炎情(えんじょう)
プロローグ
灯火
“救急指令、救急指令、朝日町三丁目より火災通報。木造二階建て住宅、台所付近から煙が出ていると近隣住民から通報あり。在宅状況は不明。住宅密集地につき延焼に注意せよ。繰り返す、朝日町三丁目、木造住宅にて火災発生、在宅状況は不明。”
スピーカーから流れる出動要請のアナウンスを聞いたとたん、一斉に消防士達が動き出した。
「装備着用!確認!」
「確認を怠るな!お互いにチェックしあえ!」隊長は慣れた動作で装備を装着しながら隊員達に声を掛ける。装備が整った隊員から消防車に駆け込み、所定の位置に着いた。
「隊長!総員準備良し!」副士長の報告を聞くとすぐに出発の号令を掛けた。
「総員出動!サイレン鳴らせ!」ウーウーウーカンカンカン・・・けたたましいサイレンとともに、消防車は火災現場に向かって走り出した。
「カッコ良いよなー。やっぱ消防士は良いよ。」テレビの再放送に向かってつぶやく大男がいた。
「お父さん!お父さんも消防士でしょ?今日はお休みなんだから少し仕事から離れたら?」
「良いじゃないか、あおい。とうちゃんはこの番組を見て消防士になろうと思ったんだから。今でも大好きなんだよな、消防士24時。」
「でもテレビの俳優さんはカッコ良いけど、実物はねぇ。」下着姿で少し出始めたお腹を掻きながらテレビの前に寝ころぶ父の姿を見ながらあおいが応えた。
「まぁ確かに。あんなにひょろひょろしてたら人命救助は出来ないよ。一度百キロ近いいおばさんを担いだことがあったけど、きつかったな。重い上にブヨブヨしてるから担ぎにくいんだ。おばさんの脂肪で前が見えなくなるんだよ?」笑いながら応える父だが、実際の現場の厳しさは語らなかった。娘に心配させたくなかったからだ。
稲垣功太郎消防士長35歳。富士見台消防署警防課消防係で小隊長を務めている。16年の経験を持つベテランで188センチ、85キロと恵まれた体格と抜群の体力で隊員からの信任も厚い。火災現場では被災者の命と隊員の安全に責任を持つ立場だ。しかし、彼は一人娘と二人だけで暮らしている男やもめなので、危険な現場では娘の顔が浮かんできてしまう。隊員の前で迷いを見せると士気に係わるので、いつも笑顔を絶やさないでいる。
それは家庭でも同じだった。
「ところでさぁ、あおい、お前将来何になるんだ?」
「えっ?ウーン今は考えてない。」父の唐突な質問にあおいは言葉を濁した。
「小学校の時は小学校の先生って言ってたろ?その前は幼稚園の先生。だから今は中学の先生かなって思ったんだ。」
「単純!」あおいは軽蔑の眼差しで父を見下ろした。
「きっかけなんて単純なモンだろ?俺だって中学二年の時に消防士24時を見て消防官になろうと思ったんだから。」
「お父さんと一緒にしないで!」あおいからキッと睨まれてしまった稲垣だった。
「そんなに怒るなよ、可愛い顔が台無しだぞ。」
「可愛いなんて、適当なこと言わないで!どうせお父さんからみたら、私は小学生の時と変わんないからでしょ?」
「そんなこと無いよ。その怒った顔も、毎日作ってくれるみそ汁の味も、母さんそっくりだ。」
「お母さんの話はしないで!生きてたらもっと色々な話が出来たのに、死んじゃったから相談のひとつも出来ないんだから!」
「どうした?あおい、何かあったのか?」
「・・・お父さんには関係ない・・・」一瞬感情が吹き出たあおいだったが、肝心なことは言葉に出せないでいた。
「そうか・・・。お前も大人になったんだな・・・。」
「・・・なによ?お父さん?」
「いや、俺にも経験があってな・・・。親父の言うことすべてに反抗したくなって、言葉尻を捉えては揚げ足ばかり取ってたっけ。だから何だか懐かしいような、甘酸っぱい気持ちがしたんだ。」
「ああ・・・ごめんなさい・・・。」
「良いんだよぉ。お前が大人になったってことなんだから・・・逆らってみたり、秘密を持ったり・・・そうだ!お赤飯でも炊くか?」
「バカ!お父さんの無神経。」
「ははは、ごめんな。でも言いたくなったらいつでも言ってくれな?話を聞くことくらいしか出来ないけど。」
「・・・ウン・・・ありがとう。」
「ところで、もう宿題はやったのか?判らないところがあったら遠慮無く言え。中学レベルだったら英語も数学も教えられるぞ?」
「あ・・・大丈夫。自分で出来るから。」
咄嗟に応えたあおいだったが、勉強を教えてくれるという父の言葉はとても嬉しかった。
「そうか?なら・・・ガンバレ!でもあんまり無理すんなよ?」
「じゃあ私、部屋で勉強するね。」居間から勉強部屋に移ったあおいは、学生鞄から教科書とノートを取り出し、宿題の準備を始めた。しかし、その教科書とノートには色とりどりのマジックで様々ないじめの言葉が殴り書きされている。「良い子ぶるんじゃねぇ!」「デカ足女」そして黒々と「死ね」の文字が大書きされている。決して父に見せるわけにはいかない、いじめの証だ。
「負けるもんか・・・。」家に置いたままにしてある清書用のノートに今日の授業を書き写しながら、唇を噛むあおいだった。
「デカ足女・・・か、いったい誰があおいにあんなまねをしてるんだ?」父は娘がいじめに遭っていることに気づいていた。だが面と向かって娘に聞くことが出来ず、何とも言えないじれったさを感じていた。「いじめは俺の時代にもあったし、学校だけにいじめがあるわけでもない。負けない強い子に育てたつもりだけど、女の子だからなぁ、親父の限界を感じるなぁ。」仏壇に飾った母親の写真を眺めながら、気を揉むことしかできない自分にいらだちを感じていた。
火種
「あいつ結構しぶといよね。」
「うん、普通ならそろそろ泣き入れてくるよね。」
「もうちょっとかな、美智恵?」
「まだまだだよ!あいつマジむかつく。」美智恵と呼ばれた娘がこの四人グループのリーダー格だ。標的になっているのは、かつてこのグループに属していたあおいだった。
小学生の頃から美智恵達とあおいは友達だったが、父子家庭のあおいは中学に進級してから食事の支度をするようになり、一緒に遊べなくなった。
それだけならいじめの対象にならなかったが、成績優秀の上に家の手伝いをする姿が大人達の評価を上げ、何かにつけて比較されることを疎ましく思うようになり、嫌がらせ、無視、いじめへとエスカレートしていった。
「あいつ、今音楽室で掃除してんだよね、ちょっと行ってくるか。」
「今度はどおする?」
「カラオケ代でも持ってきてもらおっか?」
「いいねぇ。キャハハ。」四人は笑いながら音楽室に向かった。
「あおいぃ、ちょっと良い?」取り巻きの一人があおいに声を掛けた。
「なによ。今掃除中だから後にして!」
「あらららら、ずいぶんお強いこと。何チカラ入れちゃってんのカナ?」
「いいから来なっての、大事な話があんだからさ。」三人がかりであおいを囲み、普段死角になっている屋上前の踊り場で待つ美智恵の前に連れてきた。
「あおいさぁ、今晩あたいらカラオケパーティなんだよね。アンタも昔はうちらと遊んでたんだから、一緒に来る?」
「え?ウン、気持ちは嬉しいけど私は行けないや・・・。」
「来れないの!困ったなぁ、アンタも来るつもりで予約入れちゃったから、人数狂っちゃうんだよね。」
「・・・でもいきなりだし、今晩・・・」
「あーそう!残念だね。でもカラオケ屋に払わなくちゃいけないから、会費とキャンセル料だけ払ってくれる?」あおいの言葉が終わらないうちに、一気に捲し立てる美智恵だった。
「そんなのめちゃくちゃじゃない、払う義務なんて無いじゃん。」
「いいんだよ?別に払いたくなければ払わなくても・・・。でもさぁ、あたしこないだカッター買ったばっかなんだよね。」
「それがどうしたのよ?」
「切れ味試したくってさぁ。」美智恵は真新しい大型カッターを取り出し、チキチキと音を立てて見せた。
あおいは自在ぼうきを構えながら美智恵の正面に向き直った。「それでどうする気?」
「別にぃ、ただ真新しい革の鞄にカッターの刃って通るのかなって思ってさ。」
「何考えてるの?止めなさいよ。」
「そうだよねー、アンタ上履き何足目だっけ?今真っ白だけど、何回かオシャレにしてあげたよね?上履きなんか安いだけどさぁ、入学から半年で通学鞄まで二代目になったら大変だよね?父・子・家・庭には。」
「止めてよ!あんた達、卑怯だよ!」
「卑怯?そうかなぁ、鞄切られれば、あんたがいじめに遭ってること、周りにアピールできるよ?成績優秀でお家のお手伝いもする良い子がいじめられてるよーってね。またアンタの株上がるよ?」
「それが卑怯だって言ってるのよ!」
「そう?考え方の違いってことね。別にあたしはどっちでも良いんだけど、皮の通学鞄って三万くらいだっけ?カラオケのキャンセル料は一万五千円だって言ってたから、どっちが安いのかなぁ?」
「あんた達!・・・」あおいは自在ぼうきを構え、美智恵達を見据えて臨戦態勢に入った。
「あららら、怖いコワーイ。」
「優等生のマジ切れ五秒まえーっと。」
取り巻きは冷やかしながら美智恵の後ろに下がった。
「あたいはどっちでもいいんだけどぉ?キャンセル料納めたくなったら六時までにあたしんちに来な。遅れたら、来週は新しい鞄のデビューになるよ?じゃあね〜!」ケラケラと笑いながら、美智恵達は階段を下りていった。
「ちくしょう・・・あいつらひどすぎるじゃない・・・」あおいは美智恵達の前では涙を見せなかったが、ひとりになったとたん、大粒の涙をこぼした。「あたし、負けないから・・・お父さん・・・ごめんね。」あおいは涙を拭くと、ひとつ深呼吸して心を決め、階段を下りていった。
火災
“救急指令、救急指令、富士見町一丁目より火災通報。木造二階建て住宅、台所付近から出火していると近隣住民から通報あり。在宅状況は不明だが、二階窓から明かりが漏れている模様。住宅密集地につき延焼に注意せよ。くりかえす、富士見町一丁目より火災通報。救助を要する被災者がいる可能性あり。”
「総員出動用意!装備着用!確認!」出動要請のアナウンスが入った瞬間、稲垣は活動を開始した。「確認を怠るな!忘れ物を取りに帰ってくる時間はないぞ!」慣れた口調で隊員達に指示を出しながら、自分の装備を手早く装着した。
装備を着用した隊員から消防車に駆け込み、所定のポジションに着く。小隊長の稲垣は最後に消防車の助手席に滑り込んだ。
「総員準備良し!」
副士長の報告を聞いた稲垣はいつものように出動の合図を出した。「総員出動!サイレン鳴らせ!」
ウーウーウー、カンカンカン・・・けたたましいサイレンとともに、消防車が火災現場に向かって走りだした。
“そう、この感覚が消防士の醍醐味なんだなぁ。この緊張感が好きで消防士になったんだけど、何とか全員無事に家に帰してやらないと・・・俺もあおいのところに帰らないとな・・・”腕時計を触りながら、ひとり思いを巡らせる稲垣だった。火災現場に向かうとき、毎回同じ思いが過ぎる。
消防士はその職業柄、何らかのお守りを身につけることが多い。恋人や妻から送られるミサンガやペンダントなどだ。稲垣のそれは亡き父から受け継いだ古ぼけた腕時計だった。
「小隊長、取り残された方がいると言うことですが。」っと、現場が近づくにつれ、緊張した様子のまだ経験の浅い消防士が不安げに聞いてきた。
「まだ確認された訳じゃない。でも救助を待っている人がいると思って行動しろ。」
「自分に出来るでしょうか?正直、まだ怖いです。」
「大丈夫だ。用意した装備と日頃の訓練を信じろ。」稲垣は新人隊員の目を見ながら、優しく言った。その時サイレンの音が止み、現場に到着した。
火災現場は繁華街に近い新興住宅地で家々の間隔が狭い。火元となった住宅一階のリビング付近から激しい炎が上がっていた。火災を鎮火するより、延焼を防ぐ方が優先されるような事案だ。
「総員配備に付け!周辺住宅の住民も避難させる!」隊員が所定のポジションに散り、消火活動が開始されたのを確認すると、稲垣は火元となった家のインターホンを押した。表札には坂本とある。
「インターホンが鳴らない。玄関付近も火が回っているぞ。火元から離れた窓を破って中から消火する!」ガラスを割り、放水ホースを廻す指示を伝えるために後ろを振り向いた時、稲垣の目に娘の顔が飛び込んできた。
“あおい?こんなところで何してるんだ?”
無表情に燃え上がる炎を見上げる娘の様子に、言いしれぬ違和感を覚えた瞬間、家の中から若い娘の声が聞こえた。
「・・・助けて・・・ゴホッゴホ・・・誰か・・・」か細いその声の様子から煙を吸い込んでいるようだ。
「今行くぞ!」声のする二階に向かって叫ぶと、ホースを持ってきた隊員に指示を出した。さっきの新人隊員だ。
「今から突入する。お前はここから放水して救助ルートを確保してくれ!」稲垣は階段を慎重に、そして素早く駆け上がると同時に、助けを求める声の方向を探った。
「助けに来たよ。どこにいるか教えてくれる?声が出なかったら手近なモノを叩いて教えて!」稲垣は優しく、しっかりした口調で娘に語りかけた。
「・・・ここです。・・・階段・・・を上がって・・左・側の部屋・・。」
「よし!判ったぞ。今行くからね。よく頑張ったね。」稲垣は部屋の扉を開けるとすぐに身をかがめた。被災者が煙を吸い込んでいる状況から、天井付近から煙が溜まってきていると判断したからだ。
予想どおり天井付近には白い煙が溜まり、急速に床に向かって下りつつあった。ベッド付近に倒れていた娘を抱き寄せると、手早く容態を確認した。目立った外傷はなく、衣服にも着火の痕跡がない。
「じゃあすぐ下に降りるからね。ちょっと熱いけどほんの数秒だから大丈夫だよ。」娘を抱き上げて階段に向かった瞬間、赤い火の手が上がった。下で放水している新人隊員がノズルをストレートにしているため、高い水圧によりリビングの窓を跳ね飛ばし、新鮮な空気が入ったことで、火の手を広げてしまった。バックドラフトだ。
稲垣は咄嗟に部屋に戻り、身を屈めたまま窓からの脱出を考えたが、ここで窓を開けるとバックドラフトを進めることになりかねず、窓を開けることは出来ないと判断した。
「ごめんね。毛布とシーツを使わせてもらうよ。」そう言うとベッドから毛布とシーツをはがし、熱帯魚の水槽をぶちまけて毛布とシーツを濡らすと娘の身体に巻き付け、さらに防煙マスクとヘルメットを娘に装着した。女の子の顔に火傷を負わせるわけにはいかないという配慮だった。
一度バックドラフトが起きると燃焼は一気に進む。躊躇する暇はなかった。ひとつ深呼吸すると、一気に階段を駆け下りた。「ノズルを噴霧に切り替えろ!」駆け下りながらそう叫んだ稲垣の身体を霧状の放水が包み込んだが、放射熱は容赦なく身体を包んだ水を蒸発させていく。時間との勝負だった。
一気に庭先まで駆け降りた。十分に濡らした毛布とシーツ、そして防煙マスクとヘルメットのおかげで娘には火ぶくれひとつ無かったが、稲垣の頭からは煙が出ていた。
「被災者を確保!すぐ救急車に運んでくれ!」稲垣は叫んだ。
「小隊長も救急車に乗ってください!」頭に放水しながら副士長が促した。
「え?・・・俺も?」稲垣は興奮のため、自分の火傷に気づいていなかった。
「小隊長、無茶しすぎですよ。でも女の子は無傷です。その代わり小隊長、自分の頭と顔の左側には手を触れないでください!絶対ですよ!」副士長は誇らしい気持ちと小隊長の怪我を気遣う気持ちが入り乱れた、複雑な表情をしていた。
「後は自分たちに任せてください!」先ほどの新人隊員も目の前の救出劇に興奮と感動を覚え、上気した顔で小隊長に伝えた。
「・・・判った!後は任せたぞ!」稲垣は隊員達にそう告げると救急車に向かった。途中ヤジ馬たちの中にあおいの姿を探したが、見つけることは出来なかった。
「消防士さん・・・ありがとうございました・・・。」救急車の中で少女は救助してくれた稲垣にお礼を言った。
「なあに、火傷しなくて良かったね。」
「でも・・・私の代わりに消防士さんが・・・。」
「大丈夫だよ。おじさんにもあなたを同じくらいの娘がいてね、他人事には思えなかったんだ。」
「え?そうなんですか?」その時、美智恵は防火服を脱いでいた稲垣のネームプレートを見てはっとした。
「稲垣・・・さんとおっしゃるんですか?」
「ん?そうだよ。」
「ひょっとして、あおいのお父さん?」
「お嬢さんはあおいの友達かい?」
「あ・・・はい。ありがとうございました。」美智恵はそれ以上言葉を出すことが出来なくなった。
「小隊長。ちょっと患部を見せてください。」救急救命士が稲垣に応急処置をはじめ、二人の会話はそれで途切れてしまった。
延焼
「今日夕方五時半頃、朝日町一丁目坂本一臣さんの住居、130平方メートルが全焼する火事が発生しました。一臣さんは帰宅前で、妻の真澄さんは買い物に出ていたため無事でしたが、長女の美智恵さん十三歳が二階の自室に取り残され、消防隊員に救助されました。美智恵さんは無事でしたが、救助の際、消防隊員が頭部などに大やけどを負った模様です。」第一報がニュースに流れたのはその日の夜七時、地元のケーブルテレビだった。詳細が取材されるにつれ、夜十時には全国版の電波に乗せられることとなった。
「コメンテーターの岡田さん、消防士が自分のマスクを被災者に使用することは良くあるんですか?」
「通常ではありません。今回消防士長が被災者に貸したのは防煙マスクですね。有害物質から救助者を守るモノですから、被災者に装着することはあり得ません。助ける方が倒れてしまっては何にもなりませんからね。予備のマスクは救急車両に装備していますが、それを持って行動するのはビル火災などの大規模災害が主になります。住宅火災なので、被災者用に防煙マスクは必要ないと判断したようですね。」
「それでは敢えてリスクを冒して、被災者に自分のマスクを装着したのは何故なんでしょう?」
「それは被災者が女の子だったからでしょう。防煙マスクとヘルメットが有れば、耐熱服には及びませんが、千度近い環境でも十数秒は耐えられます。多少髪が焦げることがあっても、深刻な火傷は防げますからね。」
「それだけ炎の中が危険だと言うことが判っていながら、自分が倒れるリスクを冒したのは消防士として如何なんでしょう?」
「あなた何言ってるんだ?確かに彼は消防士長として、自分の命を危険にさらし、二次災害のリスクを冒すという、隊員たちの規範にならない行動を取った。しかし、彼は咄嗟の判断で、自分の火傷と引き替えに少女の将来を救ったんだ!組織から見ればルール違反でも、人としてはすばらしい行動だったと私は思います!」消防官OBのコメンテーターは少し激高した言葉でコメントを締めくくった。
「・・・それでは次のニュースです・・」
ピッ 病室のテレビを消すと、あおいは父の顔を覗き込んだ。「凄いじゃない、お父さん。どのチャンネルもお父さんの話題で持ちきりだよ。」あおいは少しはしゃいだ口調で話しかけた。
稲垣は予想以上に重傷だった。頭頂部から左側面一帯に二度の火傷が広がり、左耳はほぼ溶けていた。眼球は無事だったものの、目の下から頬に掛けて包帯でグルグル巻きにされていた。
「うん、そうだな・・・でも中には批判もある。『売名行為だ』なんて言ってる奴もいるよ。いちいちそんなこと考えながら消火活動してる消防士なんか居ないんだけどな。」
「そうよね、何やっても批判する人はいるんだよね。どんなに頑張ってても、誰にも迷惑掛けて無くても、ちょっと目立つだけで批判されるんだから・・・。」自分を父の境遇を重ね合わせてしまうあおいだった。
「あおい・・・お前あの時現場にいたよな?あの子友達なんだろ?遊びに行こうとしてたのか?」
「え?・・・ウン・・・ちょっと呼ばれててね。」
「・・・そうか。同級生だからあたりまえだよな。」
その時、外が騒がしくなった。加熱したマスコミの一部が稲垣のコメントを取ろうと病室まで押しかけてきたのだ。看護師の制止を振り切ったレポーターの一人が病室の扉からマイクを突き出してきた。
「稲垣さん、お加減はいかがですか?女の子は傷ひとつ無かったそうですね。あなたの一言を全国の皆さんが待ってます。お願いします、何か一言!」
「困ります!ここは病院ですよ。今娘さんと休んで居られるところです。後にしてください。」
「娘?ん!」レポーターはドアから身体を離し、一緒に看護師もドアから連れ離すと同行しているカメラマンに目配せした。
パシャッパシャ絶妙のタイミングでカメラマンが病室に飛び込み、稲垣とあおいの姿をカメラに納めた。
「困ります!出て行ってください!」看護師が叫ぶに至ってようやくレポーターとカメラマンは退散していった。
「ビックリしたね。」
「ああ、あおい、今日はどうするんだ?この分だと外でマスコミが待ちかまえてるぞ。一緒に泊まるか?」
「ウン!明日は土曜日で休みだし、私もそのつもり出来たんだ。」あおいは持ってきたスポーツバッグから着替えとお菓子を出して見せた。
「なんだ、そうか!でも勉強道具は?」稲垣は嬉しそうに娘に問いかけた。
「今日くらい良いでしょ?一緒の部屋で寝るのは久しぶりだね。」
「そうだな・・・。」稲垣は娘の成長を考慮して、小学校の高学年になってから寝室を別にしていた。
「お父さん、あのね・・・。」あおいは少し改まった態度で父に話しかけた。
「どうした?あおい。」
「あの・・・帰ってきてくれて、ありがとう・・・。」あおいは大粒の涙をこぼしながら父の手を握った。抱きつきたかったが父の身体を気遣うと出来なかった。
「ああ、心配掛けたね。ごめんな・・・いや、ただいま!」稲垣は娘の頭をくしゃくしゃにして、抱き寄せたい衝動に駆られたが、年頃の娘に遠慮して、娘が握ってきた手を握り返すことしかできなかった。
翌朝、病院全体が賑やかになっていた。駐車場は中継車で満杯となり、待合室や病室前の廊下にはテレビ、新聞、週刊誌の記者の他、ウェブ上にリアルタイム配信するためにノートパソコンを抱えたスタッフがひしめいていた。
来客も相次いだ。区の助役と一緒に区長、区議会議員が訪れたのを皮切りに、地元出身の国会議員、選挙区のタレント議員、消防署長にエスコートされて消防庁の幹部、消防正監までお見舞いに訪れ、稲垣と握手したポーズでフラッシュが焚かれた。そして表で待つマスコミの前で、それぞれの立場から稲垣の英雄的な行動に賛辞を贈った。
そして救助された少女、坂本美智恵も稲垣のお見舞いに現れ、両親とともに命を救ってくれたお礼を述べに来た。大やけどを負った消防士と、傷ひとつ無く救助された少女のコントラストは絶好の話題となり、この二人のツーショットを掲載しないメディアはなかった。
以降、マスコミはこぞって稲垣の行為を好意的に報道するようになり、急遽消防官のドキュメンタリー番組も放送された。僅か数日の間に稲垣は時代の寵児となり、消防庁の広告塔となってしまった。
あおいも平穏な学園生活を送っていた。美智恵は家が消失してから学校を休んでいるため、リーダーを失ったグループからの執拗ないじめは影を潜めていた。
しかし、父親の報道合戦が一段落してしばらく経った頃、レポーターの一人があおいのもとに現れてから状況は一変する。
「稲垣あおいさんですね?少々お聞きしたいことがあるんですが。」
「はい?何でしょうか?」父の報道合戦を経験したあおいはマスコミへの警戒感が無く、レポーターの問いかけに素直に反応した。
「あなたのお父様が救助した坂本美智恵さんのお宅なんですけど、火災原因が特定されていないことはご存じですね。」
「そうなんですか?私は台所付近の失火と聞いていますけど・・・。」
「富士見消防署ではそう発表していますね。でも坂本さんはその時料理をしていなかったので、火の気はなかったと言っています。」
「そうなんですか?でも私にそんなことを聞かれても答えようが有りません。」
「実はね、坂本さんのお宅は放火されたんじゃないかという噂が有るんです。ご存じでしたか?」
「いいえ、あの火事から美智恵は学校に来ていませんし、放火だったって話しは今初めて聞きました。」
「・・・そうですか。ではまたお話をお聞きする機会があると思います。失礼します。」そう言い残すとレポーターは去っていった。
「放火?どうゆうことなの?」あおいは呆然とレポーターを見送った。
フラッシュオーバー
「・・・ところで、坂本さんのお宅なんですが、失火原因は何だったんですか?」富士見消防署の応接室で、レポーターが稲垣に質問していた。
「実況見分の結果、台所にあったゴミ箱の燃え方から、煙草等の火が消えたのを確認せず、ゴミ箱に投入したことが原因であると考えられます。」あの救助から三週間が経ち、稲垣は職場に復帰していた。まだ包帯が取りきれず、頭部と左耳は包帯に隠れていたが、左頬は赤くただれており、見る者の視線をしばし釘付けにする。
「それはご自身で確認なさったのですか?」
「いえ、私は入院しておりましたので、副士長が実況見分を行いました。」
「煙草の火ですか?私の取材では、あの家で煙草を吸うのはご主人だけで、ご主人はまだ帰宅されていなかったはずですが。」
「煙草を吸うのはご主人だけ?しかし火災の状況からゴミ箱が火元と見られるのは間違いないです。ゴミ箱から燃え切らなかった煙草のフィルターが大量に見つかっておりますし、奥さんからその日、掃除機のゴミをゴミ箱に捨てたのとの証言も得ております。つまり煙草の火の燃え残りが種火となり、掃除機の綿埃などに燃え移り、失火に至ったものと判断できます。」
「そうですか?でも時間が合いませんよね。ご主人が出勤されるのは朝七時半、出火が午後五時半ですよね?そんなに長く煙草の火が残るものですか?」
「今までの事案では、煙草の吸い殻を捨ててから二時間後に失火というケースがあります。確かにご主人が吸ったものなら時間が経ちすぎていますね。しかしご主人以外の方が午後三時以降に吸ったものなら説明がつきます。」
「でも奥さんは煙草をお吸いにならないと証言しています。娘さんもまだ中一ですし、イタズラした可能性は否定できませんが、お会いした印象から煙草を吸うようには見えませんでしたけど。」
「なるほど、しかし実況見分を行った副士長の報告を見る限り、ゴミ箱が火元であることは間違いないと断言できます。彼は私と一緒に様々な現場を見てきておりますし、彼の判断に絶対の信頼を置いております。」
「そうですか。この見取り図で言うと、ゴミ箱はどの場所にあったんですか?」レポーターは用意した坂本家の見取り図を出し、稲垣に説明を求めた。
「勝手口の右側、このテーブルの下です。この作業テーブルはご主人のお手製で、塗装されていませんから火が燃え上がると着火しやすいうえ、すぐ上にスーパーのビニール袋をしまうストックケースがありますので、燃焼温度が上がりやすい配置になっています。」
「なるほど、では何者かが勝手口からこのゴミ箱に火の着いた煙草なり、マッチなりを投げ込めば同じ状況で燃えるわけですね?」
「そうですが、何をおっしゃりたいんですか?」
「実は最近、この火事は放火であるという噂を耳にしまして、その裏付け調査を行っているんです。」
「放火?可能性が無いわけではありませんが、いったい何のために?」
「いじめですよ。実は美智恵さんの同級生に聞いたところ、彼女特定の生徒に執拗ないじめをしていたようなんです。」
「えっ?・・・あの子が?」稲垣はしばし言葉を失った。“というとあおいをいじめていたのは美智恵・・・その子を俺は救助した訳か・・・じゃああの時あおいが現場に居たのは?まさか!”
「稲垣さん?どうしました?」レポーターは確信に近づいたと判断し、一気に勝負を掛けた。「稲垣さん、娘さんのことなんですが、あおいさんとおっしゃいましたね?最近変わったご様子はありませんか?」
「どうゆうことですか!うちの娘を疑ってらっしゃるんですか?」稲垣は一瞬色めき立ったが、すぐに平静を取り戻しレポーターに詰め寄った。
「私の取材によると、美智恵さんを中心としたグループにいじめられていたのは、稲垣さん、あなたの一人娘、あおいさんです。」
「そうですか。それがあおいを疑う理由ですか。」
「稲垣さん、あまり驚かれませんね。あおいさんがいじめられていたことはご存じでしたね。」
「・・・ええ、娘の教科書やノートに非道い言葉のイタズラ書きがされているのを見たことがあります。」不意をつかれ、稲垣は正直に答えてしまった。
「なるほど、その他に美智恵さんから何かされていませんでしたか?暴行を受けたとか、金銭を要求されたとか。」
「いいえ、美智恵さんがいじめをしていたことさえ知りませんでした。」
「あまり親子で会話されないとか?」
「そんなことはないですよ、二人だけの家族ですから。でも年頃になると男親に相談できないことが出てくるじゃないですか?身体のこととか。そう言うことは話題にはなりません。」
「そうですか。あおいさんは普段家ではどういう娘さんですか?」
「あの、話しが火災原因と離れていますので、私のプライベートのことでしたらこれ以上のお話しはできません。」
「判りました。では最後に、美智恵さんがあなたの娘をいじめていると知っていたら、それでもあなたは美智恵さんを救助しましたか?」
「ご質問の意図がわかりません。私は消防士です。救助を待つ命があれば、全力を挙げて救助する。それが私達の仕事であり、使命です。では。」稲垣は立ち上がると応接室のドアを開き、レポーターに退室を促した。
「今日はお時間を割いていただき、ありがとうございました。」レポーターは稲垣にお礼の言葉を述べた。
「いいえ、どういたしまして。」
「実は私にも娘がいるんですよ。高校生のね。毎晩部活で遅いんで、心配なんですよ。年頃ですしね。」
「判ります。」
「あおいさんは何か部活はやってるんですか?」
「いいえ、娘には申し訳ないんですが、夕食の支度をしてくれるので帰宅部です。」
「立派な娘さんだ。では帰宅してから出かけるなんて出来ないですね。」
「いえ、夕食の買い出しには毎日出かけていますよ。」
「・・・そうですか。・・・どうもありがとうございました。」レポーターは駐車場に止めてあったクルマの助手席に乗り込んだ。運転席の男に何故か見覚えがある。しばらく見送っているうちに、気がついた。入院したその日、稲垣とあおいの写真を撮っていったあのカメラマンだった。
“あのレポーターだったか・・・ちょうど死角だったからレポーターの顔までは判らなかったけど、カメラマンは近くまで来たので顔をはっきりと見た。あの強引な取材をするコンビだったか。何だか嫌な予感がする。喋りすぎたかもしれない・・・。”
稲垣は迂闊にもあおいのことまで喋ったことを後悔した。そしてその不安は数日後に的中することになる。
「ねぇねぇ知ってる?美智恵んちの火事のこと。あれって放火だったみたいだよ。」
「あー、知ってる、知ってる。みんな噂してるね。」
「誰が放火したの?
「知らないの?ほら、この週刊誌に出てるよ・・・。」
「えー?ウッソー。だってあの子って・・・」
「でしょ、でしょ?意外だよね〜。」
あおいの通う学校では、この前の取材記事が掲載された週刊誌のニュースで持ちきりだった。
〈報復の炎〉と題されたその記事は、富士見消防署が発表した〈煙草等の不始末によるゴミ箱からの失火〉を、そのゴミ箱が勝手口から近いことを挙げ、〈何者かがゴミ箱に火を投げ入れたという可能性はないわけではない〉と言った稲垣の言葉を引用していた。
そして名前の公表はなかったが、この家の娘がいじめをしていたこと、火災の時家に取り残され、消防士によって救助されたこと、さらに、いじめの対象だった少女が火災現場で目撃されていたことが紹介されている。
出火した家やいじめられていた生徒の名前、インタビューを受けた稲垣の名前は伏せられていたが、失火原因について語る消防士として、病室で撮影したあおいとのツーショット写真が目隠し処理だけで掲載されていたため、あおいの学校だけでなく、町中が稲垣親子と救出された少女がいじめをしていたことを結びつけていた。
世間の反応は素早かった。週刊誌が発売されたその日、通学途中のあおいに好奇の目が向けられた。遠巻きにあおいを眺め、ひそひそ話をはじめる主婦グループが何組もあった。いつもは明るく声を掛けてくれる商店街の大人たちも無視を決め込み、高校生の集団は露骨に睨みつけてきた。いつもとあまりにも違う空気に違和感というより、身の危険を感じたあおいは学校への歩を止め、家に引き返した。途中その理由をずっと考えていたが、思い当たるものが何もなく、判らないまま家にたどり着いた。
家に着いてからまずテレビを点け、パソコンを立ち上げてネットに繋ぎ、ブログや掲示板で何が話題になっているか検索した。とにかく何があったのか知りたかった。しばらく探すうち、掲示板の中に答えが見つかった。
ニュースソースとなった週刊誌の記事、ご丁寧に伏せてある名称に実名を被せてあるレスも見つけた。中にはあおいの通う学校名、クラス、出席番号まで載せられたレスまであり、目の前が真っ暗になった。
“なんで?なんで!なんでこんなことになるの?確かにいじめられてたけど、ずっと我慢してたよ・・・美智恵の家に行ったけど、お金を持っていっただけだよ・・・。”あおいは一人途方に暮れていた。
その時、点けていたテレビがこの記事を取り上げ、その真偽やいじめの実態、プライバシーと報道ついて語っていたが、コメンテーターの一人が匿名だったはずの名前、稲垣の名を言ってしまった。
あおいはそれで絶望的になった。今までは学校の、美智恵達だけという特定のグループからのいじめに耐えていれば良かったが、インターネットとテレビを通じてあおいのことが日本中に知られてしまった。それもいじめの報復として同級生を殺そうとした放火犯として。
「もうどこにも行けないよ・・・学校にも、買い物にも・・・きっとどこに行っても噂されて、無視されて・・・もっと非道いこともされるかも知れない・・・。お父さん、もうお父さんだけだよ、あおいの味方は・・・、居場所もこの家しかない・・・。」
「おっ?ここじゃね?放火犯の家。あの住所だとここだよな?」
「そうだけど、ここって団地じゃん?」
「何号室だったっけ?」
「そこまで書いてなかったよ。」
「おーーい!放火犯—。」
「クスクス何やってんだよ?ばかだな。」
ネットの掲示板を見た若者達が、書き込まれた住所を頼りにあおいの家のすぐ近くまで来ていた。
「おーーい!顔を出して見ろよ?ヒーローの娘の放火犯よぉ。」
「いやぁぁぁーー!」あおいは耳をふさぎ、叫んでいた・・・。何処にも居場所が無くなった、絶望の叫びだった。
「お父さん・・・私もうだめだね・・・、何処にも居場所なんて無いよ・・・。ごめんね・・・、もうお父さんの食事の用意ができなくって・・・、疲れて帰ってきても、肩を揉んで上げられないね・・・、お父さん、お父さん、私・・・私もっと生きていたかったよーー!」・・・あおいは発作的にカッターナイフを左手首に深く、走らせた・・・。
蘇生
「あおい・・・、あおい・・・。気がついたか?」稲垣の問いかけにゆっくりと目を開けたあおいだったが、目に生気はなく表情も変わらなかった。
「先生、あおいの容態は?」
「発見が遅かったので、だいぶ失血してしまいました。致死量に近い所まで失血していますので、脳への酸素不足が懸念されます。多少の後遺症はお覚悟ください。望みはあおいさんの若さです。回復力、生命力の強さに期待しましょう。」医者はそれだけ言うと、その場から立ち去っていった。
待合室のベンチで頭を抱え、一人娘をここまで追い込んだ世間を恨んでいた。「あおい・・・、あおいよう・・・、なんてことだ・・・。まだ十二歳なのに・・・みんなで寄ってたかって非道いことを・・。」
「お取り込み中申し訳ありません。稲垣さん。」唐突にスーツを着た男に声を掛けられた。
「はい?どなたでしょう。でも後にしていただけないでしょうか・・・。娘の容態が気になりますので。」
「お時間は取らせません。私、坂本様から依頼を受けた弁護士の田上と申します。」
「弁護士さんが何のご用ですか?」
「単刀直入に申し上げます。坂本さんはお嬢さんのあおいさんを告訴いたします。」
「え?どういうことですか?」
「坂本さんのご自宅に放火したことについて告訴する準備があると言うことです。」
「あおいは放火などしていない!」稲垣は後ろに手を組み、田上を睨みつけた。
「そうですか?新聞やテレビの報道を見る限り、あおいさんが坂本さん宅に火を着けたのは明らかじゃないですか。」
「どう報道されようと、あおいは放火なんぞしていない。それは実況見分で明白だ。」
「その実況見分が怪しいのではないですか?」
「それはどういう意味だ?」
「いえ、誰でも身内は可愛いものですからねぇ。」
「あなたこそ、名誉毀損で訴えますよ?」
「これは失礼。それでは今日はこの辺で・・・。」田上はきびすを返すと、少し足を振るわせながら足早に帰って行った。
「告訴だって?ふざけるんじゃないぞ。」稲垣は度重なる仕打ちに、唇を噛んだ。そして消防署に帰り、執務室に籠もった。
「美智恵、久しぶり。」
「おかえり、美智恵。何処行ってたの?」
美智恵は約一ヶ月ぶりに登校してきた。あの火事で家が全焼したため、母親の実家に身を寄せ、地元の中学に短期的に転校していたのだ。ようやく家を再建できる目処が立ったという連絡が入り、もとの家の近くにアパートを借りていた両親に呼び戻された。
「うん・・・ただいま。みんな、変わりなかった?」
「まあね。私たちは相変わらずだよ。」
「でもね、最近つまんなくってさ。」
「どうして?」
「あおいが居なくなっちったからさぁ、毎日に潤いがないのよ。」
「それ、どういうこと?」
「知らないの?あいつ自殺したんだよ?」
「え?あおい、死んだの?」
「まだ生きてっカモだけど、どうでも良いじゃん?」
「どうでも良くないよ。私あおいのお父さんに助けられてるんだよ。」
「あっそうだったね。昔のことだから忘れてたよ。それよりあおいが美智恵んちに火を着けたんじゃん。だから・・・なんだっけ?因果応報?」
「キャハハ、うけるぅー。」
「ちょっと待ってよ!放火?・・・自殺?誰か説明してよ!」
「あー、もうウゼェなぁ、田舎暮らしでノリが悪くなってねぇ?知りたかったらネットでも何でも使って調べればぁ。」
「じゃね!もういくべ、いくべ!」
かつてのリーダーを置いて、三人は美智恵から離れていった。
“この一ヶ月で何があったの?”周りの雰囲気があまりにも変わったことに、美智恵は戸惑いを隠せなかった。
放課後、コンピュータルームでこの一ヶ月の出来事を知った美智恵は愕然とした。“放火?あのあおいが?信じられない。自殺?あーこの書き込み、非道い。まるであおいのやったことって決めつけてるじゃない。やだ、住所まで?あぁーこんなことされたら誰だって・・・”次々に現れるあおいに対する誹謗中傷が目に入るたび、心が痛んだ。そして自分達がやっていた、いじめの数々と照らし合わせ、涙が溢れてきた。
「こんなコトしてたんだ、あたしも。このカキコしてるカスどもと同じじゃない。恥ずかしい・・・。あおい・・・アンタ偉かったよ。あたしらに負けなかったモンね。」
そしてその書き込みを見つけてしまった。「何?告訴!パパとママが?あおいを?」美智恵はその書き込みを目にしたとたん、家に向かって走り出した。
「パパ!ママ!」
「どうしたの?美智恵、そんなに急いで。」
「ママ!あおいを告訴したってどういうこと?」
「あ・・・それ?保険代理店の田上さんの勧めで・・・。」
「何でそんなコトしたの?あたしあおいのお父さんに命を助けられてるんだよ?」
「それは・・・そうだけど、でもね、あおいさんがうちに火を着けたことになっているんだから・・・」
「ママ!それ嘘でしょ!お香でしょ?またお香を焚いたんでしょ?生ゴミが匂うからって、前にお香の火がゴミ箱に落ちて大変だったじゃない!」
「そうだけどね・・・、でもあおいさんが自殺してくれたから、大丈夫だって田上さんが言うのよ。あの人のお兄さんが弁護士さんだから。それにね、保険が下りたら告訴を取り下げる予定なの。・・・ほら、うちから火を出したら、お隣や近所の方から告訴されちゃうでしょ?そうなったらもう家を建て替えることなんて出来ないのよ。だから・・・」
「あおいはまだ死んでない!それにあおいが放火したことになったら、お隣があおいを訴えるよ!」
「でもそうしないと家は元に戻らないのよ?それでも良いの?」
「ママ・・・ずるいよ・・・。」美智恵は涙を溜めて母を見つめた。・・・しばらく母親を睨む様に見つめていたが、意を決して表に飛び出した。
「美智恵!何処に行くの?」母の声に振り返らず、美智恵が向かった先はあおいが入院する病院だった。
様々な機械を繋がれたあおいに向かって、美智恵は立ちつくしていた。「あおい、こんな姿にしちゃって・・・ごめん、ごめんね。あたしがきっかけ作っちゃったんだよね。お金もってこいなんて言わなけりゃ、アンタうちになんて来なかったのにね。」
美智恵はぽろぽろと涙をこぼしながら、あおいに詫びていた。その時、稲垣が病室に入ってきた。
「こんにちは・・・キミは・・・。」
「美智恵です。命を救っていただいた、美智恵です・・・」
「何しに・・・」稲垣は美智恵を問い詰めようとしたが、頬に伝う涙を見て思いとどまった。
「美智恵さん、どうしたんですか?」稲垣はやつれた表情をしていたが、努めて冷静な態度で美智恵に話しかけた。
「おじさん、あたしあおいに非道いことをしていました。家が火事になった日、あたしあおいにお金を持ってくるように言ったんです。持ってこないと新しい鞄をメチャメチャにするって脅して・・・。それに家の火事、あおいが放火したんじゃありません。母がお香をゴミ箱に落としたんです。だから・・・だからあおいは悪くないんです!」
「美智恵さん、ありがとう。正直に話してくれて・・・。私はあおいが放火なんかしないって最初から知っていたよ。」
「あたし、パパとママに言って告訴を取り下げさせます。そして放火じゃなくって、ママがお香を倒したせいで火事になったって証言します!」
「美智恵さん・・・ありがとう。でもね、そう簡単にはいかないんだ。延焼したご近所さんからも告訴状が届いてね。そうなると、あおいが放火する、しないの話しじゃなくって、放火できたか、出来なかったかが争点になるんだ。あなたのお母さんがお香を倒したって話しも、倒したという物証がないとダメなんだ。」
「でも、あおいのために何かしたい。しなきゃいけないんです。そうしないと卑怯者のまんまだから。あたし何でもします。」
「ありがとう。きっとあおいも喜んでくれるよ。でもおじさんもね、そろそろ限界なんだ。だから今、あなたのことを考えている余裕がないんだ。」
「限界ってどういうことですか?」
「あおいの入院治療費、これからの訴訟費用を考えると、退職金を前借りしてもアップアップなんだよ。だから相手が有能な弁護士だったりすると、法廷ではまず勝ち目はないんだ。だから訴訟の方は・・・あっごめんね。中学生のあなたにこんな話をしちゃって。」稲垣は連日の調査と訴訟関係の準備で疲れていた。美智恵に余計な話しまでしてしまったと恥じた。
「おじさん、全部話してくれてありがとうございます。あたし・・・、あたしにも出来ることが見つかった様な気がします!」美智恵は決意を固めた表情で稲垣に一礼し、病室から出て行った。
「あおい、お前をいじめていた美智恵さんだ・・・最初は追い返そうと思ったけど、話が出来て良かった。みんなホントは良い子なんだなぁ、なんだかホッとしたよ。お父さんも頑張るからな、だから、おまえも早く良くなれ。な?」稲垣は暖かい気持ちになり、やつれた頬に赤みが差してきた。
「みなさん、皆さんのお力を貸してください。私の友達が集中治療室にいます。でも意識が戻るまで時間がかかり、生命維持装置を付け続けることが困難になりました。どうかあたしの友達を救ってください。お願いします。」美智恵は街頭募金をはじめた。たったひとりで・・・。ポスターを手書きし、あおいの写真を掲げた。自分の名前も併記して。良くある難病カンパの街頭活動のようだが、地元の人たちは知っていた。募金をしている坂本美智恵は放火犯とされる稲垣あおいをいじめていたことを。
心ない人たちは美智恵をからかった。「いじめの罪滅ぼしかい?」「ほんとにお金を渡す気があるのかい?」「新しいいじめのパターンだろ?」「今度は自分がフューチャーされたいんだろ?」その都度美智恵はからかう人と正面から向き合った。「はい、いじめの罪滅ぼしです。」「全額あおいのお父さんにお渡しします。」「募金がいじめに繋がるんですか?」「目立つといじめの対象となります。でも募金活動は止めません。」ひとつひとつ丁寧に答えた。
そして自分があおいに対して行ったいじめの数々を告白し、家の火事はあおいの放火によるものでは無いこと、その日現場で目撃されたのは自分が呼び出したためであることを道行く人に全て語り続けた。
美智恵が街頭に立ちはじめた日は冷やかしが多く、物珍しさで人垣が出来ていたが、二日目には冷やかしが減り、三日目には誰も寄りつかなくなった。空しく美智恵の声だけが街頭に響いていたが、劇的な変化は五日目に起きた。美智恵の募金を手伝う人が現れたのだ。あおいが夕食の買い物に訪れていた商店街の店主達だった。
「あおいちゃんは毎晩夕食の支度をする感心な娘でした。そんなあおいちゃんを私は、放火の記事を読んで声を掛けることも、目を合わせることさえ出来ませんでした。励ましてあげることが出来たはずなのに、無視したんです。私も自分の罪滅ぼしのために募金活動を手伝います。」報道に踊らされて無視したり、噂しあった主婦達の心に届き、募金が集まりはじめた。
そしてこんな女子高生も「私は今いじめられています。学校や塾でウザイとか、気落ち悪いとか悲しくなる言葉をぶつけられています。時々死にたくなることもありますが、あおいちゃんはいじめに耐えて、頑張っていました。今も集中治療室で頑張っています。私ももっと頑張りたいと思い、募金に参加します。」
そしてあおいの父、稲垣も募金に参加するようになり、娘の状況と治療費、訴訟活動にかかる費用などを訴えた。その頃になるとマスコミが取材に訪れるようになり、美智恵の言葉を報道するようになった。
救出された少女、そしていじめを告白した勇気ある少女の語る言葉は視聴者に重く響き、あおいを放火犯扱いする風潮は瞬く間に影を潜めた。マスコミの矛先は保険代理店、弁護士の田上兄弟に注がれるようになり、ほどなくあおいへの告訴は取り下げられた。
エピローグ
入院から三ヶ月後、あおいは目を覚ました。一時は植物状態になる危険もあったが、稲垣、美智恵、同級生などの必死の看病をうけ、奇跡的に意識を取り戻した。
病室も一変していた。殺風景だった病室に千羽鶴が何組も掛けられ、お見舞いの花やフルーツで色とりどりに飾られていた。
「・・・あおい、話せる?」
「美智恵?来てくれてたの?」
「ウン・・・あおいが目を覚ましたら、真っ先に謝らなくちゃと思って・・・。あおい、ホントにごめんね。あたし、アンタの言うとおり卑怯だった・・・。どんな言葉でも謝りきれないね。・・・ホントに・・・。」
「美智恵・・・お父さんも・・・みんなの声聞こえてたよ・・・。だから早く良くならなくっちゃって・・・私、もう大丈夫だよ。」
「あおい・・・ホントに良かった・・。」
「美智恵?あなたはどうなの?家無くなっちゃったでしょ?お母さんも大丈夫?」
「あおい・・・ありがとう、心配してくれて・・・。でも多分この街には住めないかも。お母さんの田舎に引っ越すのが一番かな。」
「美智恵・・・遊びに行っても良い?良いよね?お父さん。」
「ああ・・・春休みまでに体力が戻ればね。」
「美智恵・・・良いよね?」
「もちろんだよ・・・。何にもないけど、空気だけはおいしいよ。それに・・・みんな優しいんだ。」
「ウン、楽しみにしてる。それまでリハビリ頑張るからね。」
三ヶ月後、春まだ早い海辺で二人の少女が駆け回っていた。一人は左手にリストバンドをしていた。二人のはしゃぐ声が、人影まばらな海岸にいつまでも響いていた・・・。
早春の夢のように・・・。
了