婚約破棄をした令嬢は我慢を止めた
今まで、ずっと我慢していた。
公爵家の令嬢として生まれ、第一王子殿下の婚約者に選ばれ、厳しい王妃教育や貴族令嬢としての教育の日々を耐え、自由な時間が殆どない状況でずっと頑張り続けた。王子の婚約者として、未来の王妃として。何度も心が折れそうになった。その度に思い浮かべるのは王子の姿。王族の証である瑠璃色の瞳、王様譲りの紫がかった銀髪の美貌の王子。王家と公爵家が結んだ政略結婚であっても初めて会った王子の美しさに魅了され、彼に相応しい婚約者になるべくひたすら努力した。
……例え、王子が自分を好いておらず、別の想い人がいても。その想い人が実の妹だとしても。
――だが、ある日からヴィトケンシュタイン公爵家長女ファウスティーナ=ヴィトケンシュタインは変わった。現在、ファウスティーナは十五歳。王国の第一王子ベルンハルド=ルイス=ガルシア殿下の婚約者となって早八年が経過した。
日々、貴族の令嬢として、未来の王妃として、忙しく自分の時間が取れず勉強漬けの毎日を送っていたファウスティーナ。婚約者である王子との逢瀬もほぼ無いに等しい。手紙を出せば、会いたいと願えば、彼は返事をくれた、会ってくれた。だが、どれも事務的なものばかり。ファウスティーナに見せる微笑みも貼り付けた笑み。心からの笑みではない。ベルンハルドにとって、ファウスティーナとは王家が結んだ婚約者。どうとも思っていない。
ベルンハルドが真に好いている相手が自分ではないとファウスティーナは知っている。否、知っていた。
何故なら――。
「はあ~! 幸せ! アップルパイ、レモンパイ、ピーチパイ、ベリーパイ、ストロベリーパイ、ミンスパイ! 好きなだけ好きなパイを食べられるなんて……!」
「あ、あのお嬢様」
「もう王妃教育なんて知らないわ。というか、ベルンハルド殿下との婚約はどうでもいいわ。彼はわたしじゃなく、あの子が好きなんだもの。ずっと前から言っているのにどうしてお父様もお母様も動いて下さらなかったのかしら」
「あのですねお嬢様」
「リンスー! カプチーノが切れたわ! すぐにお代わりを――」
「食べ過ぎです!」
パイを食べる為に毎日侍女に綺麗にされている空色の髪を無造作に一つに纏め、ここ最近ずっとだらしのない生活を送る主にとうとう侍女の堪忍袋の緒が切れた。リンスー、と呼ばれたファウスティーナを幼少の頃から知る専属侍女は痛む頭を手で抑えつつ、ビシッとファウスティーナを指差した。本来であれば、専属と言えど侍女に過ぎないリンスーが、仕える家の娘にしていい行いではない。しかし、ここファウスティーナの私室には本人とリンスーしかいない。二人の昔からの仲なので第三者がいなければある程度の無礼は許される。というか、ファウスティーナが許す。
「毎日幾つのパイを召し上がれば気が済むのですか! というか、食べ過ぎです! 一ヶ月、お嬢様は部屋から出ず、ずっと食べて飲んでは寝てばかりです!」
「だって、私もう殿下の婚約者じゃないもの。自由になって羽目を外すのも良いじゃない」
「外し過ぎです。お嬢様。ご自分の体を見たことはありますか?」
「何よとつ――」
藪から棒に何だとファウスティーナが座っていたソファーの背凭れに身を預けた時だった。
ビリ
「え?」と漏らしたのはファウスティーナ。
ビリビリ
「ええっ?」と引き攣った声を漏らしたのは当然ファウスティーナ。
真っ青になった顔で音が鳴ったであろう箇所を見下ろした。一ヶ月もの間、暴飲暴食に励んだ成果がそこにはあった。
「えええええええええええええええええー!!?」
お気に入りの動きやすいドレスが脇腹部分から破れていた。元々、体型維持の為に食事制限をしていたファウスティーナは細かった。なので、一ヶ月のパイを食べ続ける生活がここにきて牙を剥き始めた。腹部に無駄な脂肪をつけるという悪夢を。
絶叫したファウスティーナに「はああああああぁ」と一生分の溜め息を吐いたリンスーであった。
――ファウスティーナ=ヴィトケンシュタインには“前世の記憶”がある。
「正確には前の自分の記憶か……」
一人呟いた声は誰にも聞かれない。夜になり、後は眠るだけなので部屋には誰もいない。……体を横に向けるとお腹が苦しくなるのは気のせいだと思いたい。
「何がどうなってこうなってるのかしら」
ファウスティーナがそれを思い出したのはベルンハルドと婚約を結んだ直後。唐突に前の記憶が甦った。ファウスティーナが突然意識を失って倒れたことによって屋敷中騒然となった。無論、婚約者としての顔合わせの為に来訪した王子一行も。それから数日、ファウスティーナは謎の高熱を発生させた。両親が国随一の名医を呼ぶが原因は分からず。解熱剤を処方するしか対処がないと判断された。当時からファウスティーナの専属侍女を務めていたリンスーや他の使用人は二十四時間体制でファウスティーナを看病した。その間、両親が見舞いに訪れたかと言うと……ない。父である公爵は運が悪いことにその週に限って屋敷に戻れない程多忙な目に逢い、母である夫人はファウスティーナが心配ではない訳じゃないがもう一人の娘をほったらかしにも出来ないと使用人に様子を聞くだけに留めた。
使用人達は公爵にはまだ納得出来た。例え多忙でも、娘を心配する手紙を送ったり体に良い食べ物を沢山届けてくれたから。しかし、夫人は許せなかった。彼女は前々から、長男と妹を贔屓する傾向があった。跡取りである長男を大事にするのは分かる。また、妹は夫人に似てとても美しい娘に育っている。だから可愛がるのは分かる。しかし、だからと言ってファウスティーナを蔑ろにして良いわけではない。
ファウスティーナが回復したのは数日後。万全とは言えないとはいえ、漸く目覚めたファウスティーナにリンスーを始めとした使用人達は泣いて喜んだ。丁度仕事が片付き、ファウスティーナの回復を聞いた父――シトリンが大慌てで駆け込んだ。
『ファナ! 大丈夫なのかい? 痛い所はないかい?』
『……』
『ファナ?』
父シトリンの名は、瞳の色が先代公爵と同じ薄黄色である事が由来。娘であるファウスティーナは、只一人シトリンと同じ瞳の色をしていた。また、空色の髪色も同じ。他二人の瞳は母リュドミーラと同じ紅玉色。
呆然と自分を見つめる同じ色の瞳にシトリンは居心地を悪くする。
――長く高熱が続いて脳に大きな障害が生じた?
最悪の予想を抱いたシトリンが控える執事に急いで医者を呼べと指示を飛ばす。
主の命を受けた執事は直ぐ様部屋を出た。残ったシトリンはファウスティーナとまっすぐ向き合った。
『ファナ? どこかおかしい所があるなら言いなさい』
『…………さま』
『ん?』
『お父様……ですか?』
『!?』
――な、何と言うことだ……!
大事な愛娘に父親かと疑問系で尋ねられた。大きなショックを受けつつ、そうだ、と強く頷いた。するとファウスティーナの表情は見る見る内に呆然としたものから泣き顔に変わった。
『お……お父様あああああぁ!!』
ぼろぼろと大粒の涙を流し、まるで何年か振りの親子の再会のように泣き出し、自分に抱き付いたファウスティーナをしっかりと抱き締めたシトリンは後悔していた。高熱を出して、治らない日々を一番に恐れていたのはファウスティーナ自身だ。このまま長く続けば最悪の事態を覚悟して下さいと名医は言っていたそうな。大事な仕事と言えど、放り出してでもこの子の側にいたら良かった。そうしたら、こんなにも泣き叫ぶことなど無かった。
執事が医者の手配を終えましたと告げに来たのと、ファウスティーナの部屋から彼女の泣き声が聞こえ兄であるケインが駆け付けたのは同時だった。大泣きしている娘と耐えるように涙を流す父の姿に何が起きているのか……よく分からなかったケインであった。
因みに、母リュドミーラはこの時妹娘のエルヴィラを連れてお茶会に参加していた。屋敷に戻るなり、このことについてシトリンが激怒したのは言うまでもない。
「お父様やお兄様、リンスーや使用人達には申し訳なかったわね」
あの時のことを思い出し、ファウスティーナは苦笑を浮かべた。
高熱に浮かされている間、ファウスティーナは前の自分を思い出していた。
そこには、婚約者であるベルンハルドと妹のエルヴィラが寄り添う姿。二人が愛し合う姿。そして、そんな二人を憎しみの眼で睨む自分。
ベルンハルドに愛される妹を疎ましく感じたファウスティーナは、裏で人を雇って実妹を手に掛けようとした。しかし、寸前の所でベルンハルドに嗅ぎ付けられエルヴィラ暗殺は未遂に終わり、同時にファウスティーナは婚約を破棄され、挙げ句公爵家から追放された。あんなに優しかった父に塵を見るような目で見下ろされた事実に背筋が凍る。母は元から自分に厳しかったのでそこに蔑みが加わっただけ。兄ケインは複雑な表情で自分を見ていた。婚約者を放って婚約者の妹とばかり逢瀬を重ねるベルンハルドを良く思っていなかったからだ。現に、何度かケインはエルヴィラに注意をした。彼はファウスティーナの婚約者なのだからあまり仲良くしてはいけない、と。
だが、幼い頃から甘やかされ、愛されるのが当然なエルヴィラに兄の言葉の真意が理解出来る筈もなかった。
兄だけは完全とは言えないまでも味方だった。裏側からファウスティーナを助けてくれていた。……公爵家から勘当された後でも。
ただ、とファウスティーナは思う。
「勘当された後の記憶が朧気なのよね……」
何故、自分がまた人生をやり直すことになったか。ファウスティーナにはよく分からなかった。最後の記憶として覚えているのは、行く宛もなく、頼る所もないファウスティーナがケインから内緒で援助して貰ったお金で、ある宿泊施設に泊まったことだけ。安物のベッドに横になり、犯してきた罪の数々に涙を流した。
――そして、次に目覚めると七歳の、それもベルンハルドとの婚約者としての顔合わせから倒れ、高熱から起き上がった時だった。
大好きな父が心配そうな顔で見つめてくるから、愛情に飢えていたファウスティーナは喜びのあまり涙を流し泣きついてしまったのだ。
「ふわあ……明日は何しようかしら」
高熱から目覚めた後、ファウスティーナは徐々に体調を戻していき、万全になったのはそれから約七日後。ファウスティーナの快復を聞いたベルンハルドが見舞いの花を持って訪れた。
初めての顔合わせの席で倒れてしまったことを詫びた。体調が戻って良かったと安堵するベルンハルドにちくりと胸に針が刺さった。気遣う素振りを見せるな。言葉にしたら不敬罪に処されるので言わない。五歳の頃より教育を受けているファウスティーナは感情を見せることもなく、ベルンハルドに再び頭を下げた。花を受け取り、それをリンスーに渡した。
出歩いても平気なのでベルンハルドを庭へ案内した。庭師自慢の花々に心癒される。ベルンハルドの話に当たり障りのない返事で対応していると。
『お姉様』
……キタ。未来のベルンハルドの本物の愛しい人。濡れ鴉のような艶やかな黒髪、母譲りの紅玉色の瞳の妹エルヴィラ。姉であるファウスティーナが刺々しい薔薇なら、妹であるエルヴィラは妖精を彷彿とさせる可憐で愛らしい花。
『快復されたようで何よりです』
『ありがとうエルヴィラ。殿下、妹のエルヴィラです』
『初めましてエルヴィラ嬢』
『は、はいっ、殿下にお目にかかれて光栄です』
緊張して噛みそうになっている。見覚えのある光景だなとぼんやりと思うと、当たり前か、と納得する。前と全く同じだからだ。
確か、前はここで邪魔だからエルヴィラに早く消えなさいと言った。当然、きつい言葉を掛けられたことのないエルヴィラは傷付き、ベルンハルドからも妹に対しての態度ではないと非難された。百人中百人がファウスティーナが悪いと言うのに前の自分はそれを認めなかった。が、今回は違う。同じ過ちを繰り返してなるものか。
ベルンハルドにもじもじとするエルヴィラをどこか冷めた瞳で捉え、そんなエルヴィラを優しげに見つめるベルンハルドも同じ瞳で捉えるとファウスティーナは言葉を発した。
『殿下。申し訳ありません。少し気分が悪くなって参りましたので庭の案内はエルヴィラにしてもらいます』
『え』
『そう……か。いや、病み上がりの君に外を歩かせたのがいけなかったんだ』
『いいえ。わたしも自分の体調をよく考えていませんでした。エルヴィラ、お願い出来るわね?』
『は、はいっ』
『では、殿下。失礼します』
『ファウスティーナ?』
見事なカーテシーを披露し、呼び止める声を聞こえない振りをして庭を後にした。邸内に戻ったファウスティーナをいち早く発見したのはリュドミーラ。
『ファウスティーナ? 殿下は?』
『体調が優れないのでエルヴィラにお願いしました』
『まあ、大丈夫なの?』
白々しい。可愛いエルヴィラを差し置いてベルンハルドの婚約者に選ばれたファウスティーナを快く思っていないくせに。少なくともファウスティーナは母親に対しそういう感情を抱いてる。前みたいに母の愛情を欲しがるファウスティーナはいない。ここには、将来ベルンハルドとの婚約を何とか破棄してもらい自由に好きなことをやりたいファウスティーナしかいない。なので、敢えて言ってみた。
『大丈夫ですよ。エルヴィラも淑女教育を受けている子です。マナーも完璧でしたわ』
『そ、そう。でも私が心配しているのは、』
『だから安心なさって下さい。エルヴィラが殿下に粗相をするようなことはありません』
『え、ええ、エルヴィラが大丈夫なのは分かったわ。私は、』
『では、失礼します』
何か言いたげだったリュドミーラを残し、ファウスティーナは部屋へと戻ったのだった。
「あの時あの人何と言おうとしてたのかしら」
まあ、どうでもいいか。とファウスティーナは眠った。
◆◇◆◇◆◇
◆◇◆◇◆◇
――翌日。
「はあ……はあ……っ、も、もう無理っ」
「いいえ、まだまだですわお嬢様。その弛んだお腹が元の引き締まったお腹に戻るまでです」
「そ、そんなあ……!」
「甘やかした私もですが、お嬢様も殿下と婚約を破棄して傷心という体を利用してぐうたらしたツケです」
ぐう、の音も出ない。
一ヶ月前、ベルンハルドとの婚約が白紙となった。婚約者になった当初からファウスティーナは嫌がっていた。第一王子であるベルンハルドとの婚約は荷が重いと。自分では無理だと。高熱から回復したファウスティーナは真っ先にシトリンに泣き付いた。娘のお願いを聞いてあげたいシトリンでも、王家との婚約を覆すのは不可能に近い。ベルンハルドと同じ年頃の公爵家の娘はガルシア家のファウスティーナとエルヴィラしかいない。順番的にファウスティーナがベルンハルドの婚約者に選ばれるのは当然だった。貴族として生まれたのだから、恋愛結婚出来ないとは本人も理解している。しているが王族との婚姻となると話は別。況してや、彼は第一位王位継承者。王になる確率が極めて高い。無論、王妃教育も受けないとならない。厳しくて自由な時間が一切取れない王妃教育が大嫌いだった。頑張り続けたのはベルンハルドの為。少しでも彼に認めてもらうため。全て無駄に終わったが。
滅多に我儘を言わないファウスティーナの我儘に困り果てるシトリン。リュドミーラが眉を寄せファウスティーナを叱りつけるも、普段エルヴィラにだけ優しくするくせに自分にだけ厳しくする母親の言葉なんか聞きたくないとファウスティーナに叫ばれ固まってしまった。無論、彼女がエルヴィラを贔屓しているのを知っているシトリンも口を挟むなと告げた。その場にいた使用人達は顔に出さないまでも内心「「「よく言いましたお嬢様!」」」と誉めていた。
結局、この我儘を聞き入れるのは難しいので頑張ってくれとシトリンに説得された。それならば、とファウスティーナは次の作戦に出た。
腹筋をメインにリンスー監督の下、弛んだお腹の矯正に励むファウスティーナの私室のドアがノックされた。息切れ切れの返事をするとシトリンに長年仕える執事クラッカーが入った。一ヶ月分の暴飲暴食のツケを腹筋をして返そうと励んでいるファウスティーナを生温かい眼で見つめつつ、お客様が来ていると告げた。相手は名を聞かずとも分かる。体調が優れないので、と言うも一目だけでいいと粘って帰ってくれないのだとか。
「如何なさいましょう?」
「はあ、はあ、か、かえって、もらって。と、いう、か。はあ、はあ、エル、ヴィラがいるでしょう。わたしはもう、こんにゃく、しゃ、ではないのだからっ」
「お嬢様。たかが百回の腹筋にぜえぜえ言わないでください」
「い、いうに、決まってるで、しょお……」
最早、怒鳴る力も残っていない。パタンと力尽きたファウスティーナを見届け、クラッカーは「では、エルヴィラ様に対応してもらいます」と部屋を出た。
いきなり腹筋を百回しろと無茶を要求するリンスーもだが、本当に百回腹筋をしたファウスティーナも中々の根性の持ち主である。明日は筋肉痛で動けなくなる主を想像し、リンスーは食事内容を考えていく。
ファウスティーナは訪問者が誰だか知っている。一ヶ月前に婚約が白紙となったベルンハルドだ。何故彼がファウスティーナを訪ねるのかが理解出来ない。前の記憶通り、ベルンハルドはファウスティーナにではなくエルヴィラに惹かれた。見ていれば分かる。自分に向ける瞳と妹に向けられる瞳の違いくらい。今回のファウスティーナは積極的にエルヴィラとベルンハルドを接触させた。エルヴィラがベルンハルドに話し掛けられても、一緒に歩いていても、仲睦まじくしていても何も言わなかった。
その間、前の記憶と経験をフル活用して厳しい王妃教育を乗り越えた。王妃はファウスティーナに良くしてくれた。実際、前もベルンハルドを何度か叱りつけたこともある。それでも彼の心に響かなかったのは心が既にエルヴィラにあったから。今回の王妃様もファウスティーナに良くしてくれた。飲み込みが早く、瞬く間に成長していくファウスティーナに驚きながらも義娘となったらこんなことやあんなことがしたいと楽しそうに話す王妃に心が痛んだ。実際、ベルンハルドとファウスティーナの婚約が白紙になった時誰よりも傷ついたのは王妃だった。ファウスティーナも王妃の悲痛な表情を見て心を締め付けられたが、これが皆の幸せなのだと信じ痛みを隅に追いやった。
「何だか外が騒がしいですね」
リンスーが怪訝な声でそう告げた。疲れ切ったファウスティーナには届いていない。まあいいか、とリンスーはファウスティーナを起こし、全身汗まみれになった彼女をおぶって浴室へ向かった。
綺麗に洗われたファウスティーナは寝台の上で生きる屍と化していた。あの腹筋百回のせいで。明日は地獄だ……と遠い目をして天井を見上げている。今リンスーはダイエットにいい食事を料理長と相談中。毎日栄養バランスの良い食事を摂り、運動に励んでいれば弛んだお腹も元の引き締まったお腹に戻る。食事は兎も角、運動については話し合う必要があるとファウスティーナは意見するも、ダイエットの鬼となっているリンスーには聞き入れてもらえない。無論、デザートは当面の間禁止。ちゃんと痩せて、元通りになったら食べていい。大好きなパイの為に頑張ると決めつつ、外の騒がしさがいつの間にかなくなっていることに気付く。リンスーに洗われている間に終わったのかもしれない。
「よく分からんわ」
この八年間、王妃教育と共に頑張ったのはもう一つ。それはベルンハルドとエルヴィラの仲の良さをアピールすること。定期的に屋敷へ訪問するベルンハルドが会いに来ている相手がファウスティーナではなく、エルヴィラと誰もが思うまでに時間はかからなかった。ベルンハルドが来てもファウスティーナが来るのは二人が仲良さげに会話をしている最中。途中で中断される時いつも残念そうに笑みを浮かべるベルンハルドを、一時の幸福に身を浸らせ現実へと戻った時のエルヴィラを決して見逃さなかった。
ある時、ファウスティーナはベルンハルドにこう告げた。
『殿下。わたしと婚約を解消して下さいませ』
『突然何を言い出すんだ』
『わたしは貴方の婚約者に相応しくありません。その点、エルヴィラは貴方に相応しいです』
『何故そこでエルヴィラが出てくる?』
『あら、惚けますの? わたしも、公爵家の使用人達も、両親も、王様や王妃様も知っていますのよ? 殿下が婚約者であるわたしではなく、その妹を好いていると』
『何を馬鹿なっ』
『公爵家に来ても真っ先に会うのはエルヴィラ。学園でも仲良さげに隣を歩かせるのはエルヴィラ。夜会でも、礼儀の範囲に入るエスコートが終わればエルヴィラと二度もダンスを踊る。周囲の者達が殿下がエルヴィラを好いていると思うのは当然ですわ。勿論、わたしも』
『待て、それは』
『例え王家と公爵家が結んだ政略結婚と言えど、初めから愛する人のいる殿方に嫁ぐ等わたしは嫌です。幸いにもエルヴィラは私の妹。家が変わるより、相手が変わる方がまだ傷も浅いです』
『ファウスティーナっ、人の話を』
『話? 誤解だとでも仰るつもりでしょうか? わたしはそう思いません。殿下とエルヴィラは相思相愛の仲だと皆微笑ましく思っておりますのよ? そしてわたしは、そんな二人の前に立つ邪魔な存在。邪魔者は潔く退場しますわ』
ベルンハルドの言葉を一切聞き入れないファウスティーナは綺麗な仕草で礼をし、婚約解消の件は既に公爵である父にも言っていると告げその場を去った。
ベルンハルドが幾ら言葉を発しようとファウスティーナが告げた言葉は全て真実。それで実はファウスティーナが好きだなどと誰が信用するのか。誰も信用しない。ベルンハルドが言おうとしたのが何か知らないし興味もないファウスティーナは、翌日シトリンと王様と王妃様が長く話し合った末に決められた婚約解消に歓喜した。そして、代わりにエルヴィラが新たな婚約者として選ばれた。
一応、傷心中ということで学校を休み今まで出来なかった自由を満喫した。……その代償がまさかの腹筋百回。こんなことなら、もっと制限したら良かったと後悔するも後の祭り。
「ん……?」
何やら、また外が騒がしくなった。何だろうと気になりつつ、疲労で寝台から起き上がれない。まだ居座っているのかしら、と呑気に考える。
新たな婚約者として選ばれたエルヴィラもまたファウスティーナが受けたのと同じ王妃教育を受けている。リンスー曰く、王妃の態度が厳しい、ベルンハルドが会ってくれない、等々色々不満を露にしているらしい。王妃はファウスティーナの時と一切変わらない態度で接している。彼女が優しげに接するのはあくまでも個人として接する時のみ。王妃として、未来の王妃を完璧にしなければならないので王妃教育中はマナーレッスンの先生よりもスパルタとなる。ファウスティーナでさえ、何度も泣いたのだからあの甘やかされたエルヴィラに耐えられるかどうか。
婚約が解消された日から、毎日のようにベルンハルドはファウスティーナを訪ねた。が、その度に公爵家の使用人達は傷心中です、殿下の婚約者はエルヴィラ様です、と決して近付けなかった。
コンコン、とノックと同時に「入っていい?」とケインの声が。どうぞ、と返事をすると扉が開いた。ケインは母親譲りの黒髪に紅玉色の瞳といった妹と同じ容姿。だが、妹と違い妖精のような愛らしさは当然だがない。代わりに漆黒の髪と赤いのに冷たさを感じる瞳が相俟って儚げな雰囲気を醸し出す美青年へと成長を遂げた。リンスーに聞いたのか、寝台の上で動けないファウスティーナに食べ過ぎだよと注意をして椅子に腰かけた。
「は、はい、後悔しております」
「何でも程々が一番。でも、リンスーは一ヶ月でファナのお腹を元通りにしてみせると意気込んでるから頑張るんだね」
「は、はひ」
地獄の腹筋百回生活……逃げたい。
「そんな情けない返事をするものじゃない。それより、毎日ベルンハルド殿下が来ているけど一度も会ってないの?」
「会う必要がありますか? 殿下とわたしはもう、婚約者同士ではありません。わたしは婚約者の姉です」
「そうだね。……所でね、ファナ」
「はい」
「ファナって、前からベルンハルド殿下をどう呼んでたの?」
「? 殿下、としか呼んでいません」
それがどうしたのだろう。
「ねえ、ファナ。周囲を誤解させるような行動をしていたベルンハルド殿下もだけど、ファナにも非はあったんじゃないかな」
「……」
普段は優しくファウスティーナを包み込んでくれる紅玉色の瞳が、厳しい色をしてファウスティーナを射抜く。
「ファナは一度でも殿下を名前で呼んだことはあった?」
「……ないです」
将来、どうせエルヴィラと婚約するのだから呼ぶ必要はないと判断したから。
「僕の記憶が正しかったらだけど、殿下はいつもこう言ってなかった? 名前で呼んでほしいって、他人行儀なのは嫌だと」
「……」
「後、毎回殿下が来ても相手をしているのはエルヴィラだったね。どうしてかな?」
「殿下がエルヴィラに会いに来ているからじゃ」
「……違うよ。殿下は毎回君に会いに来ていたんだ」
「口実です」
「事実だよ。僕は君の兄として、歳が近いのもあって色々と殿下の話を聞いていたんだ。屋敷を訪れてもいつも君は姿を現さず、代わりとばかりにエルヴィラを寄越すと」
「……うん?」
一度もエルヴィラを寄越したことはない。行くといつもエルヴィラがいて、ベルンハルドと仲良さげにしている。そうファウスティーナは反論した。
「うん?」と同じくケインも首を傾げた。ケイン曰く、ファウスティーナに会いに行っても必ずエルヴィラが来る。待っても待ってもファウスティーナは来ない。それが何度か続くと彼女は自分に会いたくなくて妹を寄越すのかと思い始めたのだとか。
が、ファウスティーナの様子を見る限りどうもそうではないらしい。……まさか、と二人は同じ予想を抱くも既に婚約は解消され、新たな婚約が決められた今確かめた所でどうしようもない。
この話は無理矢理終わらせ、ケインは別の話題を出した。
「夜会の時だってそうだよ。ファナは殿下とファーストダンスを踊らずにすぐに何処かへ消える」
「殿下がわたしと踊るのが心底嫌だと思ったので」
「その根拠は?」
「……殿下の私を見る目が全て物語っています。エルヴィラに向けるのは、とても婚約者の妹に向けられるようなものではありませんでした。対して、わたしには事務的な、いいえ、仕方なしに相手をしなければならない面倒な色をしていました」
「……」
「ダンスもそうです。ちっとも、わたしを見ずに違う方へ目を向けていました。ダンスを踊るのも嫌がっているのに無理に踊る必要もないではありませんか」
「……そう」
色々とベルンハルドに相談を受けたり愚痴を聞いたりしていたケインだが、ファウスティーナ本人にこう思われているのではもう手遅れだなと判断した。勘違いされるのも無理はない。まあ、相談を受けていながらファウスティーナに何も言わなかった自分も自分だが。
まだ外が騒がしい。一体、何が起きているのか。ファウスティーナは聞いてみた。ああ、と思い出したように声を上げたケイン。
「ベルンハルド殿下が意地でもファナに会うまでは帰らないと言っているんだ。使用人達も殿下相手に粗相は出来ないから扱いに困っているんだ」
「みっともなく太った姿で会いたくありません。太る前でも会いたくありませんが」
「はいはい。僕から殿下に言っておくよ。じゃあファナ。ダイエット頑張って。成功したら、ファナが昔から飼いたがってたコールダックをプレゼントするよ」
「本当ですか!?」
「うん。じゃあ、僕は殿下にお帰り頂くよう頑張ってくるよ」
叱りに来ておきながら、結局妹に弱いのが兄ケイン。もう一人の妹エルヴィラにも甘いが向こうは母親に更に甘やかされているのでこれ以上の甘さはいらないなと判断されている為、滅多にエルヴィラの我儘は聞かない。
暫くして、外の騒がしさは消えた。
◆◇◆◇◆◇
◆◇◆◇◆◇
――一ヶ月後。
リンスー鬼監督の下、ひたすらダイエットに励んだファウスティーナのお腹は、以前よりも引き締まったお腹へと変貌を遂げた。達成感を味わう二人は涙を流した。
リンスーはお嬢様のお腹が立派な引き締まったお腹に戻って、ファウスティーナはあの地獄のダイエットをもう受けなくていいと喜んで。
と、二人の涙を流した理由は違うが結果は成功したのだから良し。ケインも約束通りコールダックを二羽、ファウスティーナにプレゼントした。以前から動物を飼ってみたかったファウスティーナが婚約解消をして最初に欲しがったのがコールダック。趣味で動物図鑑を見ていく内、白く小さく、ふわふわもこもこな体に心奪われた。
全身白のメスのコールダックをモコ、頭の天辺にだけ黒い模様があるオスのコールダックをクロマメと名付けた。二羽ともに生まれて半年の子供。世界最小のアヒルが更に小さく見える。
今は庭に設置された大きな水入れに入り泳いでいる。
「くわ、くわ」
「くえー」
「ふふ、可愛い」
二羽仲良く泳ぐ姿に癒される。早く名前に馴染んでもらって呼んだら来てもらえるようになりたい。
学校へも登校を再開した。親しい友人は久しぶりのファウスティーナの登校を喜び、また、ベルンハルドとの婚約解消が既に広まっているらしく心配されるも安心させるように笑みを崩さなかった。学校中、ベルンハルドとファウスティーナの婚約解消から、新たな婚約者となったエルヴィラの噂に夢中だった。
妹が姉の婚約者を奪った。元から妹と相思相愛だったのを姉が引き裂くも真実の愛を貫いたベルンハルドとエルヴィラの愛の深さが勝った。実はファウスティーナはベルンハルドの想いを知って敢えて身を引いた。等々色々。
どの噂も煩わしく、好奇の視線を送る周囲に辟易する。学校でも貴族の子とはこういうものだ。他人の不幸は蜜の味。特に令嬢はこの手の噂が大好物なのだ。ファウスティーナが登校するようになったと知るなりベルンハルドが教室を訪れるも会う気が更々ないファウスティーナは毎回休憩時間になると図書室へと逃げていた。
今日は登校を再開して初めての休日。二羽のコールダックに癒されようと庭でモコとクロマメを眺めつつ、これからどうしようとぼんやりと考える。
胸に刺さるちくちくとした痛みが取れない。
分かっている。ベルンハルドがエルヴィラを好きになると分かっていても、ベルンハルドを好きになってしまう自分がいると。婚約解消をしても、やはり好きなままなのだ。
じわりと浮かんだ涙を袖で乱暴に拭い、ぱしっと両頬を叩いた。
「これで良し。殿下のことなんて忘れて、新しい恋でも探しましょう」
「ね?」とコールダック達を見るも二羽は上機嫌に泳ぐだけ。はあ、と肩を落とすファウスティーナであった。
――まさかそれを一番聞かれてはいけない相手に聞かれていたとは知らない……。
~以下解説~
ファウスティーナ=ヴィトケンシュタイン
前回、ベルンハルドに愛される妹に嫉妬し暗殺を企てるも未然に防がれた挙げ句、エルヴィラ暗殺の容疑で公爵家勘当で外へ放り出される(娘としての最後の情で刑に処すことはなかった)。ケインの援助で留まった宿で眠った後、何故か七歳に戻った。それも婚約者の顔合わせ当日に記憶が戻った。
前回の失敗を教訓にベルンハルドが真に愛する人と結ばれて幸せになるように頑張った。結果、自身と殿下の婚約は破棄され、エルヴィラが新たな婚約者となった。これで皆ハッピーと信じているが、一人全然ハッピーじゃない人がいることに気付かず、新しい恋を探し始めるのであった。
ケイン曰く「もっとちゃんと(ベルンハルド殿下の)話を聞こうね」
ベルンハルド=ルイス=ガルシア
王国の第一王子殿下。七歳の頃婚約者となったファウスティーナに惚れるも、前回の失敗した記憶を持つファウスティーナに悉く避けられた挙げ句妹のエルヴィラを毎回押し付けられた。話をしたくてもファウスティーナ本人が全く聞く耳を持たず、いざ話をする機会があっても好きな人を前に緊張して自分の感情を上手く言葉に出来ない。その為に勘違いされたまま婚約破棄となった。
ケインにはよく相談に乗ってもらったり愚痴を聞いてもらったりしていた。最後にファウスティーナの新しい恋を探す発言を偶然に聞いて心底焦るのであった。
ケイン曰く「殿下もちゃんと話そうね。僕も人のこと言えないけど」
ケイン=ヴィトケンシュタイン
ファウスティーナとエルヴィラの兄。人の話を聞かないファウスティーナと甘やかされて自制心が弱いエルヴィラの妹を持って何かと苦労したり楽しんでいたりする人。
ベルンハルドのファウスティーナに対する相談に乗ったり愚痴を聞いたりしていた。が、本人は特別行動は起こさなかった。
本人曰く「ぶっちゃけファナが未来の王妃とか無理だと思ったんだ。結構大雑把で令嬢らしからぬ所があったから。エルヴィラは大丈夫かって? あれでも一応教育を受けてはいるし、頭が弱そうに見えて学校での成績も良いから案外大丈夫だと思うよ」
エルヴィラ=ヴィトケンシュタイン
ファウスティーナとケインの妹。母親のリュドミーラに似た為に母に溺愛されて育つ。父からは姉や兄と平等に接せられるので一番甘やかしてくれる母親が好き。姉の婚約者となったベルンハルドに恋心を抱き、彼がファウスティーナに会いに来ていると知りながら誰よりもベルンハルドに会いに行く。これが悪いと思ってないのが残念。
婚約破棄された姉の代わりに新たな婚約者となるも、厳しい王妃教育に音を上げ、婚約者となってから全然会ってくれなくなったベルンハルドに不満が溜まる。いつ爆発するのだろうか。
ケイン曰く「半年もしない内に大爆発するんじゃない?」
コールダックのモコ&クロマメ
ケインがファウスティーナのダイエット成功のお祝いにプレゼントした世界最小のアヒル。可愛くてもこもこしているがファウスティーナに対しては凶暴さが増し、ケインには甘える。
世話をしているファナ曰く「納得できなーい!!」
おしまい