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権蔵刑事  作者: N
2/9

第二話「夫婦喧嘩」

 当直の夜は、たいてい間が悪い。


 通報が入ったのは午前一時過ぎだった。

夫婦間のトラブル、怒声あり、暴力の有無不明。

桐島は上着を引っ掴んで、隣の若手——入署三年目の宮田を連れて車に乗った。


「夫婦喧嘩ですか」


 宮田が助手席で言った。

まだこういう案件に慣れていない声をしている。


「そうだ」


「どう対応すれば」


「行ってから考える」


 桐島はそれだけ言って、あとは黙って運転した。


 マンションの六階。

エレベーターを降りた瞬間から、声が聞こえた。

男の声だ。

怒鳴っているというより、絞り出している感じの声。

桐島はドアの前に立ち、チャイムを押した。


 声が止んだ。


 しばらくして、ドアが開いた。

三十代後半とおぼしき女が立っていた。

目が赤い。

泣いていたのか、怒っていたのか、たぶん両方だろう。


「警察です。お電話いただいた方ですか」


「はい……すみません、呼んでしまって」


 呼んだのは自分なのに謝る。

桐島はその矛盾を顔に出さなかった。


「中に入らせてもらえますか」


 リビングに男がいた。

四十代、背が高い。

腕を組んで壁際に立っている。

テーブルの上にグラスが一つ、倒れていた。

中身は空だ。

割れてはいない。


 それとは別に、テーブルの端に封筒が置いてあった。

茶封筒。

口が開いている。

中から何枚か、写真が出かかっていた。


「桐島といいます。少し話を聞かせてください」


 男は桐島を一瞥してから、視線を床に落とした。


「話すことはない」


「そうですか」


 桐島は特に押さなかった。

部屋を一度、ゆっくり見回した。

荒れてはいない。

殴り合った形跡もない。

ただ空気が重かった。

長い時間、二人でこの重さの中にいたのだろうと分かった。


 宮田が女の方に寄って、小声で話しかけている。

桐島は男の近くに立ったまま、封筒に視線をやった。


「それは」


 男が封筒を一瞥した。


「興信所に頼みました。三ヶ月前」


 桐島は何も言わなかった。


「確認したかっただけです。まさかと思って……でも、やっぱり」


 男は言葉を切った。

続きは要らないと判断したのか、続ける気力がなくなったのか。


 封筒の中身は見えた。

ラブホテルの入口から連れ立って出てくる写真。

ホテルの前で、男が女の髪に触れながらキスをしている写真。

どれも遠くから望遠で撮ったものだ。

解像度は荒い。

でも分かるには十分だった。


 男が先に口を開いた。


「……知ってたんですよ。薄々は」


 独り言のような声だった。

桐島に言っているのかどうかも定かでない。


「それでも違うと思いたかった。馬鹿みたいでしょう」


「そうでもないです」


 桐島は短く言った。

慰めではない。

そうでもない、と思ったから言った。


 知っていて知らないふりをする時間は、誰にでもある。

終わらせたくないのか、終わらせる踏ん切りがつかないのか、自分でも分からないまま過ごす時間。

桐島はそれを知っていた。

詳しい事情は関係ない。


 ただ、三ヶ月前から調べていたというのが引っかかった。

調べながら、何食わぬ顔で隣に寝ていたのか。

朝食を食べて、仕事に行って、帰ってきて。

その間ずっと、封筒の中身を知っていた。


 それがどれだけ堪えるものか、桐島には想像するだけで十分だった。


「手は出しましたか」


「出してません」


「奥さんに確認します」


「どうぞ」


 男は再び壁を見た。


 宮田から目配せが来た。

暴力なし、物損なし、女も落ち着いてきている。

桐島は頷いた。


 しばらく双方から話を聞いた。

女の方は最初、口を割らなかった。

否定も肯定もしない。

ただ唇をきつく結んでいた。

それが答えだと、部屋にいる全員が分かっていた。


 男が封筒をテーブルに置いた瞬間、女の顔が変わった。

崩れたというより、諦めた顔だった。


 内容は聞くまでもなかった。

妻の不貞、夫の発覚、口論、通報。

そういう順番だ。

細部は違っても、この種の話の骨格はだいたい同じだと桐島は思っていた。


 一時間ほどして、場が落ち着いた。


「今夜はどちらかが別の部屋で休むか、どちらかが外に出るか、できますか」


 二人は顔を見合わせた。

初めて目が合った気がした。


「……私が実家に行きます」


 女が言った。

男は何も言わなかった。

否定もしなかった。


 女が荷物をまとめる間、男はずっとテーブルの封筒を見ていた。

片付けるでもなく、しまうでもなく、ただ見ていた。

桐島はその横に立って、同じように待った。


 女が鞄を持って玄関に向かった。

男は動かなかった。

見送りもしなかった。


 桐島たちは女と一緒にマンションを出た。

エレベーターの中で、宮田が小声で言った。


「桐島さんは、ああいう現場、慣れますか」


「聞き飽きた」


「え」


「夫婦喧嘩は犬も喰わねぇって言うが、DVとか最近はうるせえからなぁ」


 桐島は欠伸を嚙み殺した。


「男と女がいる限り抜き差しならん話なんで、クソほどにもある話だ」


「……そうですね」


 宮田は少し黙ってから言った。

本当に分かったのかどうかは知らない。


 空が少しだけ明るくなり始めていた。

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