四章・二日目と黒幕
次の日、ノックの音で目が覚める。午前七時だ。
もう上に飛び乗っては来ないらしい、扉を半開きにして忍は顔を覗かせている。
「……おはよう」
「ああ、おはよう忍」
一瞬、辛そうな顔をしたのが見えたが、すぐに彼女は顔を背け走っていった。
やれやれ、居心地が悪い。
茶の間では、今日こそ親父に医者に行こうと言われ、妹には泣かれ、姉には適当に扱われ、本当に居心地が悪い!
そして登校の時間になると、玄関のガラス戸を叩く音が聞こえる。
「敬くん起きてますかー?」
こればっかりは居心地が悪くない。いかにめちゃくちゃな状況下であっても、彼女がいることだけは大きな利点といえよう。
「おはようございます、西條さん」
紳士的な態度で俺が玄関戸を開けると、彼女はプッと吹き出した。
「だから初対面ごっこはやめましょうよ。ほら」
彼女が手を差し出す。これは……手を繋ごうという意味しかあるまい。
しかし俺は無愛想にその気持ちを無視し、前へ躍り出学校に向かう。
「遅刻しますよ西條さん」
……、素敵な女性だし、憧れを持つ。けど仲良くするわけにはいかん。
たとえどんなに素敵な女性でも、それが虚構のものであるなら話は別、ギャルゲのヒロインを本物として扱う男性がどこにいるだろうか。いや異瀬という奴がいるが……。
……もし、万が一俺の記憶に間違いがあって、本当に西條さんが俺の幼馴染だとしたら、俺は今とても失礼な事をしている。
昔の俺は本当に彼女と仲良くしていたのか。だが彼女と仲良くする俺は、もはや昔の俺ではなく新しい俺だ。いや待て、昔の俺なんていないはずだ。俺は昔も今も同じだ。つまりは……?
ああ、珍しく難しいことを考えすぎて自分でもわけが分からない。俺の記憶が戻ったら……。
いやいやいや違う! 記憶がおかしいんじゃなくて世界がおかしいんだ! 俺は正常なんだ、何者かが俺を中心に世界を改変して……。
いや、この言い方では本当に俺がオカシイ奴になっているな。
とりあえず西條さんとの一時でそんなことを考えるのは止めよう。
今までどおり、前の世界とこの世界の差異を探せばきっと何かを取り戻せるだろう。
と、俺が必死になって平静を保っていると、急に後ろから抱きつかれた。
何者だ、と叫ぶまもなく背中に触れた柔らかい感覚に、俺は耳まで真っ赤になっただろう。
「敬くん、紅華って呼んで?」
耳元に暖かい息が当たって背中がゾクゾクした。
首元に手が回されギュッと締まる。これが幸せ死の前兆なのかもしれない。
「さささささささ、西條さぁん!?」
ようやく彼女は両手の拘束を緩めて、少し距離をあけてくれた。
「わっ、敬くん真っ赤だね。でも昔はこんなんじゃなかったよ」
彼女はいかにも真面目な表情になり、右手の示指を突き上げて言った。
「昔はいつも手を繋いで登校して、皆から口笛吹かれて、で満更でもない顔をするの」
その図のなんたる想像しやすさ。昔を知らない俺でも全く同じ事が出来るだろう。いや、昔なんてないはずだから今の……やめよう。
落ち着いてきたところでやっと金崎高校に着いた。
いつも通り教師がいてチャリ通も乱れて、これだけはいつまでも変わらなさそうだ。
「杏! いるか!?」
教室について早々、俺は他人の目も気にせず大声を出した。
「ここにいるぜ記憶障害、病院に行け」
思わず悲鳴をあげてしまった。
その本人はその体躯を活かしていつの間にか俺の背中に張り付いていたようだ。
「で、何か進展はあったのか?」
「それでは昨日、お前と別れた後の話だが……」
そして俺は姉妹の部屋問題と、親友三家問題について詳しく話した。
「なるほど、つまりお前の姉貴は本物っぽくて、俺と雨宮の家にケチをつけるわけだな」
「何か誤解されている気がするがそんな感じだ」
杏は顎に手をあて熟考する。いったいどんな言葉が出てくるのだろうか。
しばらく経ち、クラスも段々と喧騒を増す。
予鈴が鳴り、ようやく杏は口を開いた。
「分からん! 自分でなんとかしろ!! 以上ッ!!」
「ええぇっ!! そんな事言うなよ、頼みの綱はお前しか」
「分かった、おすすめの総合病院と精神科でも……」
「もしかしてお前諦めてる!?」
しかし彼は何も答えず、愉快そうに自分の席へと向かっていった。
…………これからどうすればいいんだろう。
その後SHRにて、虎雄がプリントを配り朝の報告を済ませると、雨宮と杏が揃ってやってきた。
「あ、杏、それに雨宮くん、どうかしたのか?」
「ザ・他人行儀じゃな! 敬よ、ワシの事はいつも通り呼んでくれ」
「金崎の雨夜の鮫よ、どうかしたのか?」
「…………」
雨宮はそっと顔を背けた。その代わりに杏が口を開く。
「いやなんだ、お前がかなり精神的に参っているとみて久しぶりに三人で遊ばないか? って」
どうやら二人とも俺の事を心配してくれているらしい。
二人と分け隔てなく仲良くし、西條さんといちゃつき、四人家族で楽しく暮らす。
それはどれほど楽しい生活だろうか。
昔は父さんと不仲になり、それを隠しながら杏や大吉と過ごして、お世辞にも無上な人生とは言えなかった。
今の自分をなくしてしまえば全て楽になれるだろう。
ああ、そう考えたらとっとと諦めたくなってきた。
そもそも何が間違っているのか? 俺だってもう気づいている、宇宙人なんていなければ、神も魔女もこの世にいるわけがない。
おかしいのは俺なんだろう。姉だって妹だって幼馴染だって、雨宮だって昔からいたんだろう……って。
だから違う、と俺は学んだはずだ。
昔の、いや今の俺が知っている『倉橋麻友』と『不同大吉』がいるんだ。記憶喪失の都合の良いように作られた存在なんてあるわけがないんだ。
これは単なる記憶喪失なんかではないはずだ。悪の陰謀が関わっているとも思えないが……。
やはり時間が経つに連れて精神が楽なほうに楽なほうにと行ってしまう。
早く真相を解明せねば俺はこの世界で朽ちるかもしれない。
「何考えてんだ? 今日は遊びに行こうぜ! ゲーセンとかさ!」
「じゃあお前の家に行こう」
ピタリと、杏の動きが止まった。
「どうかしおったか杏? ワシもお主の家が広くて近くてよいと思うたが」
「いやぁ、今日は、だな。林檎が友達を呼んでるんだよ、だから無理だ」
「リンゴ?」と俺が反芻すると雨宮が「杏の妹じゃ」と応えた。
「ああ、林檎ちゃんね、そういえばそんなのがいたような気が……」
おかしい。俺と杏は親友だ。
なぜ俺は大親友の妹の存在があやふやになっているのか。記憶喪失の弊害か? きっと違う。
「杏、俺は絶対にお前の家に行くぞ」
「いやだから林檎が……」
一時間目のチャイムが鳴った。ベストタイミングだろう、杏にとっての。
疑問が次々にあふれ出てくる。だがそれは心を不安にさせる気持ちの悪い疑問ではなく、まっすぐ正答に向かうための、清々しい疑問だ。
そしてその疑問を解かせるためのような、奇妙な事態が起こった。
世界史の教師が昨日と同じ事を言っている。時間割もよく見れば昨日と同じだ。
昨日時間割をあわしているときには気付かなかった。
みんなの反応は昨日と違ったのに授業の内容が昨日と同じとは……。
授業中にも関わらず俺は思わず立ち上がった。
「こら灰国! なにを立ちあがっとる!!」
「あ、すいません」
結局すぐに座ったが教師の反応も、周りで笑ったり不思議がったりする生徒の反応も普通だ。
なのにみんな授業の内容が昨日と変わっていないことを微塵も気づいていないらしい。
これはいよいよ、俺の記憶に間違いはないようだ。
間違っているのは、間違いなく、世界だ。
難なく授業が終わり、真っ先に杏がこっちに走ってきた。
「おい敬どうした!? 記憶が戻ったのか!?」
「いや、逆だ。俺の記憶に問題がないと確信が持てた。お前は気づかなかったのか?」
腕を組み「うーん」と唸るが、杏はすぐに手を広げた。
「気づかなかったって何に? ユカタン半島がなんか可愛らしいって事か?」
俺は軽く笑い、自信に満ち溢れて言った。
「今日の授業は昨日と全く同じ内容だった。なのにお前らはそれに気づかない。つまりは俺に問題があるんじゃなくてお前達に……」
自分で言って、ようやく気づいた。
「どう考えてもお前の頭がおかしいじゃねぇか」
完全にドン引きしている。だが確かに、これでは俺がイタイ人ではないか。
「いや待て待て、じゃあ杏、昨日の授業と時間割を言ってみろ」
杏はまた、ピタリと動きを止めた。
その場しのぎのつもりが意外な効力を発揮したらしい。
「おい、言えないのか? だったら俺が正しいって事になるな」
「思い出していただけだ。そもそも時間割がなんだ? それがお前の記憶に何の関係がある?」
何故か声に怒気が含まれている。それに目つきもキツい。
「どうしおった、喧嘩か? 珍しいのう、二人が喧嘩とは……」
雨宮が闖入して杏はすたすたと自分の席に座って行ってしまった。
「やれやれ敬よ、杏を怒らせるとはいったい何を言ったんじゃ?」
「いや、昨日の時間割と授業の内容を尋ねただけだが……」
雨宮は俺の言った事を耳に入れるや否や、杏とは比べ物にならないほどの『きょとん』を見せた。
「雨宮、どうした?」
「いや敬よ」
雨宮は何か思い切ったように、かつ不安げに言う。
「実はワシにはさっきの授業の記憶がない。何故かと聞かれても答えられんが、なんじゃろうな、まるで魂が抜けたようになっておったんじゃ」
わけがわからない。
「雨宮、何を言っているんだ? お前は授業中には魂が抜ける物凄い遊び人だとでも言うのか」
「いやそうは言っとらん、板書も写しておるし、当てられたら答えることも出来る。じゃが……口では説明しにくいが、集中しておらん。言うなれば、全く集中しておらんのに、そんな風に授業が受けられるのじゃ」
雨宮の必死の説明も虚しく、その意味を汲み取る事が俺には出来なかった。
だがこの雨宮の困惑振りを見ると、試したくなる事が一つ増えた。
またも絶妙なタイミングでなるチャイム、次の授業も昨日と同じだ。内容まで。
二時間目の休み時間、俺は立ち上がり、自分から話しかけなかった人物にわざわざ話しかけることにした。
……だが、彼女に話しかけるのはとても勇気がいる。俺がどれほどの葛藤と努力を経てその経緯に至ったかは記さないが、是非理解していただきたい。
「なあ西條、ちょっと聞きたい事が……」
友達と話していたと思えない速度で彼女は振り向き、そのまま目と鼻の先にまで近づいてきて目を輝かせ喚いた。
「なになに!? 何でも聞いちゃいなさい! そして紅華って呼びなさい!」
後の命令はともかく、言われたとおり何でも訊くことにした。
「さっきの授業で何か違和感がなかったか?」
そういうと彼女もまた、アリバイがない事に気づかれた容疑者のようにギクシャクした反応をした。
「ええと、そうね、敬くんじゃないんだけど、なんだか記憶が曖昧になっている気がする」
疑問はついに確信に変わった。
「ありがとう、紅華」
どうせこの世界に別れを告げるんだ、惚れた女を名前で呼んで何が悪い。
「敬く……ううん、敬」
……いい雰囲気になりそうだったが、生憎今から俺はこの世界の創造主であろう彼の元に問い詰めに行く事にした。
すぐそこにいる、小さな青年。
「異瀬杏、放課後、いや次の休み時間、ちょっといいか?」
彼は心底疲れた風に溜息をつき、俺を見上げた。
「別に今からでも事足りるよ、それに時間もかけないつもりだ。バッチリ諦める黒幕の方が格好いいからな」
「!!」
恐らくそうだとは思ったが、やはり一番の親友で味方だと思っていた奴に直接言われると、胸が痛む。
「杏……どうして?」
「あーあー、分かったんならあまり馴れ馴れしく喋るな。本当のお前と俺は初対面みたいなもんだから」
うわぁ、泣きそう。酷すぎる、今まで親身に解決策を考えていてくれた唯一無二の親友だと一応今でも思っていたのに。
杏が、いやこの人が黒幕なんだな……俺の混乱を創り記憶を消し、親友を消したり増やしたり……。
こいつ何者だよ?
ついてこい、と彼が言い、三時間目の授業が始まる中も堂々と俺達は何故か鍵の開いていた視聴覚準備室に訪れた。
「狭いとこだけど座れ、詳しい話を今するより、多分お前の記憶が戻ってからの方が良いだろう。だが記憶が戻った頃にはお前は元の世界に戻って全部思い出している。どうだこのジレンマ?」
「どうだ、と言われてもまだよく分からないんだ。お前は……俺の親友じゃないんだな」
落ち着いて息を整え、仕切りなおした。
「お前は何者なんだ、異瀬杏。一体なんの目的で、どうやって、何をした?」
すると杏は笑い出す。
「お前それじゃ何も分かってないじゃん、つっても、それ以外は全部分かってますって顔だな」
今日はその場の机にあったコーヒーカップに、インスタントコーヒーを入れポットから湯を注いだ。
「なんでそんな物がここに?」
「俺が用意した、お前と腰を据えて話すためにな」
熱々のコーヒーを一口啜り、杏はようやく説明を始める。
「まず、目的を話そう。ずばり、この世界はお前の人間性テストのために作り出したのだ」
「人間性テスト? ……よく分からないが、合格なのか?」
「うーん、補欠合格かな。黒幕って気づかれたら合格にしようと思っていたが、まさか一日で分からないとは思わなかった。流石に俺も授業を二日分は考えていなくて諦めたよ」
よく分からないが、どうやら授業が二日とも同じ内容だったのはこいつが考えていないかららしい。
だとしたらこいつは本当に神か何かか?
「じゃあ杏、一体どうやってこれをしたんだ? お前は神か悪魔か、それともなんだ?」
「魔術かな。そうだ、俺は魔女だー」
そういって杏はまた笑う。ふざけていやがる、まるで真面目さを感じさせない。
「あまり馬鹿にするな、こっちは真剣なんだ」
努めて冷静に、杏はまだ笑いながら、だが目は真剣に答えた。
「お前の最初の質問に綺麗に答えると……」
咳払いをし、コーヒーに口をつけ、また咳払い。
「俺は魔法使いで、お前の人間性テストのため、魔術で、世界を少し書き換えた」
「なるほど、と言うと思うか? お前ふざけるのもいい加減にしろ!」
「詳しく説明するだけ時間の無駄だろ? 一番重要なのはお前が元の世界に戻れるか、それだけだと思わないか?」
「それだけじゃない、大吉や倉橋麻友はどうなった? 最初から存在しなかったのか、それともお前が消したのか? 姉貴や妹はどうなんだ、西條さんは、父さんの職業は……」
俺が興奮して杏に詰め寄ると、こいつは持っていたコーヒーカップを中身ごと俺に放り投げた。
「熱ッ! このやろッ!!」
「悪い悪い、今から元に戻すよ。全部元通りのハッピーエンドではないが、今までどおりの平凡な日常に……、全部が幸せじゃないかもしれないが少なくとも不幸にはならないはずだ」
杏に掴みかかろうとすると、そいつは体から光を放つ。
俺は眩しさで、両腕で顔を包むが、そのまま意識を失った。




