直に礼を言えば、ニコライはなんだか申し訳なさそうに言葉を詰まらせた。
「……君にしかこんな風になったことはない」
それが嘘か本当かは、まだ結婚して日が浅い私には見抜けない。
だけどきっと彼は本音を話してくれている。
そう思えることが幸せだった。
手を繋いだのは入籍から一ヵ月が過ぎた頃。
庭に咲いた薔薇を見ていた時だった。
その頃にはもう私はニコライのことが好きになっていて、二人で過ごすわずかな時間がとても大切だった。
こんなふうにあっさり好きになるあたりがチョロいと思われるゆえんだろうか。
けれど、仕事に取り組む真剣な横顔。物怖じせずに公の場へ向かう背中。他国の王族や交易商、あらゆる客人と接するときの話題の豊富さ。それに度量の深さ。
彼の見せるひとつひとつが心を震わせ、胸がいっぱいになるのだ。
それに加えて私に向ける視線はいつも優しく、浮かべる微笑みは穏やかで、これで好きになるなという方が無理な話だと思う。
彼もそう思っていてくれたらいい。今はまだ無理でも、ゆくゆくは穏やかな恋心を抱いてくれたら。
そんなふうに思っていた時だった。
お互い疲れがたまっていたせいか、いつもより言葉数が少なかった。
けれど特に気まずいということもなく、時折落ちる沈黙がむしろ心地よかった。
ぼんやりと庭を眺めていたせいで、距離が近づいていたことに気付かず偶然手の甲が触れてしまった。
とたんにぴりっと静電気のような感覚があって、離れなくては、と手を引こうとした瞬間に指先が絡んだ。
ハッとしてニコライを見ると、視線は薔薇に向けられたままだった。
火遊びをしていたわけではないが、経験は豊富だと言っていた。
だからきっとこんなことは慣れっこなのだろう。
少し嫉妬染みたことを思った。
けれど彼の横顔を見ていて気が付いた。
耳が赤いのだ。
いいや耳だけではない。じわじわと頬までが赤く染まって、やがて小さな声で「お願いだからそんなに見ないでくれ」と懇願された。
その恥じらいが伝線したように私の全身も熱を帯びて、思わず俯いてしまった。
それから一大決心をして、無言のまま弱い力で握り返した。
手の平には大量の汗をかいていたけれど、彼はその手を振りほどいたりはしなかった。
少しずつ距離は縮まって、心が通い始めたのが実感できた。
初めてキスをした日は幸福感に酔いしれて、ベッドに潜りこんだ後も全身に甘い痺れが走っているようだった。
忙しい合間を縫って順調に交際は進んで、まさに理想の恋だと自信を持って言えた。
けれど二ヵ月が経っても軽いキス以上に進まない現状に、少し焦りのようなものを感じ始めた。
学生時代のお付き合いなら私もそれで満足していたと思う。
だけどお互いもう二十歳で、何よりすでに夫婦なのだ。
二ヵ月もあれば火遊びを良しとしない純愛カップルだってもっと何かあるのではないか。
そんなことを思って、いつまでも手を出されない現状にモヤモヤしてしまう。
もう何が普通かが解らない。
こんな格好とキャラをしていたせいで、周囲に集まるのはいつも派手で遊び好きの男女ばかりだった。彼女たちの話は私の常識を逸脱しすぎていて、まるで参考にならない。
もしかしてニコライにそういう欲求はないのだろうか。
派手バージョンは好みでないと言っていた。だからこの格好の時にそういう気分にならないのも解る。
けれど夜に会うときはどうだろう。メイクも衣装も、私を偽っているものはすべて取り払われてしまっているのだ。
もしやそっちは逆に地味すぎてそういう気分にならないのだろうか。
あるいは過去の女性たちとの付き合いの中で、もう枯れてしまったのだろうか。
モヤモヤは日々募っていく。
そして同時に、そんなことばかりが頭を占めるようになってしまった私は、自分で思うよりも物凄くスケベな女だったのだろうかと不安になった。
ニコライ以外とそういうことをしたいとは思わないが、こんなことを考えていると知られたら嫌われてしまうかもしれない。
そう思ったらいてもたってもいられなくなって、私は最終手段に出ることにした。