針の狩人
針。針だった。
私にはそれが針に見えていた。
何と流麗な形。何と神秘的で、それでいて現実感の確かな存在なのだろう。
私にとって、針は至高の存在だった。
初めて自覚したのは、まだ幼いころ。
母の実家で、近所の子供たちと遊んでいた、そんな時だった。
仲の良かった子供の中に、これは後から知ったのだが、肺が弱い子供がいたのだ。
彼は時折コホコホと乾いた咳をして、それでも楽しそうに遊んでいた。
私は、彼がせき込むたびに、彼の体の中心で何かが光っているのをいつも見ていた。
私はそれが何か分からなかったけれど、太陽光を反射して輝くそれに、何度目を奪われたか分からない。
ある日、いつものように遊び疲れて家に帰ると、母が縁側で裁縫をしていた。
赤い大きな裁縫箱にはたくさんの糸巻きと布切れ、そして、夕日を浴びてどこまでも澄んだ輝きを放つ、銀色の縫い針が収められていた。
瞬間、私はそれが彼の体にあるものと同じだと気付いた。
そうか、あれは針なのだ。
人の体には、あんなにも美しい針が埋まっているのだ。
でも彼は気付いていない。彼だけではない、他の誰もあんな綺麗なものがあることに気付いていない。
それなら・・・私がそれを貰ってしまっても、いいのではないだろうか?
いつしか私の心には、そんな思いが宿るようになっていた。
それから私は、彼と遊ぶたびに彼の胸の針をどうやって貰おうか考えるようになっていた。
彼は自分の針に気付いていないのだ。気付いていないものを「欲しい」と言ったって貰えるわけがない。でもあれはどうしても欲しい。・・・欲しい!
そんなに長くはない、せいぜい5cm位の金色の針。朝焼けの太陽の色を写したように輝いて、針の先端はそれ以上研ぎ澄ませない程鋭く、針の頭は地蔵の頭のように優しく円を描いている。それがキラリキラリと太陽を反射して輝くのだ。川の澄んだ流れも、新緑眩い森のきらめきもそれには劣る。
それはまるで、人がその人生で持てるだけの輝きを凝縮したかのような。
その輝きを脳が認識した瞬間に脳髄の奥をしびれさせ、思考回路の全てを押し流し、自分の全てをその輝きで満たされ、それでいて尚溢れだす、そんな圧倒的な存在感。
幼い私はその輝きに狂ったのだ。文字通り。
そして、私は、彼の針を手に入れる絶好の機会に恵まれた。
私が両親の都合で都会に引っ越すことになり、明日が出発という前夜に、彼も交えて友達全員でお泊まり会をすることになったのだ。
これを逃す手はないと思った。これを逃せば、もう二度と手に入れられないと確信していた。
私はみんなで騒ぎながら、早くみんなが寝ないかと待ちに待った。やがて大人が私達に寝るように促し、私達は言われるままに大人しく布団に潜り込んだ。私はその中で一人、目を見開いて天井を凝視しながら、他の全員が寝静まるのを待ち続けた。
そして、子供たちどころか大人も寝てしまっているだろう、深夜。
私はゆっくりと起き上った。
月光が障子を透かして差し込んでいたので、部屋の中は明るかった。
まるで夢の中の情景。
現実感の失われた浮遊感。
静かに部屋を満たす寝息が潮の満ち引きのように私の聴覚を蝕んでいく。
彼はぐっすりと眠っていた。
色白の彼は、月光を浴びてまるで死人のように青白い顔をしていた。
私は彼の布団をはぐ。彼は少し寒そうに身震いして、しかし眠り続ける。
彼の胸には、針がぼんやりと浮かんでいる。そういえば彼の針がはっきりと見えるのは彼が咳をした時だったな、と、私は彼が咳をするのを待ち続ける。
ケホ、と小さな咳をして彼の体が揺れる。すると彼の針は鋭く輝いた。
まるで波間に揺られる輝きが、潮の満ち引きで浮かんだり沈んだりするように。
彼の体は小さな海だった。
私は波間を覗きこんで待ち続ける。
ゴホゴホ、と彼が大きく咳をする。その瞬間に、私は手を伸ばして彼の胸に差し込んだ。そうすれば取れるのだということは分かっていた。
そして、私は針を手にした。
針はほんのりと温かく、すぐに冷たくなって月光の下で鈍く輝いた。私はやっと手にしたその輝きに狂喜して、抱きしめたり頬ずりしたりすると、彼の体にそっと布団をかけ直して、針は自分のおもちゃ箱にしまい込み、満ち足りた思いで眠りに就いた。
次の日、彼は死んでいた。
原因は急性心臓麻痺だと診断された。
しかし私は、私が彼の体から針を抜いてしまったためだと分かっていた。
この針はきっと、人間の体に栓をしているのだ。これを抜いてしまうと、人間の体から生きる力が抜け出て死んでしまうのだ。私はそう思った。
夜の海のように見えた彼の体を思い出して、そう思った。
私は都会に引っ越すと、人の体から針を探し求めた。それを抜いてしまえば死んでしまうと分かっていても、私にはそれが分かっているだけで悪いことだとは思えなかった。
だってあんなにも美しく輝く針を持っていながら、人は誰もそれに気付かないのだ。
あれの価値が分からない人間が、あれを持っている資格はない。
私にはある。
私ならあの針がどれだけ美しいか、宝石の何倍も美しいか、よく分かっている。
私はまず、隣の家に住んでいた老婆から針を抜いた。銅色に鈍く輝く、15cm以上もある太い針だった。
小学校の保健室で眠っていた上級生の体から抜いた。蒼く輝く水銀のような針で、釣針のようにU字にカーブしていた。
教室で居眠りしていた男子の体から抜いた。
店先でうたたねしている駄菓子屋の店主の体から抜いた。
背中からも抜けることが分かってからは、通りすがりの人の体からも、気に入ったものを抜いていくことにした。
通勤中のサラリーマンから抜いた。
散歩している老夫婦から抜いた。
ジョギングしている青年から抜いた。
コンビニで立ち読みをしている学生から抜いた。
何本も抜いたところで、私はそれをちゃんとしまっておこうと思って、空き箱に手作りのクッションを詰めた手製の裁縫箱を作った。その中に針を一本一本綺麗に並べていった。
私は狂っているのだろう。
私は歪んでいるのだろう。
それでも私は針を抜く。抜き続ける。抜き続けた。
抜き続けた。
「あなたが、人の体から針を抜いている人?」
ある日、不意に、私は一人の少女に話しかけられた。銀のフレームの眼鏡に長い黒髪をお下げにした、どこにでもいそうな平凡な少女だった。この辺りでは有名な進学校の制服を着ている少女は、私が先程手に入れたばかりの針を持つ手を凝視しながら面白そうに口元を歪めている。
「とっても綺麗な針だね。私だったらこんなに綺麗にはきっと取りだせないだろうな。あなたは特別な人なんだね、私と同じで。でも残念。あなたはちょっとやりすぎちゃったんだよ。」
歌うように紡がれた言葉を瞬時に理解して、私は一歩足を後ろに引く。
少女は、眼鏡の奥の瞳を愉快気に細めて、それでもその声には一切友好的な感情は含ませずに、さながら敵に対するかのように敵意と侮蔑を滲ませて、続けた。
「私はあなたに何もしないよ。でもね、あなたはもうだめ。あなたは集めた針の分、その針の分だけ恨みを買ってしまったの。本当に、残念だよ。」
「・・・何の話だ。」
「分からないよね。分からないだろうね。でももう手遅れ、もうおしまいなんだよ・・・」
そして謎の少女は、警戒する私を残して立ち去ってしまった。
私はさっぱり意味が分からないまま・・・それでも予感めいたものと少女の言葉がくっきりと焼き付いた不可解な気持ちを抱えて、家に帰った。
とあるアパートの一室で、男性の変死体が見つかった。
死後数日経っていると思われる男の死体には、無数の針が刺さったような怪我があり、直接の死因は、心臓を突き破っている金色の針だと判断された。
しかし彼の体を無数に傷つけた思われる大量の針は、その一本一本の太さ・長さが違うことこそ分かったものの、現場には心臓の針以外一本も落ちてはいなかった。
部屋に残されていたのは、手作りだと分かる複数の空の裁縫箱だけだったという。
<FIN>