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権蔵刑事  作者: N
1/9

第一話「信じた男」

 被害届の用紙は、どこの署でも同じ匂いがする。

インクとコピー機の熱と、人間の焦りが混じったような、妙に生ぬるい紙の匂いだ。


 桐島は机の端に肘をついたまま、目の前の男を眺めた。


 五十二、三か。

髪は几帳面に整えてあるが、ネクタイが今日のために締め直した感じがする。

普段はもっと緩めているはずだ。


「三田村さん、ご相談の内容をもう一度」


「はい。あの……お金を、貸したんですが」


 貸した、という言い方をした。

桐島はそこをそのまま流した。


「金額は」


「三百八十万、です」


「相手は」


「三十二歳の、女性で」


 男は一瞬だけ口をつぐんだ。

桐島は待った。


「去年の春に知り合って、その……半年ほど、付き合っていました」


 付き合っていた。

桐島は数字を書きながら、男の左手の薬指を確認した。

指輪がある。

細い、地味な指輪だ。


「ご結婚は」


「……してます」


「奥様はご存知ですか」


「知りません」


 短い答えだった。

恥じているというより、それ以上説明する言葉を持っていない、という感じの短さだった。


「やりとりの記録はありますか。スマホで確認できますか」


 三田村は少し躊躇ってから、スマホを取り出して桐島に差し出した。

画面には長いトーク履歴があった。


 桐島はスクロールしながら、流し読みした。


 会いたいな、今日時間ある? あるよ、何時がいい。猛さんに会えると思うと朝から落ち着かない、変かな。変じゃない、俺も同じだから。


 甘い言葉が続く。

待ち合わせの場所、食事の店、他愛のない近況。

桐島はテンポよくスクロールしながら、季節が変わるのを感じた。

夏になり、秋になり、やりとりの密度が増す。


 今日夫が出張でいないんだ、朝まで一緒にいられる。本当に?迎えに行く。愛してる猛さんのこと、本当に。俺もだ。


 桐島はそこで一度スクロールを止めた。

三田村は机の端を見ていた。

画面は見ていない。

たぶんもう、全部覚えているのだろう。


 秋の終わりごろから、トーンが変わり始めた。


 実は少し困っていて、相談していいかな。何でも言って。お母さんが入院することになってお金が足りなくて、誰にも言えなくて猛さんにだけ打ち明けた。いくら必要?


 桐島はスマホを置いた。


「相手の住所はご存知ですか」


「……一度だけ、部屋に行ったことがあります。でも引っ越したって言ってて」


「その住所は分かりますか」


「はい、メモしてあります」


 桐島はメモを受け取り、手帳に書き写した。


「三田村さん、今日はご相談として伺います」


 三田村が顔を上げた。


「今の時点では、これはお金の貸し借りです。

返ってこないから詐欺、嘘をつかれたから詐欺、とはならない。

詐欺が成立するには、相手が最初から騙すつもりだったという根拠が必要です。

好意につけ込まれたとしても、それだけでは難しい」


「じゃあ……どうすれば」


「まず内容証明郵便を送る。

住所に実在するか確認する。

弁護士を立てて民事で請求するか、その後の動きを見て判断する。

こちらが動けるとすれば、相手が常習的に同じことをやっていた場合です。

それは調べてみないと分からない」


 三田村はしばらく黙っていた。


「詐欺じゃない、かもしれないんですか」


「かもしれません」


 桐島は淡々と言った。

慰めでも突き放しでもなく、ただそういうことだから言った。


 金を騙し取られたのか、惚れた女に貸して踏み倒されただけなのか。

どちらとも言えるし、どちらとも言えない。

そういう話は世の中に思いのほか多い、と桐島は知っていた。


「何か進展があれば連絡します」


 三田村は深く頭を下げて、帰っていった。


 どちらの意味で分かったのかは、桐島には判断する気がなかった。


 廊下の自販機まで歩いて、缶コーヒーを買った。

ブラック。

百三十円。


 温かかった。

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