初々しい二人
「ごめん、落ち込ませてしまったかな」
何も言えないでいる私に、ニコライが苦笑する。
「まぁとにかくこんな感じで。女性というものは怖いなと思ったんだ。いや女性に限ったことじゃないな。誠実でない人間全てだ。そう思う僕こそが間違っているのかもしれないけれど」
ため息をついて肩を落とす。
「本当に愛する人と結婚したかった。身元が確かであれば父も許すと言ってくれていたから。だがそれを探すために恋愛の真似事をしたけど全部裏切られてきた。貴方だけだと囁くその口で他の男のものを平気で咥える。言い寄られたらすぐによろめく。人間なんてそういうものだと開き直って、悪いことだとも思っていない」
そう言って、改めて真っ直ぐに私を見た。
「正直、君もそういう類の女性だと思っていた。だから初めから真っ当な夫婦生活など期待はしていなかった。きっと父と母のような関係になるのだと。なら束縛するのも馬鹿らしい。男と寝たいなら勝手にしろと」
悪い噂ばかり聞いていたから、と申し訳なさそうに言う。
「この結婚を決めたのは父だ。もう誰が相手でも一緒だと思っていたから断らなかった。どうせ妻の座に収まったのも王室関係者に身体を使ってねじ込んだのだと」
「そんなことしていません!」
「もちろん。それはもう理解しているよ。それにたとえ噂が真実だったとしてもあんな言い方をすべきではなかった。僕の過去は君には関係のないことなのに。完全に八つ当たりで、逆恨みだ。本当にすまなかった」
全力で否定する私を見て彼は笑った。
その笑顔にどこか吹っ切れたものを感じた。
「……あなたに憧れていたのは事実だけど、結婚なんて考えたこともなかったわ。だけど、」
言うべきか迷って、言葉を途切れさせる。
だがもう夫婦なのだからなんでも伝え合うべきだとも思う。
真実はきちんと伝えないと、そのうちまた噂に流されてしまうと思ったから。
「一生恋も知らないまま生きていくのだと思っていたから、あなたと結婚が決まったと知って、もしかしたらって嬉しかった」
真面目で誠実だと聞いていたから。見境なく女性を口説くような人ではなく、一人を真っ直ぐに愛してくれる人なのだと思ったから。
そう告げると、ニコライは申し訳なさそうに、けれど少し嬉しそうに苦笑した。
「その期待を裏切ってしまうことになって、本当に悪いことをした」
ぺこりと頭を下げてから、居住まいを正してピンと背筋を伸ばす。
彼の纏う空気が変わった気がして、つられるように私も姿勢を正した。
「さっきの最低な行為を忘れてくれなんて言わない。ゼロから始めるのも無理だとわかっている。君が思っていた男ではない、醜悪で矮小な男だけれど、」
一旦言葉を切って、瞳に熱がこもる。
「それでももし受け入れてくれるというのなら、君とちゃんとした夫婦になりたい」
真っ直ぐな視線は、少しも逸らされることはなく。
「互いを想い合う、大切なパートナーとして」
その言葉を聞いて胸が熱くなった。
ジワリと涙がこみ上げる。
「……浮気はなし?」
泣きたくなくて、誤魔化すために探るように尋ねると、ニコライが笑った。
互いに散々痛い目に遭わされてきたのだ、もはや確認するまでもないと思っていたのだろう。
「もちろん。裏切るようなことは絶対にしないと誓う」
誠実さの滲む声で言う。
ガッカリさせたと言うけれど、彼にまつわる噂はあながち間違いではないのかもしれない。
そんなことを思う。
火遊びはしない。全部真面目な関係を築こうとしていた。
温厚で誠実。
もちろん童貞ではなかったけれど、それはイコール誠実じゃないということにはならない。
彼の言葉には、不思議と信じたいと思わせる力があった。
差し出された手におずおずと自分の手を絡ませた。
これが嘘ならもうお手上げだ。二度と立ち直れなくなるだろう。
だけどそうはならないという予感がした。
「ふつつかものですが、よろしくお願いします」
そう応えると、彼は幸せそうな笑みを浮かべた。
その夜、ニコライは私に何もせずに自室へと戻っていった。
彼は今度こそ間違えずに大切にしたいのだと言った。
その言葉を信じようと思う。
一人になってから鏡を見たら、あまりにひどい顔をしていて絶句した。
よくこんな化物みたいな女と真面目に会話が出来たなと感心してしまうほどに。
* * *
翌朝、実家からついてきてくれた侍女に手伝ってもらって身支度を整える。
いつもの厚塗りで派手なメイクではない。それはもう必要がなくなったのだ。むやみに攻撃的でいなくてもいい。素の自分でいていいと思うと心が軽かった。
自分好みの薄化粧は久々だ。服装もシンプルで露出の少ないものに戻した。
今日からは本当の自分で、ニコライに正面から向き合う。
そう考えると胸が弾んで、今にもスキップをしてしまいそうな足取りで部屋を出た。
すると丁度隣の部屋も開いたので、思わず笑顔になる。
「おはよう、ニコライ」
「ああローズ。おは……」
優しい笑みを浮かべたニコライの表情が固まる。
どうしたのかしらと首を傾げる私に、ニコライが真顔で近付いてきた。
「これはいけない。これはダメだ」
ガシッと私の両肩を掴んで、言い聞かせるようにしながら首を振る。
「なに、どういうこと? きゃっ」
くるりと身体を反転させられて、背中を優しく押される。
どうやら出てきたばかりの部屋に戻そうとしているようだ。
「君。ローズの侍女の。リサと言ったか。手間をかけてすまないがローズをいつもの状態に戻してくれ」
「ええ!? どうして!?」
「私もその方がよろしいかと。すぐに取り掛かります」
名指しされたリサが即座に請け負って閉めたばかりのドアを開けた。
「だからどうしてなの!?」
「君のためだ」
切実な響きを感じ取って振り返る。
ニコライは苦渋を滲ませた表情をしていて、じっと私の顔を見た。
「君の選択は正しかった。あのメイクと噂は確かに君に必要なものだ。だからここでもその武装を続けてほしい。この王宮内は色魔の巣窟だ。出来得る限り守るつもりではいるけど、いつでもそばに居られるわけじゃないから」
「そ、そんなにチョロそうに見える……?」
この状態で人前に出るのは四年ぶりだ。さすがにもう幼さは抜けて、大人の女性らしさが備わったように思う。だとすれば以前よりはなめられないはずだ。それに強い女に擬態するための演技のいくつかは私の一部となって吸収され、気弱な雰囲気も無くなったように思えるのに。
「チョロいとかの問題ではなく……ああなんて説明すればいいかな。とにかくそのままだと危険だと思う。それに何より僕が嫌だ。見られたくないんだ本当の君を。可憐で儚げなのにどこか凛としていて。大輪の薔薇を演じていた君よりずっと美しい。我儘で傲慢だというのは百も承知だ。結婚したばかりで鬱陶しいことを言っている自覚もある。だけど今はまだ僕だけの秘密にしておきたい。それに、」
「殿下、殿下」
真顔で滔々と理由を述べるニコライの袖を、リサがツンツンと引く。
「そのくらいにしておいてくださいませ。お嬢様が倒れそうです」
彼女の言葉通り、ストレートな称賛を浴びて恥ずかしさのあまり気を失いそうだった。
全身を真っ赤に染めてブルブル震え出した私に気付いて、ニコライを止めてくれたらしい。
「……すまない、気持ちの悪いことを言った」
我に返ったように目をぱちくりさせたあとで、ニコライが気まずげに顔を逸らした。
「っ、とにかく、色々と煩わしいことに巻き込まれないためにも、前の格好に戻した方がその、何かと都合がいいのではないかと」
廊下に何とも言えない沈黙が落ちる。
「すまない、この言い方はフェアじゃないな。僕の我儘のために。そうしてくれるととても嬉しい」
「……き、着替えてきます」
蚊の鳴くような声でそれだけ言って、ドアを開けっぱなしの自室に戻る。
リサがぺこりとお辞儀をして、ドアを閉め切った瞬間、崩れ落ちるようにその場にへたり込んだ。
心臓がうるさくて、全身に変な汗をかいている。
「情熱的な旦那様で良かったですね、お嬢様」
視線を合わせるようにしゃがんだリサが、目の前でガッツポーズを作って見せた。