第一話「信じた男」
被害届の用紙は、どこの署でも同じ匂いがする。
インクとコピー機の熱と、人間の焦りが混じったような、妙に生ぬるい紙の匂いだ。
桐島は机の端に肘をついたまま、目の前の男を眺めた。
五十二、三か。
髪は几帳面に整えてあるが、ネクタイが今日のために締め直した感じがする。
普段はもっと緩めているはずだ。
「三田村さん、ご相談の内容をもう一度」
「はい。あの……お金を、貸したんですが」
貸した、という言い方をした。
桐島はそこをそのまま流した。
「金額は」
「三百八十万、です」
「相手は」
「三十二歳の、女性で」
男は一瞬だけ口をつぐんだ。
桐島は待った。
「去年の春に知り合って、その……半年ほど、付き合っていました」
付き合っていた。
桐島は数字を書きながら、男の左手の薬指を確認した。
指輪がある。
細い、地味な指輪だ。
「ご結婚は」
「……してます」
「奥様はご存知ですか」
「知りません」
短い答えだった。
恥じているというより、それ以上説明する言葉を持っていない、という感じの短さだった。
「やりとりの記録はありますか。スマホで確認できますか」
三田村は少し躊躇ってから、スマホを取り出して桐島に差し出した。
画面には長いトーク履歴があった。
桐島はスクロールしながら、流し読みした。
会いたいな、今日時間ある? あるよ、何時がいい。猛さんに会えると思うと朝から落ち着かない、変かな。変じゃない、俺も同じだから。
甘い言葉が続く。
待ち合わせの場所、食事の店、他愛のない近況。
桐島はテンポよくスクロールしながら、季節が変わるのを感じた。
夏になり、秋になり、やりとりの密度が増す。
今日夫が出張でいないんだ、朝まで一緒にいられる。本当に?迎えに行く。愛してる猛さんのこと、本当に。俺もだ。
桐島はそこで一度スクロールを止めた。
三田村は机の端を見ていた。
画面は見ていない。
たぶんもう、全部覚えているのだろう。
秋の終わりごろから、トーンが変わり始めた。
実は少し困っていて、相談していいかな。何でも言って。お母さんが入院することになってお金が足りなくて、誰にも言えなくて猛さんにだけ打ち明けた。いくら必要?
桐島はスマホを置いた。
「相手の住所はご存知ですか」
「……一度だけ、部屋に行ったことがあります。でも引っ越したって言ってて」
「その住所は分かりますか」
「はい、メモしてあります」
桐島はメモを受け取り、手帳に書き写した。
「三田村さん、今日はご相談として伺います」
三田村が顔を上げた。
「今の時点では、これはお金の貸し借りです。
返ってこないから詐欺、嘘をつかれたから詐欺、とはならない。
詐欺が成立するには、相手が最初から騙すつもりだったという根拠が必要です。
好意につけ込まれたとしても、それだけでは難しい」
「じゃあ……どうすれば」
「まず内容証明郵便を送る。
住所に実在するか確認する。
弁護士を立てて民事で請求するか、その後の動きを見て判断する。
こちらが動けるとすれば、相手が常習的に同じことをやっていた場合です。
それは調べてみないと分からない」
三田村はしばらく黙っていた。
「詐欺じゃない、かもしれないんですか」
「かもしれません」
桐島は淡々と言った。
慰めでも突き放しでもなく、ただそういうことだから言った。
金を騙し取られたのか、惚れた女に貸して踏み倒されただけなのか。
どちらとも言えるし、どちらとも言えない。
そういう話は世の中に思いのほか多い、と桐島は知っていた。
「何か進展があれば連絡します」
三田村は深く頭を下げて、帰っていった。
どちらの意味で分かったのかは、桐島には判断する気がなかった。
廊下の自販機まで歩いて、缶コーヒーを買った。
ブラック。
百三十円。
温かかった。




