借金取立人と実験
ヴォンデッタ博士(あだ名)がまた何か怪しい薬を作ったという噂は、何処からともなく流れ込んで、その日のキャンパスを水浸しにした。
あいつ、今度は何をやらかすつもりだ。
博士は良くも悪くも有名人だ。
騒がしい学食の窓際の席で昼食を終えたグランデは、その細い指を持つ手をぱちんと合わせて「ごちそうさま」と言うと、皿の乗ったトレーを片付けて廊下に出た。
今の時間帯は皆、学食や校外のファストフード店で昼食を取っているから、廊下は比較的静かだった。
グランデは一人科学棟へ向かう。
『昼に第五実験室に来てくれ。ああ、昼食が終わってからで構わないよ。うん。』
今朝届いたメールにはそう書いてあった。
科学棟の隅の隅にある第五実験室。
グランデは理数系の学部では無いが、壁に貼られているひどく褪せた研究成果発表のプリントを見て、ここが授業ではあまり使われていないことは分かった。
グランデはそんな場所の立て付けの悪いドアを何とか横に引く。
「こんにちは、博士」
「やあ、グランデ。待っていたよ。うん」
大きな目をギョロっと動かして頷いたのは、立ち上がった巨大な雨蛙だった。
いつも通り、真っ白の白衣と茶色の皮のゴーグルを付けたヴォンデッタ博士は、ぺたぺたとグランデに近付いた。
「新しい薬を作ったって、構内じゃ、すっかり噂になっているね」
「いやはや、偉大な発明というのは、あっという間に人々に知られてしまうのだね。時代が、時代だからね。うん」
どんなものでも、筒抜けさ。うん。
「それで、その薬って言うのは?」
グランデが首を傾げると、博士はぱっと顔を輝かせた。
「そうだそうだ、今回作った物はね、君にぴったりの物なんだよ、グランデ」
そう言って、博士は試験管立てから黄緑の水掻きが付いた手で、器用に一本試験管を取った。
無色透明の液体。ただ何となく、怪しい、気がする。
「それ?」
「そうだね。うん」
「何の薬?」
「それは、飲んでみてのお楽しみだね。うん」
「そう」
ぐぐっとグランデは試験管の中身を飲み込んだ。
それを見て博士は、
「相変わらず、物怖じしないねえ。実に興味深い。うん」
と、大きな目をギョロっとさせた。
シューっと小さな音が止んで、グランデは閉じていた目をゆっくり開けた。
何だか、ずいぶんと周りの物が大きい。
ふと辺りが少し暗くなって、グランデは上を見上げた。
「博士、君はずいぶん大きかったんだね」
「いやはや、君もずいぶん小さくなってしまった」
ぬっと、水掻きの付いた手が伸びてきて、グランデの細い手をつまみ上げた。
そのまま地面から足が離れて、しばらくしてから、所々塗装の剥げた黒いテーブルの上に着地する。
「小さくなる薬、か。確かに、僕にはぴったりかも」
「そうだろうそうだろう」
「これ、元に戻るの?」
「私がそこを考えないように見えるかい? もちろん戻るとも。ずいぶん薄めてあるし、私自身も一度試したしね。一時間程度さ。うん」
「へえ」
そんな話をしていた時、実験室のドアがガラガラと開いた。
二人は揃って正面を見たが、誰も居ない。
だから、下を見た。
「やあ、バッソじゃないか。君がここに来るなんて、珍しいこともあるものだね。うん」
そこにいたのはバッソだった。
ぬいぐるみのような丸い手をドアに掛けたまま、二人を見て動かないでいる。
「どうしたの? バッソ」
グランデが首を傾げると、バッソはぴくりと首を動かした後、グランデの正面にあるイスによじ登った。
「……」
バッソはじーっと、グランデを四方から眺める。
「びっくりした? バッソ」
「……博士の薬」
「うん、そう。小さくなる薬だって」
「……どれ」
バッソが実験室を見渡す。
「バッソも興味があるのかい? 良いことだ良いことだ。これだよ。うん」
博士は試験管立てを押して、ずずっとバッソに差し出した。
無色透明の液体を、バッソはじっと見つめる。
しかし、バッソ突然ぴょんとイスを飛び降りたかと思うと、走って実験室を出ていったしまった。
博士はぽかんとそれを見送る。
「いやはや、いったいどうしたって言うんだ?」
「きっと何か思いついたんだよ。のんびり待てばいい」
「そうかい? まあ、君が言うなら、そうなのだろうね」
グランデの言ったとおり、バッソはしばらくすると戻って来た。
普段使っている、画材がたくさん入ったバッグを持って。
バッソはバッグの中から白い皿をたくさん取り出すと、一つには水を、残りには一つにつき一色の絵の具を入れた。
そして、その皿たちの横に画用紙を置くと、薬の入った試験管を手に取ってあっという間に飲み干した。
シューっと音がしてバッソが小さくなる。
けれど、
「あれ? 何で、バッソ僕と同じくらいの大きさなの?」
もしかしたら初めて合ったかもしれない目線に、グランデは首を傾げた。
同じものを飲んだのなら、身長の比は変わらないはずだ。
「ああ、そっちはグランデに渡したものよりずっと薄めてあるんだよ。濃度と効果の比率を調べる為にね。うん」
「なるほど」
そう言って頷くグランデの手を、バッソが軽く引っ張った。
こっちこっち。
「……踏んで」
バッソは皿の前に立って、それを指さした。
「絵の具を? ……ああ、なるほど」
うん、とグランデが頷く。
それから、ずいぶん大きく見える白い皿の中に入ると、赤い絵の具をぺたぺたと足に着けた。
「よっと」
そしてそにのまま、目の前に広がる画用紙の海に、足を着けた。
少し離れた皿では、バッソが同じように、海の上を歩いている。
「なるほどなるほど、やはり、芸術家なのだね。うん」
博士が、なんだか何だか嬉しそうに頷いた。
「……博士も」
「おや、良いのかい?」
「……」
こくっとバッソが頷いた。
「そうかい」
博士はそう言って、試験管立ての中から一本を選んで、手に取った。
後日、第五実験室の前に、カラフルな足跡が描かれた画用紙が張られた。
「この辺かな?」
「……」
「OK」
水掻きの付いた手が、画用紙の下に細長い紙を貼り付けた。
『実験結果とその報告』
「なかなか良いタイトルじゃないか。うん」
三人は揃って頷いた。