第2話 幸せな片思い
高等部の授業が終わった。
素奈多は、いつものように、隣接する医学部の裏手を通り抜けて駅に向かう。
医学部の裏門は学生の通用口になっているので、運が良ければそこで憧れの佐藤九嵐先輩に会えるからだ。
会えるといっても、いつもほんの一瞬。
すれ違ったり、遠くから姿を見かけたりするだけだ。
運良く誰かと話している声を聞けたりすると、素奈多は降って湧いた幸運に、飛び上がって喜ぶ。
その日はラッキーな一日だ。
今日もまた、素奈多は医学部の裏門で、野良猫と遊びながら時間を潰していた。
キジトラの、目が金色に光る猫がそこに棲み着いているからだ。
素奈多は、その猫をキジタローと呼んでいた。
医学部の学生から煮干しや鮭弁の鮭をせしめて生きているらしく、媚びの売り方は天下一品の野良猫だった。
愛嬌のある可愛い声で鳴きながら、キジタローは頭を素奈多の足にこすりつける。
素奈多は持ってきた焼き海苔を、小さくちぎってキジタローにあげた。
裏門の横の焼却炉の近くにはゴミステーションがあって、ゴミ袋が積み上がっている。
そのゴミ袋の山から少しはずれたところに、『回収用』と書かれた医療廃棄物のゴミコーナーがあった。
そこに分類されたゴミは、危険な薬物の瓶や注射器の針だ。
勝手に燃やしたりしてはいけないので、専門の業者が引き取りに来ることになっている。
なんとなく怖いものが置いてあるような気がして、素奈多はいつもそこには近寄らないようにしていた。
キジタローにあげていた焼き海苔が風で飛んだ。
「あっ……」
素奈多は慌てて海苔を目で追う。
風に舞った海苔は、医療廃棄物のゴミの方へ飛んで行った。
キジタローは、好物の海苔を追って回収用ゴミ袋の並んだ医療廃棄物の山に突進していく。
「あっ! キジタロー! そっちいっちゃ駄目……」
ダッシュしたキジタローを、素奈多は追いかけた。
ゴミ袋の間に落ちた海苔をあさっているキジタローの脇に、妙な物があった。
卵だ。
きちんとプラスチックのケースに並べられ、丁寧にビニール袋に入れられたそれは、どこから見ても、鶏の卵だった。
少し茶色がかった色といい、艶といい、ザラザラ感といい、ちょっと高級な地鶏の卵といった感じだ。
素奈多は首をかしげてその卵に見入った。
医療廃棄物に卵?
インフルエンザのワクチンなんかは卵で作っていたらしいから、そういう実験の残りかもしれない。
それとも、医学部の学生は多忙だから、学校に泊まり込むときの夜食用だろうか?
夜食用の卵が廃棄物のゴミの中に?
考えたところで、わかるわけもなかった。
しゃがみ込んでよく見ると、その卵をおさめたプラスチックのケースに、赤い文字でAISと書かれたシールが貼ってあった。
AIS・Lab(自己移植外科研究室Autoimplant Surgical Laboratory)九嵐の所属する、最先端の臓器移植医療チームだ。
「あ、九嵐先輩の研究室だ……」
嬉しくなって、素奈多は思わずその卵に手を伸ばした。
医療廃棄物の山の中に捨てられていたアヤシイ卵だったが、九嵐に関係あるものかもしれないという好奇心のほうが勝った。
と、猫がゴミの山に潜り込んだせいか、卵がぐらりと揺れて地面に転がり落ちる。
うわ、割れる!
反射的に素奈多は手を出した。
タッチの差で間に合わない。
卵はケースから飛び出し、ばらばらころころと地面に転がり落ちた。
ぐしゃ……とつぶれると思った。
あれ?
思いのほか、その卵たちは頑丈だった。
にゃぁん。
キジタローが、廃棄物のゴミの中から顔を出す。
「あぁ~……キジタロー……!」
素奈多の様子になどおかまいなしで、キジタローは自分で落とした卵を前足でつんつくとつつき始めた。
「あっ。こら、駄目だったら……!」
今度こそ、卵をぐちゃぐちゃにされてはかなわないので、あわてて素奈多はキジタローを抱き上げた。
すると、卵がひとつ、素奈多の足下まで転がってきた。
素奈多は、猫を抱いたまま、卵を拾い上げる。
卵はぜんぜんつぶれていない。
ヒビも入っていなかった。
しかも、掴み上げたときの手触りが、なんとなく妙だった。
いじくりまわしていると、卵が真ん中からパカッと二つに割れた。
まるでおもちゃのようにパックリと半分に割れたのだ。
「ええっ!?」
中が、からっぽだ。
殻が不自然に肉厚で、ぷよぷよしている。
ちょうど、白身だけで黄身の部分がないゆで卵のようだ。
「……なに? これ?」
ぜったい、自然のものであるはずがなかった。
医療廃棄物……。
やっぱり、夜食用の卵なんかではないのだろう。
妙なシロモノを目の当たりにして、不思議そうに首を傾げていると、猫がミーと鳴いて素奈多の手の中の卵に手を伸ばした。
美味しそうに見えたのだろうか。
猫の前足が卵にかかり、ぷにゅっと白身のような部分を押した。
「めっ!」
素奈多は猫から遠ざけるように高く卵を持ち上げる。
猫は、素奈多から飛び降りて、素知らぬ顔で毛繕いを始めた。
素奈多は、二つに割れた卵を両手に持ったまま、それをかわるがわる見比べた。
包丁ですぱっと切ったみたいに、きれいに二つに割れている。
その切り口は吸い付きそうなくらいシャープだ。
素奈多は、そうっと断面を合わせると、もとどおりにぐっと押してみた。
すると卵は、まるで磁石のS極とN極が引き合うようにぴったりとくっついた。
「えっ?」
思わず、力任せに再び引き剥がそうとしてみたが、駄目だった。
「え~? なんでぇ?」
さっきは簡単に開いたものが、今度は押しても引いても捻ってもビクともしない。
もとの卵に戻った不審な物体をまじまじと見つめていると、医学部の通用口に人の気配が近づいた。
素奈多は、あわてて手にした卵をカーディガンのポケットに押し込み、足下に転がっている卵をささっと拾い上げると、出てきた人たちに見つからないように、急いで裏門の陰に身を隠した。
反射的に裏門の陰に身を潜めてしまった自分の行動を省みて、素奈多は情けなくなった。
――なんで、ゴミを片づけてただけなのに、コソコソしなきゃなんないのよ……。
まったく、これではまるで泥棒かストーカーである。
いや。
ストーカーというのは少し当たっているかもしれない。
片想い中の女の子は、多かれ少なかれそういうものだ。
裏門の門柱の陰から通用口を伺うと、出てきたのは白衣姿の九嵐と四年生の田中だ。
素奈多の胸はドキドキと高鳴った。
九嵐と田中は、肩を並べて素奈多の潜む門のほうまで歩いてくる。
「ドナーの培養はどうなっている?」
憧れの九嵐先輩の声が聞こえた。相変わらず、柔らかくて落ち着いた、胸の奥に響く声だ。
「十二ロットのうち、三つが発生しています」
後輩の田中が答えた。
「ふうん。普通の数値だな。とすると……」
考え込む九嵐も素敵だった。
素奈多は門柱の陰で、ひとり幸せに酔った。
「佐藤さん、期限切れで廃棄した石井ケミカルのカプセルは、やっぱり不良品なんでしょうか?」
二人は、話しながら裏門から出てきた。
「ああ。個体が育ってしまうのには参ったな」
素奈多は、門柱に背中をへばりつかせたまま、九嵐の後ろ姿を見送る。
「あれじゃ、確率高すぎて倫理委員会が黙ってませんよね」
風をはらんで、九嵐の茶色い髪がふわりとたなびいていた。
彼が歩くたびヒラヒラと翻る白衣の裾が優雅だった。
大きな歩幅が男らしくて、話すときに動く器用そうな指が綺麗だった。
――ああ~。やっぱ、いつ見てもステキだなぁ~……。
素奈多は、卵を胸に抱きながらうっとりと九嵐を見送った。




