02 〈Betrayal〉
「えー、あんこの帰還を祝いまして」
「かんぱーい!」
九人の人間が教室ほどの大きさの部屋に集まるとなるとそれなりににぎやかだ。テーブルは一時撤去され、広く空いたスペースに敷物といくつかの大皿料理が並べられた。おのおのカップを持ち、笹紅の乾杯の音頭に声を揃えてカップを高く持ち上げた。ここに集まっているメンバーは、誰もがというわけではなかったけれど、それなりにアンと親しいメンバーが多かった。
「アンさん、お帰りなさい」
「……おかえり……」
片目を装飾品で隠した僧形の青年と、背の高い銀髪のエルフが口々にアンの帰還を祝ってくれた。〈吟遊詩人〉の籠目と〈守護戦士〉のジュウイチだ。二人は大人しい性格同士、なんとなく隣にいるらしい。二人の間には会話がない。
籠目は落ち着いた年上の男性、といった風情なのだが的確な年齢を当てられないような雰囲気を持っている。大学を卒業したばかりの青年にも見えるし、社会に出て熟れた三十代の働き盛りにも見える。妙齢の女性くらい難しい。けして彼は女性っぽくないはずなのだが、いつもの尼が被っている頭巾のような、髪の毛が隠れる帽子を被っていればそんな雰囲気はある。今は外しており、喉仏もきちんと出てぐっと男っぽい。
ジュウイチといえば、両手でお茶のカップを持って少しずつ飲んでいる。そんなかわいらしい子どものような仕草でも、身長が190㎝もあると熊のようである。きらきらと透き通るような薄青をにおわせる銀糸の肩まである髪の毛がカップに入らないようにしているだけなのだが、リアルな熊の可愛らしさを醸し出していた。気性は重度のコミュ障で、アンもちょっともてあまし気味だ。精悍でも繊細そうな美形の顔つきは遠くから眺めるに限る。
「おかえりなさい、アンちゃん。もう、さみしかったんだからっ」
がばりとセーラー服姿の少女が抱きついてきた。勢いがよくてバランスを欠き、アンはあわててお茶をこぼさないよう両手でカップをしっかりつかんだ。
「おかえり。ごめんねー、うちの姉が」
「なによぅ、文句あるの」
声を掛けてきた詰め襟姿の少年は少女と同じ顔をしている。男女で同じ顔、というのも不思議だが、アンは見慣れているので違和感はない。しかし二人とも麗しい顔立ちなので二人並ぶと壮観だ。二人は〈召喚術師〉のあゆめと〈武闘家〉のケーマだ。双子だそうで、まだ十四歳だと言っていた。それにしても二人とも美人で少し上に見える。ふるまいは年齢通り子どもっぽいが。アンはなぜかあゆめから懐かれてしまっている。女子校通いだと言った時からだろうか。きっと進路に女子校を選ぶ気なのだろう。そう言えばお嬢様っぽいよなあと思いつつも、それだったらすでに女子校に通っているのではと疑問でもある。彼女のセーラー服から伸びるふとももは目に痛いほど白い。
アンにひっついた姉を引きはがすのは弟のケーマの役割だ。あゆめの紫がかった黒髪は背中の中ほどまで伸びているが、彼はもう少し短い長髪をポニーテイルにしている。あゆめと同じ顔、同じ背だけに男装の麗人のごとく見えてしまうが、ちゃんと男の子だ。あゆめを軽々とアンの横に座らせ直した。装飾の多い詰め襟姿で、サーベルなど挿したら大正ロマンかもしれない。残念ながら、彼は〈武闘家〉で刀など装着できないのだが。
「あんこちゃんもあゆめを甘やかさないの。つけあがるから」
「つけあがるってなによ、もう!」
「わたしもでありますか」
彼は辛辣な物言いをすることも多いが、大抵は正論だ。耳が痛いだけに、アンは彼が少しだけ苦手だ。
そんなじゃれあいを見て笹紅は呆れたようにしているが、こちらを見る目は穏やかだ。他の人たちも微笑ましそうに見ている。
「さぁさ、大したもんはあらへんけど一杯食べはってなあ」
低くよく練れた声だが、そこにいるのは金色の毛並みが綺麗な狐尾族の少年だ。ぴこぴこと狐耳が動いて喜びを表している。〈森呪遣い〉の伊のチ―――通称、『イノチ』だ。しかし彼はその姿に似合わず渋い声をしてギャップがあるが、中の人はもう四十オーバーのおじいちゃん、だそうだ。そのためか気配りが上手で、丁稚じみた姿なだけに可愛らしくてどうしても和んでしまう。おっとりとした京言葉もあいまって、何かのキャラクターのようで微笑ましい。
こんなふうに自分がこのギルドの中心に来ることになるとは思わなかった。たくさん「おかえり」と言われ、騒がしいけれど楽しい人々に囲まれる。なにより、彼らはアンが来たことに喜んでいる。恥ずかしいながらも、なにか胸に熱いものが宿る。
「た、ただいまであります……!」
やはりみんなもおかえり、と返してくれた。頭を撫でられもみくちゃにされて、アンは涙が出そうになった。帰る場所があるというのはいいものだ。笹紅が、「こいつ大神殿にいたんだぜ、アキバに行こうとして無茶しやがって」とからかった。つつかれた指さえ優しくて、感極まったのを誤魔化そうとアンはお茶に口をつけた。
「あれ―――これ、味、ありませんか?」
「え? どないしました?」
「どしたあんこ?」
アンは仰天する。目の前の液体にはお茶の味が―――なんだかさわやかでハーブ茶っぽいが―――するのだ。こんなの、シブヤの街のどの店にも売っていなかったはずだ。
「お茶に味が! 味がしますよ!?」
「味がする―――って、そりゃ、まあ……お茶ですし」
「だって! 今まで食べたり飲んだりしたものにはどれも味が―――味っていうか―――その―――」
なんというか、表現するのが難しい。あります口調を崩してアンは熱弁する。とにかく、食べてみてくださいとアンは手持ちの食料アイテムを敷物の上に並べる。出してみるとそれはとても美味しそうな色艶をしている。しているのだが―――何も思わずに口に運んだだろうメンバーは目を剥いた。
「うっわあ……」
「これは……」
「…………」
もともと無口でも頑張って会話しようとしていたジュウイチが黙ってしまった。この物体は、それほど閉口させてしまう味をしている。
「なんていうか、アメリカで食べたポリッジの味がするね……」
「なつかしいわね……」
「二度と食べたくない味だったね……・」
ずぅん、と誰よりも負のオーラを放っていたのは双子だった。もそもそとしたサンドイッチのような物体は、調味料抜きのふやかしたせんべいの味をしていて、「ポリッジ」なるものがどういう味なのかはアンたちが味わったことなどなかったが、さすがアメリカの味覚と言える味をしているようだ。たしかに〈エルダー・テイル〉の開発元は米アタルヴァ社。なんだか変に因縁を感じる。
「ジュースなんかもありますが、水の味であります」
「こんな「オレンジジュースです!」って主張してる色なのにな……」
ぐびぐびとオレンジの色水を飲む神楽声はしみじみとしていた。一通り確認が済んだところでアンは疑問を口にする。
「このように、シブヤの街に流通している食べ物はすべてが味なし、ポリッジ味なのであります。―――皆さんは気付かなかったでありますか?」
「気付かなかった」
「同じく」
「「食べたくなかった」」
「…………(泣)」
「あっ、あたしは食べたことあるよー、飲みこめるんだけどさ、毎食はきっついよねえ」
手を上げたのはアナスタシアだ。ゴスロリの格好をした娘で、髪の毛が黒い羽になるようなスキンを使っている。その格好にぎょっとする。しかし、根の悪い子ではないのだろう。アンは初めて話したのだが、なかなか遠慮するところがない子で話がサクサク進む。
「アナスタシア……さん、は気付いてらっしゃったのでありますか」
「タシアでいいよー、アンちゃん! あたしさー、このギルドに来たのがちょっと前だったのね? 混乱しててごはんがまずいだけかと思ってた」
なんと脳天気な子なのだろうか……。そんなツッコミはさておき、無言状態から帰って来たジュウイチが口を開く。
「ギルドで出された料理は……美味しかった、イノチ老」
「ほんまに? おおきになあ」
ほわわー、と花が咲いたような笑顔の伊のチは少女のような顔をしているが、その声があまりにもダンディーでちぐはぐな印象を受ける。しかしそれはゲーム時代のころからだったので、親しいメンバーはあまり気にはしないが、やはり何となく居心地の悪さを感じる。
「うち、〈料理人〉なんよー。やったからみんなのごはん作らななーって。あゆめはんにサラマンダー召喚してもろて、サバイバルキットで作ったんよ」
おっとりした京言葉なのだが、なんだか……なんだか腑に落ちない。そうなると、この一週間ポリッジ味の食べ物かもよく分からないものに落ち込んだのはいったい何だったのか。
解せぬ。
「……つうことで、俺らのほとんどは売ってるのを食ったことがなかった。だから気付かなかったんだろうな」
「きっと売りに出されてる食料アイテムはこんな味なのでありましょうね……ううう、ギルドに来てよかったであります」
美味しい食事というものは得難いものなのだと痛感した一同は、伊のチに感謝の念を示さざるを得なかった。
「えーと―――ですから、生活基盤、つまりこの世界で普通に暮らす技術を習得したほうがいいと思います」
文句は言わなかったが口に合わなかったのだろう籠目が言う。
「食生活は一応保証されているので、あとは戦闘方面―――『特技』でまともに戦闘できるようにならないといけないと思います。まあ、こんなのはあとででも話せると思いますけど」
「まあ、だろうな。だれか戦闘経験のあるやつ」
笹紅の問いかけに何人かの手が上がる。アン、笹紅、籠目、アナスタシアだ。
「メニュー画面から特技を選んで発動するまでの手間でボッコボコにされたであります」
「私もです」
「俺もだ」
どうやらこの世界での戦いはゲームほどスムーズにいかないらしい。ううむと唸る三人にあのー、と声がかけられる。
「あたし、ふっつーに攻撃出せましたけど」
「うん、だから普通に戦闘できる方法探してんだろ……」
「だーかーらー、メニュー画面開かなくっても特技出せましたけど何か?」
「だからメニュー画面から……って、まじか」
「まじだよ」
アナスタシアと笹紅のとんちんかんなやり取りがバカみたいに見える―――だが、彼女は何か非常に重要なことを言っている。
「こう、ふっつーに特技出せたよ。感覚で」
アナスタシアはにんにん、と手を組み合わせる。
恐るべき、感覚派。散々モンスター相手に苦労した三人の顔色が変わった。何だとこの野郎、早く言えよ―――という意味で。
「こう、なんていうの? 特技のイメージで体動かすとするするっと」
「うわぁ……」
「て、てめえ……俺たちにできないことをいとも簡単に……」
「わたしたちの苦労が無駄だと分かっただけ収穫でありますかね……フフ……わたしなんて一週間死にまくったのに……」
「アンちゃんなんかごめんっ」
おたおたするアナスタシアと沈む三人を横目に、鈴を転がすような声が響く。
「〈従者召喚:ウンディーネ〉」
見れば―――歩の傍らには水の精霊がしゅるりと立ち出でて歩のまわりをくるくると浮遊する。横に座っていたケーマの顔面に水がかかったようで、ケーマは黙って顔を拭いた。何も言わないが、確実に怒っている。
「あら、音声入力も可能なようね。技は知らないけど」
「俺に水ぶっかけたのは違うの……」
「事故よ? 事故」
おほほ、と笑うあゆめは中学生とは思えないほど妖艶に笑んだ。ぞっとするほど蠱惑的な笑みで―――そういえば彼女のサブ職業は〈娼姫〉だった気がする。
サブ職業とは、戦闘に直接関係無いところで便利な能力が与えられる、というサイド能力取得システムである。伊のチの〈料理人〉、笹紅の〈筆写師〉といったアイテムを生産する生産系サブ職業や、あゆめの〈娼姫〉、他にも〈薔薇園の姫君〉や〈吸血鬼〉などロール系のサブ職業まで幅が広い。戦闘のスタイルを決めるメイン職業とは違ってちょっとしたキャラづけに使われたりする。
実際、ロール系ギルドである〈Betrayal〉では数多くのサブ職業が見られる。その中でもロール系が個性豊かだ。役に立つ有名なサブ職業からネタとしか思えないような「それって職業?」と首をかしげてしまうものまで様々だ。
アンはふう、とため息をついて伊のチが作ってくれた煮物を口に入れた。とても懐かしい味がする。それほどまでに、すでに日本は遠くて、今いるのはヤマトのシブヤだった。
早く帰りたい、と思う。
「あとはリーダーだけかぁー、今頃何してんだろなー」
行方不明になる姉弟でごめんなさい。
身の上を隠している以上、そう言うことはできなかったのだが、いちおうアンはあ姉ちゃんなので心の中で謝っておく。
笹紅の言葉に他の人間はそうだなぁ、と言っただけで、具体的な思案はされなかった。それだけ、この場では持ち出すことがためらわれるのだろう。ギルドマスターに思い入れの深いギルドメンバーは少なくない。それだけ、その議論が冷静さを欠いたものになるかは事前に予測できてしまうのだ。
アンはふと思う。
―――そういえば、弟は小さいころから隠れる癖があった。隠れる、というか、他の人が見つけられなくなってしまう行動を取る、という感じだ。かくれんぼをするよ、と遊んでも大して他の子と違いはないのだが、逃げる足だけは早くて本気を出されればアンなどすぐに撒かれてしまう。
―――まあ、私の方が足は速いですけれど。
そんなちっちゃいところで姉としての尊厳を保っておいた。
どこから出したのか、笹紅の手にはすでに酒瓶が握られており、宴会を楽しむ気満々だった。しかしこの中に〈醸造職人〉はいないため、その酒には味がないのだろう。先ほどから随分とペースが速い。
浮世の辛さを忘れようとばかりに飲んで騒いだ。伊のチの料理に舌鼓を打ち、馬鹿な会話で大笑いし、あるいは今度やってみたいことなどを口々に出し合った。先ほどまで仏頂面だった〈施療神官〉のA‐1も金の髪を振り乱して騒いでいる。白い肌が赤くなっていることから、笹紅に飲まされてしまったのだと想像がついた。いつの間にかアンのもとにも味のしないアルコールが回ってきて、飲酒などしたことのないアンはいつの間にか意識を失っていた。
―――山口安子が幼いころ。今よりも背丈が小さく、髪の毛も男の子みたいにずっと短かったころの話だ。
『あんこちゃんは、僕が守るね』
何を言ってるの、と身の程知らずな発言をした弟の額をぺちりと叩いた。いきなり手を握られたと思ったら、真面目な顔でそう言われたのだ。突拍子もなさ過ぎて、安子は冗談だと解した。
『まったく、キザなこと言っちゃって。わたしはお姉ちゃんなんだから守られなくても大丈夫』
双子の弟は、安子と同じ顔をしていた。もちろん、性別は違うから二卵生双生児のはずだ。性差があるのにここまで似るのは双子の神秘だ。しかし、安子よりもこの弟は体が弱かった。そんな弟を盾にするなど、安子には考えられない。そう返したら弟はうつむいた。
『でも……だって……』
『でももだってもないよ。だってわたしたち、双子だもの。おたがい助け合お?』
ね、と同意を押し切るように弟の頭を撫でた。力が強すぎたのか、首を支点にぐわんぐわん頭が揺れた。それでも、弟は花が咲いたように笑っていた。かわいい。安子たち双子は、親がいない。だから理不尽な孤児院でも二人手を繋いで、頑張ってきた。
『あんこちゃん』
そう安子の名前を呼ぶ弟は、時が経っても笑顔が変わらなかった。やっと温かくなった春の日、蕾をほころばせる黄色い花のような笑顔。高校生になっても、「かわいい」といわれる兵器のようなそれだ。「安子と双子とは思えない」といわれるようになったのはそれからだ。養父母は安子たち双子を一緒に引き取ってくれた優しい人たちだったが、安子はどうしても親というものに馴染めなかった。自然と顔はこわばって、どんどん表情を失くしていった。
無表情の姉と。
朗らかな笑顔の弟。
同じような顔だけに、人間関係に差が出るのは当たり前だった。瞳も大きく、黒目勝ちな可愛らしい日本人の顔。人当たりがよく社交的な弟は、大人からも同年代からもよく好かれた。無表情な安子は冷たく見えるらしく、大人からは「かわいくない子」と思われたようだ。男子からも煙たがられたが、運動ができるだけに女子からマスコット扱いされた。ここだけの話だが、安子は女の子から告白されたことがある。しかし、安子よりもずっと背が高い美人な子で、すごく落ち込んで知恵熱を出した。
双子ゆえに能力の差が、中学に入るころ明確に出た。
運動神経がよく大会で入賞できる女の子。
頭脳明晰で集中力が高く、天才的な男の子。
はっきりと、二人は違う存在なのだと思い知らされた。友人関係も被らないくらいに違いがあった。だんだん、安子は弟から離れていった。
『あんこちゃん……』
『女の子と遊ぶから、来ちゃだめ。男の子と遊びなよ』
『やだ! 僕だってあんこちゃんと遊びたい!』
弟がそんな強い声を出したのは、安子が聞く限り初めてだった。
だから―――突き放した。
『邪魔。あっちいって』
そろそろ中学生にもなる年齢にもなって、姉と遊びたいなどと―――ましてや、優れた弟と一緒にいて、比較されるのが嫌だった安子は酷い言葉で弟を拒絶した。
たぶん、弟は泣いただろう。
安子よりも強い子だった。そんな子が、唇をかみしめ、嗚咽を漏らさないよう泣くのは、どんなに悔しいことだっただろう。ちょっとだけ、安子の胸はつきりと痛んだ。
中学生になった初めのころ、安子は弟が男子と楽しそうにゲームの話をしているのを聞いた。おかしいな、と思ったのは、安子と弟はゲームをしたことがなかったからだ。家庭用ゲーム機はないし、携帯ゲームなど高いものはお小遣いでは買えない。外遊びで間にあっていた安子は、弟の言うゲームが、オンラインゲームである可能性に行きあたった。
〈エルダー・テイル〉。
そのキーワードを安子のパソコンに打ち込むと即座に答えを弾きだしてくれた。大人気老舗MMORPGの名前がそれだ。中学入学祝に、技術やネットの扱い方を教える教材として父母から贈られたものだ。安子のパソコンはピンク色。弟のは白の同じモデルだ。〈エルダー・テイル〉は課金制のオンライゲーム。弟はどうやってゲームをしているのだろう? よく分からなかった安子は、養父母に直接聞いてみることにした。
『あらまあ、あの子ったら、そんなことしてたの。ゲームくらいねだってくれたらよかったのに……』
そう寂しそうに呟く養母に、なんだか申し訳ない思いがした。安子と弟は、この人たちの負担にならないよう、ひっそりと暮らしてきたつもりだったが、それは出過ぎた真似だった。結果的に、信頼していなかったのと同じなのだ。
『うーん、普通は料金を払える環境がないとできないはずなんだがなぁ……、よし、調べてみようか』
養父は、ホームページを詳しく見て、弟が無料チケットで遊んでいることを突き止めた。しかし、いずれは間にあわなくなってしまうだろう。安子はちょっとした贖罪のつもりで、養父母にゲームをねだった。弟と一緒に遊びたい、と。勉学を優先することを誓って、ゲーム代を出してもらうことになった。
養母は優しい笑顔を見せてくれた。
『やっと、甘えてくれるようになって……嬉しいわ』
ぎゅっと抱きしめてくる体は、養護施設で初めて会った時と同じだった。安子は驚いて目を見張っていた。ずっとこの人を待たせてしまったのだと、ようやく知ったのだ。
弟からは養父母に言ってしまったことを怒られたが、それでも一緒に遊べるものができて嬉しそうだった。―――まあ、安子はゲームを面白いと思えず、すぐに飽きてやめてしまったのだが。
安子は、弟と別の人間だということに耐えられなかったのだ。
高校進学時に、ちょっと偏差値の高い女子校を選んだ。弟は、進学校と呼ばれる公立唯一の高校を受けた。たぶん、中学三年生になり、歩む道が分かたれたということで、自分を納得させようとしたのだ。けれど、だめだった。弟はいつまでも安子にべったりで、同じ高校を受けようと言ってくれたが安子の頭では到底無理だった。
ちいさなことで大喧嘩してから、安子と弟は口もきかなくなった。弟ももう、そんなことでは泣かなくなっていた。だから二人は怒って、別々の生活をした。―――我慢できなくなったのは、なぜか安子の方だった。
離れていた〈エルダー・テイル〉をもう一回覗いたのは、気まぐれだった。喧嘩した弟にはばれないように、別のアカウントで始めた。するとどうだろう、驚くことに、弟はゲームの中でのびのびと遊んでいた。
―――ずるい。わたしがこんなに気を遣ってるのに。
ただの妬みだ。ギルドを自分で作って楽しそうにすることは罪じゃない。けれど、どうしても心が納得をしないのだ。安子は、そのギルドに入ることにした。弟にはばれていないようだった。安子も仲のいい仲間を作って、一緒に冒険をした。
安子と弟の間には、薄くて風で揺れるカーテンのようなものがかかった。
それでも一緒には暮らしているし、きっとそのうちに仲直りできるだろうとゲームでできた友達と遊んでいるうちに、ずるずると状況は変わらず長引いて、なぜか安子と弟が実生活でも離れることになってしまった。
一年間の弟の留学。
もともと大学と太いパイプを持っている高校だそうで、弟は見学がてら研究に携わっていたと聞いている。
安子は。
安子は、いつも後から聞かされる。
弟が大けがをして熱で寝込んだときのその理由も。高校生なのに大学で研究していることも。いつの間にか留学が決まっていたことも。
ぎり、と唇を噛んだ。悔しかったのか、それとも自分が不甲斐無いからなのか。
弟は人にすべてを悟らせない。安子にとっては憎たらしい弟なのだが、他人の目には「礼儀正しいかわいい男の子」に映っているのだろう。安子でさえもその腹の中が真っ黒なのか、それともただの天然なのか計りしれないが、少なくとも意識して「いい子」でいることは分かっている。
弟がふつうに苦手な人がいることも知っているし。
嫌いな食べ物を意地になって無理して食べて吐いたことも知っている。
完璧な人間ではないのだ。完璧な人間がいたとしたら、それはいったい何というものなのだろうか。
それでも、弟のすべてが知りたかった。だから敢えて隠されたような気もするけれど―――ただの他人になり下がるのは嫌だった。姉としてのプライドだろう。
ただそれだけのために異世界にまで呑まれたのか、それともそのために異世界に来たのか。
安子には―――アンには、預かり知らぬことだった。
2話目ですー
3話までは一気に上げちゃいたい気もしますが、それからは更新がトロくなると思いますので、あしからず。
早く本格的にアンたちを動かしたいですねぇ