私が仕事を辞めた話
人生は些細なきっかけで、変わっていく。
自分にとっては気にならないことでも、誰かにとっては重要なこともある。
「ある朝制服のボタンを掛け違えて、家を出るのが1分遅れたから、事故に巻き込まれることがなかった」
このような話は、決して珍しいことではない。
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「〜〜〜どう思う?タカコ」
私は休日のカフェで目の前に座るマミに話しかけられた。話は聞いていなかったが
「うーん、それはちょっと酷いかもね」
マミの表情を見てとりあえず否定してみた。
…この反応に納得したのかマミはだよねーと言いながら話を再開した。
結局皆こうやってカフェで愚痴を言ってる時は、自分に共感してほしいだけなのだ。
とにかく自分の中にあるモヤモヤを誰かに聞いてもらいたい、ただそれだけなのだ。
それはまるで、お気に入りのぬいぐるみに今日あった出来事を話す小学生の子供と変わらないのだ。
どうせマミが話してる内容だって、やれ彼氏がどうとか、仕事がどうとか、この前行ったケーキバイキングが良かったとかそんな話ばっかりなのだ。
どうせ明日には、なにもかも忘れてしまう。勿論マミ自身も。
タカコはそんなことを考えながら、無糖のアイスコーヒーを飲んでいた。
マミも話したら落ち着いたのか、そろそろ帰ろっかと言って席を立った。
どうやら同棲してる彼氏が今日は早く帰ってくるんだと…
マミは女の私の目から見てもとても可愛い。
目が大きくてまつ毛が長く、小柄でよく笑う。
どうしてこんな子が私と仲良くしてくれるのだろう…なんて悲観的に思うこともある。
私とは真逆だ。
愚痴を言ってすっきりしたのか、マミは笑顔で帰っていき、解散となった。
まだ17時半。特にすることもないけど、せっかく渋谷まで来たのでヒカリエに行き、化粧品売り場に向かう
化粧品売り場で欲しいものがあるわけじゃない。
…でも化粧品に興味がないわけでもない。
ただ私にその化粧品を使う資格があるのか…そんな風に考えてしまうから、立ち止まることはしない。
エスカレーターの前で高級ブランドの店員が香水が絡まった匂い紙を配っている。
それはまるでマネキンのようだ。
手を引くこともなくずっと同じ姿勢で紙を配っている。
化粧品売り場を通り過ぎて、食品売り場に向かった。
私の好きなパン屋さんに行って、クロワッサンを買って帰ろう…そんな思いで行ったのに、クロワッサンは売り切れ。仕方ないので、適当にパンをいくつか買う。
無意識にため息をつきながら、ヒカリエを後にして帰宅する。
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家に着くと、とりあえず私はまず着替える
さっき買ったパンを温めながら、ぬるいコーヒーを飲む。
この家は私の唯一の天国
誰もいないので周りの目も気にする必要ない
台所のシンクが汚れてる。トイレ掃除はいつからしてないだろうか。
でももし何かあっても自業自得の世界
誰にも何か文句言われることなんてないのだ。
思えばいつから人と本音で接しなくなったのだろう。
私は小さい頃から、内気で友達の少ない子だった。
幼稚園で遊びたいオモチャがあっても遊びたいと言えないような、そんな子だった。
勿論数少ない友達の家で、その子のお母さんがケーキを出してくれた時も、最後に残る一番食べたくないケーキをもらっていた。
ババロア。
私はババロアがすごく嫌いだ。
いつも残っているババロア。
そんなババロアを見てると、誰にも好かれないババロアと自分自身を重ねて見ていた。
本当はイチゴのショートケーキが食べたかった。
でも言えなかった
イチゴのショートケーキを食べたいって言い出す勇気がなかったから。
自分にイチゴのショートケーキが似合うと思えなかったから。
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気がつくと朝になっていた。
月曜日の朝は憂鬱。
まぁだからと言って、火曜日の朝も憂鬱なんだが。
私はいつものように田園都市線の電車に乗る。
私の家から会社まで40分。
何も考えずボーッと立ってるだけで時間が過ぎ去っていく。
人生って何だろう。
若いって何だろう。
…そんなことを考えていると、駅に着いた。
私が働いている朝日商事は大手企業である。
就職活動を必死に頑張って、新卒で入社してもう5年目になる。
同期で出世した人もいるし、辞めて行った人もいる。
ちなみに私はずっと同じ部署にいる。
つまり出世コースからは外れている。
いつもと変わらないように過ごし、いつもと変わらないような仕事をする。
別に難しい仕事ではない。
それでもきっと私は恵まれている。
そう自問自答しながら、熟していく。
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だけど今日はいつもと変わらない風景の中に、見慣れないものがあった。
花瓶だ
先週までは確かになかった
ただ小さな花瓶が窓辺にぽつんと置いてあるだけ。
「タカコ先輩、あの花瓶なんっすかー?」
コソコソ声で私に話しかけてくるこの男は、私の2個下の後輩の吉田だ。
今時の若者敬語で話す彼は自信に満ち溢れた顔をしている。
明らかに私の趣味とは掛け離れてるであろう花瓶について尋ねる彼は、例えば私が花瓶の持ち主だと話をしたらどう反応するつもりなんだろう。
「おはよう、あの花瓶吉田くんのもの?まずは挨拶が先だけどね」
気持ちを抑えながら、彼をこっそり宥める。
「あ、おはようございまーす。俺の趣味じゃないっすよ!あっ!太田さん!あの花瓶について知ってますかー?」
吉田はそう言ってどこかへ行ってしまった。
少し苦いコーヒーを飲み一息つき、仕事を始める。
メールを確認し、取引先に電話でアポイントをとる。資料を作成し、打ち合わせを行う。
私の仕事ぶりは多分、平均的なものだと思う。
午後になり、ふと窓を見ると再び花瓶が目に入った。
そういえばあの花瓶は誰のものだったのだろう。
吉田が外回りから帰ってきたので尋ねて見た。
「吉田くんあの花瓶誰のかわかったの?」
吉田はあーあれ花瓶じゃなくて…と言いかけたところで部長に呼ばれて行ってしまった。
花瓶じゃない?
彼はそう言いかけた。
よく見ると確かに花瓶にしては小さいし、第一花が刺さってない。
私はいてもたってもいられなくて、中身を見るために窓辺に近づいた。
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窓辺にあった小さな花瓶だと思っていたものの中身を見て驚いた。
そこにあったのは
インド料理屋さんとかでレジ横にある、カラフルな粒状のもの。お口直しに使うフェンネルだったのだ。
私は思わず吹き出してしまった。
この世の中にそんなことあるのか?と思いながら、笑い続けた。
そこに吉田が戻ってきて、更に一緒に笑い転げた。
あんなに笑ったのはいつぶりだろう?
もしかしたら、世の中には自分の想像もつかないような世界ってあるのかもしれない。
初めて思った。
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私は8畳間の小さな天国に帰り、一人でホットコーヒーを飲んでいた。
自分の好みに合わせてブレンドした、コーヒー。
二杯目はインスタントのコーヒー。
ミルクをたっぷりいれて、イチゴのショートケーキを食べながら。
少しババロアを食べたくなった。
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目覚めて一番に思ったことは、今日会社を休もうということ。
今まで一度だって会社を休んだことなんてない。
働かないと生きていけないと思っていたから。
会社を休み、私が向かった先は丘の上にある公園だった。
今の公園には遊具はない。
私たちが小さい頃遊んでいた、鉄棒やうんていなんかもなく、ただベンチが置いてあるだけ。
だから専ら公園にいる子供はおらず、犬の散歩をするおじいさんが休んでいるだけ。
犬を見ながら、自分の人生に思いを馳せていた。
なぜか今が人生の分岐点だと思った。
今までの自分の人生が悪いものとは思わない。マミのような親友もいるし、やりがいのある仕事もある。
私は安定志向であると自分で思っていたし、これ以上欲しいものもないと思っていた。
人と争うことを避けて、相手の気持ちを尊重して、自分の意見をきちんと伝えずにいたこと。
決められたレールの上を歩いていれば、ゴールにたどり着くと思っていたこと。
ゴールの先に何があるかなんて何も考えていなかったこと。
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翌日私は会社に退職届を出した。
これから何をするかなんて考えていない。
どう考えても勿体無いことをしている。自分でわかっている。
ただ退職届を出した時の部長の面食らった顔には少し笑った。
勿論、フェンネルほどじゃないけどね。