第五話「現場」
呼び出しが来たのは夜だった。
マンションの一室、三十代の女性が死亡しているのを交際相手が発見したという。
所轄が先着していて、刑事課にも声がかかった。
桐島は係長の野口、それから宮田と三人で向かった。
エレベーターの中で、野口が言った。
「検視官の藤堂さん、今日来てるから。刺激すんなよ桐島」
「何もしない」
「お前がいるだけで刺激になるんだよ」
宮田が少し笑った。
桐島は何も言わなかった。
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現場は四階の角部屋だった。
ドアの外まで鑑識が出ていた。
廊下に所轄の制服が二人立っている。
中に入ると、リビングに人間が集まっていた。
鑑識、所轄の刑事、そして検視官の藤堂。
小柄な女だ。
五十代、白髪交じりの短髪。
現場では神経質なほど細かい。
桐島が入った瞬間、藤堂が顔を上げた。
「あ、権蔵来た」
周囲が少し緊張した。
「お前は向こう行ってろ。邪魔だから」
「……はい」
桐島は素直に引いた。
廊下との境目、リビングの入口付近に立った。
中には入らないが、見える位置だ。
野口が苦笑しながら藤堂に近づいていく。
宮田は鑑識の邪魔にならないよう壁際に立った。
桐島は遠くから部屋を見た。
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被害者は三十二歳、橋本麻衣。
リビングの床に倒れていた。
死因は頸部圧迫、絞殺とみられる。
発見したのは交際相手の男、二十八歳。
今は所轄に任意同行されている。
桐島は部屋を眺めた。
整頓されている。
几帳面な女だったのだろう。
本棚の本は背表紙が揃っている。
テーブルの上には雑誌が一冊、綺麗に置いてある。
ただ、一箇所だけ違和感があった。
玄関脇の下駄箱の上。
小物が並んでいる。
鍵、ハンドクリーム、マスクの予備。
その並びが、他の場所と比べて微妙に乱れていた。
誰かが急いで何かを取ったか、置いたか。
あるいは誰かがそこに立っていたか。
桐島はそれを見たまま、何も言わなかった。
藤堂が検視を進めている。
野口が所轄の刑事と話している。
宮田がメモを取っている。
桐島は入口に立ったまま、もう一度玄関を見た。
下駄箱の上に、鍵が二本あった。
一本はキーホルダー付き。
もう一本は何もついていない、裸の鍵だ。
合鍵か、スペアか。
誰のものかは分からない。
分からないまま、桐島は黙っていた。
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鑑識は時間がかかる。
野口にそう言われて、桐島は廊下のパイプ椅子に座った。
所轄が気を利かせて持ってきたものだ。
缶コーヒーを一本買ってきて、飲んだ。
ブラック。
ぬるかった。
一時間が経った。
廊下を人が行き来する。
鑑識員が道具を運ぶ。
所轄の若い制服が緊張した顔で立っている。
宮田が時々出てきて、桐島の隣に立って、また戻っていく。
「退屈じゃないですか」
一度、宮田が訊いた。
「別に」
「俺だったら気になって仕方ないですけど」
「中に入れないなら同じだ」
宮田はそれ以上言わなかった。
三時間が経った。
野口が交代で仮眠を取ると言って、車に戻った。
桐島はそのまま椅子に座っていた。
眠くはなかった。
眠れないわけでもなかった。
ただ、このまま座っていることに特に不満がなかった。
廊下の窓から、夜景が見えた。
向かいのマンションの灯りが、いくつか消えて、また灯る。
眠れない人間がいる。
あるいは夜中に起きた人間がいる。
それだけのことだ。
五時間が経った。
藤堂が一度廊下に出てきた。
桐島を見て、少し驚いた顔をした。
「まだいたのか」
「お前が追い出したも同じだろうよ」
「帰っていいぞ」
「俺の上司に言え」
藤堂は何か言いかけて、やめた。
代わりに自分の缶コーヒーを一本、桐島に投げた。
ブラックだった。
「邪魔なくせに律義な男だな」
桐島は受け取って、礼を言った。
藤堂は鼻を鳴らして戻っていった。
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八時間後、鑑識が終わった。
野口が車から戻ってきた。
目が赤い。
あまり眠れなかったのだろう。
「桐島、何か気づいたことあるか」
「特にないです」
野口は少し目を細めた。
「本当に」
「はい」
野口は何か言いかけて、やめた。
長い付き合いだ。
桐島が「特にない」と言う時の顔を、野口は知っている。
それでも何も言わなかった。
桐島が言わないなら、理由があるのだろうと思っているのかもしれない。
そうでないのかもしれない。
エレベーターを待ちながら、宮田が小声で言った。
「桐島さん、何か見てましたよね」
「そうか」
「玄関の方、ずっと」
桐島は答えなかった。
エレベーターが来た。
三人で乗った。
ドアが閉まった。
外はもう明るくなり始めていた。
夜が終わっていた。
捜査は続く。
犯人が捕まるかどうかは、桐島には関係のない話だ。
少なくとも今は。




