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今朝は、チョコレートの香りだ。
屋根裏のベッドの上で目を擦りながら起きた少年は、あたりに満ちている香りを嗅ぎながらいそいそと着換えを始める。
床に空いている四角い出入り口の梯子をタタッと駆けおりて階下の廊下に降りると、小走りに廊下の先の階段を降りる。
そこは大きな厨房になっていて、厨房の先にあるお店に出すためのパンやお菓子が焼かれている最中だった。
「おはようジュ―ロウ」
「おはようクラリス。今日もいい香りがするな」
「ふふ。今日はブラウニーよ」
長い金糸の髪を一つにまとめたクラリスは、微笑みながらたった今オーブンから出した焼きたてのブラウニーを、大皿に丁寧に並べていく。
その香ばしい香りにワクワクしつつ、ジュ―ロウは厨房内の椅子に腰を下ろした。
此処はナルシュタイン王国の王都から少し離れたワンクウリ町にあるパン屋だ。
店主はニコニコと笑っているクラリス・シュタイゲル男爵令嬢。シュタイゲル家は男爵と言っても貧乏な家で、三女のクラリスは自営をしたいと学院を卒業後にこの町で店を出した。麗しい店主とその料理の腕前に、街の中で定着するのに時間はさしてかからなかった。
無論、こんな若い娘が一人で切り盛りしていれば言い寄る男共が引きも切らさずなのは当たり前の事だが、クラリスは誰にもなびこうとはしない。
町でも有名なイケメンが来た時もクラリスは動じなかったらしい。
店の手伝いのライラが小さな声で笑いながら教えてくれた。
「だから、ジュ―ロウは心配しなくていいんだよ?」
ライラはそう言って微笑むが、意味はさっぱり分からない。
なにせ彼にとってのクラリスの魅力はそのお菓子にあるのだから。
それにジュ―ロウの体は十四、五歳の少年の身体で。男らしいとかイケメンとかからは遥かに遠く離れている。まさかクラリスもそんな趣味ではあるまい。
「珍しく渋い顔をしているのね。何を考えているの?ジュ―ロウ?…美味しくなかった?」
「まさか。クラリスのお菓子が美味しくない訳がないだろう。いつも極上だよ」
ジュ―ロウがそう言うと、クラリスは至極嬉しそうに笑った。
三つ目のブラウニーを口に入れながら、ジュ―ロウも微笑む。本当に絶品だ。クラリスはお菓子作りの天才だなと思う。
今まで生きてきてこれほど美味しい菓子を作る人物に会った事はない。
王族の会食でも、市井の菓子職人でも。
まあ、私的感情が無いとも言いきれないが。
ジュ―ロウはクラリスを見ながら少し笑う。
小さく首を傾げたクラリスが、不思議そうな顔のまま二杯目の紅茶を入れてくれた。ジュ―ロウはそれに口を付けながら、店の方に菓子やパンを並べ始めたクラリスを眺めている。
クラリスは確かに美人だ。
金糸のごとくの長い髪はもちろんの事、白磁の肌も青い大きな瞳も柳眉も艶やかな桃色の唇も、どこぞの王族が攫いに来てもおかしくない容姿だ。
全身のバランスも良く、女性としての豊かな胸やきゅっとくびれたウエストは言うに及ばず、長いほっそりとした手足も素晴らしい。
そして何よりもクラリスの美点は。
「なんでジュ―ロウはじっと見ているの?」
「さあ。なんでだろうな?」
鼻歌を歌いながら機嫌よくパンを並べていたクラリスは、微笑みながらジュ―ロウに聞いて来た。ジュ―ロウは肩を竦めながら素知らぬ顔で答える。
いつも笑顔でいる事。それは素晴らしい美徳だとジュ―ロウは思っている。
六個目のブラウニーがジュ―ロウの口に入った時には、すでに次のお菓子が大皿に並べられていた。見事なシュー・ア・ラ・クレームだ。パカッと割られた丸い皮の間にはこぼれるばかりの大量のクリーム。ジュ―ロウ仕様である。
とにかくジュ―ロウは甘いものが大好きだった。
甘ければ何でもいいと思っていた時期もあったが、クラリスに会ってからは彼女のお菓子以外は食べたくないなどと贅沢な御身分になっている。
右手に持ったシュー・ア・ラ・クレームを頬張りながら、人間は贅沢を覚えるとなかなか降りられなくていけないなと、少々哲学的な気持ちになった。
「おはようございます!」
元気な声で手伝いのライラが出勤してくる。そろそろ開店時間が迫っていた。
ライラもエプロンを付けて店に立ち、ドアに掛かっている札を閉店から開店にひっくり返すと、待っていた数人の客が店の中に入って来た。
「おい、ジュ―ロウ。ほら今日のだぞ」
中の一人が買ったばかりの紙袋に入ったパンを片手に、厨房の椅子に座って店内を眺めているジュ―ロウに新聞を渡してきた。
「ありがとう」
店との境界線であるカウンター越しに新聞を受け取ると、紅茶を飲みながらジュ―ロウは新聞を眺める。
地方紙であるシムレンタ新聞は、王立派や貴族派に偏らず中立でなかなか面白い新聞だ。ジュ―ロウは王都であった騒ぎが書かれている一面を軽く眺めてからこの町に関する事が書かれている中の面を折り返しながら眺める。
「あのよ」
「ん?」
新聞を渡してきたダンが今日は立ち去らずにカウンター越しに立っている。
ジュ―ロウが顔を上げて見上げると、ダンは困ったように口を引き結んでいた。
「今年は小麦が駄目かもな」
「ん?どうしたんだ?」
小麦が駄目なんて聞き捨てならない。
「なにかあったのか?」
「まだ新聞には書かれてないんだけれどよ。郊外の麦畑がかなり荒らされているらしいんだよ」
「…穀物泥棒とか?」
生活に困ったはぐれ者が他人の畑を荒らすのは、どこでもない事ではない。
「いや。そういうんじゃなくて」
「?」
広げていた新聞を畳むと、ジュ―ロウはダンにも紅茶を勧める。暖かい紅茶を口に含んでからダンは困ったように頭を掻いた。
「どうやら魔獣が出ているらしいんだ。畑が地面からひっくり返されているって」
「魔獣?この近くにか?」
有り得ない訳ではないが珍しい。
この国は何処の海域にも面しておらず内陸のほぼ中央に存在している。山岳地帯を抱えてはいるが、魔物が住んでいる場所は王都から離れているし、魔族が住んでいる領域からは更に遠く影響も微量だ。
近い場所で魔物が発生する場所と言えば“銀の森”だが、冒険者がいるこの町で見回っていないはずはなく。
「どうしてまた」
「…町の皆も不思議がっている。最近は魔物の話も聞かなかったのに魔獣だなんてさ」
「そうだな」
ジュ―ロウは冷めた紅茶を口に含んでから、小さく肯いた。
魔物と魔獣の違いは明白に書物に記されているわけでは無い。ただなんとなくこれは魔物こっちは魔獣と人間が感覚で決めているだけのことである。
動物と魔獣の区別も曖昧だ。
パンダは動物でグリズリーは魔獣。そんな感覚だろう。
手におえない物は魔獣かもと思われているフシがある。
パンダだって凶暴化したら野生なんだけどなあ。
ジュ―ロウは昔見たパンダを思い出す。あどけない様子をしているがあれだってれっきとした熊なんだぞ?まあ、可愛いけど。
「ジュ―ロウ、見て来てくれないかなあ」
「僕が?」
「ああ。ジュ―ロウなら大丈夫だし」
「…冒険者の仕事を取るのはあまり乗り気にはなれないが」
空になったカップに暖かい紅茶を入れて、ジュ―ロウは片眉をあげる。
話としては聞き捨てならないものだが、何せ領分という物がある。ギルドのプライドを切り崩してまでやる事でもあるまい。
「冒険者が足りないって」
「ん?」
「新聞の一面見ただろう?皆あれで出払っているんだ」
「…ああ」
カウンターに置いておいた新聞を再び取り上げて一面を眺める。
そこには大きな馬車に乗った国王一家が民衆に手を振っている写真が大きく載っていた。紙吹雪と花が辺りに舞っているのは何時もの事だ。
建国記念のパレードが昨日行われたのは知っている。その警備のために王都周辺の町から沢山の冒険者が集められているのを遅まきながらジュ―ロウは思いだした。
「面倒な」
「まったくだ」
「…行ってもいいが、正式に依頼された方が良いのだろうな。ギルドに聞いてみよう。それでいいか?ダン?」
「お。助かるよジュ―ロウ。何せ畑が駄目にされてるから次の作付けにも影響があるかもって皆困ってるからさ」
小麦は大事。
お菓子が食べられなくなる。
もうひとつシュー・ア・ラ・クレームを食べて紅茶を飲み干すと、ジュ―ロウは上着を取りに行くために椅子から立ち上がった。