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魔王棋士

作者: Fille
掲載日:2026/11/06

一 投了


 魔王ゼルギウスの城は、燃えていた。

 黒曜石の尖塔が崩れ、千年の玉座の間に、炎の舌が這い上がってくる。四方の壁を守っていた魔将たちは、もう一人も残っていない。最後の砦だった竜騎兵団も、夜明け前に勇者の剣に散った。

 玉座の前に、勇者が立っていた。

 まだ若い。人間の齢でいえば、十六か十七か。金の髪は煤で汚れ、白銀の鎧には無数の傷が刻まれている。それでも、その青い目だけは、少しも濁っていなかった。

「終わりだ、魔王」

「そうだな」

 ゼルギウスは、玉座に深く腰を沈めたまま答えた。

 三百年、大陸の半分を治めてきた。人間の王国を七つ滅ぼし、エルフの森を焼き、ドワーフの地下都市を水に沈めた。そのすべてを、彼は剣ではなく、策で成し遂げてきた。敵の将を寝返らせ、補給を断ち、囮で釣り、伏兵で挟む。魔王ゼルギウスは、大陸でもっとも恐れられた軍師だった。

 その彼の軍が、一人の少年に崩された。

「一つ、聞いておきたい」

 ゼルギウスは、玉座の肘掛けに頬杖をついた。

「我が策は、完璧だったはずだ。貴様の軍を三度包囲し、三度とも補給を断った。だが貴様は、三度とも抜けてきた。どうやった」

「……どうやったも何も」

 勇者は、剣先を下ろした。

「お前の策が、きれいすぎたんだ。全部、正しい手だった。正しい手は、読める」

「読める、だと」

「お前は、いつも一番強い手を指す。だから、お前が次に何をするか、分かるんだ。俺は、お前が指すはずの手の、一つ先に立っていればよかった」

 ゼルギウスは、しばらく黙っていた。

 それから、喉の奥で、くつくつと笑った。

「指す、か。妙な言い方をする」

「俺の故郷には、盤の上で駒を動かす遊びがあったんだ。戦盤っていう。小さいころから、ずっとそればかりやってた」

 勇者は、玉座の間の床を見回した。崩れた天井から落ちた瓦礫が、ちょうど升目のように散らばっている。

「なあ、魔王。最後に一局、指さないか」

「……何?」

「剣で終わらせるのは簡単だ。でも、俺はお前と、一度ちゃんと話してみたかった。お前の策を、ずっと盤の向こうから見てきたから。お前が何を考えてたのか、知りたいんだ」

 炎が、玉座の間の柱を舐めていた。

 城の外から、勇者の軍の鬨の声が聞こえてくる。

 ゼルギウスは、ゆっくりと玉座から立ち上がった。

「よかろう。盤を持て、勇者」


 勇者が腰の袋から取り出したのは、掌ほどの木の板と、小さな駒の入った布袋だった。

 板には、九つかける九つの升目が刻まれていた。駒は、五角形の木片。それぞれに、人間の文字が書かれている。

「戦盤には、変わった決まりが一つある」

 勇者は、駒を並べながら言った。

「取った敵の駒を、自分の駒として使えるんだ」

 ゼルギウスの眉が、ぴくりと動いた。

「――敵の兵を、寝返らせるのか」

「そう。だから、戦盤では駒が死なない。取られた駒は、相手の兵になって、また盤に戻ってくる」

「面白い。我が戦そのものだ」

 炎に照らされた玉座の間で、二人は向かい合って座った。

 駒が、ぱちり、と盤を打った。

 決まりを覚えるのに、ゼルギウスは十手もかからなかった。どの駒がどう動くのか。何をすれば勝ちなのか。王を詰めれば勝ち。王を取られれば負け。

 二十手を過ぎるころには、もう勇者と互角に指していた。

 四十手を過ぎると、ゼルギウスが優勢になった。勇者の陣の左翼に、執拗に兵を送り込み、守りを薄くしてから、右翼から大駒で切り込む。取った駒をすぐさま打ち込んで、包囲の輪を縮めていく。

 大陸を征した軍略が、小さな盤の上で、そのまま再現されていた。

「さすがだな」

 勇者が、汗を拭った。

「たった一局目で、ここまで指せるなんて」

「当然だ。盤の大きさが変わっただけのこと」

 ゼルギウスは、取った銀の駒を、勇者の王の頭上に打ち込んだ。

「――次で詰む」

 勇者は、盤をじっと見つめていた。

 長い沈黙。炎の爆ぜる音。

 やがて、勇者は小さな駒を一つ、盤の隅に置いた。ゼルギウスの攻めとは何の関係もない、遠い場所に。

「……何だ、その手は」

「お前の王の、逃げ道をふさいだ」

 ゼルギウスは、盤を見た。

 自分の王の周りを。

 攻めることだけを考えていた。勇者の王を詰めることだけを。自分の王の守りは、とうに薄くなっていた。攻めに使える駒を、すべて前線に送り込んでいたから。

 勇者の置いた小さな駒は、ゼルギウスの王の、最後の逃げ道を、静かに閉じていた。

「お前の次の手で、俺の王は詰む。でも、その手を指したら、お前の王も詰むんだ。俺の持ち駒で」

 勇者は、静かに言った。

「先に詰むのは、お前のほうだ」

 ゼルギウスは、盤を見下ろしていた。

 一手、二手、三手。頭の中で、すべての変化を読んだ。どの道を選んでも、自分の王は、勇者の王より一手早く詰む。

 三百年、一度も負けたことのない軍師が。

 攻めの美しさに酔って、自分の足元を見ていなかった。

「……そうか」

 ゼルギウスは、深く息を吐いた。

 そして、自分の王の駒に、そっと指を置いた。

「負けました」

 言葉は、自然に口から出た。

 誰に教わったわけでもない。だが、この遊びには、それがふさわしい気がした。

 勇者が、驚いたように目を見開いた。

 それから、深く頭を下げた。

「ありがとうございました」

 崩れかけた天井から、炎をまとった梁が落ちてきた。

 ゼルギウスは、それを避けなかった。

 最後に見たのは、盤の上の、自分の王の駒だった。


  *


 白い天井だった。

 まぶしい。目を細めると、天井に埋め込まれた細長い板が、ぎらぎらと白い光を放っていた。松明でも、魔法の灯りでもない。熱のない、冷たい光。

 ――どこだ、ここは。

 体を起こそうとして、腕に何かが刺さっていることに気づいた。細い管が、透明な袋につながっている。袋の中で、水のようなものが、一滴ずつ落ちていた。

「……湊?」

 声がした。

 横を向くと、若い女が、椅子から腰を浮かせていた。

 人間の女だった。二十代の半ばくらい。黒い髪を肩のあたりで切りそろえ、目の下に濃い隈がある。ひどく疲れた顔をしていた。その目が、みるみるうちに潤んでいった。

「湊! よかった、目、覚めた……!」

 女は、ゼルギウスの手を両手で握りしめた。温かい手だった。

「三日も眠ってたんだよ。お医者さんは、過労だって。睡眠不足と、栄養失調と、ストレスって。もう、ほんとに、どれだけ心配したと――」

 女の声が、嗚咽に飲まれた。

 ゼルギウスは、握られた手を見下ろした。

 自分の手ではなかった。

 細い、青白い手だった。指は長く、爪は短く切りそろえられている。人差し指と中指の先が、少しだけ硬くなっていた。何かを、毎日つまんでいる者の指だった。

「……鏡を」

 ゼルギウスは言った。

 自分の声ではなかった。若い、少しかすれた、人間の男の声だった。

「え?」

「鏡を、持て」

 女は、戸惑ったように瞬きをした。それから、鞄の中から小さな手鏡を取り出して、差し出した。

 鏡の中に、見知らぬ男がいた。

 二十代の半ばの、痩せた人間の男。黒い髪は伸び放題で、頬はこけ、目の下には女と同じような隈がある。顔立ちは整っているが、ひどく疲れきっていた。

 魔王ゼルギウスの面影は、どこにもなかった。

 ただ、目だけが――鏡の中の男の目だけが、どこか見覚えのある、暗い光を宿していた。

「湊、どうしたの? 頭、痛い?」

「――ミナト」

 ゼルギウスは、その名前を口の中で転がした。

「それが、この体の名か」

「……え?」

 女の顔から、表情が消えた。

 ゼルギウスは、鏡を女に返して、病室を見回した。白い壁。白い寝台。窓の外には、見たこともない高さの塔が、無数に立ち並んでいた。鉄と硝子でできた塔が、灰色の空に向かって、どこまでも伸びている。

 ここは、彼の知っている世界ではなかった。

 そして、寝台の脇の小さな机の上に、それが置いてあった。

 掌ほどの、木の板。九つかける九つの升目。その上に、五角形の小さな駒が、きちんと並べられていた。

 炎の中で、勇者と指した盤と、同じものだった。

「……戦盤」

「戦盤?」

 女が、首を傾げた。

「将棋でしょ。湊の、マグネット盤。救急車で運ばれるとき、ずっと握りしめてたから、持ってきたんだよ」

「ショウギ」

 ゼルギウスは、盤に手を伸ばした。

 細い指が、駒を一つつまみ上げた。指先の硬くなったところに、駒の角が、ぴたりとおさまった。

 まるで、この指が、何万回も同じことをしてきたかのように。



二 奨励会三段


 医者は、ゼルギウスの話を聞いて、「一時的な記憶障害でしょう」と言った。

 白い服を着た中年の男だった。ゼルギウスの目に光を当て、指を何本か立てて数えさせ、いくつか質問をした。今日は何年何月何日か。自分の名前は。生年月日は。住所は。

 ゼルギウスは、どれにも答えられなかった。

 答えられたのは、一つだけだった。

「好きなものは、何ですか」

「――戦だ」

 医者は、困ったように笑って、カルテに何かを書き込んだ。

「過度のストレスで、一時的に記憶が混乱することはあります。体が回復すれば、少しずつ戻ってくることが多い。無理に思い出そうとせず、ゆっくり休んでください」

 医者が出ていくと、病室には、ゼルギウスと女だけが残った。

 女は、椅子に座ったまま、じっとゼルギウスを見ていた。

「……ほんとに、何も覚えてないの」

「覚えていない」

 嘘ではなかった。この体の持ち主の記憶は、何一つ、ゼルギウスの中になかった。

「私のことも?」

「知らん」

 女は、唇を噛んだ。それから、大きく息を吸って、背筋を伸ばした。

「早瀬ひより。湊の幼なじみ。同じ師匠の門下で、女流棋士。初段」

「ジョリュウキシ」

「将棋を指すのが仕事の人。女の人のほうの」

「……将棋を指すのが、仕事」

 ゼルギウスは、机の上のマグネット盤を見た。

「この世界では、盤の遊びが、仕事になるのか」

「遊びじゃないよ」

 ひよりの声が、少しだけ硬くなった。

「将棋は、遊びじゃない。少なくとも、湊にとっては」


 ひよりが話してくれたことを、ゼルギウスは黙って聞いた。

 この体の持ち主は、桐生湊という。二十五歳。将棋のプロ棋士を目指す「奨励会」という養成機関に、十一歳のときに入った。

 奨励会には、段と級がある。いちばん下は六級。そこから一つずつ勝ち上がっていく。三段まで上がると、「三段リーグ」と呼ばれる戦いに入る。半年に一度、三十人ほどの三段が、総当たりではなく、決められた相手と十八局ずつ指す。そして、成績の上位二人だけが、四段に上がり、プロ棋士になれる。

「半年に、二人だけ」

「そう。一年で四人。毎年何百人って子供が奨励会を目指して、プロになれるのは、その四人だけ」

 ひよりは、膝の上で指を組んだ。

「それに、年齢制限があるの。二十六歳の誕生日までに四段になれなかったら、退会。奨励会を、辞めなきゃいけない。そうなったら、もう二度とプロにはなれない」

「湊は、二十五と言ったな」

「……うん」

 ひよりは、窓の外を見た。

「今期の三段リーグが、湊の最後のリーグなの。来年の春には、湊は二十六になる。今期で上がれなかったら、湊は退会」

 ゼルギウスは、黙っていた。

「湊は、今期、すごく調子がよかったんだ。九局指して、七勝二敗。三位だった。このまま勝ち続ければ、上がれるかもしれないって、師匠も言ってた。でも――」

 ひよりの声が、震えた。

「その日の二局目――十局目の対局中に、倒れたの。盤の前で。駒を持ったまま。救急車で運ばれて、対局は不戦敗」

「つまり、今は七勝三敗」

「そう。残りは、八局」

「勝ち上がるには、何勝要る」

「分からない。他の人の成績しだいだけど――たぶん、八局で七勝。いや、全勝しないと、無理かもしれない」

 ひよりは、ゼルギウスに向き直った。

「首位の子が、十戦全勝なの。天野光くん。十六歳の、天才って言われてる子。一位はたぶん、あの子で決まり。残りの一枠を、湊と、あと何人かで争ってる」

「八局で七勝」

 ゼルギウスは、その数字を口の中で転がした。

 戦に置き換えれば、八度の会戦で、七度勝たねばならないということだ。それも、この世界のことを何一つ知らない身で。この遊びの決まりさえ、一局しか指したことのない身で。

「次の対局は、いつだ」

「……二週間後」

 ひよりが、驚いたように目を瞬いた。

「湊、まさか、指すつもり? 記憶もないのに?」

「指さねば、どうなる」

「不戦敗。それが重なったら、もう上がれない」

「では、指す」

 ゼルギウスは、寝台の上で身を起こした。腕に刺さった管が、ぴんと引っ張られた。

「ちょっと、まだ起きちゃだめ!」

「この体の主が、どれほどの者だったかは知らん。だが、八度の会戦のうち七度に勝たねば、すべてを失うのだろう。ならば、寝ている暇はない」

 ひよりは、ぽかんと口を開けていた。

 それから、ふいに、くしゃりと顔を歪めた。

「……湊みたいなこと、言う」

「何?」

「なんでもない」

 ひよりは、目元を手の甲でこすった。

「記憶がなくても、湊は湊なんだね」

 ゼルギウスは、何も答えなかった。

 この女に、真実を告げるべきかどうか、決めかねていた。お前の幼なじみの体には、異界の魔王が入っている、と。言ったところで、信じはしないだろう。記憶の障害がひどくなったと思われるだけだ。

 それに――。

 ゼルギウスは、自分の胸に手を当てた。

 この体の、どこか深いところに、何かがいる気がした。眠っているような、うずくまっているような、かすかな気配。この体の、本当の主の。

 消えたわけではない。

 ただ、ひどく疲れて、目を閉じているだけだ。


 三日後、ゼルギウスは退院した。

 ひよりに連れられて向かったのは、古びた集合住宅の二階の、狭い一部屋だった。

 扉を開けた瞬間、ゼルギウスは足を止めた。

 部屋じゅうが、紙で埋まっていた。

 床にも、机にも、寝台の上にまで、紙の束が積み上げられている。壁という壁には棚が据えつけられ、そこにも、背表紙に数字の書かれた帳面が、ぎっしりと並んでいた。

 部屋の真ん中に、脚のついた分厚い木の盤が一つ。その上に、駒が並べかけのまま置かれていた。

「……これは」

「湊の研究ノート」

 ひよりが、靴を脱ぎながら言った。

「十一歳で奨励会に入ってから、ずっと書いてるの。指した将棋、全部。プロの将棋も、全部並べて、自分の考えを書き込んで。どの手がよくて、どの手が悪かったか。どうすれば勝てたか」

 ゼルギウスは、棚から帳面を一冊抜き出した。

 表紙に「研究 第二百十四冊」と書いてあった。

 開くと、細かい文字と、升目の図が、頁いっぱいにびっしりと書き込まれていた。この世界の文字は、なぜか読めた。この体が、覚えているのだろう。

 ――角換わり腰掛け銀、先手▲4五歩の仕掛け。後手の受けは△同歩、▲同桂、△4四銀。ここで▲2四歩と突き捨てるのが定跡だが、本譜は▲3五歩と変化。後手は――。

 意味は、半分も分からなかった。

 だが、分かることもあった。

 これは、戦の記録だ。一つ一つの会戦を、勝っても負けても、すべて書き留めて、なぜ勝ったのか、なぜ負けたのかを、執拗に考え抜いている。

 ゼルギウスは、別の帳面を抜き出した。第百二冊。第三十七冊。第二百八十九冊。

 どの頁も、同じだった。細かく、几帳面で、執拗で、一手も疎かにしていない。

「二百、九十……」

「三百冊近く、あると思う」

 ひよりが、部屋の隅の紙の束を、そっと揃えた。

「十四年分」

 十四年。

 ゼルギウスは、三百年を生きた。その間に、数えきれないほどの戦を指揮した。だが、すべての戦をこれほど細かく書き留めたことは、一度もなかった。勝った戦は忘れ、負けた戦は――負けた戦など、なかった。

 最後の一局を除いて。

「……見事な臣下だ」

「え?」

「この男は、我が軍のどの将よりも、勤勉だった」

 ひよりは、何と答えていいか分からないという顔をした。

 ゼルギウスは、部屋の真ん中の盤の前に、腰を下ろした。分厚い木の盤だった。脚が四本ついていて、床に座って指すようになっている。盤の表面には、使い込まれた艶があった。

 並べかけの駒が、そのままになっていた。

「湊が、最後に並べてた局面」

 ひよりが、隣に膝をついた。

「倒れる前の晩。次の日の相手の、研究をしてたんだと思う」

 ゼルギウスは、盤を見つめた。

 駒の配置の意味は、まだ分からなかった。だが、盤の向こう側に、誰かが座っている気がした。この盤の前で、十四年間、毎晩駒を並べ続けた男が。

「ひより」

「……え、なに」

 名前を呼ばれて、ひよりは少し驚いたようだった。

「この遊び――将棋の決まりを、一から教えろ」

「一から?」

「我は、記憶がない。駒の動かし方も、満足には知らん。二週間で、八局のうち七局に勝てるようにならねばならん」

 ひよりは、しばらく呆然としていた。

 それから、深いため息をついて、盤の前に正座した。

「――分かった。でも、私、教えるのは厳しいからね。湊にだって、昔からそうだったんだから」

「望むところだ」

 ゼルギウスは、並べかけの駒を、両手でざっと崩した。

 ぱらぱらと、駒が盤の上に散らばった。

 その音が、なぜか、懐かしく聞こえた。



三 持ち駒


 ひよりの教え方は、本人の言ったとおり、厳しかった。

「違う。銀は、斜め後ろには下がれるけど、真横には動けない」

「金は、斜め後ろに下がれない。何回言ったら分かるの」

「桂馬は前にしか跳ねない。後ろに戻れない。一度跳ねたら、もう帰ってこられないの」

 ゼルギウスは、黙って聞いていた。

 駒の動きは、一度聞けば覚えた。王。飛車。角。金。銀。桂馬。香車。歩。八種類の駒が、それぞれ違う動き方をする。飛車と角は、敵陣に入ると「成って」さらに強くなる。銀や桂馬や香車や歩も、成れば金と同じ動きになる。

 そして、取った駒は、自分の駒として、盤の好きな場所に打てる。

「持ち駒、と言うんだったな」

「そう。それが、将棋がチェスとか他の国のゲームと違う、いちばん大きなところ」

「取った敵兵を、寝返らせて、敵陣の真ん中に送り込める」

「……言い方は物騒だけど、そういうこと」

 ゼルギウスは、取った駒を指先でつまんで、くるりと回した。

 五角形の木片。表に「銀将」と書かれ、裏返すと赤い文字で「全」と崩した字が書かれている。

「我が戦は、いつもそうだった」

「何が?」

「敵の将を寝返らせ、昨日までの味方の背中を刺させる。殺すより、生かして使うほうが、ずっと役に立つ。――この遊びを作った者は、戦というものをよく分かっている」

 ひよりは、何か言いたげな顔をした。だが結局、何も言わずに駒を並べ始めた。

「じゃあ、一局指してみよう。平手で。手加減はしないから」


 一局目は、六十手で負けた。

 ゼルギウスは、最初から攻めた。飛車を振って、相手の玉の正面に構え、角を覗かせて、銀を繰り出す。勇者と指したときと同じように、兵を前へ、前へと送り込んだ。

 ひよりは、それを全部、受け止めた。

 金と銀で玉の周りを固め、ゼルギウスの攻めを、一枚一枚剥がしていく。ゼルギウスの駒が敵陣に飛び込むたびに、それを取って、自分の持ち駒にする。気がつけば、ひよりの駒台には、ゼルギウスが送り込んだ兵が山のように積み上がっていた。

 そして、その兵が、一斉にゼルギウスの玉に襲いかかってきた。

「――負けました」

 ゼルギウスは、自分の玉の上に手を置いた。

 ひよりは、少しだけ得意そうな顔をした。

「攻めすぎ。湊は、そんな将棋、指さなかったよ」

「もう一局だ」

 二局目は、七十二手で負けた。

 三局目は、八十八手で負けた。

 四局目は、九十五手。

 五局目で、ゼルギウスは初めて、ひよりの玉を追い詰めた。だが、あと一手というところで、自分の玉が先に詰んだ。勇者と指した、あの最後の一局と、まったく同じ負け方だった。

「……攻めることしか、見ていなかった」

 ゼルギウスは、盤を見下ろしてつぶやいた。

「自分の玉が、どれほど薄くなっていたか」

「そう。将棋は、相手の玉を先に詰めたほうが勝ち。でも、自分の玉が先に詰んだら、どんなにいい攻めをしてても、負けなの」

 ひよりは、ゼルギウスの玉の周りを指さした。

「湊はね、ここの守りが、すごく上手だった。受けの湊って、奨励会では呼ばれてたくらい。相手がどんなに攻めてきても、じっと耐えて、受け切って、最後に一手だけ、静かに勝つの」

「受けの湊」

「地味だって、よく言われてた。華がないって。でも、私は湊の将棋、好きだった」

 ひよりは、そう言ってから、はっとしたように口をつぐんだ。

 ゼルギウスは、それには気づかないふりをした。


 その夜から、ゼルギウスは眠らなくなった。

 湊の研究ノートを、一冊目から順に読んでいった。十一歳の湊が、たどたどしい字で書いた最初の帳面。負けた将棋の記録が、ほとんどだった。どの頁にも、「ここで受けを間違えた」「玉が薄かった」「焦って攻めた」と書いてあった。

 十三歳。十五歳。十八歳。字が少しずつ整っていき、書き込みが細かくなっていく。負けの記録が減り、勝ちの記録が増えていく。だが、どれほど勝っても、湊は勝った将棋にも必ず、「ここはもっといい受けがあった」と書き込んでいた。

 二十歳を過ぎたころの帳面から、少しずつ、書き込みの調子が変わっていった。

 ――また三段リーグで負け越し。あと何期残っている。

 ――ひよりが女流でタイトル戦に出た。おめでとう。俺は何をしているんだろう。

 ――受けだけじゃ勝てない。分かってる。でも、攻め方が分からない。

 ゼルギウスは、その頁で手を止めた。

 几帳面な字が、ところどころ、わずかに乱れていた。

「……ゼルギウス?」

 部屋の隅の布団で、ひよりが寝ぼけた声を出した。終電を逃したと言って、泊まっていったのだった。

「何か言ったか」

「ううん……湊、まだ起きてるの」

「調べものだ」

「あんまり、無理しないでね……」

 ひよりは、また寝息を立て始めた。

 ――今、ゼルギウスと呼んだか?

 いや、気のせいだろう。寝ぼけて、何か別のことを言ったのだ。

 ゼルギウスは、帳面に目を戻した。


 四日目に、ひよりが小さな板を持ってきた。

 薄くて、黒くて、表面が鏡のように光っている。ひよりが指で触れると、その表面に、将棋盤が浮かび上がった。

「スマホの将棋ソフト。AIっていうの。人工知能」

「人工の、知能」

「人間が作った、機械の頭脳。今のプロ棋士より、ずっと強いよ」

 ゼルギウスの目が、鋭く光った。

「――人間より強い軍師を、人間が作ったのか」

「軍師っていうか……まあ、そうかな。プロも、みんなこれで研究してる。どの手がいいか、点数で教えてくれるの」

 ひよりが盤面の上で駒を動かすと、画面の端に数字が現れた。「+124」「-37」「+256」。ひよりが説明してくれた。プラスなら先手が有利、マイナスなら後手が有利。数字が大きいほど、差が大きい。

 ゼルギウスは、その板を受け取って、しばらく黙って眺めていた。

 それから、湊の研究ノートの一冊を開いて、そこに書かれた将棋を、板の上で一手ずつ並べていった。湊が「ここが悪手」と書いたところで、数字を見る。

 数字は、確かに大きく下がっていた。

 湊が「ここはもっといい受けがあった」と書いたところで、機械が示す最善手を見る。

 湊がノートの余白に書いていた手と、同じ手だった。

 ゼルギウスは、次の帳面を開いた。また、並べる。また、数字を見る。

 何十局並べても、同じだった。湊が「悪手」と書いたところでは、必ず数字が下がっている。湊が「こう受けるべきだった」と書いた手は、ほとんどが機械の最善手と一致していた。

「……ひより」

「なに?」

「湊は、この機械と同じだけ、受けが見えていた」

 ひよりは、少し驚いた顔をした。それから、寂しそうに笑った。

「うん。湊は、受けだけなら、プロにも負けないって、師匠も言ってた」

「では、なぜ上がれなかった」

「……攻めるのが、怖かったんだと思う」

 ひよりは、膝を抱えた。

「受けてるあいだは、負けないでしょ。でも、攻めたら、自分の玉が薄くなる。攻め損なったら、負ける。湊は、ずっとそれが怖かったんだと思う。だから、相手が間違えるのを、じっと待ってた。でも、三段リーグの相手は、なかなか間違えてくれないから」

 受けることしかできなかった男。

 攻めることしかできなかった魔王。

 ゼルギウスは、帳面と、機械の板と、盤の上の駒を、順番に見た。

「――面白い」

「え?」

「我と、この男は、逆なのだ」

 ゼルギウスは、口の端を吊り上げた。

 湊の顔で、それは少し不気味な笑みに見えたかもしれない。ひよりが、わずかに身を引いた。

「ひより。もう一局指すぞ」


 十二日目の夜。

 ひよりの玉が、詰んだ。

 ゼルギウスは、最後の銀を、ひよりの玉の頭上に打ち込んだまま、じっと盤を見下ろしていた。

 百十二手の、長い将棋だった。前半は、ひよりの攻めをひたすら受けた。湊のノートで覚えた受けの形を、そのまま盤の上に組み上げた。そして、ひよりの攻めが息切れしたところで、一気に反撃に転じた。取った駒を、次々と敵陣に打ち込んで。

「……負けました」

 ひよりが、小さく頭を下げた。

 それから、顔を上げて、ゼルギウスをじっと見た。

「今の将棋」

「なんだ」

「前半は、湊の将棋だった。でも、後半は――」

 ひよりは、言葉を探すように、盤の上に目を落とした。

「後半は、誰の将棋なんだろう。湊は、あんなふうに攻めない。私の知ってる誰も、あんなふうには攻めない。まるで――」

「まるで?」

「……なんでもない」

 ひよりは、駒を片づけ始めた。

 ゼルギウスは、黙ってそれを見ていた。

 対局の日まで、あと二日だった。



四 師匠


 対局の前日、ひよりに連れられて、師匠の家を訪ねた。

 都心から電車で一時間ほど離れた、古い住宅街の一軒家だった。庭には梅の木が一本あって、まだ固いつぼみをつけていた。

「黒田先生。九段。もう引退してるけど、昔はタイトル戦にも出た、すごい人」

 玄関の前で、ひよりが小声で言った。

「湊のこと、すごく心配してた。記憶のこと、私から話してあるから」

「我は、何と呼べばいい」

「先生、でいいよ。――あと、その『我』っていうの、先生の前ではやめたほうがいいと思う」

「なぜだ」

「なんか……偉そうだから」

 ゼルギウスは少し考えて、頷いた。

「では、『俺』とでも言おう。湊のノートには、そう書いてあった」

「うん。それがいい」


 黒田九段は、小柄な老人だった。

 七十を少し過ぎたくらいだろうか。白髪を短く刈り込み、灰色の着物を着ている。背は曲がっていたが、眼鏡の奥の目は、驚くほど澄んでいた。

「湊くん。よく来たね」

 黒田は、縁側に面した和室で、ゼルギウスを迎えた。部屋の真ん中に、脚つきの将棋盤が置かれている。湊の部屋にあったものより、さらに古く、さらに艶があった。

「体は、もういいのかい」

「はい。ご心配を、おかけしました」

 ゼルギウスは、湊のノートで覚えた言葉づかいで、頭を下げた。

「記憶のことは、ひよりくんから聞いたよ。大変だったね」

 黒田は、穏やかに笑った。

「でも、明日は指すんだって?」

「指します」

「そうか」

 黒田は、それ以上何も聞かなかった。ただ、盤の前に座って、駒箱を開けた。

「じゃあ、一局指そうか。久しぶりに」


 ひよりが記録係のように盤の脇に座り、ゼルギウスと黒田は向かい合った。

 駒を並べる。王将と玉将。黒田が王将を取り、ゼルギウスが玉将を取った。上位者が王将を持つ、というのは、ひよりに教わったしきたりだった。

「お願いします」

「お願いします」

 頭を下げ合って、ゼルギウスが先手で▲7六歩と角道を開けた。黒田が△3四歩と応じる。

 序盤は、静かに進んだ。ゼルギウスは、湊のノートで覚えた形に、駒を組み上げていった。玉を左に寄せ、金と銀で囲う。矢倉という、湊が好んだ囲いだった。

 黒田も、ゆったりと駒を組んでいく。急ぐ気配は、まったくなかった。

 四十手を過ぎたあたりで、ゼルギウスは仕掛けた。

 黒田の陣の右側が、ほんのわずかに薄い。そこに、銀を繰り出す。黒田が受ければ、角を切って、飛車で乗り込む。湊のノートには書いていない、ゼルギウス自身の読みだった。

 ぱちり、と銀を打った。

 黒田の手が、止まった。

 老人は、眼鏡の奥の目を細めて、盤をじっと見つめた。一分。二分。縁側から、冬の陽が差し込んでいた。

 やがて、黒田は駒を動かした。ゼルギウスの読みどおりの受けだった。

 ゼルギウスは、角を切った。

 駒がぶつかり合い、盤の上が、一気に騒がしくなった。取って、取られて、打って、打たれて。ゼルギウスの持ち駒が増えていく。黒田の陣が、少しずつ崩れていく。

 七十手目。ゼルギウスは、黒田の玉を、あと三手で詰むところまで追い詰めた。

 ――勝った。

 そう思った瞬間だった。

 黒田が、静かに歩を一枚、打った。

 ゼルギウスの攻めとは何の関係もない、盤の端に。

 ゼルギウスは、その歩を見て、それから自分の玉を見た。

 囲いの金が、一枚、攻めに駆り出されて、いなくなっていた。銀も、二枚とも前線に出ていた。玉の周りに残っているのは、歩と、香車と、金が一枚。

 そして、黒田の打った歩が、その玉の逃げ道を、そっとふさいでいた。

 ――また、だ。

 勇者と指した、あの最後の一局。

 ひよりと指した、五局目。

 攻めに夢中になって、足元を見ていなかった。

「……」

 ゼルギウスは、盤を見つめたまま、動かなかった。読んだ。あらゆる変化を、頭の中で並べた。どの道を選んでも、黒田の玉より、自分の玉のほうが、一手早く詰んだ。

「負けました」

 ゼルギウスは、頭を下げた。

「ありがとうございました」

 黒田も、深く頭を下げた。


 しばらく、誰も何も言わなかった。

 庭の梅の木の枝で、小鳥が一羽、鳴いていた。

「湊くん」

 黒田が、ゆっくりと口を開いた。

「君の将棋は、湊くんの将棋じゃないね」

 ひよりが、はっと顔を上げた。

 ゼルギウスは、黙って黒田を見た。

「記憶をなくすと、将棋も変わるのかな。僕は医者じゃないから、分からない。でも、四十年、将棋を見てきた目で言わせてもらうと――」

 黒田は、盤の上の駒を、一枚ずつ指さしていった。

「この銀の出方。この角の切り方。この飛車の乗り込み方。どれも、湊くんは指さない手だ。湊くんは、もっと慎重だった。慎重すぎるくらいにね」

「……」

「でも、どれも、強い手だ。驚くほど強い。プロでも、なかなか指せない手だ」

 黒田は、眼鏡を外して、着物の袖で拭いた。

「ただ、君の将棋には、一つ、欠けているものがある」

「欠けているもの」

「相手が、いない」

 ゼルギウスは、眉をひそめた。

「相手は、いました。先生が」

「盤の向こうに座っていた、という意味ではね」

 黒田は、眼鏡をかけ直した。

「将棋っていうのは、盤を挟んで、相手と話すものなんだよ。こっちが一手指す。相手が一手返す。それは、問いかけと返事なんだ。『こう来たら、どうする?』『こう受けるよ』『じゃあ、こっちは?』――そうやって、一局かけて、相手と話をする」

「話を」

「君の将棋は、話をしていない。命令しているんだ。『こう来い』『こう受けろ』『ここで死ね』。相手の返事を、聞いていない」

 ゼルギウスの胸の奥で、何かが、ちりりと痛んだ。

 ――お前の策が、きれいすぎたんだ。全部、正しい手だった。正しい手は、読める。

 炎の中で、勇者が言った言葉が、よみがえった。

「命令する将棋は、強いよ。相手が言うことを聞いてくれるうちはね」

 黒田は、盤の上の、自分が打った歩を指さした。

「でも、相手が命令に従わなかったとき――相手が、こっちの思ってもみなかった返事をしたとき、命令する将棋は、脆い。自分の足元を、見ていないから」

 ゼルギウスは、その歩を見下ろした。

 盤の端の、小さな歩。

 勇者が置いた、小さな駒と、同じ場所にあった。


「湊くんの将棋は、逆だった」

 黒田は、少し遠い目をした。

「湊くんは、相手の話を、聞きすぎた。相手が何を言いたいのか、全部聞いて、全部受け止めて、それで自分の番が来ても、何も言えなかった。受けることはできるのに、自分の言葉で問いかけることが、できなかった」

「……攻めるのが、怖かった、と」

「ひよりくんから聞いたかい」

 黒田は、ひよりを見て、小さく笑った。ひよりは、うつむいた。

「湊くんは、優しすぎたんだよ。相手を倒すのが、怖かった。自分が倒されるのも、怖かった。だから、じっと待ってた。相手が間違えるのを」

 黒田は、ゼルギウスに向き直った。

「君の将棋と、湊くんの将棋。二つを足したら、ちょうどいいのにね」

 ゼルギウスは、黙っていた。

 黒田は、それ以上何も言わなかった。君は誰だ、とも聞かなかった。ただ、駒を一枚ずつ、駒箱に戻していった。

「明日は、がんばりなさい。君が湊くんでも、そうでなくても――あの盤の前に座るのは、君なんだから」


 帰りの電車の中で、ひよりはずっと黙っていた。

 窓の外を、鉄と硝子の塔が流れていく。夕暮れの空が、紫に染まっていた。ゼルギウスの城から見た、最後の空と、少しだけ似ていた。

「……ひより」

「なに」

「黒田という男は、何者だ」

「師匠だよ。湊の」

「そうではない」

 ゼルギウスは、窓ガラスに映る湊の顔を見た。

「あの男は、我が誰か、気づいている」

 ひよりは、しばらく答えなかった。

「――私もね」

 電車が、駅に滑り込んでいった。扉が開いて、乗客が降りていく。

 ひよりは、窓の外を見たまま、小さな声で言った。

「私も、ときどき分からなくなる。今、隣にいるのが、誰なのか」

 扉が閉まった。

 電車が、また動き出した。

 ゼルギウスは、何も言えなかった。

 胸の奥の、深いところで、何かがかすかに身じろぎした気がした。



五 三段リーグ


 将棋会館は、思っていたよりずっと地味な建物だった。

 灰色の四角い建物で、入口の脇に、小さな看板が出ているだけだった。城でも、砦でもない。だが、ゼルギウスは、その扉の前で、少しだけ足を止めた。

 この中で、毎年何百人もの子供たちの夢が、たった四つの椅子を奪い合って、潰えていく。

 ――戦場だ。

 剣も、血も、炎もない。だが、ここは紛れもなく戦場だった。


 対局室は、広い和室だった。

 畳の上に、将棋盤がいくつも並べられている。盤の脇には、四角い時計が置かれていた。対局時計、とひよりが教えてくれた。持ち時間は、一人九十分。それを使い切ったら、一手を六十秒以内に指さなければならない。秒読み、と呼ぶのだという。

 部屋には、すでに二十人ほどの若い男たちが集まっていた。

 皆、二十歳前後に見えた。学生服を着た者も、背広を着た者も、普段着の者もいる。だが、全員に共通していることがあった。誰も、口をきいていなかった。皆、自分の盤の前に座って、目を閉じたり、天井を見上げたり、膝の上で指を動かしたりしていた。

 ゼルギウスが部屋に入ると、何人かが顔を上げた。

「……桐生さん」

「戻ってきたんだ」

「倒れたって聞いたけど」

 小さな囁きが、畳の上を這った。好奇の目。同情の目。そして、いくつかの、計算の目。――桐生はもう、まともに指せないのではないか。今期の上がりの枠が、一つ空くのではないか。

 ゼルギウスは、それらの目を、一つずつ見返した。

 計算の目をしていた者たちが、慌てて目をそらした。

 ――よい。

 ゼルギウスは、胸の中でつぶやいた。

 敵が、こちらを侮っている。戦の始まりとしては、悪くない。


 十一回戦の相手は、佐伯という三段だった。

 二十三歳。背が高く、肩幅の広い男だった。湊のノートによれば、居飛車の急戦を好む攻め将棋で、湊は過去に二度指して、二度とも負けていた。

 ――佐伯三段。攻めが鋭い。受け切れなかった。序盤で主導権を握られると、手も足も出ない。

 ノートには、そう書いてあった。

「お願いします」

「お願いします」

 振り駒で、ゼルギウスが後手になった。

 佐伯が、▲7六歩と角道を開けた。ゼルギウスが△3四歩と応じる。▲2六歩。△8四歩。

 佐伯は、ノートに書いてあったとおりの将棋を指してきた。早めに銀を繰り出し、飛車先の歩を伸ばして、ゼルギウスの陣に圧力をかけてくる。教科書どおりの、鋭い急戦だった。

 ゼルギウスは、その形を知っていた。湊のノートに、三十局分の記録があった。佐伯だけでなく、同じ形を指した何十人もの棋士の将棋が、湊の几帳面な字で書き留められていた。

 佐伯が仕掛けてきた。

 ゼルギウスは、湊のノートのとおりに受けた。

 佐伯が、さらに攻めを重ねる。ゼルギウスは、それも受けた。三十手。四十手。佐伯の攻めが、少しずつ空回りし始めた。

 佐伯の眉間に、皺が寄った。

 ――おかしい。

 そう思っているのが、手に取るように分かった。桐生湊は、この形で二度負けている。受け切れなかったはずだ。それなのに、今日は崩れない。

 四十八手目。

 佐伯が、勝負の一手を指した。飛車を、ゼルギウスの陣に向かって、ぐいと突き出した。湊のノートによれば、二度とも、ここで湊は受けを誤って崩されていた。

 ゼルギウスは、時計を見た。持ち時間は、まだ六十分以上残っていた。

 盤を見つめた。

 受けの手は、見えていた。湊のノートに書いてあった。――二度目の負けのあと、湊が何日もかけて見つけた受け。△4四角と、角を引いて受ける手。そうすれば、佐伯の攻めは止まる。

 だが、ゼルギウスの目には、もう一つの手が見えていた。

 受けるのではなく、佐伯の飛車を、取らせる手。

 飛車を取らせて、その代わりに、佐伯の玉の周りの金を、角で取る。そこから、取った金を佐伯の玉の頭に打ち込み、持ち駒の銀と桂馬で、一気に寄せる。

 飛車を見捨てる。この盤で、もっとも強い駒を。

 ――兵を、捨てる。

 大陸で、何度もやってきたことだった。もっとも精強な部隊を囮にして、敵の主力を引きつけ、その隙に、手薄になった敵の本陣を突く。

 ゼルギウスは、角を、佐伯の陣の金に向かって走らせた。

 ぱちり、と駒音が響いた。

 隣の盤で指していた三段が、思わず顔を上げてこちらを見た。

 佐伯の顔から、血の気が引いた。

 佐伯は、盤に覆いかぶさるようにして、読み始めた。十分。二十分。佐伯の時計が、刻々と減っていく。ゼルギウスは、膝の上で手を組んだまま、ぴくりとも動かなかった。

 佐伯が、ようやく駒を動かした。ゼルギウスの飛車を、取った。

 ゼルギウスは、取った金を、佐伯の玉の頭に打ち込んだ。

 そこから先は、一方的だった。

 持ち駒の銀を打つ。桂馬を跳ねる。歩を突き捨てる。佐伯の玉は、右へ左へと逃げ惑ったが、ゼルギウスの駒が、そのすべての逃げ道を、一つずつ塞いでいった。

 七十一手目。

 佐伯が、震える手を、自分の玉の上に置いた。

「……負けました」

「ありがとうございました」

 ゼルギウスは、頭を下げた。

 顔を上げると、佐伯が、呆然とした目でこちらを見ていた。

「桐生さん……今の、何なんですか」

「何、とは」

「あんな将棋、桐生さんは指さなかった。飛車を、見捨てるなんて」

 ゼルギウスは、盤の上の駒を、黙って片づけ始めた。

「――あなた、本当に桐生さんですか」

 佐伯の声は、小さかった。だが、周りの盤の何人かが、その言葉に顔を上げた。

 ゼルギウスは、駒箱の蓋を閉めた。

「記憶をなくしてな。将棋も、少し変わったらしい」

 それだけ言って、立ち上がった。


 昼の休憩のあいだ、ゼルギウスは対局室の廊下の窓から、外を眺めていた。

 鉄と硝子の塔の向こうに、灰色の空が広がっていた。

 ――勝った。

 だが、胸の中に、勝利の高揚はなかった。

 代わりに、奇妙な居心地の悪さがあった。佐伯の、呆然とした目。あんな将棋、桐生さんは指さなかった。

 湊のノートには、佐伯への受けの手が書いてあった。湊が何日もかけて、ようやく見つけた受け。それを使えば、たぶん、勝てた。湊の将棋で、勝てた。

 だが、ゼルギウスは、それを使わなかった。

 自分の将棋で勝つほうを、選んだ。

 ――湊の将棋で勝って、何になる。この体で勝つのは、我だ。

 そう思った。そう思ったはずだった。

 胸の奥で、何かがかすかに身じろぎした。

 悲しんでいるような、気配だった。


 午後の十二回戦の相手は、二十四歳の振り飛車党だった。

 ゼルギウスは、また攻めた。相手の美濃囲いの、ほんのわずかな隙を突いて、銀を捨て、角を捨て、最後は桂馬一枚で玉を仕留めた。八十三手。

 二連勝。九勝三敗。

 対局室を出るころには、廊下のあちこちで、三段たちが小声で話していた。

「桐生さんの将棋、見た?」

「見た。飛車も角も平気で捨てる」

「受けの桐生が、なんであんな」

「なんか、怖かった。盤の向こうから、睨まれてるみたいで」

「――魔王みたいだ」

 誰かが、そう言った。

 ゼルギウスは、その声に足を止めた。

 声のしたほうを見ると、学生服の三段が二人、慌てて口をつぐんだ。

 ゼルギウスは、何も言わずに歩き出した。

 ――魔王みたいだ、か。

 口の端が、勝手に吊り上がった。

 悪くない響きだった。


 階段を下りかけたとき、背後から声がかかった。

「桐生三段」

 振り返ると、一人の少年が、階段の上に立っていた。

 十六歳くらいだろうか。学生服を着て、黒い髪を短く切りそろえている。小柄で、細身で、どこにでもいそうな少年だった。

 ただ、その目だけが――

 青くはなかった。この世界の人間らしく、黒い目だった。

 だが、その目は、少しも濁っていなかった。

 炎の中で見た目と、同じだった。

「今日の二局、見させてもらいました」

 少年は、静かに言った。

「飛車を捨てて、金を取って、そこから寄せる。佐伯さんとの将棋の、四十八手目」

 少年は、階段を一段、下りてきた。

「――あれ、大陸の北の、灰色峡谷の戦いと、同じ手ですよね」

 ゼルギウスの全身が、凍りついた。

 灰色峡谷。

 三百年前、ゼルギウスが、最強の竜騎兵団を囮にして、人間の連合軍の本陣を討った戦い。大陸の歴史に残る、魔王ゼルギウスの最初の大勝利。

 この世界の誰も、知るはずのない名前だった。

「……貴様」

 ゼルギウスの口から、湊のものではない声が漏れた。

 少年は、まっすぐにゼルギウスを見下ろしていた。

「やっぱり、お前だったのか」

 少年の声は、静かで、少しだけ震えていた。

「――久しぶりだな、魔王」



六 勇者


 将棋会館の近くに、小さな公園があった。

 枯れた芝生と、錆びたブランコと、木のベンチが二つ。冬の夕暮れで、子供の姿はなかった。

 少年――天野光は、ベンチの片方に腰を下ろした。ゼルギウスは、その隣には座らず、向かいのベンチに腰かけた。二人のあいだに、五歩ほどの距離があった。

 盤を挟んだ距離と、だいたい同じだった。

「何から話せばいいかな」

 光は、自動販売機で買った温かい缶を、両手で包んでいた。

「俺は、天野光。十六歳。奨励会三段。――三年前まで、四年間、お前の世界にいた」

「四年」

「十三歳のとき、奨励会の例会の対局中に、急に目の前が真っ白になって。気がついたら、知らない森の中にいた。手には、マグネット盤だけ握ってた」

 光は、缶を一口飲んだ。

「そこから先は、お前も知ってるだろ。人間の王国に拾われて、なんか剣が使えるようになってて、勇者とか呼ばれて。四年かけて、お前の城まで行った」

「そして、我と指した」

「ああ」

 光は、空を見上げた。紫に暮れかけた空。

「お前が投了して、天井が落ちてきて――気がついたら、将棋会館の対局室にいた。十三歳の、例会の対局中に。目の前の盤が、白くなる直前と、まったく同じ局面だった」

「時が、戻っていたのか」

「戻ってたっていうか、こっちでは一秒も経ってなかった。俺は、向こうで四年過ごして、十七歳になってたはずなのに、こっちに戻ったら十三歳の体のままだった。誰も、俺がいなくなったことに気づいてなかった」

 光は、自嘲するように笑った。

「それから三年。俺は、何事もなかったみたいに、奨励会で将棋を指してる。十三歳で二段だったのが、十六歳で三段になって、今期のリーグで、たぶん上がる」

「十二戦全勝だそうだな」

「……ああ」

「強いのだな、勇者は」

「強いんじゃない」

 光は、首を振った。

「向こうで四年、毎日、命がけで戦ってきたんだ。お前の策を読んで、一つ先に立って、仲間を死なせないように。――それに比べたら、盤の上の将棋なんて、全然怖くない。負けたって、誰も死なないから」

 その声には、どこか、苦いものが混じっていた。


「お前は、なんでここにいる」

 光が、ゼルギウスに目を向けた。

「我にも、分からん」

 ゼルギウスは、正直に答えた。

「城の天井が落ちてきて、目を閉じた。次に目を開けたら、白い部屋にいた。この体の中に」

「桐生さんの、体の中に」

「この体の主が倒れたのと、我が死んだのが、同じ時だったのかもしれん。あるいは――」

 ゼルギウスは、ポケットから、湊のマグネット盤を取り出した。

「この体の主は、倒れたとき、これを握っていたそうだ。貴様が、我が城で取り出したのと、同じものを」

 光は、マグネット盤をじっと見つめた。

「……盤が、道になったのかもな。俺も、盤を握って向こうに行って、盤を握って帰ってきたから」

 しばらく、二人とも黙っていた。

 公園の街灯が、ぱちり、と点いた。


「桐生さんは」

 光が、ふいに言った。

「桐生さんは、どうなったんだ」

「この体の中に、いる」

 ゼルギウスは、自分の胸に手を当てた。

「眠っている。深いところで。ときどき、身じろぎするのが分かる。だが、目を覚まさない」

「――そうか」

 光は、缶を握りしめた。アルミの缶が、ぺこりとへこんだ。

「俺は、桐生さんに、将棋を教わったんだ」

「何?」

「小学生のころ。奨励会に入る前の、研修会っていうところで。桐生さんは、もう奨励会の二段で、ときどき子供たちの指導に来てくれてた。俺は、そのころすごく攻めっ気が強くて、受けがぜんぜんできなかった。いつも、攻め急いで、自分の玉を詰まされてた」

 光は、懐かしそうに目を細めた。

「桐生さんが、教えてくれたんだ。『攻めるのは、自分の玉が安全になってからでいい。将棋は、先に攻めたほうが勝つんじゃない。最後に、一手だけ早いほうが勝つんだ』って」

 ――最後に、一手だけ早いほうが勝つ。

 ゼルギウスの脳裏に、炎の中の盤がよみがえった。勇者が置いた、盤の隅の小さな駒。ゼルギウスの王の逃げ道を、静かに塞いだ一手。

「我に勝った、あの一手は」

「ああ。桐生さんに教わった将棋だ」

 光は、まっすぐにゼルギウスを見た。

「俺がお前に勝てたのは、桐生さんのおかげなんだ」

 ゼルギウスは、言葉を失った。

 三百年、一度も負けなかった魔王。その魔王を倒した一手は、この体の主が、小さな子供に教えた受けの心得だった。

 そして今、魔王は、その男の体の中にいる。

「――皮肉なものだな」

「皮肉なんかじゃない」

 光の声が、鋭くなった。

「魔王。お前に、言っておきたいことがある」

 光は、ベンチから立ち上がった。

「今日のお前の将棋を、見た。飛車を捨てて、角を捨てて、相手を叩き潰す将棋。大陸でお前がやってきた戦と、同じだった。佐伯さんの顔を見たか。あの人は、桐生さんと同期で、ずっと桐生さんのことを尊敬してたんだぞ」

「……」

「桐生さんの体で、お前の戦をするな」

 光の拳が、震えていた。

「桐生さんは、相手を叩き潰すために将棋を指してたんじゃない。相手の話を、ちゃんと聞く人だった。どんなに弱い子供が相手でも、ちゃんと盤の向こうの相手を見て、指してた人なんだ。その体で、お前は――」

「では、どうしろと言う」

 ゼルギウスも、立ち上がった。

「この体の主は、眠っている。目を覚まさない。あと六局のうち、五局は勝たねば、この男は将棋を辞めねばならん。十四年、毎晩駒を並べ続けた男が、すべてを失う」

「……」

「この男の受けだけでは、上がれなかった。だから倒れたのだ。我の攻めで勝って、何が悪い」

 光は、唇を噛んだ。

 二人は、五歩の距離を挟んで、睨み合った。

 盤を挟んで、向かい合っているのと同じだった。


 先に目をそらしたのは、光だった。

「――最終局」

 光は、背を向けて言った。

「三段リーグの対戦表は、リーグが始まる前に全部決まってる。最終日の十八回戦。俺の相手は、桐生湊三段だ」

 ゼルギウスは、目を見開いた。

「俺は、たぶんその前に一位が決まる。でも、お前は、たぶん最後の一局まで、二位を争ってる。その最後の一局の相手が、俺だ」

 光は、振り返った。

 街灯の光の中で、その黒い目が、まっすぐにゼルギウスを射抜いていた。

「お前がもし、桐生さんの体で、魔王の将棋を指し続けるなら――俺は、最終局で、お前を倒す。もう一度」

「……」

「桐生さんを、プロにしたくないわけじゃない。桐生さんには、プロになってほしい。誰よりも。でも、それは、桐生さんの将棋でなきゃ、意味がないんだ」

 光は、缶をゴミ箱に放り込んだ。

 からん、と乾いた音がした。

「お前が、桐生さんの将棋を指すなら――そのときは、全力で、正面から指す。勇者としてじゃなく、桐生さんに将棋を教わった、一人の三段として」

 光は、公園の出口に向かって歩き出した。

 数歩進んで、立ち止まった。

「――なあ、魔王」

「なんだ」

「あの城で、なんで最後に『負けました』って言ったんだ」

 ゼルギウスは、答えられなかった。

「あれを言える奴は、もう将棋指しなんだよ」

 光は、振り返らずに言った。

「次に会うのは、最終局だ」

 少年の背中が、夕闇の中に消えていった。


 ゼルギウスは、一人、公園のベンチに座り直した。

 ポケットの中のマグネット盤を、取り出した。

 盤の上には、湊が最後に並べていた局面が、そのまま残っていた。磁石の駒が、九つかける九つの升目に、ぴたりと貼りついている。

 次の日の相手の研究をしていた、とひよりは言っていた。

 ゼルギウスは、その局面をじっと見つめた。

 湊の玉の周りに、金と銀が、何重にも固められていた。攻めの駒は、ほとんど前に出ていない。ひたすら、守りを固めた局面。

 受けの湊。

 ――桐生さんの体で、お前の戦をするな。

 勇者の声が、耳の奥で鳴った。

 胸の奥で、また、何かがかすかに身じろぎした。

 今度は、泣いているような気配だった。



七 敗北


 十三回戦は、勝った。

 相手は、二十歳の居飛車党だった。ゼルギウスは、序盤から積極的に攻めた。相手の玉の囲いが完成する前に、銀を二枚繰り出して、強引に突破した。九十一手。十勝三敗。

 勝ったあと、相手の三段は、盤の前で長いあいだ動かなかった。

 ゼルギウスは、それを見ないようにして、対局室を出た。


 十四回戦の相手は、村上という三段だった。

 二十八歳。対局室に集まった三段の中で、いちばん年上だった。髪には白いものが混じり始めていて、背広の肘のあたりが、少し擦り切れていた。

 湊のノートには、村上について、短い書き込みがあった。

 ――村上さん。穴熊。とにかく堅い。攻めても攻めても、崩れない。年齢制限の延長で、三段を続けている。俺より三つ上。俺も、ああなるのかもしれない。

「お願いします」

「お願いします」

 村上は、深く頭を下げた。顔を上げたとき、その目は、とても静かだった。

 ゼルギウスが先手になった。

 村上は、ノートのとおりの将棋を指してきた。飛車を左に振って、玉を盤の隅へ、隅へと潜り込ませていく。香車の真上に玉を置き、その周りを金と銀で、ぐるりと固める。

 穴熊。

 湊のノートによれば、将棋でもっとも堅い囲いの一つだった。穴の底に熊が潜り込むように、玉が盤の隅に引きこもる。攻める側からすれば、どこから手をつけていいか分からない、鉄の城だった。

 ――城、か。

 ゼルギウスは、盤を見下ろして、薄く笑った。

 城攻めなら、得意だ。三百年、数えきれないほどの城を落としてきた。

 どんなに堅い城にも、必ず弱いところがある。城壁の継ぎ目。水路。補給路。そこを一点に突けば、城は内側から崩れる。


 ゼルギウスは、攻めた。

 村上の穴熊の、端の歩を突いた。香車で圧力をかける。桂馬を跳ねる。角を覗かせる。

 村上は、受けた。

 淡々と。まるで、ゼルギウスの攻めを、最初から知っていたかのように。端の歩を取られても慌てず、香車を突きつけられても動じず、一枚、また一枚と、穴熊の金銀を足していく。

 四十手。五十手。

 ゼルギウスの攻めが、少しずつ重くなっていった。

 六十手目、ゼルギウスは、勝負に出た。

 飛車を、捨てた。

 村上の穴熊の、いちばん外側の金と交換した。佐伯を倒したのと同じ、大駒を囮にする手。そこから、持ち駒の金を打ち込んで、穴熊の継ぎ目をこじ開ける。

 ぱちり、と駒音が響いた。

 村上の手が、止まった。

 だが、それは一瞬だった。村上は、ゼルギウスの飛車を、静かに取った。そして、何事もなかったかのように、ゼルギウスの打ち込んだ金の、すぐ隣に、銀を一枚、打った。

 ゼルギウスは、その銀を見た。

 それから、自分の読みを、頭の中で並べ直した。

 金を打ち込めば、穴熊の継ぎ目が開く。そこへ銀を打って、さらに広げる。桂馬で――。

 桂馬で、何をするのだったか。

 ゼルギウスの読みが、ふいに途切れた。

 村上が打った銀が、ゼルギウスの桂馬の跳ねる先を、ちょうど塞いでいた。桂馬が跳べなければ、継ぎ目は広がらない。継ぎ目が広がらなければ、穴熊は崩れない。

 ゼルギウスは、時計を見た。持ち時間は、残り十二分だった。

 別の道を探した。角を切るか。香車を走らせるか。歩を突き捨てるか。

 どの道も、村上の穴熊の、分厚い壁に阻まれた。

 そして、ゼルギウスが攻めの道を探しているあいだに、村上は、ゼルギウスの捨てた飛車を、ゼルギウスの陣の奥深くに、そっと打ち込んできた。

 ゼルギウスの玉の、真横に。

 ――兵を、捨てすぎた。

 ゼルギウスの玉の周りには、もう、守りの駒がほとんど残っていなかった。攻めに使える駒は、すべて村上の穴熊に向かって送り込んでいた。その駒の多くは、今、村上の駒台の上に積み上がっていた。

 寝返った兵が、元の主に、刃を向けていた。

 自分が、大陸で何度もやってきたことを、そのままやり返されていた。

 秒読みが始まった。

 ――五十秒。

 ゼルギウスは、玉を逃がした。

 村上が、銀を打った。

 ――四十秒。

 玉を、さらに逃がした。

 村上が、金を打った。

 ――三十秒、一、二、三。

 逃げ道は、もうどこにもなかった。

 ゼルギウスは、自分の玉の上に、手を置いた。

「……負けました」

「ありがとうございました」

 村上は、深く頭を下げた。

 百二十四手。十勝四敗。


 対局が終わっても、村上はすぐには立ち上がらなかった。

 盤の上の駒を、一枚ずつ、ゆっくりと駒箱に戻しながら、村上は言った。

「桐生くん」

「……はい」

「最近、将棋が変わったって、みんな言ってるね」

「記憶を、なくしましたので」

「そうか」

 村上は、駒箱の蓋を閉めた。

「僕も、最後のリーグなんだ」

 ゼルギウスは、顔を上げた。

「年齢制限の延長で、三段を続けてきた。勝ち越せば、一期ずつ延長できる。でも、それも今期が最後。来年は、もう二十九を越えるから」

 村上は、擦り切れた背広の袖口を、指先でなぞった。

「今期は、七勝七敗。もう上がりの目はない。でも、勝ち越せば、少なくとも――最後まで、三段のまま終われる」

「……」

「桐生くんとは、何度も指したね。いつも、長い将棋になった。桐生くんは受けが強いし、僕も受けが好きだから。お互いに、相手が攻めてくるのを待って、なかなか終わらなかった」

 村上は、少しだけ笑った。

「楽しかったよ。桐生くんと指すのは。盤の向こうで、桐生くんが何を考えてるのか、いつも分かる気がした。『そっちから来ないの?』『いや、そっちこそ』って。言葉はなくても、ずっと話してるみたいで」

 村上は、立ち上がった。

「今日の桐生くんは――ちょっと、知らない人みたいだった」

 それだけ言って、村上は対局室を出ていった。


 ゼルギウスは、空になった盤の前に、一人で座っていた。

 対局室には、もう誰も残っていなかった。窓の外は、とうに暗くなっていた。

 ――十勝四敗。

 残りは、四局。

 頭の中で、計算した。ひよりに聞いた、他の三段たちの成績。二位を争っている者が、三人。全員が、十一勝前後で並んでいる。四局のうち、一つでも落とせば、たぶん、もう上がれない。

 四連勝。

 ゼルギウスは、自分の手を見下ろした。

 湊の、細い、青白い手。人差し指と中指の先が、少しだけ硬くなった手。

 ――兵を、捨てすぎた。

 村上との将棋で、ゼルギウスは負けた。だが、負けたのは、村上にではなかった。

 自分の戦に、負けたのだ。

 攻めることしか見ていなかった。相手の城の継ぎ目ばかり探して、自分の城が空になっていることに、気づかなかった。勇者に負けたときと、何も変わっていない。三百年の軍略は、この盤の上では、通じないのか。

 ――いや。

 通じなかったのではない。

 村上は、ゼルギウスの攻めを、全部受け止めた。そのうえで、ゼルギウスの捨てた兵を拾い上げて、静かに返してきた。

『そっちから来ないの?』

『いや、そっちこそ』

 村上は、盤の向こうで、ずっと話しかけていたのだ。湊と指すときのように。

 ゼルギウスは、それを聞いていなかった。

 ――君の将棋は、話をしていない。命令しているんだ。

 黒田の言葉が、よみがえった。

 ――相手が、こっちの思ってもみなかった返事をしたとき、命令する将棋は、脆い。

 ゼルギウスは、拳を握りしめた。

 湊の細い指が、手のひらに食い込んだ。


 対局室を出ると、廊下の長椅子に、ひよりが座っていた。

 女流の対局が、同じ日にあったのだという。ひよりは、ゼルギウスの顔を見て、何かを察したように、黙って立ち上がった。

「――負けた?」

「負けた」

「村上さん?」

「ああ」

 ひよりは、しばらく黙っていた。

 それから、静かに言った。

「村上さんとの将棋、湊は、一度も負けたことなかったんだよ」

 ゼルギウスは、足を止めた。

「いつも、長い将棋になって。でも、最後は湊が勝ってた。受けと受けの将棋なら、湊は誰にも負けなかった」

 ひよりは、ゼルギウスの前に回り込んだ。

 その目が、怒っていた。

 初めて見る、ひよりの顔だった。

「ねえ。湊の将棋、返してよ」

 声が、震えていた。

「あなたが誰なのか、私には分からない。記憶がなくなっただけなのかもしれない。でも――湊は、あんな将棋、指さない。相手の飛車を奪って、相手を叩き潰して、相手が泣きそうな顔をしてても、平気で次の対局に行く。そんなの、湊じゃない」

「……」

「湊は、優しかった。弱かったかもしれないけど、優しかった。相手が誰でも、盤の向こうの人のことを、ちゃんと見てた。私は、その将棋が好きだった。ずっと、好きだった」

 ひよりの目から、涙がこぼれた。

「湊を、返して」

 ゼルギウスは、何も言えなかった。

 廊下の窓ガラスに、湊の顔が映っていた。

 その顔は、ひどく途方に暮れていた。



八 最後の頁


 湊の部屋に戻ったのは、夜の十時を過ぎたころだった。

 電気をつけると、紙の山が、蛍光灯の白い光に照らし出された。三百冊近い研究ノート。床に、机に、寝台の上に、積み上げられた紙の束。

 ゼルギウスは、部屋の真ん中の盤の前に、腰を下ろした。

 盤の上には、何も並んでいなかった。

 しばらく、ただ盤を見つめていた。

 九つかける九つの升目。八十一の升。三百年、大陸を相手にしてきた魔王にとって、あまりにも小さな戦場。だが、その小さな戦場で、ゼルギウスは、もう三度も負けていた。勇者に。黒田に。村上に。

 いや、ひよりにも五度負けた。

 ――湊を、返して。

 ひよりの泣き顔が、まぶたの裏に焼きついていた。


 棚の、いちばん端の帳面を、抜き出した。

 研究 第二百九十八冊。

 湊が最後に書いていた帳面だった。退院してから、何度も手に取ろうとして、そのたびに、なぜか棚に戻していた。

 開いた。

 三段リーグの、今期の将棋が書いてあった。一回戦から、八回戦まで。六勝二敗。どの将棋にも、いつものように、細かい書き込みがびっしりとあった。

 ――一回戦。勝ち。相手の攻めを受け切った。でも、もっと早く勝てたはず。四十二手目に▲3五歩と突いていれば、相手の銀が死んでいた。見えていたのに、指せなかった。怖かった。

 ――三回戦。負け。また攻め損ねた。チャンスはあった。でも、攻めたら自分の玉が薄くなると思って、待ってしまった。待っているうちに、相手に先を越された。

 ――五回戦。勝ち。相手が間違えてくれた。運がよかった。

 ――七回戦。勝ち。受け切った。でも、相手の顔を見たら、なんだか申し訳なくなった。この人も、最後のリーグかもしれないのに。

 頁をめくるたびに、湊の字が、少しずつ乱れていった。

 八回戦の記録のあとに、まだ数頁、書き込みがあった。

 将棋の記録ではなかった。


 ――光くんが、今期も全勝している。

 ――あの子に、昔、受けを教えた。攻め急ぐな、玉を固めてから攻めろ、最後に一手だけ早いほうが勝つんだって。あの子は、全部覚えていて、全部できるようになった。受けも、攻めも。俺より、ずっと上手に。

 ――嬉しい。本当に、嬉しい。

 ――でも、俺は、何をしているんだろう。

 ゼルギウスは、頁をめくった。

 ――十四年、将棋を指してきた。毎晩、駒を並べた。ノートは三百冊近くになった。でも、まだ三段だ。来年の春には、二十六になる。

 ――ひよりは、女流でタイトル戦に出た。師匠は、湊は受けだけならプロだと言ってくれる。でも、受けだけでは、上がれない。それは、俺がいちばんよく知っている。

 ――攻めるのが、怖い。

 ――攻めたら、自分の玉が薄くなる。攻め損なったら、負ける。負けたら、終わる。十四年が、全部終わる。

 ――だから、待ってしまう。相手が間違えるのを。

 ――でも、本当は。

 次の頁に、一行だけ書いてあった。

 ――一度でいいから、思い切り攻めてみたかった。

 ゼルギウスの指が、止まった。

 ――自分の玉のことなんか考えずに、全部の駒を前に出して、相手の玉に向かって、まっすぐに。飛車も角も捨てて。そういう将棋を、一度でいいから、指してみたかった。

 ――光くんの攻めを見るたびに、そう思った。俺には、あんなふうには指せない。

 さらに頁をめくった。

 日付が書いてあった。九回戦の、前の晩。

 湊が倒れる、前の晩だった。

 ――もう、将棋が好きかどうか、分からない。

 几帳面な字が、そこだけ、ひどく震えていた。

 ――勝っても嬉しくない。負けると苦しい。盤の前に座るのが、怖い。

 ――でも、明日も盤の前に座る。

 ――座れば、盤の向こうの誰かが、何か話しかけてくれる気がするから。

 ――十一歳のときから、ずっとそうだった。将棋を指していると、言葉を交わさなくても、相手と話しているような気がした。学校では、誰ともうまく話せなかったのに。盤の前でだけは、俺は誰とでも話ができた。

 ――それだけは、まだ、好きだ。

 ――明日も、誰かと話がしたい。

 それが、最後の頁だった。

 その先は、白紙だった。


 ゼルギウスは、帳面を膝の上に置いたまま、長いあいだ動かなかった。

 窓の外を、電車が通り過ぎていく音がした。

 ――一度でいいから、思い切り攻めてみたかった。

 ――明日も、誰かと話がしたい。

 胸の奥で、何かが、ゆっくりと身じろぎした。

 悲しみでも、怒りでもなかった。もっと、静かなものだった。

 ――貴様は。

 ゼルギウスは、胸に手を当てた。

 ――貴様は、攻めたかったのか。

 答えはなかった。だが、胸の奥の気配が、ほんのわずかに、温かくなった気がした。


 玄関の呼び鈴が鳴った。

 扉を開けると、ひよりが立っていた。手に、コンビニの袋を提げていた。目が、赤く腫れていた。

「……さっきは、ごめん」

 ひよりは、うつむいたまま言った。

「言いすぎた。記憶がなくなって、一番苦しいのは、湊なのに」

「――入れ」

 ゼルギウスは、体をずらした。

 ひよりは、靴を脱いで、部屋に上がった。コンビニの袋から、おにぎりと、温かいお茶を取り出して、盤の脇に置いた。

「ご飯、食べてないでしょ。湊は、将棋のことになると、すぐ食べるの忘れるから」

「……ひより」

「なに」

「話がある」

 ひよりは、ゼルギウスを見た。

 ゼルギウスは、盤の前に正座した。ひよりも、向かいに座った。盤を挟んで。

「我は、桐生湊ではない」

 ひよりの表情は、変わらなかった。

「我の名は、ゼルギウス。異なる世界で、三百年、魔族を率いた王だった。最後の戦で勇者に敗れ、死んだ。そして、目を覚ましたら、この体の中にいた」

 ひよりは、黙っていた。

「信じなくてもいい。記憶の病がひどくなったと思ってもいい。だが、貴様には、本当のことを言っておくべきだと思った」

 長い沈黙のあと、ひよりは、小さく息を吐いた。

「――知ってた」

「何?」

「病院で、湊が目を覚ます前の晩。湊、寝言を言ってたの」

 ひよりは、膝の上で指を組んだ。

「『我はゼルギウス。我が軍はまだ負けていない』って。何度も、何度も。うなされてるみたいに。最初は、夢でも見てるんだと思った。でも、目を覚ましてからの湊は――『我』って言うし、鏡を持てって言うし、将棋の駒の動かし方も知らないし」

 ひよりは、少しだけ笑った。泣き笑いだった。

「さっき、寝ぼけて呼んじゃったこともあったよね。ゼルギウスって。あのとき、気づかれたかと思って、焦った」

「……あれは、気のせいではなかったのか」

「信じたわけじゃないよ。今でも、半分は、湊の記憶が混乱してるだけだと思ってる。でも、半分は――」

 ひよりは、ゼルギウスの目を、まっすぐに見た。

「半分は、湊じゃない誰かが、湊の代わりに、湊の将棋を守ろうとしてくれてるんだって、思ってた」

 ゼルギウスは、言葉を失った。


「湊は」

 ひよりの声が、かすれた。

「湊は、どこにいるの」

「この体の中に、いる」

 ゼルギウスは、自分の胸に手を当てた。

「眠っている。深いところで。ときどき、身じろぎする。今夜は――少しだけ、温かかった」

「温かかった?」

 ゼルギウスは、膝の上の帳面を、ひよりに差し出した。最後の頁を開いて。

 ひよりは、それを読んだ。

 一行ずつ、ゆっくりと。

 読み終えると、ひよりは、帳面を胸に抱きしめて、うつむいた。肩が、小さく震えていた。

「……湊の、馬鹿」

 くぐもった声だった。

「こんなこと、一言も言わなかったくせに。攻めてみたかったなんて。将棋が好きか分からないなんて。私には、いつも『大丈夫』って、笑ってたくせに」

 ゼルギウスは、黙っていた。

 しばらくして、ひよりは顔を上げた。

 目は赤かったが、もう泣いてはいなかった。

「ねえ、ゼルギウス」

 初めて、ひよりがその名前で呼んだ。

「湊は、攻めてみたかったんだね。飛車も角も捨てて、まっすぐに」

「……そう書いてある」

「じゃあ――」

 ひよりは、盤の上を、指でそっとなぞった。

「あなたの攻めは、湊が見たかった景色なのかもしれない」

 ゼルギウスは、目を見開いた。

「湊が、怖くて行けなかった場所。あなたは、そこへ行ける。でも、あなたは、湊が得意だった場所――自分の玉を守って、相手の話を聞く場所には、行けない」

「……」

「二人で、指せたらいいのにね」

 黒田と、同じことを言った。

 ひよりは、立ち上がって、コンビニの袋を指さした。

「おにぎり、ちゃんと食べてね。湊の体なんだから、大事にして」

 ひよりは、玄関で靴を履いた。扉を開ける前に、振り返った。

「次の対局まで、一週間。――湊に、会えるといいね」

 扉が閉まった。

 ゼルギウスは、盤の前に座ったまま、最後の頁を、もう一度見つめた。

 ――明日も、誰かと話がしたい。

 いつの間にか、まぶたが重くなっていた。

 盤に突っ伏すようにして、ゼルギウスは、眠りに落ちた。



九 夢の盤


 闇の中に、盤が一つ、浮かんでいた。

 上も下もない、果てのない闇だった。床もなく、壁もなく、天井もない。その真ん中に、脚つきの木の盤が、ぽつんと置かれていた。湊の部屋にある盤と、同じものだった。

 盤の向こうに、誰かが座っていた。

 痩せた、若い男だった。黒い髪は伸び放題で、頬はこけ、目の下に隈がある。鏡の中で見た顔と、同じだった。

 だが、その目は、鏡の中の目とは違っていた。

 暗い光ではなかった。静かで、少し気弱で、どこか遠慮がちな目だった。

「……桐生湊、か」

 ゼルギウスが言うと、男は、小さく頷いた。

「はじめまして、でいいのかな」

 柔らかい声だった。ゼルギウスが毎日使っている声と同じ声なのに、まるで違って聞こえた。

「ずっと、見てたよ。あなたが、僕の体で、将棋を指してるの」

「――見ていたのか」

「ぼんやりとね。夢の中で、遠くの景色を見てるみたいに。病院で目を覚ましたときも、ひよりに将棋を教わってたときも、師匠の家に行ったときも。佐伯くんとの将棋も、村上さんとの将棋も」

 湊は、盤の上に目を落とした。

「全部、見てた」

 ゼルギウスは、盤の前に腰を下ろした。湊と、向かい合って。

「なぜ、目を覚まさない」

「……怖いから、かな」

 湊は、困ったように笑った。

「目を覚ましたら、また盤の前に座らなきゃいけない。三段リーグの残りの対局を、指さなきゃいけない。負けたら、終わり。十四年が、全部終わる。それが怖くて、ずっとここにいた」

「では、我が勝てば、目を覚ますのか」

「分からない」

 湊は、首を振った。

「あなたが勝ってくれたら、僕はプロになれるかもしれない。でも、それは、僕が勝ったことになるのかな。僕の将棋で勝ったことに」

 ゼルギウスは、答えられなかった。

 ――桐生さんの体で、お前の戦をするな。

 勇者の声が、闇の中に響いた気がした。


「一局、指そうか」

 湊が、駒箱を開けた。

「せっかく、会えたんだし」

 駒を並べる。王将と玉将。湊は、自然に玉将を取って、王将をゼルギウスの側に置いた。

「我が、上位なのか」

「あなたのほうが、強いから。――攻めは」

 湊は、少しだけいたずらっぽく笑った。

「お願いします」

「……お願いします」

 ゼルギウスが先手になった。▲7六歩。湊が、△3四歩。

 闇の中に、駒音だけが響いた。

 ゼルギウスは、いつものように攻めた。銀を繰り出し、飛車先の歩を伸ばし、角を覗かせる。湊の陣の、わずかな隙を探して。

 湊は、受けた。

 見事な受けだった。

 ゼルギウスが銀を出せば、湊は金を寄せる。ゼルギウスが角を覗かせれば、湊は歩を一枚、角の通り道に置く。ゼルギウスが飛車を突き出せば、湊は銀を引いて、飛車の行く手を塞ぐ。

 一手一手が、静かで、正確で、無駄がなかった。研究ノートの三百冊分の受けが、そのまま盤の上に流れ出していた。

 ゼルギウスの攻めが、少しずつ重くなっていった。

 村上との将棋と、同じだった。

 四十手目。ゼルギウスは、飛車を捨てる手を、読んだ。湊の陣の金と交換して、そこから一気に寄せる手。

 ――また、同じことをするのか。

 ゼルギウスの指が、飛車の上で止まった。

 村上に、この手で負けた。黒田にも、ひよりにも、勇者にも。攻めることだけを見て、足元を見ていなかった。

 ゼルギウスは、顔を上げて、湊を見た。

 湊は、盤を見つめていた。静かに、じっと、ゼルギウスの次の手を待っていた。

 ――そっちから来ないの?

 湊の目が、そう言っている気がした。

 ――来るなら、来ていいよ。ちゃんと受けるから。

 ゼルギウスは、飛車から、指を離した。

 代わりに、自分の玉の横の金を、一つだけ、寄せた。

 攻めの手ではなかった。自分の玉を、ほんの少しだけ、固める手。

 湊の目が、わずかに見開かれた。

 それから、湊は、ふわりと笑った。

「――今の手、いいね」

「……何がだ」

「今、初めて、僕の話を聞いてくれた」

 湊は、自分の駒を一枚、動かした。

 受けの手ではなかった。

 ゼルギウスの陣に向かって、銀を一枚、すっと前に出す手だった。

 ――攻めの手だった。


 そこから先の将棋を、ゼルギウスは一生忘れないだろうと思った。

 湊が、攻めてきた。

 おずおずと、ためらいがちに。銀を一枚出しては、すぐに玉の様子を確かめるように、ちらりと自陣を見る。歩を突いては、少し考えてから、もう一枚突く。

 ゼルギウスは、それを受けた。

 受けるのは、初めてだった。三百年、一度も、受けたことがなかった。攻めるか、退くか。それしか知らなかった。

 だが、湊のノートに書いてあった。何百局分の受けが。ゼルギウスは、それを思い出しながら、一手ずつ、湊の攻めを受け止めた。

 湊が銀を出す。ゼルギウスは金を寄せる。

 湊が角を覗かせる。ゼルギウスは歩を置く。

 それは、さっきまでと、ちょうど逆だった。

 そして、ゼルギウスは気づいた。

 受けていると、相手のことがよく見える。

 湊が、どこを攻めたいのか。何を怖がっているのか。どこで迷っているのか。一手ごとに、湊の考えていることが、盤の上に浮かび上がってくる。

 ――ここに銀を出したいけど、玉が薄くなるのが怖い。

 ――でも、行きたい。行ってみたい。

 ――行っていいかな。

 ゼルギウスは、湊の銀の行く先に、あえて隙を作った。

 ――来い。

 湊が、ためらってから、銀を進めた。

 ゼルギウスは、それを受けた。だが、完全には受けきらなかった。湊の攻めが、ゼルギウスの陣に、少しだけ食い込んだ。

 湊の目が、輝いた。

 湊は、もう一枚、駒を前に出した。今度は、ためらわなかった。

 ――話をしている。

 ゼルギウスは、そう思った。

 言葉は、一つも交わしていない。だが、盤の上で、二人はずっと話をしていた。

『こっちに来たいのか』

『うん。行ってもいい?』

『来い。受けてやる』

『じゃあ、行くよ』

 ――将棋っていうのは、盤を挟んで、相手と話すものなんだよ。

 黒田の言葉が、ようやく分かった気がした。

 三百年、ゼルギウスは、誰とも話をしていなかった。部下には命令し、敵には策を仕掛け、勇者には――最後の一局でさえ、勇者の話を聞いていなかった。

 勇者は、盤の隅に、小さな駒を置いて、話しかけていたのに。

『お前の足元を、見てみろ』と。


 百二手目。

 湊の攻めが、ゼルギウスの玉を、あと一手のところまで追い詰めた。

 ゼルギウスは、盤を見下ろした。

 受けの手は、あった。湊のノートに書いてあった形。それを指せば、湊の攻めは止まる。そこから反撃すれば、たぶん、ゼルギウスが勝つ。

 だが、ゼルギウスは、その手を指さなかった。

 自分の玉の上に、手を置いた。

「――負けました」

 湊が、ぽかんと口を開けた。

「え……でも、まだ、受けが」

「あった。だが、指さなかった」

「どうして」

「貴様が、攻め切ったからだ」

 ゼルギウスは、盤の上の駒を見下ろした。湊の駒が、ゼルギウスの陣の奥深くまで食い込んでいた。飛車も角も、前に出ていた。湊の玉の周りは、すっかり薄くなっていた。

 湊が、一度でいいからやってみたかった将棋が、そこにあった。

「――どうだった。思い切り、攻めてみて」

 湊は、しばらく盤を見つめていた。

 それから、ゆっくりと、顔を上げた。

 泣いていた。

「……楽しかった」

 湊の声が、震えていた。

「すごく、怖かった。玉が薄くなって、いつ詰まされるかって、ずっとどきどきしてた。でも――楽しかった。こんなに楽しかったの、何年ぶりだろう」

 湊は、袖で目元をこすった。

「ありがとう」

「礼を言われることではない」

 ゼルギウスは、盤の駒を崩した。ぱらぱらと、闇の中に駒音が響いた。

「湊。我は、この盤の上では、三度負けた。いや、六度か。攻めることしか知らなかったからだ」

「……うん」

「貴様は、受けることしかできなかった。だから、上がれなかった」

「……うん」

「では、二人で指せばいい」

 湊が、目を見開いた。

「我が、貴様の攻めになろう。貴様は、我の受けになれ。貴様の体で、貴様の盤の前に座るのは、我だ。だが、一人で指すのではない。貴様と、二人で指す」

 闇が、かすかに揺らいだ。

「残りは、四局。四つとも勝つ。そして――」

「最終局は、光くんだ」

 湊が、静かに言った。

「僕が、昔、将棋を教えた子。あの子と、指したい。ちゃんと、僕の将棋で。――あなたと二人の、将棋で」

 ゼルギウスは、頷いた。

「約束だ」

 湊が、笑った。

 鏡の中で見たどの顔とも違う、晴れやかな笑顔だった。

 闇が、白く、明るくなっていった。


 目を覚ますと、盤の上に、朝の光が差し込んでいた。

 ゼルギウスは、盤に突っ伏したまま眠っていたらしい。頬に、升目の跡がついていた。

 体を起こした。

 胸の奥の、深いところで、何かが、はっきりと目を開けている気がした。

 眠ってはいなかった。

 盤の向こうに座るように、ゼルギウスのすぐそばに、いた。



十 二人の将棋


 十五回戦の朝、ゼルギウスは、対局室の盤の前で目を閉じていた。

 ――湊。

 胸の中で呼びかけると、答えが返ってきた。

 言葉ではなかった。ただ、胸の奥の気配が、すっと背筋を伸ばしたような感覚があった。盤の向こうではなく、ゼルギウスのすぐ隣に、湊が座っている。

 ――大丈夫。いるよ。

 そう言われた気がした。

 ゼルギウスは、目を開けた。


 十五回戦の相手は、十五歳の三段だった。

 中学生だった。学生服の襟が、まだ少し大きすぎた。名前は、藤代といった。湊のノートによれば、今期が初めての三段リーグで、攻めの鋭さでは光に次ぐと噂されている少年だった。

「お、お願いします」

 藤代の声は、少し上ずっていた。

 対局室の噂は、この少年の耳にも届いているのだろう。受けの桐生が、魔王のような将棋を指すようになった、と。藤代の目には、はっきりとした怯えがあった。

「お願いします」

 ゼルギウスは、静かに頭を下げた。

 藤代が先手だった。▲2六歩。飛車先の歩を突いて、すぐに攻めの構えを見せてくる。ゼルギウスは△8四歩と応じた。

 藤代は、序盤から飛ばしてきた。

 銀を繰り出し、飛車先を伸ばし、角を交換して、ゼルギウスの陣に打ち込む隙をうかがう。十五歳とは思えない、鋭い攻めだった。

 これまでのゼルギウスなら、ここで攻め返していた。相手の攻めの裏をかいて、もっと速く、もっと鋭く、相手の玉に襲いかかっていた。

 だが、ゼルギウスは、攻め返さなかった。

 ――受けて。

 胸の奥で、湊の声がした。

 ――この子、焦ってる。攻めが、少しだけ早すぎる。受けていれば、そのうち息切れする。

 ゼルギウスは、金を一枚、玉に寄せた。

 藤代が、銀を進めてくる。ゼルギウスは、歩を一枚、その銀の頭に打った。藤代が角を覗かせる。ゼルギウスは、銀を引いて、角の通り道を塞いだ。

 湊の受けだった。

 研究ノート三百冊分の、静かで、正確な受け。ゼルギウスの指が、湊の記憶に導かれるように、盤の上を動いた。

 受けていると、藤代のことがよく見えた。

 ――ここを攻めたい。でも、桐生さんは受けが強い。いや、最近は攻めてくるって聞いた。じゃあ、早く攻めないと、先にやられる。

 ――急がなきゃ。急がなきゃ。

 藤代の一手一手から、焦りが伝わってきた。

 夢の中で、湊と指したときと同じだった。受けていると、相手が何を考えているのか、盤の上に浮かび上がってくる。

 ――桐生さんは、怖い人だって、みんな言ってた。

 ――でも、今日の桐生さんは、なんだか――。


 五十六手目。

 藤代の攻めが、ついに止まった。

 ゼルギウスの陣の前で、藤代の駒が、行き場を失って立ち往生していた。銀も、角も、飛車も、ゼルギウスの受けに阻まれて、それ以上進めない。

 藤代の顔が、青ざめていた。

 ゼルギウスは、盤を見下ろした。

 ――ここだ。

 ゼルギウスの目に、攻めの筋が見えた。藤代が攻めに駒を使いすぎて、玉の周りが薄くなっている。そこに、角を一枚、打ち込めば。

 ――待って。

 湊の声がした。

 ――今、攻めたら、勝てる。たぶん。でも、まだ早い。

 ――角を打つ前に、一手だけ、自分の玉を固めて。

 ゼルギウスは、眉をひそめた。

 ――なぜだ。今攻めれば、勝てる。

 ――うん。でも、藤代くんは、ここから最後の勝負手を指してくる。あの子は、そういう子だ。一手だけ固めておけば、その勝負手が、空振りする。

 ――それは、受けの者の考え方だ。

 ――うん。僕は、受けの者だから。

 湊の声が、少しだけ笑った。

 ――でも、その次の攻めは、あなたに任せる。

 ゼルギウスは、しばらく盤を見つめていた。

 それから、玉の横の銀を、一枚、寄せた。

 藤代が、目を見開いた。

 ――攻めて、こないの?

 藤代の目が、そう言っていた。

 藤代は、長考に入った。十分。十五分。それから、意を決したように、飛車をゼルギウスの陣に向かって突き出した。

 最後の勝負手だった。

 湊の言ったとおりだった。もし、ゼルギウスがさっき角を打っていたら、この飛車の突き出しで、ゼルギウスの玉は危なくなっていた。だが、一手だけ固めておいた銀が、飛車の行く手を、ちょうど塞いでいた。

 勝負手は、空振りした。

 ――今だ。

 湊の声がした。

 ――あなたの番だよ、魔王。

 ゼルギウスは、角を打った。

 藤代の玉の、斜め上に。

 そこから先は、ゼルギウスの将棋だった。角を切り、銀を打ち込み、桂馬を跳ねる。藤代の玉の逃げ道を、一つずつ塞いでいく。だが、これまでとは違った。一手攻めるたびに、ゼルギウスは自分の玉を見た。湊が、隣で見ていた。

 ――大丈夫。玉は安全。行って。

 ――うん、そこ。いい手。

 ――あと三手。

 八十九手目。

 藤代が、震える手を、自分の玉の上に置いた。

「……負け、ました」

「ありがとうございました」

 ゼルギウスは、深く頭を下げた。


 顔を上げると、藤代が、泣きそうな顔で盤を見つめていた。

 十五歳の少年だった。初めての三段リーグで、ここまで勝ち越していたのだろう。それが、今日の負けで、上がりの目が消えたのかもしれない。

 これまでのゼルギウスなら、黙って立ち上がっていた。

 だが、ゼルギウスは、盤の前に座ったまま、口を開いた。

「――藤代くん」

 藤代が、顔を上げた。

「五十六手目からの、飛車の突き出し。いい手だった」

「……え」

「俺が、その前に一手、玉を固めていなかったら、あの飛車で、俺の玉は危なかった。君は、最後まで勝負を諦めなかった」

 藤代は、ぽかんと口を開けていた。

「君の攻めは、鋭い。でも、少しだけ、急ぎすぎる。相手の受けを崩す前に、自分の玉を、一手だけ固めてごらん。そうすれば、最後の勝負手が、もっと怖くなる」

 ――攻めるのは、自分の玉が安全になってからでいい。

 湊が、昔、光に教えた言葉だった。ゼルギウスの口から、自然に出てきた。

 藤代の目に、涙がにじんだ。

「……ありがとうございました」

 少年は、もう一度、深く頭を下げた。

 ゼルギウスは、駒を片づけ始めた。

 胸の奥で、湊が、照れたように笑っていた。

 ――それ、僕が光くんに言ったのと、同じだ。

 ――知っている。貴様のノートに書いてあった。

 ――そっか。

 ――我も、勇者に、それで負けたのだ。


 十六回戦も、勝った。

 相手は、二十二歳の振り飛車党だった。ゼルギウスは、前半をじっと受けた。相手が攻め疲れたところで、一手だけ玉を固め、それから一気に攻めに転じた。百四手。

 十二勝四敗。

 対局室を出ると、廊下の空気が、変わっていた。

「桐生さんの将棋、見た?」

「見た。前半、昔の桐生さんみたいだった。じっと受けて」

「でも、後半は、最近の桐生さんだった。攻めが、怖いくらい鋭くて」

「受けの桐生と、魔王の桐生が、一局の中に両方いるみたいだ」

 三段たちの囁きが、ゼルギウスの背中を追いかけてきた。

 廊下の長椅子に、ひよりが座っていた。

 ゼルギウスの顔を見て、ひよりは、何も言わずに立ち上がった。

 それから、ゼルギウスの前まで歩いてきて、じっと顔を見上げた。

「……今日の将棋、見てた。モニターで」

「そうか」

「前半は、湊だった」

 ひよりの目が、潤んでいた。

「後半は、あなただった。でも――」

 ひよりは、少しだけ首を傾げた。

「どっちも、楽しそうだった」

 ゼルギウスは、答えなかった。

 答える代わりに、胸の奥の気配に、耳を澄ませた。

 湊が、笑っていた。

 ――うん。楽しかった。

 ゼルギウスも、同じだった。

 三百年、戦を楽しいと思ったことは、一度もなかった。勝つのは当然で、負けるのは許されなかった。戦は、ただの仕事だった。

 だが、今日の将棋は、楽しかった。

 盤の向こうの藤代と、隣の湊と、三人で話をしているようだった。


 帰りの電車で、ひよりが、スマートフォンの画面を見せてくれた。

 三段リーグの成績表だった。

「一位は、光くん。十六戦全勝。もう、上がりは決まってる」

 ひよりは、画面をスクロールした。

「二位争いは、三人。湊と、森下さんと、田島さん。三人とも、十二勝四敗」

「並んでいるのか」

「うん。でも、同じ勝ち数なら、前期の成績が上の人が上位になる。湊は、前期の順位が三人の中でいちばん上だから――」

 ひよりは、ゼルギウスを見た。

「最終日の二局、両方勝てば、湊が二位。四段に上がれる」

「片方でも負ければ」

「たぶん、終わり」

 最終日。十七回戦と、十八回戦。

 十八回戦の相手は、天野光。

 十六戦全勝の、勇者。

「――光くんは、今期、全勝で上がろうとしてる」

 ひよりが、窓の外を見ながら言った。

「三段リーグを全勝で抜けた人なんて、今まで一人もいないの。光くんが十八連勝したら、歴史に残る。あの子は、絶対に手を抜かない」

「手を抜いてもらおうとは、思っていない」

 ゼルギウスは、窓ガラスに映る湊の顔を見た。

 その顔は、もう途方に暮れてはいなかった。

「勇者とは、正面から指す。――約束したのだ」

 胸の奥で、湊が、静かに頷いた。



十一 前夜


 最終日の前日、黒田から電話がかかってきた。

 ひよりに使い方を教わったばかりのスマートフォンが、湊の部屋の机の上で震えた。画面に「師匠」と表示されていた。

「湊くん。明日だね」

 電話の向こうの声は、いつもと同じように穏やかだった。

「はい」

「少し、うちに寄れないかい。渡したいものがあるんだ」


 黒田の家の梅は、白い花を三つ、四つ、ほころばせていた。

 縁側の和室で、黒田は盤の前に座っていた。盤の上には、何も並んでいなかった。

「ひよりくんから、聞いたよ。最近の将棋のこと」

 黒田は、ゼルギウスに座るよう、手で示した。

「十五回戦と十六回戦。棋譜を並べてみた」

「……いかがでしたか」

「いい将棋だった」

 黒田は、目を細めた。

「前半は、湊くんの受けだった。僕が十四年見てきた、あの静かな受け。後半は、君の攻めだった。初めて会った日に見た、あの恐ろしく強い攻め。それが、一局の中で、ちゃんとつながっていた」

 黒田は、盤の表面を、皺だらけの手でそっと撫でた。

「受けと攻めが、喧嘩していなかった。お互いの話を、ちゃんと聞いていた」

 ゼルギウスは、黙っていた。

 黒田は、着物の袂から、細長い桐の箱を取り出した。

「これを、君たちに」

 ――君たち。

 ゼルギウスは、顔を上げた。

 黒田は、穏やかに笑っていた。何も聞かなかった。最初に会った日から、一度も、君は誰だとは聞かなかった。

 だが、知っていたのだ。

 ゼルギウスは、桐の箱を受け取って、蓋を開けた。

 中に入っていたのは、白い扇子だった。広げると、墨で、二文字が書かれていた。

 ――対話。

「僕が、四段に上がった日に、僕の師匠からもらったものだ」

 黒田は、懐かしそうに言った。

「五十年前だね。僕も、受けばかりの将棋だった。攻めるのが怖くてね。師匠は、その扇子を僕にくれて、こう言った。『将棋は、盤を挟んだ対話だ。聞くだけでも、話すだけでも、対話にはならない』」

「……聞くだけでも、話すだけでも」

「湊くんは、聞くだけだった。君は、話すだけだった」

 黒田は、扇子をゼルギウスの手の中で、そっと閉じさせた。

「明日は、二人で、光くんと話しておいで」

 ゼルギウスは、扇子を握りしめた。

 胸の奥で、湊が、泣きそうになっているのが分かった。

「――先生」

 ゼルギウスの口から、声が出た。

 自分の声ではなかった。湊の声だった。同じ喉から出る、同じ声なのに、まるで違って聞こえた。

「ありがとうございます。ずっと、待っていてくれて」

 黒田は、何も言わなかった。

 ただ、眼鏡を外して、着物の袖で、長いあいだ拭いていた。


 湊の部屋に戻ったのは、日が暮れてからだった。

 アパートの階段の下に、誰かが立っていた。

 学生服の上に、紺色のダッフルコートを着た少年。

「――勇者」

「よう、魔王」

 天野光は、白い息を吐いて、片手を上げた。

「最終局の前に、どうしても話しておきたいことがあって。ひよりさんに、住所を聞いた」

 ゼルギウスは、少し考えてから、階段を上った。

「入れ。外は冷える」


 光は、湊の部屋に入ると、しばらく入口で立ち尽くしていた。

 三百冊近い研究ノート。床に、机に、寝台の上に、積み上げられた紙の束。

「……すごいな」

「この男の、十四年分の戦の記録だ」

「知ってる。研修会のころ、桐生さん、いつもノートを持ち歩いてたから」

 光は、部屋の真ん中の盤の前に、腰を下ろした。ゼルギウスも、向かいに座った。

 盤を挟んで。

 五歩ではなく、一歩の距離で。

「あの城でのことだ」

 光が、盤の上に目を落としたまま言った。

「お前、なんで俺が、最後に剣じゃなくて将棋を指そうって言ったか、聞かなかったよな」

「……聞く必要は、ないと思った」

「俺は、話したかったんだ」

 光は、顔を上げた。

「向こうで四年、お前の策と戦ってきた。最初は、ただ怖かった。お前の軍は強くて、いつも俺たちの一つ先にいて、仲間が何人も死んだ。俺も、何度も死にかけた」

「……」

「でも、二年目くらいから、だんだん分かってきたんだ。お前の策の、癖みたいなものが。お前は、いつも一番強い手を指す。きれいで、正しくて、隙がない。でも、相手の返事を待たない。こっちがどう動くか、ほとんど気にしてない」

 光は、少しだけ笑った。

「それって、研修会のころの俺と、同じだったんだ。攻め急いで、相手の話を聞かないで、いつも自分の玉を詰まされてた。桐生さんに、何度も注意された」

「……」

「だから、お前の策を読むとき、俺はいつも思ってた。盤の向こうに、昔の俺みたいな奴が座ってる、って。強いけど、一人ぼっちで指してる奴が」

 ゼルギウスは、言葉を失った。

「あの城でお前と向かい合ったとき、剣で終わらせたくないって、思った。一度でいいから、ちゃんと盤を挟んで、お前と話してみたかった。桐生さんが、昔の俺にしてくれたみたいに」

 光の声が、少しだけ震えた。

「――でも、話せなかった。お前は、最後まで攻めることしか考えてなかった。俺は、お前の足元を指さすことしかできなかった。それで、お前は投了して、天井が落ちてきて」

「……我は、死んだ」

「ああ」

 光は、盤の縁を、指先でぎゅっと握った。

「こっちに戻ってきてから、ずっとそれが引っかかってた。俺は、お前を倒した。勇者として、正しいことをした。でも、俺は、お前と話せなかった。盤を挟んで向かい合ったのに、一度も」

 光は、うつむいた。

「それから、将棋が、少しだけ怖くなった」

「怖く?」

「こっちの将棋は、負けても誰も死なない。それは、いいことのはずなのに。なんだか、全部が軽く見えるようになった。勝っても、負けても、どうでもいいような。だから、俺は、負けないように指してる。誰とも話さずに、一番強い手だけを、きれいに、正しく」

 光は、自嘲するように笑った。

「――お前と、同じ将棋だよ。十六連勝してるのに、ちっとも楽しくない」


 部屋の中が、静まり返った。

 窓の外を、電車が通り過ぎていく音がした。

 ゼルギウスは、目を閉じた。

 胸の奥で、湊が、何かを言いたがっていた。

 ――代わろうか。

 ゼルギウスが心の中で言うと、湊は、少しためらってから、頷いた。

 ゼルギウスは、目を開けた。

 いや――目を開けたのは、湊だった。

「光くん」

 光が、はっと顔を上げた。

 その声の違いに、すぐ気づいたのだろう。光の黒い目が、大きく見開かれた。

「……桐生、さん?」

「久しぶり。研修会のとき以来だね。ちゃんと話すのは」

 湊は、少し照れくさそうに笑った。

「全勝、おめでとう。すごいね。僕が教えたころは、あんなに攻め急いでたのに」

「桐生さん、本当に、桐生さんなんですか。今まで、どこに――」

「ずっと、ここにいたよ。この人と一緒に」

 湊は、自分の胸に、そっと手を当てた。

「光くん。さっきの話、聞いてた。将棋が楽しくないって」

「……」

「僕もね、ずっと楽しくなかったんだ。倒れる前の何年か。勝っても嬉しくなくて、負けると苦しくて。盤の前に座るのが、怖かった」

 湊は、盤の上を見下ろした。

「でも、この人と一緒に指すようになって、思い出したんだ。将棋が楽しかったころのこと。盤の向こうの誰かと、話をしてるみたいな感じ」

 湊は、光をまっすぐに見た。

「明日、話をしよう、光くん。盤を挟んで。勝ち負けじゃなくて――いや、勝ち負けも大事だけど。僕は、上がりたい。光くんも、全勝したい。お互い、全力で。でも、ちゃんと話をしよう」

 光の目から、涙がこぼれた。

 十六歳の少年の顔だった。四年間、異界で剣を振るってきた勇者の顔ではなかった。

「……はい」

 光は、袖で顔をこすった。

「はい。桐生さん。――それと、魔王も」

「――聞こえている」

 ゼルギウスの声が、湊の喉から出た。

 光は、泣きながら、笑った。

「明日、お前たち二人と、話がしたい」


 光が帰ったあと、ゼルギウスは、盤の前に座ったまま、黒田にもらった扇子を広げた。

 ――対話。

 墨の二文字が、蛍光灯の光の中で、黒々と浮かび上がっていた。

 ――湊。

 ――うん。

 ――明日、勝てると思うか。

 ――分からない。光くんは、強いよ。

 ――そうだな。

 ――でも。

 湊の声が、静かに続いた。

 ――楽しみだよ。

 ゼルギウスは、扇子を閉じた。

 三百年、戦の前夜に、こんな気持ちになったことは、一度もなかった。

 ――我もだ。

 スマートフォンが、短く震えた。

 ひよりからのメッセージだった。

『明日、会館で待ってる。二人とも、がんばれ』

 二人とも、と書いてあった。



十二 最終日


 最終日の対局室は、いつもより空気が重かった。

 三十人ほどの三段たちが、それぞれの盤の前に座っている。誰も口をきかない。だが、今日は、その沈黙の質が違った。

 この日の二局で、半年の戦いが終わる。

 上がる者が、二人。退会する者が、何人か。そして、残りの者は、また次の半年を戦う。誰もが、そのどれになるのかを、胸の中で計算していた。

 ゼルギウスは、扇子を膝の上に置いて、目を閉じていた。

 ――十七回戦の相手は、田島さんだ。

 湊の声が、胸の奥で言った。

 ――僕たちと同じ、十二勝四敗。二位を争ってる三人のうちの一人。

 ――つまり、この一局で、どちらかが脱落する。

 ――うん。


 田島は、二十五歳の三段だった。

 湊と同い年で、奨励会に入った年も同じだった。湊のノートには、田島との対局が、十二局分書かれていた。六勝六敗。

 ――田島くん。研究が深い。序盤で優位を取られると、そのまま押し切られる。でも、終盤に少し、甘いところがある。

「お願いします」

「お願いします」

 田島は、湊の顔を見て、少しだけ目を細めた。

「桐生。体は、もういいのか」

「ああ。おかげさまで」

「そうか」

 田島は、それ以上何も言わなかった。だが、その声には、同期の者にだけ分かる、かすかな気遣いがあった。

 湊が先手だった。

 田島は、ノートのとおり、序盤から深い研究をぶつけてきた。角換わりの最新形。湊のノートにも載っていない、新しい手順。

 ゼルギウスは、一瞬、手が止まった。

 ――知らない形だ。

 ――大丈夫。

 湊の声がした。

 ――知らない形でも、受けの考え方は同じ。相手が何をしたいのか、一手ずつ聞いていけばいい。

 ゼルギウスは、盤を見つめた。

 田島の駒の並びが、語りかけてくる。

 ――ここから、銀を繰り出したい。そのために、角を打つ場所を空けておいた。

 ゼルギウスは、田島の角の打ち場所に、先に歩を一枚、置いた。

 田島の眉が、ぴくりと動いた。

 田島が、別の道を探す。ゼルギウスは、また受ける。田島が、さらに別の道を。ゼルギウスは、また。

 六十手を過ぎたあたりで、田島の研究が尽きた。

 盤の上は、互角だった。

 そこから先は、終盤の勝負だった。

 ――ここからは、あなたの番だ。

 湊が言った。

 ゼルギウスは、田島の玉の周りを見た。湊のノートに書いてあったとおりだった。田島の終盤には、少しだけ、甘いところがある。攻めを急いで、玉の守りを、一枚だけ薄くする癖。

 田島が、攻めてきた。銀を打ち込んで、ゼルギウスの玉に迫ってくる。

 そのとき、田島の玉の横の金が、一枚、攻めに加わるために、ほんの一升だけ動いた。

 ――今だ。

 ゼルギウスと湊の声が、重なった。

 ゼルギウスは、桂馬を跳ねた。

 田島の玉の、斜め前に。

 田島の顔から、血の気が引いた。

 そこから先は、十二手だった。百一手目、田島は、自分の玉の上に手を置いた。

「……負けました」

「ありがとうございました」

 二人は、深く頭を下げた。

 顔を上げると、田島が、盤を見つめたまま、小さく笑っていた。

「――桐生」

「なんだ」

「最近、お前の将棋が変わったって聞いて、少し寂しかったんだ。受けの桐生がいなくなったみたいで」

 田島は、駒を駒箱に戻しながら言った。

「でも、今日の将棋で分かった。いなくなってなかった。受けの桐生に、攻めがくっついただけだ」

 田島は、立ち上がった。

「上がれよ。俺の分も」

 田島は、それだけ言って、対局室を出ていった。

 十三勝四敗。


 昼の休憩のあいだに、十七回戦のすべての結果が出た。

 ひよりが、廊下の長椅子で、スマートフォンの画面を見せてくれた。

「光くん、勝った。十七戦全勝」

「森下は」

「……勝った。十三勝四敗。湊と、並んでる」

 ひよりの声が、少しだけ固くなった。

「十八回戦で、森下さんが勝って、湊も勝てば、二人とも十四勝四敗。前期の順位で、湊が上。湊が二位」

「森下が勝って、我が負ければ」

「森下さんが二位。湊は――退会」

 ひよりは、画面を消した。

「森下さんの十八回戦の相手は、今期あんまり調子がよくない人。たぶん、森下さんが勝つと思う」

「では、我らが勝てばいい」

「……相手は、光くんだよ」

「分かっている」

 ゼルギウスは、扇子を握りしめた。

「勇者と、話をしてくる」

 ひよりは、ゼルギウスの顔を見上げた。

 それから、ふっと、肩の力を抜いて笑った。

「――うん。行ってらっしゃい、二人とも」


 十八回戦。

 対局室の奥の盤に、天野光は、もう座っていた。

 学生服の背筋を、まっすぐに伸ばしている。目を閉じて、膝の上で手を組んでいた。その姿は、炎の中の玉座の間で、剣を下ろしたときの勇者と、少しも変わらなかった。

 対局室の空気が、その盤の周りだけ、張りつめていた。

 三段リーグ史上初の、十八戦全勝がかかった一局。

 そして、その相手は、記憶を失って将棋が変わったと噂の、年齢制限ぎりぎりの三段。

 自分の対局を終えた三段たちが、廊下の向こうから、ちらちらとこちらを覗いていた。

 ゼルギウスは、光の向かいに腰を下ろした。

 光が、目を開けた。

 黒い目が、ゼルギウスを見た。

 それから、ゼルギウスの奥にいる、もう一人を見た。

「――お願いします」

「お願いします」

 三人の声が、重なった気がした。

 振り駒で、光が先手になった。

 光の細い指が、駒をつまんだ。

 ▲7六歩。

 ゼルギウスは、△3四歩と応じた。

 光が、▲2六歩。ゼルギウスが、△8四歩。

 炎の中の玉座の間で、最初に指したのと、同じ出だしだった。

 だが、今日は、炎はない。

 城も、軍も、剣もない。

 ただ、盤が一つと、駒が四十枚と、向かい合う三人がいるだけだった。


 光は、角換わりを選んだ。

 序盤早々に、お互いの角を交換する形。持ち駒になった角を、どこに打ち込むか。その一手の重さが、序盤から盤全体を緊張させる。

 光の駒組みは、完璧だった。

 一手一手が、正確で、無駄がない。銀を繰り出し、桂馬を跳ね、玉を囲う。そのどれもが、機械の示す最善手と、ほとんど同じだろうと思われた。

 ――きれいな将棋だ。

 湊が、胸の奥でつぶやいた。

 ――うん。きれいすぎる。

 ゼルギウスも、そう思った。

 光の将棋は、魔王ゼルギウスの戦と、同じだった。正しくて、強くて、隙がない。そして――相手の返事を、待っていない。

 ――十六連勝してるのに、ちっとも楽しくない。

 昨夜、光が言った言葉が、よみがえった。

 四十手目。

 光が、仕掛けてきた。

 ▲4五歩。湊のノートにも何十局と書かれた、角換わりの定番の仕掛けだった。だが、光の仕掛けは、湊のノートのどの将棋よりも、鋭く、速かった。

 歩を突き捨て、桂馬を跳ね、銀を進める。光の攻めが、波のように、ゼルギウスの陣に押し寄せてきた。

 ゼルギウスは、受けた。

 湊の受けで。三百冊分の、静かな受けで。

 だが、光の攻めは、止まらなかった。一つ受ければ、次の波が来る。それを受ければ、また次の波が。光は、ゼルギウスの受けのすべてを、読み切っているようだった。

 ――強い。

 ゼルギウスの背中に、冷たい汗が流れた。

 大陸で、勇者の軍と戦ったときと同じだった。こちらが何をしても、相手はいつも一つ先にいる。

 六十手目。

 光の銀が、ゼルギウスの玉の、すぐそばまで迫っていた。

 ゼルギウスの持ち時間は、残り三十分。光の持ち時間は、残り五十五分。

 盤の上の形勢は、明らかに、光に傾いていた。

 ――湊。

 ――うん。

 ――このまま受けていては、負ける。

 ――……うん。分かってる。

 胸の奥で、湊が、唇を噛んでいるのが分かった。

 受けの湊は、ここで受けるしかできない。受けて、受けて、相手が間違えるのを待つ。

 だが、光は、間違えない。

 ゼルギウスは、盤を見下ろした。

 光の陣を。

 光の玉は、きれいに囲われていた。金も銀も、正しい位置にあった。隙は、ないように見えた。

 だが。

 ――あった。

 ゼルギウスの目が、細くなった。

 光の玉の、ずっと遠く。盤の端の、誰も気にしていない一升。

 そこに、勝負の道が、かすかに、本当にかすかに、見えた気がした。



十三 最終局


 盤の端。

 光の陣の、いちばん左の筋。香車と歩が一枚ずつ、ひっそりと並んでいるだけの場所だった。光の玉は、その反対側、盤の右寄りに囲われている。誰が見ても、勝負とは関係のない、遠い場所だった。

 だが、ゼルギウスには見えた。

 その端の歩を突き捨て、香車を走らせ、飛車を回す。光の飛車の背後を、盤の端から回り込んで突く。光の攻めの駒は、すべてゼルギウスの陣に向かって前に出ている。背後は、がら空きだった。

 灰色峡谷の戦いと、同じだった。

 敵の主力が前に出きったところで、誰も見ていない山道を回り込み、敵の本陣の背後を突く。

 ――飛車を、捨てることになる。

 ゼルギウスは、読んだ。端から攻めれば、光の飛車を取れる。だが、その前に、自分の飛車を一度、囮として捨てなければならない。そして、その間、自分の玉の守りは、一枚も増えない。光の攻めは、止まらない。

 どちらの玉が、一手早く詰むか。

 ――読み切れない。

 ゼルギウスの読みは、三十手先まで進んで、そこで霧に包まれた。光の玉が先に詰むのか、自分の玉が先に詰むのか。分からなかった。

 ――だめだ。

 湊の声が、胸の奥で震えていた。

 ――それは、危なすぎる。玉が、もたないかもしれない。受けよう。受けて、光くんが間違えるのを待とう。

 ――勇者は、間違えない。

 ――分からないよ。もしかしたら――。

 ――湊。

 ゼルギウスは、心の中で、静かに言った。

 ――貴様は、ノートに書いていた。一度でいいから、思い切り攻めてみたかった、と。

 湊が、黙った。

 ――今が、その時ではないのか。

 ――……怖いよ。

 湊の声は、小さかった。

 ――ここで攻めて、負けたら、全部終わる。十四年が。

 ――ああ。

 ――あなたは、怖くないの。

 ゼルギウスは、少し考えた。

 三百年、怖いと思ったことは、なかった。戦は、勝つものだった。負けるなど、考えたこともなかった。

 だが、今は。

 ――怖い。

 ゼルギウスは、答えた。

 ――我も、怖い。この盤の上で、我は六度負けた。七度目になるかもしれん。それが、貴様の十四年を終わらせることになるかもしれん。

 ――……。

 ――だが、湊。受けて待っていても、勇者は間違えない。それは、貴様がいちばんよく知っているはずだ。貴様が、勇者に、受けを教えたのだから。

 胸の奥で、湊が、長い息を吐いた。

 ――……一手だけ。

 ――何?

 ――一手だけ、僕にちょうだい。攻める前に。

 ――何をする。

 ――玉を、一升だけ逃がす。

 ゼルギウスは、盤を見た。

 自分の玉。光の銀が迫っている、そのすぐ横。玉を、一升だけ、右に寄せる。攻めでも、守りでもない。ただ、光の攻めが届くのを、一手だけ遅らせる手。

 ――玉の早逃げ、八手の得。

 湊が、つぶやいた。

 ――将棋の格言。玉を早めに逃がしておくと、八手分の価値がある。僕の、いちばん好きな言葉。

 ゼルギウスは、もう一度読んだ。

 玉を一升逃がしてから、端を攻める。

 霧が、晴れた。

 三十手先の、その先まで。光の攻めが、一手遅れる。その一手で、光の玉が、先に詰む。

 ――……見えた。

 ――うん。僕にも、見えた。

 ゼルギウスの持ち時間は、残り八分を切っていた。

 ゼルギウスは、玉を、一升だけ右に寄せた。

 ぱちり、と、小さな駒音がした。


 光の手が、止まった。

 光は、盤を見つめた。それから、ゼルギウスの顔を見た。

 黒い目が、わずかに見開かれていた。

 ――攻めて、こないのか。

 ――ここで、玉を逃がす?

 光の目が、そう問いかけていた。

 光は、長考に入った。五分。十分。光の持ち時間が、少しずつ減っていく。光の細い指が、膝の上で、何度も動いた。

 ゼルギウスには、光が何を考えているのか、分かった。

 ――この早逃げの意味は、何だ。桐生さんは、何を狙ってる。

 ――受けの手? いや、違う。これは、何かの準備だ。

 ――どこだ。どこを攻めるつもりだ。

 光の目が、盤の上をさまよった。中央。右辺。自分の玉の周り。

 そして、盤の端で、止まった。

 光の顔から、表情が消えた。

 ――気づいた。

 湊が言った。

 ――うん。光くんは、気づいた。

 光は、さらに長考した。十五分。二十分。

 やがて、光は、一つの手を指した。

 端の歩を、一枚、突いた。

 ゼルギウスの攻めの通り道を、先に塞ぐ手だった。

 ――さすがだ。

 ゼルギウスは、胸の中でつぶやいた。

 勇者は、ゼルギウスの狙いを読み切って、一つ先に立った。大陸の戦と、同じだった。

 だが。

 ――でも、光くん。

 湊の声がした。

 ――その歩を突いたら、君の玉が、一手遅れる。

 光の歩は、端を塞いだ。だが、その一手のために、光は、ゼルギウスの玉への攻めを、一手休んだ。

 ゼルギウスの早逃げで、一手。光の端の受けで、もう一手。

 二手の余裕が、ゼルギウスの側に生まれていた。

 ――話をしている。

 ゼルギウスは、思った。

『こっちを攻めるの?』

『ああ、そのつもりだ』

『じゃあ、先に塞いでおくよ』

『塞いだか。では、その間に――』

 ゼルギウスは、飛車を、光の陣の中央に向かって突き出した。

 端ではなく。

 光が端を塞いでいる間に、がら空きになった中央を。


 そこからの三十手を、対局室にいた誰もが、息をするのも忘れて見つめていた。

 自分の対局を終えた三段たちが、ゼルギウスと光の盤の周りに、遠巻きに集まっていた。誰も、声を出さなかった。

 飛車を捨てた。光が取った。

 その飛車の代わりに、光の金を取った。

 光が、ゼルギウスの玉に、銀を打ち込んだ。

 ゼルギウスは、玉を、もう一升逃がした。湊の早逃げで、そこには、ちょうど一升分の空きがあった。

 光の顔に、汗がにじんでいた。

 だが、その口の端が――ほんのわずかに、上がっていた。

 ――笑ってる。

 湊が、驚いたように言った。

 ――光くん、笑ってる。

 光は、盤に覆いかぶさるようにして、次の手を探していた。苦しい局面のはずだった。だが、その目は、きらきらと輝いていた。研修会の子供のような目だった。

 光が、角を打った。

 ゼルギウスの玉の、斜め後ろに。

 ――鋭い。

 ゼルギウスは、息を呑んだ。勇者の、最後の勝負手だった。この角を受け損なえば、ゼルギウスの玉は、一気に詰む。

 ゼルギウスの持ち時間が、尽きた。

「――五十秒」

 時計の電子音が、秒を刻み始めた。

 ゼルギウスは、盤を見た。

 受けの手は、三つあった。どれも、光の角の筋を止める手だった。だが、どれを指しても、光は次の手で、別の筋から攻めてくる。

「四十秒」

 ――湊。

 ――うん。分かってる。

 湊の声は、落ち着いていた。

 ――受けじゃない。でも、攻めでもない。

「三十秒」

 ――あの手だ。

 ――ああ。

 ゼルギウスの指が、駒台の上の歩を、一枚、つまんだ。

 小さな、歩だった。

「二十秒」

 それを、光の玉から遠く離れた、盤の隅に、そっと置いた。

 光の玉の、最後の逃げ道に。

 ぱちり、と、小さな駒音がした。


 光の手が、止まった。

 光は、盤の隅の歩を見つめた。

 それから、自分の玉を見た。

 光の玉の周りの、すべての逃げ道を。

「――五十秒」

 光の時計が、秒を刻み始めた。

 光は、動かなかった。

 ゼルギウスの玉を詰ませる手は、あった。光の持ち駒の金を打てば、あと五手で、ゼルギウスの玉は詰む。

 だが、その手を指せば、ゼルギウスの次の一手で、光の玉が、先に詰む。

 盤の隅の、小さな歩のせいで。

「四十秒」

 光の黒い目が、ゆっくりと、ゼルギウスを見上げた。

 その目は、もう少しも濁っていなかった。炎の中の玉座の間で見た目と、同じだった。

 だが、そこには、あのときにはなかったものがあった。

 ゼルギウスは、それが何なのか、分かった。

 喜びだった。

「三十秒」

 光の唇が、かすかに動いた。

 ――あの城で、俺が置いた歩と、同じだ。

 声には、ならなかった。だが、ゼルギウスには、聞こえた。

「二十秒」

 光は、自分の玉の上に、そっと手を置いた。

「――負けました」

 対局室が、静まり返った。

「ありがとうございました」

 ゼルギウスと湊は、深く、深く、頭を下げた。

 百四十三手。

 十四勝四敗。


 顔を上げると、光が、盤を見つめたまま、笑っていた。

 泣きながら、笑っていた。

「……楽しかった」

 光の声が、震えていた。

「すごく、楽しかった。負けたのに。全勝、逃したのに」

 光は、袖で顔をこすった。

「途中から、ずっと話してるみたいだった。桐生さんと、魔王と、三人で。早逃げのところで、『え、ここで逃げるの?』って思って。端を見つけて、『あ、そういうことか』って。塞いだら、『そっちは中央か!』って。最後の歩で――」

 光は、盤の隅の歩を、指先でそっと撫でた。

「最後の歩で、『あの城の、お返しだ』って、言われた気がした」

 ゼルギウスは、何も言わなかった。

 ただ、盤の隅の歩を見つめていた。

 炎の中で、勇者が置いた、小さな駒。

 今、その同じ場所に、ゼルギウスが置いた、小さな駒。

 ――お前の足元を、見てみろ。

 あのとき、勇者は、そう話しかけていたのだ。

 三百年かかって、ようやく、その返事ができた。

「――光くん」

 湊の声が、ゼルギウスの喉から出た。

「ありがとう。いい将棋だった。本当に」

「……はい」

 光は、泣き顔のまま、深く頭を下げた。

「こちらこそ。ありがとうございました、桐生さん。――魔王も」

 ゼルギウスの口の端が、勝手に吊り上がった。

「――ああ」

 対局室の入口で、誰かが、小さく手を叩いた。

 ひよりだった。目を真っ赤にして、口を両手で押さえていた。

 その横で、廊下のモニターに、十八回戦の結果が表示されていた。

 森下三段、勝ち。十四勝四敗。

 桐生湊三段、勝ち。十四勝四敗。順位により、二位。

 ――四段昇段。



十四 四段


 その夜、黒田の家で、ささやかな祝いの席が設けられた。

 縁側の和室に、小さな卓が出され、黒田の奥さんが作った煮物と、ちらし寿司が並んだ。ひよりと、光と、それから田島と村上も来ていた。ひよりが、声をかけたのだという。

「桐生、おめでとう」

 田島が、湯呑みを掲げた。

「俺の分も上がれって言ったら、ほんとに上がりやがった」

「田島くんのおかげだよ。十七回戦で、田島くんが本気で来てくれたから」

 湊は、照れくさそうに笑った。

 村上は、少し離れたところで、静かに茶を飲んでいた。今期の最終成績は、九勝九敗。勝ち越しは、できなかった。来期から、村上はもう三段ではない。

「村上さん」

 湊が、村上の隣に座った。

「十四回戦、ありがとうございました。あの将棋で、僕は――いや、僕たちは、大事なことを教わりました」

 村上は、少し驚いた顔をした。それから、穏やかに笑った。

「最終局、モニターで見てたよ。前半の受け、昔の桐生くんだった。懐かしかった」

「……はい」

「後半の攻めは、知らない人だった。でも――」

 村上は、湯呑みを置いた。

「楽しそうだったね。二人とも」

 湊は、何も言えなかった。

 村上は、立ち上がって、黒田に深く頭を下げた。

「先生。僕、来年から、地元の将棋教室で子供たちに教えることになりました。四段にはなれなかったけど、将棋は、ずっと続けます」

「そうかい」

 黒田は、目を細めた。

「村上くんの受けなら、いい子が育つよ」


 光は、縁側に座って、庭の梅を見ていた。

 湊が隣に座ると、光は、少しだけ横にずれて、場所を空けた。

「四段、おめでとうございます。桐生さん」

「光くんもね。十七勝一敗。一位で四段」

「全勝は、逃しましたけど」

 光は、肩をすくめた。だが、その顔は、少しも悔しそうではなかった。

「俺、今日、久しぶりに将棋が楽しかったです。こっちに戻ってきてから、初めてかもしれない」

「……うん」

「負けても誰も死なない、って。ずっと、それが軽く思えてた。でも、違ったんですね。負けても誰も死なないから、思いっきり話ができるんだ。相手と」

 光は、梅の花を見上げた。

「向こうの世界では、できなかった。剣を持ってたら、話をする前に、どっちかが死ぬから」

 湊は、黙って頷いた。

 胸の奥で、ゼルギウスも、黙っていた。

「――魔王は」

 光が、湊の胸のあたりを見た。

「まだ、いるんですか」

「いるよ」

 湊は、自分の胸に手を当てた。

「でも、なんだか、少しずつ静かになってる気がする」

 光は、少しだけ寂しそうな顔をした。

「そっか」

 それから、湊の胸に向かって、小さく言った。

「――なあ、魔王。今度は四段同士で、指そうな」

 胸の奥で、くつくつと、笑い声がした気がした。


 その夜、湊は、盤の前で眠りに落ちた。

 闇の中に、盤が一つ、浮かんでいた。

 盤の向こうに、ゼルギウスが座っていた。

 初めて見る姿だった。黒い長衣をまとった、背の高い男。銀の髪を長く伸ばし、額から二本の角が、後ろへ向かって伸びている。赤い目は、炎のように鋭かった。だが、その口元は、穏やかに緩んでいた。

「……それが、本当の姿?」

「三百年前のな。玉座に座っていたころの」

 ゼルギウスは、盤の上の駒を、指先でつまんだ。長い、鋭い爪のある指だった。だが、その指先は、湊の指と同じように、駒の角に、ぴたりとおさまった。

「湊。我は、そろそろ行かねばならん」

 湊の胸が、きゅっと痛んだ。

「……どこへ?」

「分からん。だが、この体は貴様のものだ。貴様が目を覚ました今、我がここにいる理由は、もうない」

「そんなこと、ない」

 湊は、首を振った。

「僕一人じゃ、攻められない。あなたがいなきゃ、僕はまた受けるだけの将棋に戻っちゃう」

「戻らん」

 ゼルギウスは、静かに言った。

「最終局の、早逃げのあと。端を見つけたのは我だ。だが、端ではなく中央に飛車を突き出したのは――貴様だった」

 湊は、目を見開いた。

「勇者が端を塞いだとき、我は迷った。端がだめなら、別の端を探そうとした。だが、貴様が言った。『その間に、中央が空いてる』と。勇者の話を、聞いていたからだ」

 ゼルギウスは、駒を盤に置いた。

「受けの者でなければ、あの中央は見えなかった。そして、攻めの者でなければ、あの中央に飛車を突き出せなかった。――あの一手を指したのは、もう、我でも貴様でもない」

「……」

「桐生湊という、一人の棋士だ」

 闇の中に、駒音が響いた。

「我は、三百年、一人で指してきた。部下には命令し、敵には策を仕掛け、誰の話も聞かなかった。勇者に敗れて、初めて『負けました』と言った。そして、この世界で、貴様と出会って、初めて誰かと話をした」

 ゼルギウスは、口の端を吊り上げた。

「――悪くなかった」

「行かないで」

 湊の声が、震えた。

「行かないでよ。まだ、一緒に指したい。四段になってからの将棋も、光くんとの将棋も」

「行くのではない」

 ゼルギウスは、盤の上の駒を、一枚ずつ、湊のほうへ押しやった。

 飛車。角。銀。桂馬。攻めの駒を、全部。

「我は、もうどこへも行かん。貴様の攻めの中にいる。貴様が、怖くても一歩前に出るとき。飛車を捨てて、まっすぐ相手の玉に向かうとき。――我は、そこにいる」

 ゼルギウスの姿が、少しずつ、薄くなっていった。

 闇に溶けるように。いや、湊の中に、溶け込んでいくように。

「湊。最後に、一つだけ」

「……なに」

「盤の向こうの相手と、話をしろ。いつでも。どんな相手とも」

 赤い目が、穏やかに笑った。

「それが、我が三百年かかって、ようやく覚えたことだ」

「――うん」

 湊は、涙をこぼしながら、頷いた。

「約束する」

「では、行け。我が――」

 ゼルギウスは、少しだけ言葉を探した。

 臣下、と言いかけて、やめた。

「――我が、相棒よ」

 闇が、白く、明るくなった。


  *


 春が来た。

 将棋会館の対局室で、湊は、四段として初めての公式戦の盤の前に座っていた。

 相手は、四十代のベテラン六段だった。対局室の隅には、新聞社の記者が二人、カメラを構えていた。

 ――記憶喪失から復帰し、最終局で天野光四段の全勝を阻んで昇段した、異色の新人。

 ――受けの名手が、突如として見せた、苛烈な攻め。

 ――奨励会員たちは、その将棋を、こう呼んだという。

 ――「魔王」と。

 記事の見出しを思い出して、湊は少しだけ苦笑した。

 ベテラン六段が、駒を並べ終えて、湊を見た。

「君が、噂の魔王くんか」

「……噂ほどでは、ありません」

「楽しみにしてたんだよ。お手柔らかにね」

 六段は、人懐っこく笑った。

「お願いします」

「お願いします」

 湊は、膝の上の扇子を、そっと握った。

 黒田にもらった、白い扇子。――対話。

 六段が、▲7六歩と角道を開けた。

 湊は、盤を見つめた。

 盤の向こうの相手が、話しかけてくる。

 ――さあ、どう来る?

 湊は、駒をつまんだ。

 人差し指と中指の先が、駒の角に、ぴたりとおさまった。

 ――まずは、話を聞こう。

 △3四歩。

 ぱちり、と駒音が響いた。

 六段が、少し意外そうな顔をした。噂の魔王は、序盤から攻めてくると思っていたのだろう。

 湊は、静かに、自分の玉の周りを固めていった。相手の話に、一手ずつ耳を傾けながら。受けの湊の、静かな駒組み。

 そして、六十手目。

 相手の攻めが、ほんの一瞬、息をついた。

 湊の目に、盤の端の、誰も見ていない一升が、光って見えた。

 怖かった。

 飛車を捨てれば、玉が薄くなる。読み切れるかどうか、分からない。

 でも。

 ――行け。

 胸の奥の、ずっと深いところで、誰かが、くつくつと笑った気がした。

 湊は、飛車をつまんだ。

 まっすぐに、前へ。

 ぱちり、と、高く澄んだ駒音が、対局室に響いた。

 盤の向こうで、ベテラン六段が、目を見開いた。

 それから、心の底から楽しそうに、笑った。

 ――そう来たか。

 ――じゃあ、こっちは。

 対話が、始まった。


(了)


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