第35話 君と見た海へのレクイエム
素奈多は、ぼんやりと目を開けた。
視界がゆらいで、像を結ぶ。
四角く白いマス目が見えた。
それが天井だと気づくのに、少し時間がかかった。
いっぺんにいろんなことがありすぎて、記憶が順序よく蘇ってこなかった。
首を動かすと、首筋にピリリとした痛みが走った。
痛みに顔をしかめながら、仰臥したまま左右を目だけで伺った。
無機質な白い壁と、天井のカーテンレール。
大きな横開きのドアと、長い取っ手。
どうやら、病室のようだ。
あのあと、気を失ってしまったらしい。
布団の中から右手を出した。
包帯が巻かれている。
親指の又が痺れたように痛んだ。
メスで切ったんだな、と思った。
唐突に、血まみれになって倒れたクランの姿が思い浮かんだ。ぶわっと涙があふれ出た。
涙と同時に、少しずつ、記憶が蘇ってくる。
あれから、クランはどうなっただろう……。
個室でのうのうと寝ている自分が恨めしかった。
――クラン、死んじゃったのかな……。
たとえクローンでも、かけがえのない命を作り出して、殺したのは自分だと思った。
あのとき、興味本意で先輩の髪の毛なんか卵に入れなければ、クランは生まれてくることも、苦しむことも、死んでしまうこともなかった。
――あたしが苦しめて、あたしが殺した……。
素奈多は、両手の甲を目にもっていった。
手で隠した瞳から涙があふれ頬を伝う。
わあわあ泣きわめきたいのに、ただ、とめどなく涙が流れるだけだった。
誰も見ていないのに、なんで、こんなに静かに泣くんだろうと思った。
泣き叫ぶにもパワーが必要なのだ。
完全に、ノックアウトされた気分だった。
自分の力ではどうしようもない、巨大な壁に正面からブチ当たって、粉々に砕け散った気分だった。
拳を握りしめても握力が出ないし、声を出そうにもおなかに力が入らない。
涙といっしょに、全部、溶けて流れてしまえばいいと思った。
ゆるゆるのあたたかい水になって、クランの眠るところまで流れていけたらいいと思った。
そして死んでしまった彼と溶けて混ざり合い、誰も知らないところに流れていくのだ。
二人で一緒に、流れていくのだ。
そうできたらいいと思った。
心から思った。
クランは幸せだっただろうか?
この世界に生まれてわずか数日……。
旅行に行って、海を見て、温泉に浸かって……。
だけど、こんなに早く逝ってしまうなら、生まれてこなかった方が良かったんじゃないだろうか。
――あたしのせい……。ごめんね、クラン……。
そのとき、ノックの音が素奈多の耳に響いた。
溶けて流れてしまいたいと思っていても、耳はちゃんと聞こえるのだ。
素奈多は、目を覆った手をどけて、戸口に視線を移した。
白衣を着た男が静かに入ってきた。
佐藤九嵐だった。
憧れの先輩だった。
この先輩に憧れて、憧れて……。
猛勉強をしてここの大学の付属高校に入学したのは、遠い昔の出来事のようだった。
毎日毎日、夢の中でさえ、想い続けた先輩だった。
なのに今は……。
「気分はどう?」
九嵐は、右手を白衣のポケットにつっこんだまま、静かに訊いた。
いつか事故で運び込まれたときのような、優しいまなざしだった。
「先輩……」
素奈多は、かすれた声で言った。
「あたし、大騒ぎして、みんなに迷惑かけて……。ほんとうに、ごめんなさい」
九嵐は、優しく微笑みながらベッドサイドへ歩み寄った。
「もう、こんな無茶はしないようにね」
ふわりと九嵐の大きな手が素奈多の頭を撫でる。
――あ、れ……?
素奈多は、強烈な既視感に襲われて目を細めた。
先刻も、そしていつかも……。
あいつが同じように頭を撫でてくれた。
子供扱いされているみたいで少しくすぐったかったけど、不思議とその大きな手が落ち着かせてくれた……。
素奈多は、九嵐をまっすぐに見上げた。
「先輩、クランは、どうなったんですか?」
九嵐は、素奈多の視線から逃れるようにゆっくりと首を横に振った。
それは、彼がもう生きてはいないということか……。
――クラン!
みるみる、素奈多の瞳に涙が溢れる。
素奈多は震える声で言った。
「……会わせてください」
九嵐は、かぶりを振る。
「それはできない」
「会ってお別れ言うくらい、いいでしょう?」
もう一度、顔を見て、抱きしめたかった。
その頬に、額に、唇に、もう一度触れてみたかった。
たとえ、冷たく変わり果てた姿になっていたとしても……。
でも、それさえもかなわないというのか……。
九嵐は、辛そうに目を細めた。
「彼の遺体は秘密裏に処分されたんだ」
「そんな……」
素奈多は、もう、なにも考えることができなかった。
あとからあとから溢れてくる涙を拭いもせず、ただ、小刻みに体を震わせていた。
九嵐は、震えながら泣いている少女に、その場しのぎの慰めの言葉はかけなかった。
素奈多が失って泣いているのが、自分のクローンであることを熟知しているがための抑えた行動だろう。
もし、九嵐に抱きしめられ、同じ声で囁かれたら、錯覚してしまう。
彼はもういないのに……。
「彼の最期のメッセージを伝えよう」
九嵐は、静かに言った。
素奈多は、真っ赤に泣きはらした目で九嵐を見上げる。
九嵐は、言った。
「愛してる、素奈多。たとえ、二度と会えなくても、俺は、産まれてきたことに感謝する……。俺を、この世界に生み出してくれて、ありがとう」
素奈多は、茫然と宙を見つめた。
まるで、クランに言われたようだった。
「……そんなこと、同じ顔で言わないで……」
あんまりだと思った。
どうして、クランは、この人のクローンだったんだろう……。
ぜんぜん違うのに、なにもかもが違う、別の存在だったのに……。
だけど、顔も声もそっくり同じだったのだ。
九嵐は顔を覆って泣く少女を、苦しげに見つめた。
「素奈多……」
ぽそりとつぶやく。
名前を呼ばれて、素奈多の肩がピクっと震えた。
「伝えたよ。じゃあ、もうしばらくお休み」
九嵐はそう言うと、さっと身を翻した。
その体の動きにしたがって、白衣の裾がふわりと翻る。
病室を出ていこうとする九嵐の後ろ姿を見て、素奈多は爆発するような衝動がこみ上げるのを感じた。
それは、堰を切った水のようにあふれかえって止めることができなかった。
素奈多、がばっと起きあがった。
急に起きたので、ぐらぐらと眩暈がした。
首の傷がビリビリして、右手の傷も縫ったところが開きそうに痛んだ。
でも、そんなことにかまってはいられなかった。
素奈多は、ありったけの大声で九嵐の後ろ姿に叫んだ。
「うそつきっ!」
ベッドから身を乗り出したら、ぐるんと視界が回って、素奈多は床に転がり落ちた。
頭から落下したので、目から火花が散った。
点滴のスタンドが倒れて、凄い音が響いた。
「素奈多……」
九嵐が、あわてて素奈多に駆け寄った。
素奈多は、ぐるんぐるん回る視界をもてあましてポカポカと頭を叩いた。
激しい眩暈は、大時化の海原で小船に乗っているようだった。
素奈多は助け起こそうとした九嵐を逃がさないように、必死でしがみついた。
「うそつき! なに、お上品な言葉使ってんのよっ! こっちの手、出して見せなさいよっ!」
素奈多は、ポケットに突っ込んでいた九嵐の右手を、無理矢理、引っ張り出した。
九嵐の右手には、真っ白な包帯が巻かれている。
さっき、素奈多の手に握られたメスを素手で握ったヤツがいた。
掌がざっくり切れて、大出血したに違いない。
素奈多は、眩暈でぐるぐるになった視界の中で、九嵐が悪戯っぽく笑うのを見たような気がした。
憧れの九嵐先輩は、絶対、そんな人を食ったような笑顔は見せないのだ。
素奈多は、勝ち誇ったように言った。
「あたしを騙せると思った? 何十人、先輩のクローンが湧いて出たって、あんたのことくらいすぐ判るんだから……」
「素奈多……」
九嵐のフリを決め込んでいたクランは、そっと素奈多の頬を両手で挟み込んだ。
「告白するなら、ちゃんと自分で言ってよ……」
素奈多は、静かに目を閉じる。
クランは囁いた。
「愛してる」
「もう一度」
「愛してる……素奈多……」
点滴のスタンドは倒れたままだった。
スリッパが、あっちこっちに転がっていた。
素奈多の頭の中は真っ白になって、もう、なにも考えられなかった。
ただ、この掴んだ手を、抱きしめたぬくもりを決して離してはいけないと、それだけを強く強く想っていた。
病室の床に座りこんだまま、二人はかたく抱き合い、わずかな時間を惜しむように何度も何度もキスをした。
時間が止まってしまえばいいと、思った。




