第38話 十年後のエピローグ
塵一つなく管理された清潔な大学病院の付属研究所の廊下を、ゆるくカールした髪をアップにまとめ、襟の立ったアシンメトリーな打ち合わせの白衣に身を包んだ素奈多が歩いていた。
「ドクター鈴木」
後ろから、案内の学生が追いかけてきて、並んで歩きながら素奈多に話しかけた。
「到着されたばかりでお疲れでしょう? ドクター佐藤とのお約束の時間にはまだ間があります。まずは、お茶でも……」
歩きながら、事務的に素奈多は答えた。
「結構。ドクター佐藤の研究室には知り合いも居ますので、お構いなく」
「いや、あの、その……」
素奈多は、立ち止まった。
年下の学生を振り返り、やわらかく微笑む。
「何か?」
「いえ……。あの……」
学生は、言葉を探すように、うつむいて視線を左右にさまよわせた。
この学生が、何をどこまで聞かされているのか、素奈多にはわからなかった。
「私に伝えたいことがあるなら、どうぞ。気を遣う必要はありません」
毅然とした態度で、素奈多は促した。
「い、いえ……。あの、次のブロックにお迎えが来ています」
ここでは、研究室のブロックごとに、電子ロックが施されている。
持っている認識票のレベルに合わせて、どこまで入ることが出来るか決まっているのだ。
「次のブロック?」
「はい。自分は、ここまでの案内を頼まれました」
「お茶、というのは……なにかの時間稼ぎですか?」
「いえ、あの……」
学生をいじめては可哀想だ。
「いいのよ。ありがとう」
素奈多は学生に微笑んで、次のブロックへ通じるドアの前に立った。
センサーに、首からさげた認識票をタッチする。
素奈多の目の前で、ドアがスライドして開いた。
ドアの向こうに待っている男が居る。
色素の薄い茶色の髪をした、背の高い、筋肉質な男だ。
男はミラーのサングラスをしている。
精悍な顔立ちに、とてもよくサングラスが似合っていたが、室内でサングラスという不自然さが、彼の存在がイレギュラーなことを物語っていた。
「お待ちしておりました。ドクター鈴木」
男は、礼儀正しく素奈多に向かって頭を下げた。
――クラン……!
素奈多は、息が止まりそうだった。
まだ十七だった少女の頃の、眩暈がするほどの激しい恋心が、爆発するようによみがえってきた。
彼に会うことだけを夢見て、脇目もふらずにがんばってきた。
自分でも、どうしてそんなにこだわるのかと立ち止まって悩んだこともあった。
もちろん、彼のほうが忘れてしまうこともあると思っていた。
怖かった。
自分だけの想いが空回りしているのかもしれないと、ずっと怖かった。
大学生になれば、当然のように男性から声をかけられることもあった。
同じ医学部で、意気投合した同級生もいた。
けれども。
あのとき、素奈多は、本気だった。
本気で自分の命と引き換えに、彼を助けたいと思った。
よく考えれば、自分が死んだところで、余計な手間が増えるだけで、あそこでクランが止めてくれなかったら、警察も入り乱れての大騒動になっただろう。
それでも、命がけの恋だったのだ。
幼いながらも、本気の想いだったのだ。
そして、離れてしまえば、手の届かないところに行ってしまったと思えば、より思い出は美化される。
大人になって、素奈多もわかってきた。
あれは、夢だったんじゃないだろうか、と。
いや、正確には、思い出を強く劇的にドラマティックに作り替えて記憶に焼き付けているのではないだろうか、と。
この十年……。
思い続けてきた男が目の前に居る。
逢いたくて逢いたくて、彼が生きていることを確かめたくて……。
でも。
なんだ?
この、あっけなさは……。
他人行儀は?
「ありがとう。ドクター佐藤の研究室まで案内お願いします」
声が震えないように、素奈多は努めて平静を保った。
十年……。
医学部に入って、佐藤九嵐の所属していた研究室に入って、ここに留学するまでに十年かかった。
十年は、長い。
人の心がすっかり変わってしまうのに、充分な時間だった。
「こちらです」
男は、事務的に頭を下げ、くるりと素奈多に背を向けて先にたって歩き出した。
機械的に足を動かし、素奈多は男のあとをついて歩く。
――ばか……。なんで平気な顔してんのよ……。
素奈多は、不安になってうつむいた。
もしかしたら、すっかり忘れ去られてしまったのは自分のほうなのではないかと思った。
過去の幼い恋に縛られているのは、自分だけなのかもしれないと思うと、急に惨めになった。
廊下の向こうから金髪のグラマラスな女性が歩いてきた。
「ハイ! クラン。今夜、楽しみにしてるわ」
いきなりな台詞に、素奈多はドキッとして思わず立ち止まった。
今夜……。
もしかしたら、もう、すっかり、二人の歩む道は違ってしまっているのかもしれない。
金髪グラマラス美女は、素奈多に気づいて、目を丸くした。
「おー。もしかして、ソナタ?」
いきなり、フレンドリーに話しかけられて、素奈多は目をしばたたいた。
金髪美女は、いたずらっぽくウインクする。
「ここの研究室では、あなたのことは伝説よ? 歓迎するわ。ソナタ」
ぎゅっと握手の手を握られて、素奈多は面食らった。
伝説?
いったいぜんたい、どんなとんでもない話ができあがっているのだろう?
「クラン……」
不安になって、思わずすがるようにミラーグラスをかけた男を見上げた。
男は、困ったように首を左右に振ると、金髪美女の肩を抱くようにして、廊下の向こうに彼女を引っ張っていった。
素奈多は、唖然としてその二人の仲の良さそうな様子を見つめた。
額をくっつけるようにして何事か話している二人を見て、すうっと胸の中に冷たい風が吹いた。
素奈多は、小さくため息をついた。
側の壁に背中をもたれる。
――そっか……。
がんばった自分を誉めてやろうと思った。
ここまでたどりついた自分を讃えてやろうと思った。
誰かに誉めてもらおうとか、見返りを期待したとか、そんなんじゃがんばりきれなかった。
自分のために。
自分の決めたことのためにがんばったから、それでいい。
たとえ、最初に思い描いていた結果とは、少しばかり違っていたとしても。
クランは、ここで幸せに暮らしてきたのだろう。
他人の目に怯えたりすることもなく、限定された寿命に苦しむこともなく。
だったら、それでいい。
十年は長いから……。
変わってしまうには充分すぎる時間だから……。
「えー、まだ話してないのっ?」
廊下の向こうで金髪美女が驚きの声を上げていた。
素奈多は、壁にもたれたまま目を閉じた。
気がつくと、頬を涙が伝っていた。
泣かないと誓ったあの日から、本当に一度も泣かずに今日まできた。
泣き虫だった自分が、よくがんばれたと我ながら感心するほど、根性が入っていた。
でも、もう、いい。
がんばったから、いい。
悔いはない。
「素奈多……」
懐かしい声に呼びかけられて、素奈多はハッとして目を開けた。
あわてて、掌で頬の涙を拭う。
クランが、目の前に立っていた。
「あの、さ……」
言いにくそうに、クランは言葉を濁す。
「うん?」
素奈多は、首が痛くなるほど背の高い男を見上げた。
十年前は、気安くポカポカ叩いていたんだなぁ、と思うと、なんだか不思議だった。
それは、あまりにも遠い日の出来事で、実感がなかった。
見ず知らずの別人のような気がした。
クランは、サングラスを外した。
懐かしい茶色の瞳だった。
「俺……結婚する……」
ズキンと、鋭い楔が胸に突き刺さったような気がした。
結婚……。
あまりに現実的な言葉を突きつけられて、かえって夢の中に居るようだった。
でも、もし、彼の存在を受け入れられる女性がいるのなら、そういうこともあり得るかもしれない。
「そう……なんだ……」
やっとのことで、素奈多は口を開いた。
「うん……」
うなずく。
「おめでと……う」
自分がなにを言っているのか判らなかった。
祝福の言葉を口にだしたのだろうか?
そうか。
昔は、罵ってばかりだった。
本心が言えないのは相変わらずだ。
顔を上げた。
「おめでとう。クラン。よかったね」
胸が痛かった。
心臓のあたりが、悲鳴をあげるように軋んで、苦しくてたまらなかった。
それでも、クランを見上げて微笑んだ。
精一杯の笑顔で祝ってあげようと思った。




