第二話「夫婦喧嘩」
当直の夜は、たいてい間が悪い。
通報が入ったのは午前一時過ぎだった。
夫婦間のトラブル、怒声あり、暴力の有無不明。
桐島は上着を引っ掴んで、隣の若手——入署三年目の宮田を連れて車に乗った。
「夫婦喧嘩ですか」
宮田が助手席で言った。
まだこういう案件に慣れていない声をしている。
「そうだ」
「どう対応すれば」
「行ってから考える」
桐島はそれだけ言って、あとは黙って運転した。
マンションの六階。
エレベーターを降りた瞬間から、声が聞こえた。
男の声だ。
怒鳴っているというより、絞り出している感じの声。
桐島はドアの前に立ち、チャイムを押した。
声が止んだ。
しばらくして、ドアが開いた。
三十代後半とおぼしき女が立っていた。
目が赤い。
泣いていたのか、怒っていたのか、たぶん両方だろう。
「警察です。お電話いただいた方ですか」
「はい……すみません、呼んでしまって」
呼んだのは自分なのに謝る。
桐島はその矛盾を顔に出さなかった。
「中に入らせてもらえますか」
リビングに男がいた。
四十代、背が高い。
腕を組んで壁際に立っている。
テーブルの上にグラスが一つ、倒れていた。
中身は空だ。
割れてはいない。
それとは別に、テーブルの端に封筒が置いてあった。
茶封筒。
口が開いている。
中から何枚か、写真が出かかっていた。
「桐島といいます。少し話を聞かせてください」
男は桐島を一瞥してから、視線を床に落とした。
「話すことはない」
「そうですか」
桐島は特に押さなかった。
部屋を一度、ゆっくり見回した。
荒れてはいない。
殴り合った形跡もない。
ただ空気が重かった。
長い時間、二人でこの重さの中にいたのだろうと分かった。
宮田が女の方に寄って、小声で話しかけている。
桐島は男の近くに立ったまま、封筒に視線をやった。
「それは」
男が封筒を一瞥した。
「興信所に頼みました。三ヶ月前」
桐島は何も言わなかった。
「確認したかっただけです。まさかと思って……でも、やっぱり」
男は言葉を切った。
続きは要らないと判断したのか、続ける気力がなくなったのか。
封筒の中身は見えた。
ラブホテルの入口から連れ立って出てくる写真。
ホテルの前で、男が女の髪に触れながらキスをしている写真。
どれも遠くから望遠で撮ったものだ。
解像度は荒い。
でも分かるには十分だった。
男が先に口を開いた。
「……知ってたんですよ。薄々は」
独り言のような声だった。
桐島に言っているのかどうかも定かでない。
「それでも違うと思いたかった。馬鹿みたいでしょう」
「そうでもないです」
桐島は短く言った。
慰めではない。
そうでもない、と思ったから言った。
知っていて知らないふりをする時間は、誰にでもある。
終わらせたくないのか、終わらせる踏ん切りがつかないのか、自分でも分からないまま過ごす時間。
桐島はそれを知っていた。
詳しい事情は関係ない。
ただ、三ヶ月前から調べていたというのが引っかかった。
調べながら、何食わぬ顔で隣に寝ていたのか。
朝食を食べて、仕事に行って、帰ってきて。
その間ずっと、封筒の中身を知っていた。
それがどれだけ堪えるものか、桐島には想像するだけで十分だった。
「手は出しましたか」
「出してません」
「奥さんに確認します」
「どうぞ」
男は再び壁を見た。
宮田から目配せが来た。
暴力なし、物損なし、女も落ち着いてきている。
桐島は頷いた。
しばらく双方から話を聞いた。
女の方は最初、口を割らなかった。
否定も肯定もしない。
ただ唇をきつく結んでいた。
それが答えだと、部屋にいる全員が分かっていた。
男が封筒をテーブルに置いた瞬間、女の顔が変わった。
崩れたというより、諦めた顔だった。
内容は聞くまでもなかった。
妻の不貞、夫の発覚、口論、通報。
そういう順番だ。
細部は違っても、この種の話の骨格はだいたい同じだと桐島は思っていた。
一時間ほどして、場が落ち着いた。
「今夜はどちらかが別の部屋で休むか、どちらかが外に出るか、できますか」
二人は顔を見合わせた。
初めて目が合った気がした。
「……私が実家に行きます」
女が言った。
男は何も言わなかった。
否定もしなかった。
女が荷物をまとめる間、男はずっとテーブルの封筒を見ていた。
片付けるでもなく、しまうでもなく、ただ見ていた。
桐島はその横に立って、同じように待った。
女が鞄を持って玄関に向かった。
男は動かなかった。
見送りもしなかった。
桐島たちは女と一緒にマンションを出た。
エレベーターの中で、宮田が小声で言った。
「桐島さんは、ああいう現場、慣れますか」
「聞き飽きた」
「え」
「夫婦喧嘩は犬も喰わねぇって言うが、DVとか最近はうるせえからなぁ」
桐島は欠伸を嚙み殺した。
「男と女がいる限り抜き差しならん話なんで、クソほどにもある話だ」
「……そうですね」
宮田は少し黙ってから言った。
本当に分かったのかどうかは知らない。
空が少しだけ明るくなり始めていた。




