第32話 愛とか恋とかゾンビとか
「クラン!」
素奈多の悲鳴のような声が自分を呼んでいる。
クランは、消えかけた意識のギリギリの淵から戻ってきた。
それともこれは、今際の際の幻聴だろうか?
「クランっ!」
小さな手に揺り動かされて、ああ、幻聴じゃなかった……と、ぼんやり思った。
クランは嬉しくて、ガラにもなく頬に幸せな笑みを浮かべた。
「クラン! どうしたのっ?」
そりゃあ、ゴミ捨て場に人間が転がっていたら、誰だって慌てる。
その素奈多の声がとても心配しているようで、クランはさらに嬉しくなった。
クランは、けだるく目を開けて、にこっと微笑んだ。
「おかえり。素奈多……」
「おかえりって……」
素奈多は大仏のTシャツに顔を埋めて、泣き声でわめいた。
「なに寝ぼけたこと言ってんのよっ!? あたしがどれだけ心配……」
思いの丈を全部吐き出そうとして、素奈多はハッと気づいた。
こんなに雨に打たれているのに……。
熱い……。
素奈多は、クランの首筋や額を触って確認する。
「やだ。凄い熱」
素奈多は、愕然とした。
「あ、素奈多の手、冷たくて気持ちいい~」
クランは、熱い手で素奈多の手を取る。
素奈多の手をぴたっと頬に当てて、委ねるように目を閉じた。
素奈多はもう片方の手で、クランのびしゃびしゃの顔をなぞった。
「お医者さん行こう。早く」
クランは、目を閉じたままため息をついた。
「素奈多」
今までに聞いたことのないような真面目な声で、クランは素奈多を呼んだ。
素奈多は、さっきから頭の中にこびりついている嫌な予感を振り払うように、わざと元気な声を出した。
「うん? なに? なんか食べたいものあるなら、お医者さん行く途中で買ってあげるから」
クランは、かすかに微笑んで、ゆっくりと首を横に振った。
「あのな、素奈多……よく聞けって。これはな、病気じゃねぇんだ……」
「病気じゃない? なんで? 凄い熱出してるじゃない」
素奈多の声が震えた。
「これは……寿命」
一瞬、素奈多は息をするのを忘れた。
心臓が口から飛び出してしまったんじゃないかと思うくらい、ドキドキと大きな音をたてて鳴っていた。
「ばっ、ばっかじゃないの? こないだ産まれたばっかりなのに、どこが寿命なのよっ!」
無理矢理、笑って、素奈多は声を張り上げた。
大きく張り上げた声が、うわずっていた。
クランは、目を開けて素奈多を見上げた。
色素の薄い、茶色い瞳が、まっすぐに素奈多を見つめていた。
もう、どんなに先輩に似ていても、たとえ二人が並んでいたとしても、絶対に見間違えたりしないと素奈多は思った。
それくらい、クランに心が傾いていた。
「その、カーディガン……」
クランがニセキジと家を出たとき、胸に抱いていた素奈多のカーディガンだ。
くるくると丸まって、クランの脇にあった。
「あっ、そうだ。ニセキジ! ニセキジはどうしたの?」
「ああ……」
素奈多は、カーディガンに手を伸ばした。
持ち上げると、ずっしり重い。
ちょうど、ニセキジを抱いたときと同じくらいの重さだった。
「ちょっと……まって……」
ピクリとも動かないそれを抱えて、素奈多は震える声でつぶやいた。
そっとカーディガンをめくる。
死後硬直で、固まった猫が現れた。
「うそっ……!」
言葉を失う素奈多に、クランは静かに言った。
「家に帰ったとき、もう、冷たくなってた」
「えっ!?」
「そこに、ご両親が来て……」
「だから、ひとりで……? ひとりでこんなところに来たの?」
頬を伝っているのが涙なのか、雨なのか、素奈多にはもうわからなかった。
「ごめん……。ひとりで背負わせて……」
素奈多は、ニセキジを抱きしめた。
「素奈多、ちょっと難しいこと言うけど、我慢して聞いてくれ……」
クランは、真面目な顔で言った。
素奈多はぎこちなくうなずいた。
「生き物の体を作ってる細胞ってのは、はじめから分裂出来る回数が決まってるんだ。その回数を決めてるのが、テロメアっていう、遺伝子の端っこの部分だ……」
素奈多は、雨に打たれて高熱を出しながら、いきなり細胞の話をし始めたクランを凝視して、首をかしげた。
でも、我慢して聞けと言われたので、黙って耳を傾けた。
「そのテロメアは、細胞が分裂するたびに少しずつ短くなっていく。そして、テロメアがある一定の長さより短くなってしまうと、もう、その細胞は分裂できない。分裂できなくなった細胞は衰えて死ぬんだ」
「死ぬ?」
素奈多は、震える声で訊いた。
「おまえの九嵐先輩と俺、多分、見た目年齢はそう違わないだろう? これは、もとになった細胞のテロメアを読んで個体の成熟度を算出したからだ。おまえが拾った卵は、臓器移植用のドナーを創るためのウテルス・カプセルという医療器具で、本来は、移植に必要な特定の臓器だけが培養されるはずなんだが……、ときどき個体そのものが出来ちまうことがある……」
「臓器移植用のドナー……?」
そういえば、九嵐先輩の所属している研究室は自己移植外科研究室といった。
自己、つまり、自分の細胞から培養された心臓とか肝臓を移植する研究をしているところだったのか。
その移植用の臓器を作るのが、あの卵で……、それはときどき臓器だけじゃなくて、人間をまるまる一人分作ってしまうことがある……?
研究段階とはいえ、実際に、そうやって作り出されたクランを目の前にしていなかったら、とても信じられるような話ではなかった。
「臓器だけを作る技術は人間をまるまる作るよりも遙かに難易度が高い。つまり、人間とか猫とか、まるまる出来ちまうってのは、失敗作なんだ。法律でもヒト・クローンは禁止されているが、だからといって間違って出来ちまったもんを殺すわけにもいかない。だから、失敗作には最初から寿命が設定されている……」
「そんな……、そんなの、聞いたことない……」
「そりゃあ、公には発表できねぇこともいろいろあるわけよ。最先端の科学ってのは、得体の知れない錬金術みたいなもんだ。でも、自己臓器移植自体は画期的なんだぞ……。拒絶反応の心配のない自分自身の臓器が卵で簡単に創れるんだからなぁ」
素奈多はふるふると首を振った。
「そんなこと、どうでもいいよ! クランが、死んじゃうなんて、絶対、嫌っ! 病院に行って、助けてもらおうよ。ね?」
クランは、静かにかぶりを振った。
「俺のテロメアは最初からすげぇ短く設定されてるんだ。……それに、期限切れで廃棄されたカプセルから事故で産まれた俺なんざ、なんの価値もねぇよ」
素奈多の瞳から涙が堰を切ったように流れ出た。
「あるよっ! あたしには、価値、あるもんっ! クランがいなくなるなんて、考えられない……。だから死ぬなんて言わないでっ!」
素奈多は、クランを抱きしめた。
「へへへ~……、すげ、嬉しい……」
「だって、まだ一緒に映画見てないよ!?」
「あー、あれな……。きっとお前、嫌がると思って……」
「なんでよ? 新幹線の映画なんでしょ?」
「いや……ゾンビ映画なんだわ」
「ゾンビ?」
「すっげー速く走るゾンビなんだってさ。普通のゾンビ、おせーじゃん」
「んもう、こんな時に何言ってるのよ!」
クランは優しい目で素奈多を見つめると、安らかに微笑み、その腕の中でふっと意識を失った。
「クラン! クランっ!」
素奈多は、クランの体を抱きしめて、泣きながら彼の名前を呼び続けた。
そんな二人に、雨は容赦なく降り注いでいた。




