第20話 いっしょに食べよ
今日のクランは、早起きだった。
素奈多より先に目が覚めたので、目玉焼きでも焼こうかと、キッチンに立った。
卵をふたつフライパンに落として、じゅーじゅーやっていると、急に周囲の映像がぐるんと回った。
「げ……」
思わず目を閉じて冷蔵庫に寄りかかり、深呼吸する。
冷蔵庫で体を支えて、そっと目を開けた。
目玉焼きの二つの黄身の輪郭がぶれて、四つ目に見える。
――マジかよ……。
クランは、眉間を押さえ、軽く頭を振った。
ふわふわと雲の上を漂っているようだった。
素奈多は、ベッドからむくりと起き上がり、大きなあくびと伸びをした。
めちゃくちゃ熟睡したので、目覚めが爽やかだった。
対面キッチンの奥で目玉焼きを作っているクランの背中を見る。
おはよう、と言おうとして、あれっ? と首を傾げた。
なんだか少し様子が違うような気がしたのだ。
「どうしたの?」
クランは、笑顔で振り返った。
「あ? なにが?」
素奈多は、のそのそとベッドから降りて、カウンターから身を乗り出す。
「なんか、具合悪そうだった」
クランは、フライパンを豪快に振った。
目玉焼きが空中でひっくり返って、フライパンに落ちた。
「あ、両面焼き……」
素奈多が思わず指を指す。
クランは、あー……という顔をしてひっくり返った目玉焼きに視線を落とし、素奈多の顔色をうかがうように振り返った。
「ま、いっか……」
素奈多は笑った。
クランも少し照れたように笑った。
素奈多はシンクのほうに回り込み、コップに水を汲んだ。
「昨日、助けてくれてありがとう」
クランに背中を向けたまま、改まった口調で言った。
コンロとシンクは、ちょうど反対側に位置しているので、二人は背中合わせになっている。
「あぁ? 礼なら昨日聞いたぜ?」
「うん。それでも……。ありがとう。クランが来てくれなかったら、ぜったいヤバいことになってたと思う」
「まあ……。なんだ。俺、鍵持ってねーから、おまえがヤバいことになったら路頭に迷うからな……」
素奈多が妙に素直なので、クランは少し混ぜっ返した。
「だね」
素奈多は、冷蔵庫にもたれかかって、クランの背中を見つめた。
Tシャツからちょっと浮き出ている肩甲骨が、セクシーだな、と思った。
「あたし、あんたのこと、自分のものだと思ってた。そばに居るのが、当然だと思ってた。ごめん。あんたには、あんたの人生、あるよね。もう、自由にしていいから。あたしに縛られること、ないから……」
素奈多はとつとつと言った。
昨日からずっと考えていたのだ。
クランを自由にしてやらなきゃ……。
好きなようにさせてあげなきゃ……と。
クランはコンロの火を止め、お皿に平べったくなった目玉焼きを移し替えながら言った。
「なぁんか、勝手な言い分だよな~」
クランの顔を見ずに、素奈多は頭を下げる。
「だからごめんって」
クランは、体を反らせて素奈多の耳元で囁いた。
「あのさ、俺が、好きでここに居るとは思わないわけ?」
思わず素奈多はクランの顔を凝視する。
「え?」
至近距離で、見つめ合う格好になった。
「おまえに追い出す気がないなら、もう少し、ここに居させてくれって頼んでんの」
素奈多は、耳たぶにふわりとクランの息がかかったのを感じて、ドギマギとうつむいた。
「いいけど……。いやらしいことしないでよ」
クランは、ニパッと破顔した。
「あ、もう手遅れ!」
「えっ?」
へっへっへ、と笑って、クランはフライパンを両手で握って自分の顔を隠した。
「しちゃった、夕べ……」
素奈多はあわてて声を上げる。
「えええっ?」
クランは、顔を隠したフライパンをちょっとずらして、素奈多の驚いた顔を盗み見て、はははっ、と楽しそうに笑った。
「おでこにちゅ~」
パッとクランは身を翻す。
素奈多に叩かれるのを予期しての反応だ。
素奈多は、んもう! と逃げたクランを睨みつけ、手近な台拭きを掴むと、思い切り投げつけた。
「だから、どうしてあんたってそうなのっ!」
ビュンと台拭きが飛び、見事、クランが顔をガードしたフライパンに命中した。
ぽとりと台拭きが床に落ちる。
クランは、フライパンの陰から、ひょいと顔を出した。
「怒った?」
素奈多は汲んだまま忘れていたコップの水をぐいっと飲み干し、シンクの横に空になったコップをタンッと置いた。
「はぁ」
大きく、ため息をつく。
素奈多は、コップを見つめたまま、ぼそっと言った。
「今度は、起きてるときにして」
「は?」
豆鉄砲を食らった鳩のような顔になって、クランが素奈多を凝視した。
ぼんっと、耳まで爆発したように真っ赤になって、素奈多はバタバタと買い置きのパンを掴んでテーブルに回り込んだ。
「ああっ。早くご飯食べなきゃ、遅刻遅刻っ!」
大慌てでパンを食べ始める素奈多を見つめて、クランはフライパンをもてあそんだまま、ふわりと微笑んだ。
両面焼きの目玉焼きを、カウンター越しにテーブルに出す。
「いっしょに食べよ」
素奈多は頬を染めてクランを見上げた。
クランは、笑顔でうなずいた。
牛乳を出すために冷蔵庫の扉を開けて、クランはふっと目を伏せた。
さっきの眩暈は、まだ微かに続いている。
彼には、そんな症状に思い当たるフシがあった。
牛乳パックを掴み出しながら、パンにジャムを塗っている素奈多を肩越しに振り返った。
今日の素奈多は、めちゃくちゃ愛らしかった。
――……っきしょー、期限切れってのがネックだよなー……。
努めて平静を装い、クランは冷蔵庫の扉をパタンと閉じた。




